【備中吉浜西国三十三所観音霊場 画像集1】


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発起人は大東の河相傳治郎氏。開創は明治41年(1908年)。

33番札所(慈恩寺の境内の東)の横に吉濱西国三拾三ヶ所紀念碑がある。




自然石地神

「地神」

迫集会所の東20m

7柱の地神様が観音道のすぐ近くにあるので地神様巡りも兼ねてお参りします

https://goo.gl/maps/vDbxGeezdNK2




迫集会所前から車道を西へ21m進んだ所にある丁字路を右折




細道を北へ58m上る




Y字路から墓地への参道を西(左)へ32m上る







身変地蔵尊

「身変地蔵尊」「迫講中 笠岡金崎地藏講中」
「元禄二年(1689年)七月建立 昭和七年(1932年)六月再建」

『おん かかかび さんまえい そわか』

坂東30番の観音堂の向かって右下にある。

白岩とげ抜き地蔵尊の身代りとして、笠岡の西本町の石屋
 井上定次郎さんによって新造された像。
元禄2年は威徳寺にある白岩とげ抜き地蔵尊が建立された年か?

身変地蔵尊の向かって左にある3躰の石仏はすべて地蔵菩薩像





威徳寺の白岩とげ抜き地蔵尊(白岩地藏大菩薩)

台座「天明三稔(1783年) 卯六月建之 日本廻国」
 「六◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯ ◯◯」「昭和七年 四月再建」

白岩とげ抜き地蔵尊は以前、笠岡村金崎の白岩(白岩稲荷がある辺り)に祀られていた。
昭和7年、自分たちの祖先が寄進したものであると主張する吉浜の迫地区の人々によって
地蔵尊が持ち去られるという案件が発生。金崎の地蔵講と迫の人々の間で話し合いがもたれ、
身代りの地蔵尊を迫地区に建立することで決着。同年6月に「身変地蔵尊」が建立され、
白岩地蔵尊は元の場所に戻された。昭和52年に地蔵尊は白岩から威徳寺の山門脇へ、
翌53年に大雄寶殿(威徳寺の本堂)前へ遷座。

詳細は「おや こんなところにこんなものが(pp.157-158)」を参照


https://goo.gl/maps/n86wHE71vJF2

身変地蔵尊の前から西へ5m上る




迫公会堂の北西にある墓地の南端

 https://goo.gl/maps/MSKBaq3bsh92




如意輪観世音菩薩輪王坐像(堂内向かって左)

「壱者(は)ん なちさん」
台座「迫講中」

吉浜西国1番 那智山 青岸渡寺 [なちさん せいがんとじ] “那智山寺” (如意輪)
 『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
 「補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」


聖観世音菩薩立像(同右)

「上総国 三十番 高蔵」

台座の側面の施主名あり(隙間がないので判読困難)

坂東30番 平野山 高蔵寺 [へいやさん こうぞうじ] (聖観世音)
 『おん あろりきゃ そわか』
 「はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろう あさばなるらん」




奉唱光明真言供養塔

「*(弘法大師の種子「ユ」) 奉唱光明真言供養塔 天保四年(1833年) 巳十一月廿一日 
 二十一万遍 念仏廿二万遍 吉濱浜村 大師講中」




墓地からの眺望(南)

正面に箱島(吉浜西国30番札所)、その奥に金浦小学校




墓地からの眺望(南西)

金浦中学校

墓地から迫集会所前まで戻り、十字路から車道を東へ195m進む




十字路(温室とカーブミラーあり)を左折し、細道を北へ54m進む




十字庵(墓地)

墓地への参道を北へ20m上る




観音堂

https://goo.gl/maps/TiU5qhxaCYR2




十一面観世音菩薩立像(堂内向かって左)

「◯ばん きみい寺」「施主 ◯◯◯◯」

吉浜西国2番 紀三井山 金剛宝寺 [きみいさん こんごうほうじ] “紀三井寺” (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「古郷を はるばるここに 紀三井寺(きみいでら) 花の都も 近くなるらん」

十一面観世音菩薩立像(同右)

坂東29番 海上山 千葉寺 [かいじょうさん せんようじ] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「千葉寺へ まいる我が身も たのもしや 岸うつ波に 船ぞ浮かぶる」




東迫にある「東の堂」の横

「東の堂」内には四国19番立江寺の大師像と地蔵菩薩坐像がある

https://goo.gl/maps/2uvVK




地蔵菩薩坐像(向かって右)

弘法大師坐像(同左)

「四国 第十九番」

四国19番立江寺 (大師/延命地蔵)
 橋池山 摩尼院 立江寺 [きょうちざん まにいん たつえじ]
 『おん かかかび さんまえい そわか』
 「いつかさて西の住まいのわが立江 弘誓(ぐぜい)の舟に乗りていたらむ」




東の堂の露盤

「明治十六年(1883年) 未三月吉日」

明治16年は東の堂が再建された年




観音堂




千手観世音菩薩立像(堂内向かって左)

「三ばん 古(こ)かは寺」「河相伝治郎」

西国3番 風猛山 粉河寺 [ふうもうざん こかわでら] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「父母(ちちはは)の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ 頼母(たのも)しの身や」

河相伝治郎氏は吉浜西国観音霊場の発起人


十一面観世音菩薩立像(同右)

「下総国 二十八番 滑河」

坂東28番 滑河山 龍正院 [なめかわさん りゅうしょういん] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「音に聞く 滑川寺の けさがふち あみ衣にて すくうなりけり」

  


十一面観世音菩薩立像

「二?十八番」

観音堂の向かって右にある

東の堂の前の丁字路から東へ166m進んで右折し、南へ30m上って県道に出る。
左折して県道を北へ23m進む。







五角柱地神

「天照大神」「倉稲魂命」「大己貴命」「少彦名命」「埴安姫命」(東正面 時計回り)

https://goo.gl/maps/UrjN9KFj9qj

五角柱地神の前から本堂を北北東へ250m進む




新川堤の地蔵堂

お堂の前にある県道289号東大戸金浦線(井原街道)は
西濱港と成羽・高梁(備中松山)を結ぶ魚荷道(別名「ととみち」)でもある。
運び手である魚仲仕(うおなかせ)は10~12貫(37.5~45kg)の魚荷を天秤棒で担いで
西濱の魚問屋(久我邸の南にあった)を午後9時頃に出発。
駅伝方式で翌朝の9時頃に成羽の吹屋へ、
さらに夕方6時頃には新見へ達していたという。

魚荷道については「美星町史(pp.502-504)」、「北川の史跡ガイドブック(p.82)」、
「高梁川 No.68(p.246-254 高梁川流域連盟)」を参照

https://goo.gl/maps/E7u1HDQ8f6o




「基礎改修 昭和48年9月吉日 大東組」




お堂の向かって左にあるのは自然石地神(無銘)

「語り継ぐ金浦(pp.52-57)」を参照




石香炉兼花立

「明治廿六年(1893年) 地藏大菩薩 六月吉日」




千手観世音菩薩立像

「四ばん まきの◯」「施主 大東組」

吉浜西国4番 槇尾山 施福寺 [まきおさん せふくじ] “槇尾寺” (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「深山路(みやまじ)や ひばら松原 わけ行けば 槇の尾寺に 駒ぞいさめる」




地蔵菩薩坐像

「吉濱村東郷 寛政九(1797年)丁巳七月日」

新川開削工事(寛文11年=1671年に完成)中に亡くなった人の霊を慰めるために建立




薬師如来坐像(向かって左)と弘法大師坐像(同右)

「昭和七年(1932年) 八月 善通寺 施主 ◯◯◯◯」「西江◯◯」

四国75番善通寺 (薬師/大師)
 五岳山 誕生院 善通寺 [ごがくざん たんじょういん ぜんつうじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「我住まば よも消え果てじ 善通寺 深き誓いの 法の灯し火」







彩りを添えていた桜の老樹は2017年10月の台風21号の風害により
中程の所で折れて地蔵堂の屋根を直撃。共に痛々しい姿に。




地蔵堂前から県道を南へ63m進む




県道から左折して川中橋を東へ渡り、右折して吉田川東岸の道を南へ222m進む




石橋

「岡山の石橋(pp.47-49)」を参照






石橋の前で左折




升池(桝池)の北岸の道を東へ55m進む




 木造軸組に石屋根というユニークなお堂




千手観世音菩薩坐像

「五ばん ふじゐでら」「大◯◯◯ ◯◯◯◯」

吉浜西国5番 紫雲山 葛井寺 [しうんざん ふじいでら] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「まいるより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」

https://goo.gl/maps/ZSNs7m9zUAo




西へ55m戻り、左折して土手道を南へ110m進む




升池




升池の土手の南端




升池碑

「升池」
「吉濱東郷毎夏月患旱損 田圃亀*坼(土 + 斥)禾稼焦
枯黎庶阻飢者有年矣 先人久我源三郎甚
憂之与(ともに)岡原市郎 *大槗(大橋)保治郎 石井常四郎 諸子謀曰天
*灾(災)行雖在不免而為人者(は)袖手傍觀不為
之*偹(備)而可乎 *𡧧(宜)開鑿一大池以資潅漑之用
 乃(すなわち)協議於本村及鄰近諸邑 得其賛成 卜地」

「鳩(あつむ)*財 営規畫 以明治十二年(1879年)春二月興工
 至十三年四月竣功焉 廣凡壹町歩 堤防牢
固 不潰不泄 自是後水*𠯣(足)田豊 無*復旱損之
患 一郷大悦 名曰升池者取其形似 且祈比
年秋收之多量也 諸子請予書諸石以建池
上 明治十三秋八月 久我房三 識」

「吉濱邨 東郷人民中 戸長 岡原幽一
 周旋人 岡原◯◯ 大橋◯◯◯ 大橋◯◯◯ 石井◯◯◯ 岡原◯◯◯ 高橋◯◯◯
  池田◯◯ 藤原◯◯◯ 佐藤◯◯ 河相◯◯◯ 藤井◯◯ 田中◯◯」
「石工 佐藤豊造」

*亀坼(きたく): 亀卜、日照りで地面が亀の甲のようにひびわれること
禾稼(かか): 田畑の作物
黎庶(れいしょ): あさぐろく日焼けした顔の民。庶民。
黎民阻飢: 黎民飢えになやむ(書経の舜典にある「帝曰棄黎民阻飢」より)
為人(ひととなり) : 人がもっている性質
袖手(しゅうしゅ): そのことに関係しようとしないでいること
卜地: 吉凶をうらなって良い土地をえらび定めること
比年(ひねん): 毎年

升の形に似ていることから、
また収穫が増すことを祈願して升池と名付けられれている

久我房三氏は明治22-25年、明治32-34年の間、金浦村長をを務めている。
さらに明治34-36年の間、金浦町長を務めている

久我源三郎氏と久我房三氏については「小田郡誌 下巻(pp.713-721)」を参照

https://goo.gl/maps/NEEM7fAxVkR2



石橋を渡って県道289号線に戻り、左折して南へ153m進む。

車なら十字路を右折して広域農道を西へ360m進むと6番札所前。

徒歩なら広域農道を通るのは危険なので、交差点を直進して
さらに南へ213m進んで右折。西へ143m進んで
新川保育所前の十字路から 北西へ243m進む。




セブンイレブン笠岡吉浜店前の交差点







「六ばん つぼさか寺」「施主 岡◯◯◯」

吉浜西国6番 壺阪山 南法華寺 [つぼさかさん みなみほっけじ] “壺阪寺” (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「岩をたて 水をたたえて 壺阪の 庭の砂(いさご)も 浄土なるらん」

https://goo.gl/maps/YkHfMtj1GvC2

6番札所前から南へ220m進む




当摩集会所前を通過




ブルーハイツの前で右折して北西へ54m進む







五角柱地神

「天照大神」「大己貴命」「少彦名命」「稲倉魂命」「大地主◯」(北正面 時計回り)

https://goo.gl/maps/N8KKM14LxbR2

車道に戻って右折し、さらに南南西へ170m進む




ボウリングのピンの形をした寺標が目印







如意輪観世音菩薩輪王坐像

「七ばん をかてら」「施主 岡◯◯◯」

吉浜西国7番 東光山 岡寺 龍蓋寺 [とうこうざん おかでら りゅうがいじ] (如意輪)
 『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
 「けさ見れば 露(つゆ)岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり」

https://goo.gl/maps/RcqNqyis9EF2




 7番札所前から南へ78m進んで右折




東へ24m進んで左折し、南へ321m進む




当摩川




笠岡市立金浦小学校前を通過




水溜川




山際の丁字路を左折




金浦小学校のプールの東にある細道を北北西へ48m進む




金浦幼稚園の南南東38mの所




三面不空羂索観世音菩薩坐像

「九ばん なんえん」「施主 三宅◯◯」

吉浜西国9番 興福寺 南円堂 [こうふくじ なんえんどう] (不空羂索)
 『おん あぼきゃ びじゃしゃ うん はった』
 「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうすぐも」

https://goo.gl/maps/dQaAdWKf1C62

丁字路に戻り、山際の道を南東へ83m進む




八千代橋前の丁字路字路




地蔵菩薩坐像

『南無地蔵大菩薩』







お清明神と白馬さままさま

「慶雲三年(706年 丙午) 南無妙法蓮華経 石山観世音𦬇(菩薩の略字) 乙巳四月」「土手番中」

https://goo.gl/maps/zBBY1MGfguM2

丁字路を右折して西へ53m進む




吉浜踏切浜踏切




踏切を渡ってさらに西へ111m進む


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