【魚荷道.12】
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総門橋→古町下の丁→(古町中ノ丁→古町上ノ丁→住友丁→佐原→山本→天満町)
石標(向かって左)
「史跡 総門橋」
向かって右の高欄の端には「總門橋」と記されている。
向かって左の歩道橋は昭和47年(1972年)に付け足した。
高さ制限は4.6m。
総門橋
2024年現在の総門橋は昭和19年(1944年)竣工。市道総門線。
高梁市橋梁点検・修繕計画一覧表(2024年度版)によると橋長132m、幅員7.7m。
陣屋町の総門跡に建設されたことから総門橋という。
「成羽町史 民俗編(p.215)」に昭和初年の木造の総門橋の写真がある。
木造の総門橋については「川上郡史(昭和2年、p.679)」の臨時修繕工事(重ナルモノ)取調表(大正九年度)に
「(路線名)仝(成羽吹屋線)(種別)橋梁 (町村)仝(成羽町)
(個所數)一 (延長)七四、〇 (工事費)六一、九〇〇 (備考)總門橋」とある。
成羽川では高瀬舟の往来の邪魔になるので、長い間橋は作られなかった。
渡船場の間を長さ3m程の舟が往復していた(総門の渡し)。
笠岡の西浜を午後9時頃出発し、美星の三山を午前4時頃通過。
三山八幡神社前からあずきもちまでは上り、日名口までは下り(県道48号を通った場合)。
下原、成羽の平坦区間を経て、東枝の尾根の急坂を上り、宇治の後谷、石田へ下る。
宇治の石田、笹尾の平坦区間を経て、延命寺まで急坂を上り、下谷へ下り、吹屋の下町へ上る。
三山八幡神社前から総門橋南詰まで約13.8km(県道48号を通った場合)。
総門橋北詰から吹屋の下町まで残り約12.6km。
※下谷にある延命寺の寺標(明治23年=1890年3月)に「從是成羽江三里半(約13745.45m)」とある。
吹屋に到着するのが午前9頃なので、
魚仲仕達も午前6時頃までには渡し舟に乗って川を渡っていたことになる。
雨が降って増水し、川止めになった場合は先へ進めない。
https://maps.app.goo.gl/PwLA7PYhprx153vi6総門橋を北へ渡って直ぐに左折
お題目塔(一字一石供養塔)
「南無妙法蓮華経」
「妙見大菩薩 清正大*神儀(神儀)」
「明治元(1868年)戊辰◯十月大吉祥日」「現主 日順代」
台座「法華経*寫
一字一石」「*惣信*者*中」「講中(7人?の芳名)」
総門橋の北詰にある
https://goo.gl/maps/yWAkVwb5Ugy
法界地蔵(向かって左)
「法界」「天明元丑天(1781年) 七月吉日◯」
地蔵菩薩坐像(同右)
『南無地蔵大菩薩』
石祠
「△池北屋 平治兵衛」
池北屋平治兵衛さんは大神宮(山田神社)の玉垣の寄進者の一人
祭神は未確認
総門橋北詰から南岸を望む
三つのアーチが美しいローゼ橋。おかやまの歴史的土木・近現代建築資産の一つ。
岡山県内に現存しているRCローゼ橋は総門橋と旭川に架かる
大原橋(昭和17年竣工、岡山市北区玉柏)のみ。
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成羽川北岸(古町、住友丁、佐原)の霊場(総門橋→かぐら橋)
川沿いの細道を西へ73m進む
石燈籠
「常夜燈」「享和元(1801年)辛酉 六月吉日」「施主 舩方中」
船方・船役・船株については「成羽町史
民俗編(pp.203-205)」を参照
金刀比羅宮
高瀬舟と金毘羅参りについては「成羽町史 民俗編(p.212)」を参照
https://maps.app.goo.gl/jCnompZUsTPUV8gN8
水鉢受け?
「金(金刀比羅宮)」
水抜き用の穴?がある
小社(向かって左)
祭神未確認。木野山神社?
西へ70m進んで左折
「吹屋往来 とと道 高瀬舟発着場(出発地) 水辺のユニオン」
魚仲仕(魚の運搬を専門にする人)と参度(一定区間を毎日往復し、
地域の人から物品購入の依頼を受けて買い揃え、届ける事をする人)、
吹屋成羽間の人力車や馬車や荷車を使った輸送にについては
「高梁川
No.35(高梁川流域連盟、pp.29-33)」を参照
高瀬舟発着場
総門橋から下流では五十石積みの高瀬舟(長50尺、幅7尺、高さ2尺9寸、帆柱4間)が使われた。
上流部では川の状況により三十七石積み、三十石積み、二十石積み、九石積みなどの小高瀬と呼ばれる高瀬舟も使われた。
成羽以外の上流(東城など)にある高瀬舟は継船の定めにより、直接玉島へ下る事は出来なかった。
ここで一旦荷を積み下ろし、成羽の問屋を経て、積み替えた上で玉島へ向かった。
成羽の総門橋からから東へ約6.3km下って高梁川に合流。
総社の湛井堰まで南へ約20km下り、湛井堰から倉敷市船穂町水江の一の口水門まで約11.2km(柳井原の旧西の高梁川を通った場合)。
一の口水門から高瀬通しを通って玉島港まで約9km。
下りの高瀬舟には林産物(薪、炭、竹、木等)、農産物、鉱産物を積んで玉島までその日のうちに到着したが、
帰りは引き綱を使って両岸から2人がかりで高瀬舟を引っ張り上げるので、
往復では6日程かかったという。風向きが良ければ帆を使う。
上りの舟には塩や海産物や醤油を少量積んだという。
そのため塩魚や干し魚、ワカメ等の日持ちのする海産物でないと高瀬舟では運べなかった。
その日に取れた魚を涼しい夜の間に陸路最短距離で運んだ魚仲仕達のおかけで
海から離れた吹屋や新見や高梁等の内陸部でも鮮魚を食することが出来た。
成羽の継船制については「成羽町史 民俗編(p.205)」を参照。
成羽川の高瀬舟については「岡山県史
第十五巻民俗1(pp.317-325)」を参照。
https://maps.app.goo.gl/ZyrGo8o7eoKH9qKT7
湛井堰(たたいぜき)
農業用水が必要な時期(春の彼岸から秋の彼岸まで)は高瀬舟の通行が禁止されていた。
毎年秋の彼岸の前に井堰は撤去され、春の彼岸以降に再建されていた。
「
備中誌 賀陽郡 下(pp.583-586 明治37年)」に「用水方留帳に云
壽永元年(1182年)より同二年 此川成ると云
時の領主妹尾太郎兼康下知として其臣福井二郎左衛門尉奉行して造之云々」とある
湛井堰については「
少年読物吉備史(岡山県吉備郡教育会 編、昭和17年、pp.25-30)」を参照(古い写真あり)
https://maps.app.goo.gl/tDZjjscg7CZHtF8B8

井神社・兼康神社
湛井堰の北255mの所に鎮座。旧社格は村社。
罔象女神(みつはのめのかみ)、水分神(みくまりのかみ)、
寿永元年(1182年)に湛井川を開鑿した妹尾太郎兼康公を祀る。
「
備中誌 賀陽郡 下(pp.561-562
明治37年)」には「井大明神 (中略)、
所祭速秋津彦命 五穀成就の守護神にて水門(みなと)を守る神とかや」とある
参道の前に十二ヶ郷組合寄進の石燈籠がある
https://goo.gl/maps/ZSB2NhDM14UyvxcU8
一口水門(倉敷市指定文化財)
https://goo.gl/maps/J2i2QT4CW812
二の口水門
「
浅口郡誌(p.170-172
大正14年)」に「高瀬通 こは萬治二年(1659年)、松山藩主
水谷勝宗の開く所にして、(明治八年、更に市街三十一間を穿ち、舟を玉島灣内に通す)
船穂村の水江に堰堤(一の口)を築き河水を導き、船穂長尾兩村を經て玉島灣に注ぐ。
延長一一里半(約45.164km)、灌漑の外備中北部と玉島との間に舟運の便ある本郡唯一の内陸水路たり。
而して毎年秋季より翌年春季まで高瀬舟を通す。其他は舟行を禁じ灌漑用に供す。」とある
https://goo.gl/maps/mYqAUzrTdDq
高瀬通しの終点 玉島舟だまり跡
https://maps.app.goo.gl/uBA9cxiUmsY9iRVdA
金刀比羅宮と常夜燈前の階段
https://maps.app.goo.gl/sMNHA6a2VtzjcGje9
お題目塔前の階段
https://maps.app.goo.gl/jmpmxHm8n8C1GhdP7
総門橋の橋脚
平成30年7月豪雨の際の成羽川の最高水位は7月6日23時の5.79m(総門橋下流50m地点)
向かって左は古いRC橋、右は新しいPC橋
島木川と成羽川の合流点
ここまで220m
https://maps.app.goo.gl/u8McA4BDgaGMpGB59
下市橋
ここから北へ60m進み階段を上ると魚荷道に出る

「吹屋往来 とと道 高瀬舟発着場(出発地)」の案内板がある所まで戻り、
西へ50m進んで丁字路を右折
手水鉢
稲荷神社(稲荷大神宮)
https://maps.app.goo.gl/Thp3b5QHZJ6HZsNn8川沿いの道に戻り、西へ55m進む
墓地の手前で右折し、階段を下る

大師堂
扁額
「拾番 (弘法大師御影)」
木造弘法大師坐像
四字四国10番切幡寺 (千手観世音) <>
得度山 灌頂院 切幡寺 [とくどざん かんぢょういん きりはたじ]
『おん ばざら たらま
きりく』
「欲心を ただ一筋に 切幡寺 後の世までの 障りとぞなる」
https://maps.app.goo.gl/uzzHTG9j4rVDpYR59西へ200m進む
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成羽町成羽の住友丁地区
河原に下る道がある所で土手道から外れて向かって右下(住宅がある方)へ細道を下り、
人ひとりが通れる程の細道を北へ24m進み、丁字路を横断してさらに北へ50m進む。
車の場合は西へ135m進み、Y字路を右折して東北東へ125m進む。
丁字路を左折して北へ50m進む。
小御堂(薬師堂)
「成羽町史 民俗編(p.225)」に「(地区名)住友町
(俗称)小御堂 (本尊他)薬師如来像」と記されている
詳細は「成羽町史
民俗編(pp.228-229)」を参照
平成十四年(2002年)四月吉日再建
https://maps.app.goo.gl/pkEccRmkx8nte3PGA
扁額
「第九番 (弘法大師御影)」
四字四国9番法輪寺 (涅槃釈迦) <住友丁 小御堂>
正覚山 菩提院 法輪寺 [しょうかくざん ぼだいいん ほうりんじ]
『のうまく
さんまんだ ぼだなん ばく』
「大乗の 誹謗(ひぼう)も科(とが)も ひるがえし 転法輪の 縁とこそきけ」
木造薬師如来坐像(中央)
木造聖観世音菩薩立像?(向かって右)
木造弘法大師坐像(同左)
日蓮聖人坐像?
『南無薬師瑠璃光如来』『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
「南無大慈大悲観世音菩薩」
「南無大遍照金剛」『南無妙法蓮華経』
縄文後期の土器片が出土した成羽小御堂遺跡の解説板

地蔵菩薩坐像(延命地蔵菩薩坐像?)
銘は判読困難
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
五輪石塔群
牛馬供養碑(三面馬頭観世音菩薩 + 牛か馬か)
「旧昭和十◯◯◯◯◯◯ 施主 宮本◯◯」
『おん あみりとう どはんば うんぱった そわか』
供養塔
「奉薬師堂境内整備 爲参詣諸人現当二世安楽供養也」
「我此名号一経其耳衆病悉除身心安楽」
「願以此功徳
普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」
墓石3基(向かって右)
元文年間の墓石(向かって左奥)
双体道祖神2躰、丸彫の地蔵菩薩坐像(同左前)
手水鉢?

丁字路に戻り、右折して西南西へ125m進む

成羽停車場跡
成羽停車場はかつて吉岡銅山の田原停車場との間を結んでいた一人押しトロッコのプラットホーム。
現在、成美工業(株)がある辺りにあった。
幅5尺の専用道(トロッコ道)は吉岡銅山の田原停車場から成羽川北岸を東へ約16km進み、成羽停車場に至る。
明治40年から大正8年(1907-1919年)にかけて整備された。
開通当初は鉱山関係の輸送専用だったものが、後に一般輸送や旅客も許可され、
人力で押していたトロッコも、馬引きとなるなど、交通の大動脈となった。
しかし、昭和6年(1931年)の吉岡銅山の休山、昭和10年の芸備線全通などの影響で衰退し、
昭和18年までにすべてのレールは撤去された。
「成羽町史 民俗編(pp.214-219)」、「写真集
岡山県民の明治大正(pp.150-151」を参照
https://maps.app.goo.gl/VQZqg9QS8jDWVPMu6

土手道を西へ400m進む
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成羽町成羽の佐原地区
かぐら橋北詰の十字路
十字路から川沿いに西へ150m進み、右折して参道を北へ41m進む

稲荷神社
https://maps.app.goo.gl/cMZ8bbmwjYV7caFJ9
幟旗立て2基
「昭和三十二年(1957年)九月吉日」「寄進者(3人の芳名)」
手水鉢

鳥居の沓石
自然石の燈籠
「金(金毘羅大権現)天(天神社)稲(稲荷神社) 常夜燈
安政四年(1857年) 巳八月吉日 産子中」
金刀比羅神社と天神社が稲荷神社に合祀されているのかも
自然石地神
「地神」
石鳥居の残骸
本殿後方にオツカイシメ(狐)の出入り口が2個ある
土手道まで戻って右折し、西へ260m進む
注連柱
「寄」「進」
手水鉢
祭神未確認
産土荒神社
https://maps.app.goo.gl/BiucjXZJkCTLFVs69
コゴメ石の地蔵菩薩像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
西北西へ105m進む
トロッコ軌道跡
https://maps.app.goo.gl/pb6dV95ENyVbMnWn6
レールの残骸
かぐら橋北詰の十字路に戻る
かぐら橋
平成六年(1994年)三月竣工。北詰には奇稲田姫命、南詰には素戔嗚命の像がある。
https://maps.app.goo.gl/voEAnWQwLyqwh1Sb7国道300号線を北へ160m進む
備北バス停留所(佐原)の前で右折
禁葷酒塔
「不許葷酒入山門」
三村氏の菩提寺
山号額(山門)
「泰康山」
手水鉢
「清浄水」
紀年銘は未確認
山号額(本堂前)
「曹洞正宗 泰康山 月舟書」
曹洞宗の僧 月舟宗胡(1618-1696年)の揮毫
泰康山源樹寺(曹洞宗)
本尊は歯吹阿弥陀如来。三十三観世音。備中西国第11番札所。
『南無釈迦牟尼佛』『南無阿弥陀佛』『南無大慈大悲観世音菩薩』
「備中巡禮畧記(柳井重法 著)」に「拾壹番 川上郡成羽村大廣山(※ママ)源樹寺、
是より領家へ壹里余、曹洞宗、寺領十石、本尊阿彌陀一刀三禮、惠心の作
終わらざるに歯を吹き出し給ふ。我朝三禮の如來也。三十三尊あり。」とある
墓地には三村元親公の墓(「開基 源樹大居士」の銘がある宝篋印塔)、三村家親の墓(五輪塔)、
枝地区の穴井手を開削し、源樹寺の本堂を再建した帯屋全久(太兵衛)さんの墓がある。
法名は昌屋全久居士。元禄13年(1700年)9月24日歿。
「拓本 吉備の名碑(昭和54年、井上雄風 著、p.47)」を参照
「岡山県郡治誌 下巻(昭和13年、p.903)」に「源樹寺(成羽町) 成羽町大字成羽 字佐原にあり
曹洞宗總持寺末にして備中巡禮第十一番札所なり、歯吹如來を本尊とす
(本尊は一刀三禮專心の御作終わらざるに歯を吹き出し給ふ我朝三禮の如來なりといふ)
當寺は三村元親の創立なりと稱し 慶長元年(1596年)四月*僧(僧)玄柱之を建立し、
其後火災の爲に荒廢せしか貞享二年(1685年)三月三日*僧(僧)玄綱の時 當町帶屋太兵衞(※全久)
御堂を寄進し竝(ならび)に中興せられたり、尚維新前は寺領御除地高十石を與へられたり因に
當寺に三村元親(匠作一瞬源樹居士)小堀遠江守作助(孤篷庵大有宗甫居士)
三村紀伊守親成十世嫡孫三村勘助*諲親(源樹院殿紀州大守宗運居士)等の位牌を藏せり。」とある
https://maps.app.goo.gl/ZR2Cc9qC3rxmapSE7
御詠歌「ただ頼め罪はいかほどあるとても 弥陀のお慈悲で助け賜うぞ」
鐘楼堂

梵鐘
「上房郡呰部町 上合寺」「不十三」
上房郡呰部町(あざえちょう)は1929年7月に誕生し、1953年10月に廃止された町。
現在の真庭市上呰部・下呰部・阿口。曹洞宗 安庭山上合寺は
真庭市下阿口にある。
https://maps.app.goo.gl/ZVn8mYe3fbrBdYbm9
弾痕のような穴が11個ある。戦時の金属供出から帰還した梵鐘?
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「15Km 吹屋ふるさと村→」と描かれた標識がある交差点を右折
https://maps.app.goo.gl/3Di2CYe5ytEpF9sb8北へ30m進み、丁字路を左折
三村氏居館跡(高梁市指定史跡)
備北バス 停留所(成美コミュニティ前)の後ろ
https://maps.app.goo.gl/HbbYrDbDSzUYzQhk9
井戸
西へ240m進む
小平園前の丁字路を左折し、南西へ40m進む

山本の庚申堂(おさる堂)
詳細は「成羽町史 民俗編(pp.220-221、p.225)」を参照
庚申の日に庚申待を行うお堂。
道教においては人間の体内には三尸の虫が宿って居て、その罪業を監視しているという。
そして60日毎に巡ってくる庚申の日に、寝ている間に体を抜け出して天に昇り、寿命を司る神に報告する。
そこで、庚申講の信者は三尸の虫(三尸、三尸、三尸)が体から抜け出せないよう
お堂等に集まってお経や念仏を唱えたり、飲食を共にしながら徹夜をして過ごし、延命を図る。
仏教系では青面金剛を本尊とし、神道系では猿田彦命を本尊とする。
https://goo.gl/maps/EJSQiZwb7yt
羽山の空地区のお堂にある青面金剛立像
体は青面金剛だが顔は忿怒相ではなく猿顔
下原の白谷集会所の向かって右にある庚申堂には忿怒相の青面金剛立像が安置されている
https://maps.app.goo.gl/96x5K3KA52MH1NVHA
棟札a(旧)
「*(種子)奉*𫟯(重)造立庚申堂壹体
天長地久 五穀成就 御郷村悪舎 諸国快楽
明治二年(1869年)巳 十一月吉日
願主 山本 本組中
放光山 西之坊」
棟札b(新)
「*(種子)奉再復造立庚申堂壱宇
天長地久 五穀成就 組内安全 諸人快楽
願主 山本 本組中
放光山 西之坊」
向かって左に不明の石像、右に忿怒相の青面金剛立像が安置されている
『おん でいば やきしゃ ばんだ ばんだ かかかか そわか』
中尸像(三尸の一つ)?
小平園前の丁字路に戻り、石段を上る
石標
「小平園」
「昭和九*年(1934年)四月建之 成羽町寓 静岡縣人岩﨑國作 *卧龍窟(臥龍窟)謙哉 恭書」
双体道祖神像群
https://maps.app.goo.gl/cvcpgVSmphd1v2tH9
慰霊塔
「慰靈塔」
「昭和廿八年(1953年)遺族醵金 町民寄附金に依って成羽町社會福祉協會之を建つ」
日清戦争以降の町内の戦死者を慰霊
https://maps.app.goo.gl/Nd6Ye29a9XhqVvKn6
壮烈喇叭手 木口小平之碑
「壮烈喇叭手 木口小平之碑 第十七師團長 仙波太郎 書」
「大正三年(1914年)五月建焉 松原村 東◯◯◯ 東◯◯
私立川上郡教育會 成羽町 成羽 下原 日名青年團 成羽町在郷軍人會」
htthttps://maps.app.goo.gl/oh9Bqa9h57MDSfMx7
枝地区の穴井手を開削した帯屋全久さんの遺徳を讃えるために建てた全久堂が
小平園にあるらしいが、発見できず
「拓本 吉備の名碑(昭和54年、井上雄風 著、p.47)」を参照
県道300号線に戻り、右折して西へ10m進み、右折して110m上る
石鳥居
「天満神社」
「文化十一(1814年)甲戌九月吉祥日」
幟旗立て
「御大典◯◯」「昭和三年十◯◯◯◯◯」
昭和の御大典(昭和天皇の即位の礼)は昭和3年(1928年)11月10日

唐獅子(向かって右)
「奉」「弘化四(1847年)未九月吉日」
唐獅子(同左)
「獻」「下原門弟」
天満神社の由緒
「藩の学問所(本丁裏、孔子廟を祀ってある)の子弟に学問の大切さを分からせ、
成就祈願するためつくられた。千年記念碑には、藩政により、古町から強制移転させられた下原の人も、
寄付者として刻まれている。碑文は、新海祚胤が書いている。」とある
下原の陣屋町の建設にあたり、藩は成羽川北岸の古町の商人達を下原へ移住させようとしたが、
吹屋関係の物資が多く集まる古町の方が商売上有利と見た商人達は移住を渋った。
そこで藩は古町での商売を禁止して移住を促した。
菅公一千年祭紀念碑
「菅公一千年祭紀念*碑」「明治三十五年(1902年)九月二十五日建之」
「七十三叟 新海祚胤再并書 社掌
渡邉◯◯」「◯◯◯◯◯◯◯」
台座「(14人の芳名)」「(11人の芳名)」「(8人の芳名)」
菅原道真公一千年遠忌にあたる明治35年に建立。
各地の菅原神社、天満神社、天神社に同様の石碑が建立された。
笠岡市内では西本町の天満神社、用之江の菅原神社にある。
新海祚胤(逸人)氏は成羽藩士。成羽藩の勸學所の教官。
維新後は警部となり、後に下道郡長務めた(明治16年2月14日~明治19年8月28日)。
「倉敷浅尾騒動史(渡辺頼母 編、大正8年、pp.120-122)」に
「成羽藩領地連島へ浪士來りたりといふ代官秋田金作の急使に接した成羽藩は
早速射手として新海逸人、田中峰彌、村瀬作左衛門を大將として惣勢百五十人を派遣したが、
小藩の事であれば軍備の整はぬにより準備に日時を要したのであるが、
十五日午後十時頃に至つて漸く連島に到着した。時は旣に倉敷淺尾の騒亂終わつて
浪士悉く引拂ひたる後であつた、十七日出發 成羽に歸つた。」とある
倉敷浅尾騒動が起こったのは慶応2年(1866年)旧4月。
倉敷代官所襲撃が旧4月10日、浅尾代官所襲撃が旧4月13日。
手水鉢

石燈籠(向かって右)
「奉獻」「安政六己未年(1859年)六月吉日」「願主 正玄寺門弟中」
下原の白谷地区にある山崎豊治公ゆかりの寺 寳提山正玄寺(浄土真宗本願寺派)の門弟。
山崎豊治公が万治元年に讃州仁保(現
香川県仁尾町)より成羽へ封を移された際に、
正玄寺も従って成羽に移転した。 山号は提要山正玄寺から寶提山正玄寺に改めた。
石燈籠(同左)
「奉*獻」「安政三年(1856年)辰六月吉日」「願主 下原門弟中」
成羽藩主山崎義柄公が下原の本町に設立した勧学所の門弟
成羽藩勧学所については「
岡山県教育史 上巻(岡山県教育会 編、昭和13年、pp.121-123)」に
「藩主義柄の奨學 万治元年五月山崎豊治(元祿十三年十二月成羽にて卒す、年八十二)
封を備中(所轄、川上、浅口、下道三郡に亙り食封三萬石)に受け 川上郡成羽に住して以來
奨学に當つたと傳へられてゐるが適確な文獻が無い。其の後藩主義柄(文政十一年八月十一日に卒、
年二十三)鋭意文武を奨勵し、下原本町に勸學所を設け、以來連綿として明治維新に及んだ。(中略)
主なる教官
勸學所開設當時の教官には、曾て中井竹山の都講であった波多野良左衛門を聘した。
次いで淺口郡連島の醫
平原剛四郎、新海逸人、信原*徳太郎、播磨赤穂藩士伴甲賀太郎、進昌一郎を聘して
藩士子弟の啓蒙に當らしめた。」とある
※文中の「教」の字は、旧字の*敎
万治元年=1658年、元禄13年=1700年、文政11年=1828年、明治維新=1868年
天満神社
祭神は菅原道真公(菅公)
https://maps.app.goo.gl/BgPq4VmLVP3CaJBo6
県道300号線に戻り、右折して西へ250m上る

備北バス停留所(神社前)
石鳥居
社号額「八幡宮」
「享保元丙申*年(1716年)八月日」
社号標(向かって右)
「八幡*神社(神社)」「社司 渡邉 ◯」「寄附者(7人の芳名)」
「昭和三年(1928年)十月三十一日」

大元八幡神社絵馬(市指定有形民俗文化財)

唐獅子か狛犬a(向かって右)
「奉」「大正十一壬戌年(1922年) 五月吉日」
唐獅子b(同左)
「獻」「(柳井姓5人の芳名) 」
石燈籠1対
「奉献」「昭和十二年(1937年) 十月吉日 寄進 柳井◯◯」
注連柱
「敬*神」「(叙勲者6人の芳名)」「奉寄 大正十三年(1924年)十月建焉」
「憂国」「(叙勲者5人の芳名と石工名)」
手水舎
手水鉢
「奉*獻」「願主 鈴木◯◯ 渡邊◯◯」「文政十二己丑年(1829年)」
石段
「大正十四年(1925年)一月」「基本財産增成紀念」
随神門

随神像1対と狛犬1対(青と黄緑)

丸橋

郷社 鵜江神社(矢掛町西川面)の丸橋

大元八幡神社
主祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。旧社格は郷社。
社殿本殿は延宝6年に建立。
https://maps.app.goo.gl/4oLFZKfBRh7ftXRM6
石燈籠(拝殿前向かって左)
拝殿前の1対は燈籠の銘は「奉祝献八幡 御宝前灯篭 延宝八(1680年)?◯◯ 八月吉良日」。
その他の石燈籠の銘は「奉寄進
石灯篭(もしくは石燈籠) 元禄五壬申年(1691年)正月吉日」。
百度石
「百度石」「大正五年(1916年)丙辰 十月十四日」「願主 小川◯◯」
拝殿の前にある。鳥居形の珍しい百度石。
郷社 足次山神社(井原市井原)の計度石
拝殿の前にある
数え玉があるものは計度石ともいう。
郷社 大元八幡神社と同じ、数え玉が金属製のタイプ。
軸棒がステンレス製のものに取り替えられている。
郷社 鵜江神社(矢掛町西川面)の百度石
石鳥居の脇にある
数え玉が金属製のタイプ。上の段が10桁、下の段が1桁。
郷社 矢掛神社(矢掛町矢掛)の百度石
石鳥居の脇にある
数え玉を設置するための穴があるタイプでも、
軸棒が朽ちた後はそのまま放置されているものが多い。

郷社 真止戸山神社(浅口市鴨方町六条院中)の百度石
拝殿の近くにある
数え玉を設置するための穴が複数あるタイプ
郷社 大浦神社(浅口市寄島町)
注連柱の脇にある
2基とも数え玉を設置するための穴はあるが数え玉なし
県社 天別豊姫神社(広島県福山市神辺町)の百度石
拝殿前にある。設置するための穴はあるが数え玉なし。
村社 甲弩神社(笠岡市甲弩)の百度石
石鳥居の脇にある
数え玉が木製のタイプ。軸棒がステンレス製のものに取り替えられている。
石柱に百度石と刻んでいるだけのものが多い
本殿
荒神社
本殿の向かって左前方に鎮座
手水鉢b
瓦質の小祠a
祭神未確認
石祠a
祭神未確認
刻字があるが判読困難
小社a(向かって左)
祭神未確認
小社b(同左)
祭神未確認
石祠b(向かって左)
祭神未確認
「渡邉◯◯◯ 宝永三丙戌年(1706年) ◯◯◯◯◯」
石祠c
祭神未確認
本殿の向かって右後方
小社c(向かって左端)
祭神未確認
小社d
火雷神社、*高龗(たかおかみ)神社(大正2年に合祀)、大山祗大神を祀る
小社e(向かって左端)
祭神未確認
小社f
祭神未確認
小社g
祭神未確認
森神社遙拝所
森神社(王子権現)
大元八幡神社の北920m、西枝集会所の向かって左に鎮座
https://maps.app.goo.gl/wXXA7Dpem49Un3BS7

御前神社遙拝所

御前神社
大元八幡神社の北東770m、東枝集会所の向かって左に鎮座
https://maps.app.goo.gl/BueRR6WrXxNgLae28
瓦質の小祠b
祭神未確認
瓦質の小祠c
祭神未確認
瓦質の小祠d
祭神未確認
小社h
祭神未確認

小社i
天満神社遙拝所

本殿の向かって右

金比羅神社・鹿嶋神社
金精神、麻利支天王も祀る
自然石の燈籠a(向かって右)
「金(金毘羅大権現)」
自然石の燈籠b(同左)

石祠d
「*大神宮御神殿(*大神宮御神殿)」
台座「大庄屋 (4人の芳名) 發願主 七助 平三?」
「(寄進者芳名)」
木札「神宮遙拝所」
石燈籠
「御神燈」「文化三(1806年)丙寅二月吉日」

忠魂社
瓦質の小祠d
祭神未確認
瓦質の小祠e
祭神未確認
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