【魚荷道.1】
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笠岡市の西浜(ようすな)から備中松山城下の高梁(備中松山)や成羽町の吹屋まで続く
松山往来(松山道・成羽道)を「魚荷道(うおにみち)」、「ととみち」ともいう。
「とと」は幼児語で「魚」の意。幼児は「さかな」と発音しづらいので、「とと」という。
親が子供に「とと(おとと)食べよ」、子が親に「とと(おとと)食べたい」と言う。
広辞苑には「(幼児語)魚・鳥・鶏などをいう。」とある。
とと道を漢字で「魚道」と表記するのは、河川工事の際に設けられる魚道(ぎょどう)と混同する可能性があるので避けるべき。
備中とと道は西濱の魚問屋に所属する魚仲仕、
矢掛町小田や井原市美星町三山等で中継ぎの運送を行うに魚仲仕、
西濱の魚の行商人(仕入れ・運送・販売を兼ねる)等が鮮魚を運んだ道。
運び手である魚仲仕(うおなかし=魚仲背 うおなかせ)は10~12貫(37.5~45kg)の魚荷を
天秤棒で担いで西浜の魚問屋(久我邸の南にあった)を午後9時頃に出発。
駅伝方式で翌朝の9時頃に成羽町の吹屋へ、さらに夕方6時頃には
新見へ達していたという。主に明治から大正時代にかけて吉岡銅山のベンガラ生産で
隆盛を極めた吹屋へ魚を供給した。
※魚仲仕の読みを「なかせ」としている資料が多いが、正しくは「なかし」である。
「美星町史
通説編(p.502)」で「仲仕」という漢字に「なかし」と誤ったルビをふったのが原因と思われる。
「
広辞林
新訂版(三省堂、昭和9年)」には「なか-し【仲仕】(名)なかせ(仲背)。」、
「なか-せ【仲背】(名)米俵などをかつぎ運ぶ人夫。(関西の方言)」と記されている。
「
大漢和辞典(春秋書院、大正14年、p.98)」には
「【仲仕】なかし(邦)運送業。土木業などを手つたふ人夫。」、
「
日本読書作文辞典(東方社、明治42年、p.27)」には「仲仕
なかし(名。搬夫)」とある。
魚仲仕という職種については
「
国勢調査職業名鑑
大正9年(内閣統計局 編、昭和6年、p.865)」に
「魚仲仕業頭 同 取締 同 手傅 同 見習 同 日傭 同 人夫」とあり、
その前後に様々な仲仕業が記されている
魚荷道については「岡山県美星町史 通説編(美星町史編集委員会 編、昭和51年、pp.490-505)」、
「成羽町史 民俗編(成羽町史編集委員会
編、1991年、pp.193-237)」、
「岡山県史 第十五巻 民俗 1(岡山県史編纂委員会 編、1983年、p.338)」、
「高梁川
No.68(高梁川流域連盟 編、2010年、pp.246-254)」、
「北川の史跡ガイドブック(p.82)」、
「備中とと道トレイル
笠岡矢掛美星成羽吹屋全60km完全ガイド
(備中とと道トレイル推進協議会 編、2019年版/2022年版/2024年版)」、
「備中とと道トレイル 見聞録(備中とと道トレイル推進協議会 編、2024年)」、
「高梁川 No.83(高梁川流域連盟
編、2025年)」の特集Ⅱ「-歩こう 愛そう いつまでも ♪♪
「備中とと道トレイル60km!」-
笠岡市・金浦から高梁市・吹屋まで全コース再開発報告」の項を参照
参考にした地図
岡山大学池田文庫絵図公開データベースシステムの川上郡宇治村絵図(慶応4年)
「正式二万分一地形図集成 中国・四国1(柏書房)」の
鴨方(p.119 明治30年測図)、矢掛(p.118 同)
「正式二万分一地形図集成 中国・四国2」の西濱(p.3 同)
国土地理院地図および同空中写真(1974-1978年 カシミール3D)
MAPPLE法務局地図ビューア
https://labs.mapple.com/mapplexml.htm
※細かい地番、道や水路の名称だけでなく、道路拡幅等で消失した道も分かる。
GPS連動により現在地表示が可能。
今昔マップ on
the web:時系列地形図閲覧サイト
https://ktgis.net/kjmapw/※GPS連動により現在地表示が可能。トップページから「岡山・福山」を選択。
2画面、4画面分割で1895~1898年、1925年、1965-1978年、1978~1988年、1990~2000年、国土地理院図(最新)、
空中写真(1945-1950年、1961-1964年、1974-1978年、1979-1983年)を切り替えて表示可能。
井原市美星町大倉の布東地区以北は表示対象外。
ひなたGIS
https://hgis.pref.miyazaki.lg.jp/hinata/hinata.htm
※GPS連動により現在地表示が可能。
「背景」→「古地図フォルダ」→「日本版MapWarper20万分の1」を選択することで
陸地測量部の五万分の一地形圖(明治三十七年測圖大正14年第二回修正測圖)を表示。
2画面分割表示に対応。美星町大倉の布東以北もカバーする。
国土地理院図上なら正確な標高も分かるが、古地図上だとズレが大きい。
※2024年7月27日追記:上記は2017年以前に参考にさせていただいた資料です。
その後、備中魚荷道の研究が進み、備中とと道トレイル(2019年版/2022年版/2024年版)等が発行され、
より具体的なルートが明らかになった事を受けて、修正、追記、補足をして行く予定です。
一言に魚荷道と言っても、1本のルートではなく、複数のルートがあったと考えます。
明治期以降は道路の開発が進み、又、災害、人畜とのトラブル、その他の事由で
通行できなくケースもあったであろう事を考慮すれば、
代替ルート、ルートの変遷があってしかるべきでしょう。
明治30年以は正確な地図がないので、後世に伝わっている経験者や観測者の
断片的な話に頼るよりほかありません。
正確なルート図が現存していない以上、最も可能性が高いルートを推測するよりほかありません。
そこである程度信頼できる最も古い明治30年代の地図を話の土台にして、
当時の村誌、郡誌、町史、市誌等の資料、
そして今日に残る道しるべや、道中の堂宇等から得られる情報で肉付けをし、
より正確なルートを考察して行こうと思います。
また魚荷道の道端にある道しるべをから話を広げて、
それ以外の道についても、できる限り詳しく述べて行きたいと思います。
成羽町部分はルートが分からなかったので、断片的な情報しか乗せていません。
又、家族の介護などで、時間が取れなかったため、4年近くホームページを更新していませんでしたが、
今後は少しずつでも、現地を訪問して、内容を充実させて行く予定です。
2024年は備中とと道トレイル推進協議会の尽力により、
備中とと道がユネスコのプロジェクト未来遺産に認定されるなど
とと道への感心が高まりつつあるのを感じています
この流れを一過性のものとせず、持続性のあるものに昇華させて行くため、
道を知る事、通る事の面白さ、道端に咲く花の美しさ等を少しでも伝えられれば幸いです
笠岡市西浜
(ようすな)
「ようすな/いおすな(いほすな)」は魚緒、魚渚、漁渚等、資料によって表記がまちまちなので混乱する。
「こうの(かふの)/こうぬ」も甲努(和名抄、備中府志、備中誌 小田郡、御登極記念 小田郡誌)、
甲怒(備中小田物語、皇国地誌)、甲弩等、資料によって表記が異なる。
笠岡城の城主となった毛利元康(1560-1601年)が要害のために堀を拵えようと企て、
笠岡の西の浜(※笠岡市史によると、現在の西本町あたり)にいた漁師を住させたことに由来する
「笠岡市史 地名編(pp.78-82)」を参照
「備中小田郡名所物語(在田軒道貞 著、貞享~元禄年間
)」には「毛利大蔵卿元康は備後深津の城主たりしか
笠岡の城を望み申されしについて
慶長四年(1599年)に村上弾正景広を音戸の浦へ千石にて所替させけり
是れ村上領とて笠岡八ヶ村をしり毛利
へ千石の役をつとめ来れる故となり
猟師どもを行(やり)てより要害のために堀をこしらえんと企てはべれども
其年大坂陣(おおさかのじん)出来て
そのまま止けりとなん」とある
「笠岡市史 第二巻(pp.48-49)」には魚渚(いおすな)と記されている
「古戰塲備中府志(元文2年=1737年)」には「小田七鄕 實成 拜慈 林 草壁 矢掛 小田 甲努 *𩵋緒(魚緒) 西濱 今大湊笠岡」とある
「備中誌 小田郡(p.78 明治36年=1903年)」には「西濱 和名抄 魚緒 伊保須奈」とある
「皇国地誌(明治9年=1876年)」によると、漁渚(ウオスナ)郷は笠岡村、西濱村、吉濱村、木之目村、大冝村、用之江村、
生江濱村、茂平村、有田村、押撫村、篠坂村、東大戸村、西大戸村、大河村、園井村、今立村、馬飼村、
広濱村、絵師村、富岡村、小平井村、吉田村、岩倉村、横島村、入江新田村の25ヶ村からなる。
入田村は出部郷。甲弩郷は新賀村、走出村、浅海村、本堀村、甲弩村、尾坂村、関戸村、山口村。
神島内浦、神島外浦、北木島、白石島、真鍋島は五ヶ島という。又、西浜の名前の由来について
「西濱村 元漁渚ト書ス 中故故アリテ西濱ト改ムト雖
訓ハウオスナヲ用フ」という記述がある。
「御登極記念 小田郡誌(p.66 大正13年=1924年)」に「金浦町は古昔漁渚鄕に屬す」とある
笠岡市のホームページの「自然と歴史」という資料に記されている魚渚郷の範囲は
今井・金浦・城見・陶山・大井・吉田・神島・神島外浦・白石島・北木島・真鍋島。
2025/10/02追記
「笠岡市史 第三巻(pp.700-703)」の「魚介類の行商」の項に、
明治後期から大正初期ににかけての金浦の魚類の販売エリアについての記述がある。
東は鴨方の六条院・小坂辺り、西は福山、北は矢掛・美星・芳井・川上・成羽辺りまでが行商の商圏だったという。
行商人は夕方の糶りで購入した魚をオウコやリヤカーに積んで一人で売り歩いた。
魚仲仕は運送を専業としているので、基本的に道中で魚の行商はできない。
西浜の魚問屋からロウソクを支給されて出発した魚仲仕は
高価なロウソクをできるだけ使わず、月明かりを頼りに運んだという。
仙骨峡(蛇の穴)
井原市芳井町上鴫2714-1にある
中国自然歩道の案内板には「笠岡から魚を売りに来ていた作治という男が、
かつて助けた狼に大蛇から救ってもらったという言い伝えのある鍾乳洞。」と記されている。
「史談いばら
第4号(井原史談会)」に倉田清市氏が「狼の恩報じ」というタイトルで寄稿されている。
https://goo.gl/maps/duHtKTz5KLQrAngR7
「小田郡誌 下巻(p.615)」などによると、慶長2年(1597年)頃から星田の星王神社(星尾神社)に
西濱から秋季大祭毎に鮮魚三荷を奉献する行事があったが、天保年間の頃に廃止されたという。
星尾神社からほど近い所にある小田郡後月郡川上郡の三郡の産物が集まる八日市の三斎市にも
西濱からの魚が供給されていた
https://goo.gl/maps/Tbev4QreNYL2
西浜から高梁へのとと道については堀省三氏が「高梁川
No.55(p.177 高梁川流域連盟 編、1997年)」に
「鰆の茶漬け」と題した寄稿をしている。
ルートは西浜→矢掛→水砂→宇戸谷→増原→玉→(渡船)→広瀬→高梁。
このルートは「美星町史
通説編(p.502)」の「魚仲仕の道」と題した地図と一致する。
ルート(仮):魚荷道(仮).gpx(住吉神社→本山山神社。標高情報なし。徒歩用。)

吉田川の河口

竜宮荘前
山陽本線と消防機庫の間にある細道を西へ12m進む

吉田川河口の東にある住吉神社(笠岡市金浦1564-3)
注連柱
「風雨時若」「稲*𩵋(魚)永豐」「昭和二十五年(1950年)十二月奉」
西浜の八幡神社の注連柱にも同じ宣揚文が刻まれている
石燈籠(向かって右)
「奉燈」「昭和二十六年(1951年) 一月吉日 建之」
「杉原荒一 *桒田(桑田)辨太郎 八杉五市 八杉嘉一
*桒田(桑田)菊一 八杉房次郎 小川初一」
石燈籠(向かって右)
「奉燈」「塚本達平 杉原安太郎 酒井秀太郎
唐下格治 酒井傳吉 *桒田(桑田)八郎」

石祠
「*𭑞方中(漁方中) 明治廿七年(1894年) 午三月十五日」「久我房三」「石工 千代吉」
「周旋人 八杉五郎吉 *桒田(桑田)芳五郎 八杉与?七 唐下実五郎 仝 久平 藤本重吉
*桒田(桑田)森三 佐藤岩吉 津田久三 笠原種吉」「八杉福*松 仝 正平 小川久助
仝 弁吉 小林嘉一 藤原茂三 平田◯◯松 唐下万吉 仝
米七 仝 仁三吉 八杉吉平」
「魚問屋 原 定次 金谷慶?次郎 原 三郎 小早川都之助 周旋人
八杉富?四良 大内勝二郎 定藤◯吉 *桒田(桑田)源兵衛 藤原今?吉」
玉垣
南面表向かって右から「小早川善夫」「八尾三郎」「八尾三郎」「酒井百太郎」
南面裏向かって右から「八杉京助 酒井源次郎 藤原幸十 岡田忍*松
筒井一郎 小川政十」
「*桒田(桑田)金九郎 唐下小太郎 ◯原晋吉 塚原◯吉 ◯◯◯三郎」
西面向かって右から「酒井重◯郎」「藤原政太郎 深田吉造 *髙橋(高橋)清◯」
「塚原留十 小川◯造 伏本吉◯」「杉本◯◯◯ 小川◯◯太郎 藤原源七」
「笠原◯十 八杉文次郎 ◯藤*真十」
「*桒田(桑田)芳五郎」「塚原清一郎 小寺峯*松 平田新一」「笠原清吉 伏本吉藏 小川清吉」
「藤原◯◯ 小川勘三 笠原◯吉」「新谷◯*助
藤原元吉 杉本為*助」
「谷本*民太郎」「代藤光次郎 *桒田(桑田)吾三郎 小川*泰六」「小林仁造 唐下福*松 小川梅吉」
「平田留吉 八杉宗五郎 平田仙太」「石?崎◯五郎 小林仙吉 小林宗市」「小川要助」
北面向かって右から「杉原重吉」「平山政太郎 杉原市?五郎 *桒田(桑田)清七」
「◯谷宇吉 代藤治三郎 唐下半助」「唐下宇吉 筒井◯◯ 小林音五郎」
「唐下仁三郎 平田弥助 *桒田(桑田)半平」「出買連中」「安原栄一 笠原重◯ 掛*橋*愛助」
「◯◯◯一 ◯杉◯◯ 杉原荒一」「笠原*松太郎 八杉豊吉 泉 甚六?」
「唐下◯*助 上杉角?太 小林甚平」「小川濱五郎」
東面向かって右から「榊原九郎」「笠原鉄太郎 平田◯三郎 ◯原◯一」
「代藤◯十 八杉◯徳 今井谷五郎」「池田作平 ◯◯平造 代藤金四郎」
「伏本◯夫 上杉太吉 小川杉太郎」「元魚問屋社中」
「平田◯平 伏本宇平 小川六郎」「唐下代吉 深田九八 八杉五郎吉」
「掛橋◯◯ 平田常吉 *桒田(桑田)保平」「筒井◯十 ◯田◯吉 安原三吉」
「深田友平 濱*魚問屋 榊原*定吉」「小寺宗*助 ◯原傳次 伏本◯七」
「◯◯利八 島田庄?平 八杉◯五郎」「*桒田(桑田)辯吉 津田常三郎 *桒田(桑田)和太郎」
「小林久吉 八杉三次郎 小寺茂八」「*髙木(高木)新四郎」
漁方中や魚問屋等、魚荷に関わっていた人々の名が刻まれている。
出買とは、漁場や他の市場を回って鮮魚を買い集めて販売する業者のこと。
当時金浦村長だった久我房三氏(1853-1903年)の名がある
「御登極記念 小田郡誌(p.65 大正13年)」に「久我松石 通稱房三
名は苗知、松石と號す。
備後深安郡法成寺 ※内田保太郎の弟なり。金浦町西濱久我源三郎養うて以て嗣となす。
初め*福山藩儒(福山藩儒)濱野章吉に就き 後門田重長に學ぶ。
年漸く十八にして*福山藩(福山藩)*精之館(精之館)*敎授(教授)に擧げらる。
經書に長じ、田能村直入・五十川訒堂(じんどう)・菅晋賢・多田松荘等と親交最も篤く、
文人墨客常に履(くつ)を其の門に*絕たず。岡山縣農工銀行の創立
山陽商業銀行の經營與(あずかっ)て力あり。
明治三十六年(1903年)十二月二十六日歿 年五十有一。」とある
※「小田郡誌
下巻」には「門田保太郎」とある
「小田郡誌
下巻(p.721 昭和16年)」、「孫たちに語りつぎたい金浦(p.64 平成25年)」を参照
吉浜の菅原神社の附眼鏡橋碑(明治20年)の撰文は久我房三氏、石工は石井千代吉氏
菅晋賢(かんしんげん):門田朴齋の三男。廉塾の二代目塾主である菅三(菅自牧齋 1810-1860年)の養子。廉塾の三代目塾主。
https://goo.gl/maps/uGNPjEnujE42
夢街道ルネサンス認定の記念碑
2025年1月18日に除幕

西濱港
「御登極記念 小田郡誌(p.59 大正13年)」に「灣口より灣底に至る約十町、
滿潮時の水深平均四尺五寸(約136cm)、潮汐干滿の差最大十二尺五寸(約379cm)、
最小四尺五寸、平均八尺(約242cm)にして大型船の停泊に適せず、
僅かに漁舟の出入りせるのみ、」とある
「御登極記念
小田郡誌(p.64)」に「漁業は多く水島灘で行はれ遠洋漁業に
從事するものなし。昔時は漁獲も多かりしが、近年は鐵道敷設の爲め大いに減退し
漁家の不景気を表せること甚し。沿岸には近年牡蠣の飼養行はれ、西濱生江濱等
夫々組合を設けて飼養しつゝあり。」
「西濱港 港内水淺く大船の寄港せしむるに足らずと雖、風波静かにして
港内連*?(さんずい +
猗)靜穏にして、漁舟の多く出づるを以て知らる。
備後の詩傑菅茶山(1748-1827年)嘗(かつ)て港を見て賦したる七律を左に掲ぐ。
人家斷續枕汀沙 滿港斜陽*?(晒)釣蓑
橋影馬聲紅鬣市 皚風輕靄白*?(鴎)波
百年四海干戈息 千古扁舟遺逸多
我亦山林考盤春 吟詩行答濯纓歌。」とある
干戈(かんか): 戦争
扁舟(へんしゅう): 小舟
西浜村の漁業権域は東西7里、南北5里にも及んでいたという
「笠岡市史 第二巻(pp.146-148、pp.372-377)」を参照
「金浦要覧(昭和11年、金浦商工会 出版、pp.18-19)」に「口碑に依れば古来は、魚問屋の經營をなすもの少なく、
只當西濱に板屋なるものありて、魚問屋を經營し、相當手廣く沖は眞鍋島を始めとし、小田郡内の漁業者全部の、漁獲物を買賣せし由、
故に相當多数の魚類も集散す、其の後板屋は廢業し、數名の匿名にて、舊魚問屋を經營し、
西濱漁業者の漁獲物の買賣をなせり、一方出買出来るに及び、廣島、香川、愛媛、山口より、
鯛、鰆、ハモ、コチ、其他の魚を積み歸り販賣する爲め、漸次其額は增加を呈し、最高四十萬圓以上のこともあり、
卽ち魚類集散地としては、尾道市をも凌駕するの盛況なりし時代もありき、
かゝる状態なれば出買業者によりて出買問屋を經營し、最初は數人の匿名なりしが
漸次加入者を增して、二十人以上となり随分殷賑を極む、其後時代の要求と交通機關の発達進歩によりて、
各地に魚問屋開業勃興の餘波と一方地元仲買人の減少と相俟って、逐年不振となり、
近年漁獲も減少す、然れども近年朝鮮、九州、下關方面より委托として積送らるゝ魚類は
別項の如き巨額の金額を算出するに至り、古より漁港金浦は依然として、岡山、福山、尾道に次く魚の町として
魚の西濱か、西濱の魚かと縣下へ主として高梁、成羽方面は毎日自動車に依り、配給せられ
後月、浅口、小田三郡下の魚は金浦の手により食膳に供せられつゝあるの状態なり」とある。
古くから漁港として栄えて来たが、大正時代末には交通機関の発達などにより漁業は衰退。
笠岡湾干拓(昭和41年12月~平成2年3月)によって漁場も失い、昭和53年(1978年)に漁協は解散。
明治・大正時代の金浦の漁業についは「笠岡市史 第三巻(pp.484-498)」を参照

神島の栂丸山を望む

国道二号線の金浦橋から西浜を望む
妙見山の左手の山が新田山(入田山)
小寺清先翁の「楢園集(文政5年)」に
「爾(に)ひ田山(新田山) 曇るとすれ八(は)
程も奈(な)く
夕立す也 いをす奈(な)能(の)里」とある
新田山 曇るとすれば 程もなく 夕立す也 いをすなの里

吉田川橋梁
山陽鐵道笠岡福山間の開通は明治24年(1891年)7月。
「小田郡地誌(明治26年)」に「鐵道 淺口郡新庄村より來り 笠岡、金浦、城見の諸村を經て
備後國深津郡大津野村に入る 笠岡に停車塲あり
其西の金崎隧道は長さ二百四十六間(約447.27m)に
山陽鐵道第二の隧道なり 鐵道線路に沿ふて電信線を架し笠岡町に電信局を設く」とある
「笠岡史 第三巻(pp.159-161)」によると、笠岡に電信機器が導入されのは明治6年(1873年)1月。
山陽鐵道については「笠岡史 第三巻(pp.377-383)」を参照
纜石(ともずないし)は千歳橋の北に5基、住吉神社の西に4基、竜宮荘の南に3基ある
旧魚市場
昭和42年(1967年)に笠岡魚市場に合併
魚市場の周辺に魚柳(藤井姓)、魚大(浅野姓)、伏権(ふしごん 塚原姓)、魚佐(谷本姓)、
魚善(榊原姓)、かねく(「九 藤井姓)等の魚問屋があった
「語り継ぐ金浦(p.9)」の昭和30年(1955年)頃の西浜地区詳細図を参照
西浜魚市場についは「笠岡市史 第三巻(pp.696-697、pp.700-702)」を参照
金浦の水産加工概況や漁業組合については「金浦要覧(pp.21-25)」を参照
「金浦要覧」の後半に金浦魚市場、西濱漁業協同組合、魚問屋 かねく商店、魚問屋 伏權商店、
魚問屋 魚佐商店、魚問屋 魚大商店、生魚商 魚柳商店などの広告あり
https://goo.gl/maps/F7mtJ43vK122

恵美須神社
字 町分(まちぶん)にある。祭神は事代主命。
石燈籠(向かって右)
「常夜燈」「文政十(1827年)亥八月吉辰」
石燈籠(同左)
「常夜燈」「天保十三壬寅年(1842年)」
石鳥居
「恵美須神社」「願主 氏子中」「文化貳(1805年)乙丑四月吉辰?」
魚荷の運び手である魚仲仕(うおなかし)も出発時に恵美須様に
道中の安全を祈願していたものと思われる
https://goo.gl/maps/EG88nMbwzrM2

久我邸と鴨方往来(濱街道)
現 岡山県道289号線東大戸金浦線
久我家に伝わる貼交ぜ屏風には池大雅、神辺の菅茶山、鴨方の西山拙齋、
竹原の頼杏坪、頼春水、頼山陽等、備中備後の文人墨客36人の扇面が貼られているという
「語り継ぐ金浦(pp.44-45)」を参照
久我邸前を通過して西へ進み、千歳橋を渡る
千歳橋(ちとせばし)
昭和4年(1929年)に架橋。橋長15m、幅員5m。
「岡山県のH26点検結果(橋梁)」を参照
昭和初期のモダンなデザイン。
親柱は2本しか無い。又、親柱の先に照明があったと思われるが、現存せず。
「笠岡市史
史料編上巻(p.199 皇国地誌 明治9年調)」に「流末 板橋を架ス 呼ンデ千歳橋ト云ウ」とある
「御登極記念 小田郡誌(p.64)」に掲載されている大正時代の金浦湾の写真に
木造の千歳橋が写っている。西の山のひったか設置地付近から撮影したものと思われる。
https://maps.app.goo.gl/g7GmMhBGd93Xg8976
光明院の前にある金毘羅神社
光明院のお大師様や金毘羅様にも道中の安全を祈願していたものと思われる
2022年には映画「とんび」のロケ地にもなった
https://maps.app.goo.gl/KfWAuWjZVH1oDPsV6
県道289号線(井原街道)は千歳橋西詰の丁字路を右折。
鴨方往来(濱街道)は直進(現 市道金浦用之江線)。
「御登極記念
小田郡誌(p.63)」に「井原街道 大字西濱に於て濱街道に分れ、
大井村を經て井原町に至る里道にして、本町(金浦町)内里程二十町(約2181.8m)なり。」とある
この場所から大河の北端までの距離は2.46km
右折して新川(吉田川)沿いに県道289号線を北へ140m進む
天神橋から見た新川瀬道(新川床)
天神橋(吉田川1号橋)は1997年に竣工。市道金浦34号町分新川平線。
寛文11年(1671年)から行者山と西ノ山(当摩山、妙見山)の間の鞍部を
開削する工事が行われ、吉田川は現在のルートを流れるようになった。
「孫たちに語りつぎたい金浦(p.48)」によると長さは1,518m、巾15m
(天神橋から山陽新幹線の高架下まで約1.48km)。
吉浜新田については「笠岡市史 第二巻(pp.431-436)」を参照
「御登極記念 小田郡誌(p.59)」に「吉田川 大井村より來りて、大河、吉濱を流れ、
西濱に至りて海に入る。其の基本町内流程二十三町なり、下流を特に新川と稱す。
この川はもと椀土川と共に葦原沼に注ぎしも
元禄年中(1688-1704年)
水野美作守(※福山藩第2代藩主 水野勝俊 1598-1655年) 西ノ山と行者山との間を
開鑿して現今の流路を作りしものなりと。」とある
https://maps.app.goo.gl/bzeWQ6qUov3Sq7sn9車の場合は県道289号線を北へ545m進む
徒歩の場合は東岸の細道を進む

弘法大師坐像(向かって左)
千手観世音菩薩坐像(同右)
「八十五者゛ん(ばん) ◯◯◯◯」
金浦四国85番八栗寺 (大師/聖観世音)<新川平(新川沿いの山側) 86番の隣り>
五剣山 観自在院 八栗寺
[ごけんざん かんじざいいん やくりじ]
『おん あろりきゃ そわか』
「煩悩を 胸の智火にて 八栗をば 修行者ならで 誰か知るべし」
https://goo.gl/maps/xVhcuZ4VwmE2

弘法大師坐像(向かって左)
千手観世音菩薩坐像(同右)
「八十六者゛ん(ばん) しど寺」
金浦四国86番志度寺 (大師/十一面観世音)<新川平(新川沿いの山側) 85番の隣り>
補陀洛山 志度寺
[ふだらくさん しどじ]
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「いざさらば 今宵はここに 志度の寺 祈りの声を 耳に触れつつ」

弘法大師坐像(向かって左)
千手観世音菩薩坐像(同右)
「八十四者゛ん(ばん) ◯◯◯◯」
金浦四国84番屋島寺 (大師/十一面千手観世音) <新川平(新川沿いの山側)>
南面山 千光院 屋島寺
[なんめんざん せんこういん やしまじ]
『おん ばざら たらま きりく』
「梓弓 屋島の宮に 詣でつつ 祈りをかけて 勇むもののふ」
https://goo.gl/maps/Fe57XKojWLq
新川水門(新川井堰)
https://goo.gl/maps/4mVn4s9fQ5m
相生橋(吉田川3号橋)
1987年に竣工。市道相生63号孫右ヱ門バナ宮ノ前第壱号線。
西浜(金浦)と吉浜と相生の境にある。明治時代の地図にも記されている。
木之目村が相生になる前の名称は未確認。
橋を東へ渡って右折
新川東岸沿いの細道を南へ18m進んで左折

相生の字 孫右エ門バナにある
新川瀬道を開削した孫右エ門さんの名に因む字
笠岡市史
地名編(p.78-79、p.82、p.100)」を参照

弘法大師坐像(向かって右)
千手観世音菩薩坐像(同左)
「八十二者゛ん(ばん) ねころ○」
金浦四国82番根香寺 (千手観世音/大師) <新川水門付近の民家の脇>
青峰山 千手院 根香寺 [あおみねざん せんじゅいん ねごろじ]ろじ]
『おん ばざら たらま きりく』
「宵の間の たえふるしもの 消えぬれば あとこそ鐘の 勤行の声」
https://goo.gl/maps/DwVGjUm67uN2

法界地蔵
「法界」「享保十七(1732年)壬子九?月日」「願主 木之目村」
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい
そわか』
享保17年は瀬戸内海沿岸一帯で冷夏と害虫により大凶作となり、
大飢饉が発生(享保の大飢饉)。同年芋代官こと井戸平左衛門が
笠岡代官となり、迅速に対処した。
法界地蔵は大飢饉の終息を願って建立されたものか?
享保12年に吉浜新田の土手の西水門が、同15年に東水門が竣工。
同17年に吉浜土手の拡幅工事が完成。
「孫たちに語りつぎたい金浦(p.77)」の金浦地区歴史年表を参照

千手観世音菩薩立像
「三十三番 ◯◯國 那◯寺」
坂東33番 補陀洛山 那古寺 [ふだらくさん なごでら] (千手)
『おん ばざら たらま
きりく』
「補陀洛は よそにはあらじ 那古寺 岸うつ波を 見るにつけても」
通称は旧金浦町坂東三十三観音霊場であるが、札所は旧金浦町外にも及んでいるので、
適切な呼び方とは言えない。順路は西濱村→吉濱村→大冝村→用之江村→有田村→押撫村
→篠坂村→入田村→西大戸村→東大戸村→大河村→吉濱村→木之目村。
旧金浦町域は生江濱村、西濱村、吉濱村、木之目村、大河村のみ。
https://goo.gl/maps/vkOQ1
新川井堰竣工記念碑?
「新川井堰工事 昭和二十五年(1950年)四月建設
工事費 六拾萬圓
工事施工者 木之目池舛池掛
工事代表者
大橋◯◯ 河内◯◯ 笠原◯◯
工事請負者 *桒田(桑田)◯◯◯」
82番札所前から南南西へ14m進む

金浦四国83番一宮寺 (大師/聖観世音) <新川平の新川水門付近の民家の脇>
神毫山 大宝院 一宮寺 [しんごうざん たいほういん
いちのみやじ]
『おん あろりきゃ そわか』
「讃岐一 宮の御前に 仰ぎ来て 神の心を 誰かしら言ふ」
https://goo.gl/maps/AnBLNpCcben
相生橋東詰から北へ108m進み、古比須第1公園へ
古比須の碑
「古比須」「竹喬書」「昭和五十一年(1976年)六月建之」「区画整理事業
完成にたいし 関係者ならびに協力者を刻む 組合関係者 理事長 ◯◯◯◯
理事 ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ 監事 ◯◯◯◯ ◯◯◯◯
組合員 ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯
◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯
◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ 協力関係者
工事設計 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ 区画設計 ◯◯◯◯◯◯◯◯
土木工事設工 ◯◯◯◯◯◯◯◯◯ 水道工事設工 ◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯」
田村奎三句碑(向かって右奥)
「古比須ハほととぎす の古稱 この地こひす と名にとりて なづな咲く 島を 花見に するまでに 奎三」
「笠岡市吉浜土手内土地区画整理事業*経過(*いとへんなしの字)」
「昭和45、11 土地区画整理事業発想 〃45、11 関係者初会合
〃45、12 組合準備委員会発促 〃46、 区域内埋立開始 〃46、1 幹線水路工事等
〃47、3 組合正式発足 〃47、6 区画街路側溝工事 〃47、9 区画内工業用水路工事
〃47、12 仮換地指定 〃47、12 上水道市設工事」
「昭和49、2 街路舗装工事 〃49、3 区画内大規模農道工事 〃49、 字を古比須と改名
〃50、 換地処分 〃50、12 登記完了 〃51、3 組合解散 〃51、7 整理事業完成
記念行事 総面積 25,994,38*㎡(平方メートル) 有効宅地 17,125,87*㎡(平方
メートル) 総工費 33,188,456圓」
「語り継ぐ金浦(pp.48-51
2009年)」を参照
https://goo.gl/maps/nZjLwXbE8Hp北へ32m進む
古比須橋(こびすはし)
昭和50年(1975年)10月竣功。広域農道(市道笠岡中央線)のために架橋。
明治時代の地図にはない。
https://goo.gl/maps/4jxp9cXMiFT2
北へ40m進む
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笠岡市吉浜
升池
升池の土手の南端




升池碑
「升池」
「吉濱東郷毎夏月患旱損 田圃亀*?(土
+ 斥)禾稼焦
枯黎庶阻飢者有年矣 先人久我源三郎甚
憂之与(ともに)岡原市郎 *大?(大橋)保治郎 石井常四郎 諸子謀曰天
*?(災)
流行雖在不免而為人者袖手傍觀不為
之*?(備)而可乎
*??(宜)開鑿一大池以資潅漑之用
乃(すなわち)協議於本村及鄰近諸邑 得其賛成 卜地」
「鳩(あつむ)*財
経営規畫 以明治十二年(1879年)春二月興工
至十三年四月竣功焉
廣凡壹町歩 堤防牢
固 不潰不泄 自是後水*??(足)田豊 無*復旱損之
患 一郷大悦 名曰升池者取其形似 且祈比
年秋收(収)之多量也 諸子請予(われ)書諸(これ)石 以建池
上 明治十三秋八月 久我房三 識」
「吉濱邨 東郷人民中 戸長 岡原幽一
周旋人 岡原◯◯ 大橋◯◯◯ 大橋◯◯◯ 石井◯◯◯ 岡原◯◯◯ 高橋◯◯◯
池田◯◯ 藤原◯◯◯ 佐藤◯◯ 河相◯◯◯ 藤井◯◯ 田中◯◯」
「石工 佐藤豊造」
*亀?(きたく): 亀卜、日照りで地面が亀の甲のようにひびわれること
禾稼(かか): 田畑の作物
黎庶(れいしょ): あさぐろく日焼けした顔の民。庶民。
黎民阻飢: 黎民飢えになやむ(書経の舜典にある「帝曰棄黎民阻飢」より)
為人(ひととなり)
: 人がもっている性質
袖手(しゅうしゅ): そのことに関係しようとしないでいること
卜地: 吉凶をうらなって良い土地をえらび定めること
比年(ひねん): 毎年
升の形に似ていることから、
また収穫が増すことを祈願して升池と名付けられている
久我房三氏は明治22-25年、明治32-34年の間、金浦村長を務めている。
さらに明治34-36年の間、金浦町長を務めている
久我源三郎氏と久我房三氏については「小田郡誌 下巻(pp.713-721)」を参照
佐藤豊造氏は吉浜の菅原神社の眼鏡橋を築いた石工の棟梁
https://goo.gl/maps/NEEM7fAxVkR2
亀*?
禾稼
庶阻
黎の字も肉眼では判読困難
先?人
まぎらわしい傷が付いている
乎 *??(宜)
且祈比
*復
吉浜の菅原神社の眼鏡橋
升池の西に広がる東郷の田園
升池の土手道を北へ110m進んで左折し、石橋を渡る
笹賀屋橋(吉田川6号橋)
升池の北にある。現在の道幅は178cmだが、拡幅以前は145cm程。
新橋の建設が計画されており、撤去される可能性もあるという。
明治時代の地図にはない。
「岡山の石橋(pp.47-49)」を参照
2025/10/02追記
2025年7月に20m下流に川中新橋が架けられ、その後残念ながら石橋は撤去された
https://maps.app.goo.gl/LMPWKZBsnwP3QcpY6
升池開鑿以前の石積み?
川中新橋
平成7年7月竣工
北へ30m進む
五角柱地神
「天照大神」「倉稲魂命」「大己貴命」「少彦名命」「埴安姫命」
(東正面 時計回り)
https://goo.gl/maps/UrjN9KFj9qj
県道289号線を北へ180m進む
河中橋(かわなかはし)
吉田川8号橋。昭和62年(1987年)5月竣工。吉浜14号井出池尻壱号鏡壱号線。
バス停の名前は川中
https://maps.app.goo.gl/8FKAjy321cfZiBsK8
6月7月には吉田川沿いのネムノキが花を咲かせる
河中橋の北133mの所に河中屋橋(吉田川9号橋)がある
河合石材店前を通過し、北へ進む
新川堤の地蔵堂
大東の川中屋跡の前にある
川中屋は新川床開削工事(寛文11年=1671年~)の際に
現場事務所として使用されたと云われている
「よしはま物語(p.33)」を参照
https://goo.gl/maps/E7u1HDQ8f6o
「基礎改修 昭和48年(1973年)9月吉日 大東組」
石香炉兼花立
「明治廿六年(1893年) 地藏大菩薩 六月吉日」
千手観世音菩薩立像
「四ばん まきの◯」「施主 大東組」
吉浜西国4番 槇尾山 施福寺 [まきおさん せふくじ]
“槇尾寺” (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「深山路(みやまじ)や ひばら松原 わけ行けば 槇の尾寺に 駒ぞいさめる」
地蔵菩薩坐像
「吉濱村東郷 寛政九(1797年)丁巳七月日」
新川床開削工事中に亡くなった人の霊を慰めるために
建立されたと云われている。
台座部分は「吉浜発祥の石碑」と呼ばれている。
「孫たちに語りつぎたい金浦(p.48)」を参照。
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
薬師如来坐像(向かって左)と弘法大師坐像(同右)
「昭和七年(1932年) 八月 善通寺 施主 ◯◯◯◯」「西江◯◯」
四国75番善通寺 (薬師/大師)
五岳山 誕生院 善通寺 [ごがくざん たんじょういん ぜんつうじ]
『おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか』
「我住まば よも消え果てじ 善通寺 深き誓いの 法の灯し火」
県道289号線を北へ480m進む
史跡めぐりを重視するなら、お堂の前のY字路を北へ55m下って左折。
西へ135m進み、つきあたりの丁字路を右折し、北へ310m進むと
葛城神社がある。
葛城神社前から北東へ185m進むと、井手池の土手の西端に至る。
井出池
吉田川氾濫時の緩衝池。船隠池、有田池と共に寛文6年(1666年)竣工
「笠岡市史 第二巻(p.434)」を参照

棒木橋から水越し場(荒手)を望む
吉田川から溢れ出た水はここから井手池に流入する
「語り継ぐ金浦(pp.78-79)」を参照
棒木橋(ぼうぎばし)は昭和54年(1979年)2月竣功。大河115号堂之内池之内線。
https://goo.gl/maps/iX1nbpbFfX72
ゴム引布製起伏堰?
平成30年7月豪雨後(7月20日)
越流により草はなぎ倒されて、根本から捲れ上がっている
井出池の北端の丁字路から西へ42m進む
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