【魚荷道.4】


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笠岡市走出




古代の丘スポーツ公園の北にある変則十字路




北川昭和四国78番郷照寺 (阿弥陀) <木々名>
 仏光山 広徳院 郷照寺 [ぶっこうざん こうとくいん ごうしょうじ]
 『おん あみりた ていせい からうん』
 「踊り跳ね 念仏唱う 道場寺 拍子を揃え 鐘を打つなり」

昭和四国霊場は昭和7年(1932年)開創

https://goo.gl/maps/T93UnHijhb12

変則十字路から北東へ32m進む




ききなの峠

車道(玉島往来)の拡幅やスポーツ公園の造成によって
地形が変わってしまっているので中継地の正確な場所は不明

次の区間の魚仲仕が待機するための四ツ堂があったかもしれない

西浜の久我邸前からここまでの道程は約8.93km
午後9時頃、40kg程の魚荷物を天秤棒にかついでに西浜を出て、
吹屋まで約60kmの道程を12時間かけて運ぶには、山坂を含む道を最短距離で、
最低でも平均6km/h以上の早足で進まなければならない。
急ぎて振動が大きくなると、魚が痛んで商品価値が落ちるので、急ぎすぎてもいけない。
東大戸まではほぼ平坦区間だが、それ以降は急な登り坂が続くので、
時速6km/hを維持するのはなかなか大変である。

明治18年に岡山県は駅伝取締規則および駅伝取締所組合区域を定めて各町村へ布達を出した。
西浜からききなの峠まで(西浜村、吉浜村、大河村、東大戸村、新賀村、山口村)は
笠岡村駅伝取締所の区域、走出村と甲弩村は小田村駅伝取締所の区域になる。

「笠岡市史 第三巻(pp.315-316)」の駅伝取締組合と運送の項を参照





山口側は「聞名」、走出側は「木々名」と記す







地蔵菩薩立像

『南無地蔵大菩薩』

標高63m

https://goo.gl/maps/tDhqZT7VQzx




旧道(玉島往来)を北北東へ85m下り、車道(走出 道-731)に出てさらに北北東へ100m下る




笠岡市走出3560-64




六字名号碑

「*(阿弥陀如来の種子「キリーク」) 南無阿彌陀佛
 元文三戊午(1738年)十月吉辰 講中」


名号碑の向かって左にお墓が1基ある

「*(種子 ア) 行妙?信女◯◯◯◯
 ◯◯◯◯◯月十八日(没年判読困難) 備後国神石郡時安村」

北川の史跡ガイドブック(p.46)に、
「石を投げつけると、カーンと高音が響くので、カーンカーン地蔵と呼んでいる。」とある。
又、生き倒れになった通行人の供養のため、井立講中が建立した、と伝えられている、云う。

道路拡幅以前は、西側の竹藪が道に覆いかぶさるように迫り、
離合困難な道幅の、曲がりくねった道だった。
昼尚薄暗く、追い剥ぎが出そうな雰囲気があった。
民家からも遠く、不安な通り道であればこそ
念仏講中によって六字名号碑が建立されたのであろう。

https://goo.gl/maps/tCBysMJPPm62




蓮向山安養寺の六字名号碑(光明真言曼陀羅付き)

「南無阿弥陀佛」

「◯◯ 享保十二(1727年)龍集丁未 ◯◯◯浣◯◯◯
蓮行山 安養寺秀尊 本願主 中谷作次郎 中谷栄藏
同人*祖母(祖母) ◯井孫右衛門 ◯谷次郎右衛門
 長廻與十郎 同◯彦三郎 總村中」

https://maps.app.goo.gl/FAfq1pmr23xXucwv6




わらんべ堂

笠岡松山往来沿いにあったが、令和元年に長尾山長福寺へ移転・新築

https://maps.app.goo.gl/zkyHxy9DzwWt1yag9




わらんべ堂の六字名号碑(光明真言曼荼羅付き)

「丙辰 元文元歳(1736年)十一月旦 南無阿彌陀佛」


木々名の六字名号碑よりも2年早く建立されている




大前堂

笠岡市山口の妹岡の丁字路にある

旧本尊は地蔵菩薩。弘法大師坐像、聖観世音菩薩坐像、
新山走出西国25番a 御嶽山 清水寺の千手観世音菩薩立像等が祀られている。

大前堂は土倉家居所蔵の山口村古地図(元文2年=1737年)にも記されている

https://goo.gl/maps/rhssr




大前堂の六字名号碑

「*(種子「ア」) 南無阿弥陀佛 宝暦十四甲申年(1764年)二月日 念佛供養」


北北東へ160m下る




丁字路(笠岡市走出 道-975)を左折して北へ20m下る




市道走出新賀線の十字路

玉島往来(井原往来)、薬師道は直進(北西へ進む)

魚荷道は十字路を右折

小田郡地誌(p.8 明治26年)」に「井原往來ハ淺口郡ヨリ吉田村尾坂ニ入リ
新山北川ノ諸村ヲ過キテ後月郡井原村ニ至ル 車馬ノ往來不便ナリ」とある

https://goo.gl/maps/5LMHZVEG9Nv




牛供養碑兼道しるべ

 「昭和三年(1928年)五月 ゐ(為)牛供養
西 縣主村ヲ経テ福山ニ至ル
 東 小田町ヲ経テ矢掛町ニ至ル」
 「← 南 新山村ヲ経テ笠岡○○○」

走出新賀線の十字路から北西へ192m進んだ所(丁字路)にある

https://goo.gl/maps/PFrUhFaWmpF2





市道走出新賀線(笠岡市走出 道-718)を北東へ185m進む







山田堂(山田の辻堂)

笠岡市走出3603

修繕寄附者芳名録

「昭和四拾年(1965年)四月吉日 山田堂修繕寄附者芳名録
 下井立東 (以下10人の芳名) 下井立中 (以下22人の芳名)
 下井立西一同 馬場組一同 山崎組一同 尾上(以下9人の芳名)」

自然石地神と牛供養碑(万人講供養碑)群がある。
向かって右のお堂は北川昭和四国77番札所。

北川昭和四国77番道隆寺 (薬師/弘法大師) <山田>
 桑多山 明王院 道隆寺 [そうたざん みょうおういん どうりゅうじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「願いをば 仏道隆に 入り果てて 菩提の月を 見まくほしさに」

「民俗資料選集39(p.26)」の写真を見ると、向かって右のお堂の中には
3体の石仏(向かって左に七十七番と刻まれた舟形光背の薬師如来像、
中央に丸彫りの弘法大師座像、右に舟形光背の千手観音像)が安置されている。
お堂のサイズも現在のものより一回り大きい。

今はトタン葺きだが、以前は藁葺きの屋根だったという

https://goo.gl/maps/5px4skB9KZD2

市道走出新賀線を北東へ267m進む







Y字路

向かって右の道が旧道(笠岡市走出 道-689、走出 道-695)





山田集会所の北にある十字路(走出 道-691)を右折




東へ30m上る




 北川昭和四国63番吉祥寺 (弘法大師/毘沙門天) <山田>
 密教山 胎蔵院 吉祥寺 [みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ]
 『おん べい しらまんだや そわか』
 「身のうちの 悪しき悲報を 打ちすてて みな吉祥を 望み祈れよ」

https://goo.gl/maps/rF7NpsPYsbF2

走出新賀線に戻り、北東へ150m進む




丁字路

左折して走出 道-635を北へ62m進み、十字路を右折。
井立川沿いに走出 道-637を東へ325m進む。

道がやや狭いので3ナンバー車の場合は市道走出新賀線を東へ210m進む




向かって左は折敷山城址がある尾敷山
右は石鎚神社や菅原神社跡がある天神山

詳細は「北川の史跡ガイドブック(pp.62-66)」を参照




右折して細道を東へ52m進み、左折して東へ75m進むと小池古墳

https://goo.gl/maps/2H3ZXwUfwn62

東へ100m進む




横断歩道がある十字路を左折し、北へ100m進む




十字路

笠岡市走出 道-643




北川昭和四国66番雲辺寺 (千手観世音/弘法大師) <小池>
 巨鼇山 千手院 雲辺寺 [きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「はるばると 雲のほとりの 寺に来て 月日を今は ふもとにぞみる」

https://goo.gl/maps/Wxhk8jAiRB62

お堂の後ろの井立川を渡り、右折して山際の道(走出 道-642、道-641)を東へ200m進む










石鎚神社参道口

https://maps.app.goo.gl/9bA7gZzN2T8QbrQF7

電柱の手前から北へ20m進む




山際で左折して西へ10m程上る




右折して北東へ5m程上る




鳥居

「石鎚神社」

北へ約90m上る




参道の石段は落ち葉に覆われているので分かりづらい







社殿の手前から反時計回りに回り込む







石鎚神社

『南無石鎚大権現』

天神山(標高85m)の頂上の西に鎮座。南南西向きに建てられている。
南南西99.17kmの所に四国の石鎚山の石鎚神社がある。

https://maps.app.goo.gl/3Wq9eWg69htnMBCD9





車道に戻り、東へ100m進む







山廻古墳

https://goo.gl/maps/LUfHJ6Styv82

東へ50m進む




山廻遺跡

「北川の史跡ガイドブック(p.15)」によると弥生土器や中世の土器が出土

https://goo.gl/maps/NwMG7i4491o

走出 道-650を北東へ115m進んで右折







北川昭和四国67番大興寺 (薬師/弘法大師) <正源寺>
 小松尾山 不動光院 大興寺 [こまつおざん ふどうこういん だいこうじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「植えおきし 小松尾寺を 眺むれば 法(のり)のおしえの 風ぞ吹きぬる」

https://goo.gl/maps/jFNSCA67Tiw


 

67番札所前から北北東へ105m進む





Y字路を右折し、南南東へ41m下る

https://goo.gl/maps/uSxaAASwadS2




丁字路を左折




細道(走出 道-594)を東へ70m進む




亀崎の石橋を渡り、走出 道-600を南東へ15m進み、県道48号線を横断。
農家の店しんしん井笠店前から笠岡市甲弩 道-604、道-656を東南東へ190m進む。

https://goo.gl/maps/NE2kLYzdsPA2




興山













興山の茶堂跡

魚仲仕にお茶を出していたと云われている

ききなの峠(中継所)からここまで約2.32km

「北川の史跡ガイドブック(p.82)」を参照
 
https://goo.gl/maps/oziWzW5K3RD2




法華一字一石供養塔

「法華一字一石塔 寛政八(1796年)丙辰正月吉日 奉書寫 大山◯◯」

茶堂跡の後ろにある

https://goo.gl/maps/oegcpSPHmD92

甲弩 道-23を東へ33m進む




旧県道の十字路

この十字路の前(北)をかつて尾坂川が流れていた

十字路を左折して、旧県道(甲弩 道-13)を北へ50m進む




笠岡市甲弩1442-4




「甲弩耕地整理施工記念碑」

「明治三十五年(1902年)二月整理地区ノ實測
並ニ調査ヲ始ム。     .
仝三十六年三月商務大臣ヨリ發
起認可 翌年一月整理施行ノ件モ認
可アリ 直ニ工事ニ着手セントスル
モ折シモ日露ノ大戰勃發シ 総テノ財
極度ニ緊縮 當事業モ一時中止ノ
止ムナキニ至ル       .
仝四十二年(1909年)三月尾坂川延長一千零
三十三間(約1,878.18m)ノ改修工事開始 同四十三
年五月竣工 此工事費額一万九千六百
三十五圓           .
翌年九月ヨリ耕地整理實施、大正七
年(1918年)五月仝地區整理 地積一百零八町
九反四畝二歩(約108.04ha)完成ス      .
昭和三年(1928年)六月岡山縣知事ヨリ耕地
整理処分ノ件認可 右総工費額十五
万四千六百六十八圓     」

上記の銘文の下に整理前後土地比較、土地所有者総数、
背面には發起人4人、前組合長、現組合長、前組合副長3人、
前組合副長2人、前現評議員組合會議員34人の芳名が刻まれている。

昭和七年(1932年)四月に建設。石工は妹尾謙市氏。

昭和7年は北川昭和四国霊場開創の年でもある。

北川村大字甲弩耕地整理については「小田郡誌 下巻(pp.379-380)」を参照




平成30年7月豪雨の際の尾坂川の堤防の決壊により、甲弩地区の大部分が浸水。
水田から流失・拡散した堰板は回収されて記念碑に集められている。
画像は7月16日時点のもの。





楠渕橋

農家の店しんしん井笠店の南525mの所にある

https://goo.gl/maps/BfrDfgSRy6A2




楠渕橋の北詰

尾坂川延長工事は現在の岡田池の西にある楠渕橋より東の尾坂川で行われている。
それ以前の尾坂川は楠渕橋の辺りで左折して和田山の東麓を蛇行しながら北北東へ流れ、
興山の東にある丁字路(現在は十字路)の辺りで右折して東北東へ流れていた。
蛇行改修工事により現在の川筋となる。

「正式二万分一地形図集成 中国・四国1(p.119 鴨方 明治30年測図)」を参照

小田郡地誌(p.5 明治26年)」に「尾坂川ハ源ヲ吉田村字尾坂ヨリ發シ
西流シテ新山村ニ至リ 北ニ折レテ北川村ニ入リ 中川村境ニ沿フテ小田川ニ會ス
長サ二里 亦潅漑の便アリ」と記されている




北川昭和四国49番浄土寺 (釈迦/弘法大師) <興山>
 西林山 三蔵院 浄土寺 [さいりんざん さんぞういん じょうどじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「十悪の わが身を捨てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ」

地蔵菩薩坐像も祀られている

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

笠岡市甲弩1411

https://goo.gl/maps/gQMhs8c43Yk





矢掛往還(旧県道48号線)

「笠岡市史 史料編上巻(p.408 皇国地誌 備中国第壱大区小田郡廿六区村誌
 甲怒村 明治9年)」に「道路 矢掛往還三等ニ属ス 南山口村界ヨリ
北小田村界マテ長二十町(約2,181.8m)幅五尺(約1.52m) 路傍並木等ナシ」とある

小田郡地誌(p.7 明治26年)」に「縣道ニ三アリ 一ハ淺口郡新庄村ヨリ來リ
 今井村ノ南ヲ過ヲ笠岡ノ市街ヨリ北ニ折レ大井稻倉両村ヲ經テ後月郡出部村ニ至ル
所謂井原街道ニシテ近ゴロ大ニ改修シ馬車ノ往來頗ル便ナリ 一ハ笠岡町境ヨリ
大井村ニ入リ東北ニ向ヒ今井村ノ境ヲ過キ吉田新山北川ノ三村ヲ經テ小田村ニ
會ス道程三里許ナリ 又一ハ矢掛村ヨリ山田三谷両村ヲ經富峠ヲ越ヘテ玉島港ニ至ル
里程二里餘ナリ」と記されている

上記3県道は現在の岡山県道34号笠岡井原線、同48号笠岡美星線、同64号矢掛寄島線

旧県道をさらに北へ315m進む




小北中学校前




正面は伽藍山、向かって右は甲弩神社がある宮山




デイサービス絆の前にある交差点から北へ161m進む




千田川にかかる千田橋を渡って十字路を右折し、甲弩 道-222を東へ112m進む




千田川も尾坂川と同じく耕地整理の際に蛇行改修工事が行われている

「正式二万分一地形図集成 中国・四国1(p.119 鴨方 明治30年測図)」を参照




北川昭和四国29番国分寺 (千手千眼観自在/弘法大師) <千田>
 摩尼山 宝蔵院 国分寺 [まにざん ほうぞういん こくぶんじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「国を分け 宝をつみて たつ寺の 末の世までの 利益(りやく)のこせり」

https://goo.gl/maps/tMJJKfsYvo42




千田公会堂




石燈籠(千田の常夜燈)

「献燈」

詳細は「北川の史跡ガイドブック(pp.30-31)」を参照




浸水時使用の和船保管跡




小倉皿出公会堂

千田公会堂の東710mの所にある

向かって左は観音堂、その横に常夜燈と五角柱地神あり

https://goo.gl/maps/7rmgaaVgi5t




浸水時使用の和船保管倉庫跡

大雨で小田川増水時に支流の尾坂川の水が排水しきれずに溢れて浸水していた。
その際、避難用・飲み水配達に和船が使用されていた。

千田橋の十字路に戻る




旧県道を北へ70m進んで丁字路を右折し、甲弩 道-220を東へ215m進む










十字路

笠岡甲弩 道-197。魚荷道は左折。

https://goo.gl/maps/P5zcy8X4M5P2

右折して南へ40m進んで左折




北川昭和四国30番善楽寺 (阿弥陀/弘法大師) <千田>
 百々山 東明院 善楽寺 [どどざん とうみょういん ぜんらくじ]
 『おん あみりた ていせい から うん』
 「人多く 立ち集まれる 一の宮 昔も今も 栄えぬるかな」

 中央に十一面観世音菩薩立像(1825年建立)
  『おん まか きゃろにきゃ そわか』

https://goo.gl/maps/DkRQ71HzHmS2

 


千田寺社道

千田地区から甲弩神社や神護寺へ向かう道

公会堂にある常夜燈はこの道沿いにあった

https://goo.gl/maps/7PtC9d19JA12




十字路に戻り、北へ304m進む(徒歩、二輪車限定)

自動車の場合は東へ348m進み、十字路を左折して北へ302m進む。
つきあたりの丁字路を左折し、西へ347m進む。




甲弩 道-953




十字路(甲弩 道-123)を左折して西へ30m進む

https://goo.gl/maps/txdzRBSno1L2




井笠鉄道矢掛線軌道跡

笠岡市甲弩1884-4

https://goo.gl/maps/YbXVPjq3TXy




十字路に戻り、北へ90m上る




鉄橋跡

笠岡市甲弩2000-3

https://goo.gl/maps/js6ZsdTv2qm

十字路に戻って左折




東へ235m進む




丁字路を左折

向かって右の道は道幅が狭く、軽自動車でも通行不可

https://goo.gl/maps/w3akbY1NkpF2




甲弩 道-145、道-143を北へ135m進み、つきあたりの丁字路を右折。
甲弩 道-114を東へ12m進む。




辻公会堂前




北川昭和四国33番雪蹊寺 (弘法大師/薬師) <辻>
 高福山 雪蹊寺 [こうふくざん せっけいじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「旅の道 うえしも今は 高福寺 のちのたのしみ 有明の月」

 中央にあるのは廻国供養塔(地蔵菩薩坐像)

「奉彫刻地藏尊 爲廻國供養」
「享保廿(1735年)乙卯歳? 十月念(=廿)四?◯」「願主 辻 仁助」

『南無地蔵大菩薩』

https://goo.gl/maps/emyXLRP4CF12

辻公会堂前から東へ27m進み、十字路を右折して南へ62m進み、左折して東へ44m進む







自然石の燈籠(辻の常夜燈)

少し南方の道路脇にあったものを現在地に移転

詳細は「北川の史跡ガイドブック(pp.30-31)」を参照




五角柱地神

「天照*大神(大神) 五穀登攸」
「蒼稲魂命 天保十二辛丑年(1841年) 二月造立之」
「罔象女命」「大己貴命」「少彦名命」(東正面 時計回り)

https://goo.gl/maps/XHnYCjHnPk12





辻公会堂前に戻り、西へ115m進む




笠岡市甲弩2272-8




甲弩村庄屋吉岡家居宅跡記念碑

織部灯籠がある

詳細は「北川の史跡ガイドブック(p.43)」を参照

甲弩村の庄屋については「小田郡誌 上巻(pp.570-571)」を参照

https://goo.gl/maps/ZEnu9gJa3Ny





稲荷神社

他2社の祭神は未確認

東へ77m戻る




丁字路を左折

https://goo.gl/maps/9ipzAj3T3qN2




甲弩 道-130を北へ53m進む




北東へ27m上る




小田川の土手道に出る




旧辻橋跡

共栄橋の南西80m。甲弩 道-127、道-937、道-100。

https://goo.gl/maps/RZMmxhU1cd42




舟着場跡

甲弩村庄屋吉岡家居宅の北にある

「笠岡市史 史料編上巻(pp.407-408 皇国地誌 備中国第壱大区小田郡廿六区村誌 甲怒村 明治9年)」に
「川 小田川 二等ニ属シ河身砂礫ニシテ緩流ナリ、平常僅ニ舟筏ヲ通ス、
堤防アリ西シ走出村界ヨリ東浅海村界ニ達ス長サ弐百拾六間(約392.73m)
広三拾間(約54.55m)、板橋壱ヶ所ヲ架ス」とある。

また次頁に「塘堤 小田川堤 同川ニ沿ヒ西走出村界ヨリ本村字北畠ニ至ル、
長サ百八拾間(327.27m※)、馬踏弐間(約3.64m)堤敷八間(約14.55m)
 往々竹樹ヲ植ユ、修繕費用官ニ属ス」と記されている。

※走出との境にある甲弩有江集会所付近から北畑公会堂付近までの
小田川の土手の長さは約1.07km(588間)

馬踏(ばふみ): 堤防の上を人馬が通行するように平らになった部分
堤敷(つつみしき): 高請地のうち堤防のために供せられた土地
高請地(たかうけち): 検地帳に登録され年貢賦課の対象とされた耕地および屋敷地

「北川の史跡ガイドブック(p.80)」を参照

https://goo.gl/maps/KFPLF7V2aKA2




北畑の小田川堤に今も残る竹樹

https://goo.gl/maps/mY2mwS33yxk




共栄橋

https://goo.gl/maps/h6uA91awKjM2




平成8年(1996年)11月竣工

旧共栄橋は昭和24年(1949年)に竣工

小田川の高瀬舟については「北川の史跡ガイドブック(p.78)」を参照

共栄橋を渡って矢掛町小田へ進む






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