【魚荷道.2】


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書きかけです


笠岡市大河

7年間病床の姑に尽くし孝婦と称えられた篤(とく)さんについては
「備中誌 小田郡(p.88-89 明治36年)」、「小田郡誌 下巻(p.711 昭和16年)」、
「孫たちに語りつぎたい金浦(p.60)」等を参照

「楢園集(文政5年 小寺清先 著)」に「孝婦名篤 本郡(小田郡)大河村民嘉平妻 吾郷津山屋金介之女 事姑孝謹有
司具狀以聞 寛政九歳(1797年)丁巳五月*䝉(蒙)賞典」とある

「御登極記念 小田郡誌(p.65)」に「孝女德女 德女は吉濱金助の女(むすめ)なり、貞實温和なりしが
後大河嘉兵衛の妻となり、姑に仕へて孝順なりき。夫嘉兵衛は家事を德女に托して、日雇に出で働けり。
其の頃凶年にして*益々貧窮しければ、德女も亦 公に出でぬ。然るに母親は病床に打ち臥したり。
德女は晝夜其の側に侍して、色々看病に心を盡したり。人の糸を紡ぎて織り、暇があればかよわき身にて
田畑を耕作し、薪を採りて僅かの金を得 母を養ひ、家路近き處に雇はれ、暇には歸りて
三度の食事は云うに及ばず、大小便に至るまで用をかなえて大切にせり。
夏の夜 張るべき蚊帳もなければ、終夜側に居て蚊を拂ひ、母を休ませ。
冬の夜は冴え行く夜嵐に寝具とても薄ければ、母の足を己が懐に入れて温めなどしては
母を慰め居りしが、病に罹りて七年間一日も變りなく仕え養ひて、起居不自由なる母に
何一つ不足を感ぜしめざりき。人皆歎稱せざるなく、寛政九年倉敷三治所公議之を賞し
褒美として銀を給はり、姑には養老扶持を下されたり。」とある




井出池の土手の西端にある十字路から、細道を北北東へ205m進む

https://maps.app.goo.gl/W73e75fX4cyMn4VeA





大河の字 堂ノ内(堂之内)




大河公会堂の裏にある墓地




向かって左に弘法大師坐像2体、右に日切地蔵

『南無大師遍照金剛』『おん かかかび さんまえい そわか』




聖観世音菩薩立像

「常州 二十六番 清瀧寺」

坂東26番 南明山 清瀧寺 [なんめいさん きよたきじ] (聖観世音)
 『おん あろりきゃ そわか』
 「わが心 今より後は にごらじな 清瀧寺へ まいる身なれば」

 https://goo.gl/maps/0QOwo





北東へ84m進む




県道289号線に復帰し、北東へ255m進む





大河の字 鯨のY字路

明治30年当時の地図には、この辺りに橋が描かれている

地名の由来は崩壊地の意味か?
あるいは笠岡市広浜の渡辺淳一郎氏頌徳碑の横にある鯨池のように
ホエールの鯨に由来する地名の可能性もある。

鯨明神と鯨池については「笠岡市史 地名編(p.280)」を参照


https://maps.app.goo.gl/zhz6FKK9axxDGRv68



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助実経由ルート(徒歩限定)

吉田川東岸、海抜20m辺りにある助実貝塚については「笠岡市史 地名編(p.168)」を参照




大河東橋西詰の交差点を右折

大河東橋の竣功は平成2年(1990年)2月。明治30年の地図には無い。




大河東橋の東詰で左折

https://maps.app.goo.gl/AHq8V7ttJVUhvN917




細道を北へ75m進む








ここから先は笠岡市東大戸の字 渕ノ上

吉田川沿いに北へ135m進む







Y字路

明治30年測図の地図に描かれている旧道は、この辺りから吉田川を離れて山際を通っている。
長年誰も通らないので、竹や雑木、倒木が道を塞ぎ、通行困難となっていた。

https://maps.app.goo.gl/ZJij3db3zsSyu9kdA





Y字路から旧道を東北東へ40m程進む










この辺りから3m程北東へ上って左折




北へ27m進む




道を塞ぐように木が生えている所が数か所ある












山陽自動車道の高架下を通過

https://maps.app.goo.gl/xbXfpUGyzxMQveRe6




北西へ8m程上り、北へ55m上る
















小さな溜池の横の丁字路に出る

Y字路から約160m、勾配は緩やか

https://maps.app.goo.gl/WrwXGLet47W54bow5




吉田川沿いルート

Y字路から北へ約80m進む




吉田川沿いの道も草刈りをしていない時期には道と分かりづらい




吉田川12号橋(首くくり橋)

山陽自動車道高架下で右折

https://maps.app.goo.gl/ug4usQz1QzjSQt5H8




細道を北東へ約80m上る




この辺りから急勾配になり、雨が降ると水の通り道となる




小さな溜池の横の丁字路を左折




旧道

1960年代以降の地図には描かれていない




草刈りをする前




北へ15m上る




北東へ125m上る




字 中山

Y字路を左折して北へ上ると助実公会堂の前へ出るが、
人の往来が少ないので夏季は雑草が茂って通行困難になる。
右折して北東へ上る道は常時通行可能。

明治30年測図の地図には向かって右の道が破線と実線で描かれているが、
左の道は描かれていない。















北北東へ75m下る








丁字路

車道を北東へ220m下ると県道34号線の交差点に出る。
途中、赤い消防ホース格納庫がある十字路を右折し、南東へ60m上ると助実貝塚がある。

https://maps.app.goo.gl/4SxVcGBAwUNxHovw7

左折して西へ60m進む







カーブミラーがある丁字路を右折




北北東へ45m進む




車2台くらいなら一時駐車可能





助実(すけざね)公会堂




觀音堂

棟札「觀音堂一宇再建 助實構?中 明治廿?九年 旧七月十七?日」

「民俗資料選集39(pp.38-41)」には助実のお大師様と記されている




千手観世音菩薩立像(助実観音さま)

「二十五番 常◯ 大御堂」「施主 當◯ ◯谷◯◯◯」

坂東25番 筑波山 大御堂 [つくばさん おおみどう] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「大御堂 かねは筑波の みねにたて かた夕暮れに 国ぞ恋しき」

旧7月17日にお接待あり。旧暦17日は千手観世音菩薩の縁日。

「大井の盆踊り」発祥の地

詳細は「大井の盆踊り(p.5 大井盆踊り保存会 発行)」を参照

旧西濱村・吉濱村・大冝村・用之江村・有田村・押撫村・篠坂村・入田村・西大戸村・東大戸村・大河村・木之目村(相生)の
11ヶ村に点在する坂東三十三ヶ所観音霊場の33躰の観世音菩薩像の中で、彩色が施されているのはこの1躰のみ。

  https://goo.gl/maps/tScmV




2024年バージョン

条帛、天衣、裳の色が水色から紺色に近い色に塗り替えられている。
唇の赤い彩色が無くなっている。




2025年バージョン

条帛、天衣、裳の色がさらに濃い紺色に塗り替えられている。
唇の赤い彩色が復活している。


 

扇形の水鉢兼線香立て




助実公会堂のとなりにある荒神社と石燈籠(火口にガラス入り)

「天保十一年(1840年) 荒神社」




細道を北東へ75m下る










とと道はつきあたりの丁字路を左折

https://maps.app.goo.gl/GUT2Lzf2uT36neoK6

右折して助実貝塚へ




車道を南南東へ25m上る




赤い消防ホース格納庫がある十字路から細道を南東へ60m上る

https://maps.app.goo.gl/UiLDLJxPNp8qxq4SA








助実貝塚

津雲貝塚と同じ縄文時代後期の貝塚

笠岡市ホームページの「縄文時代のタイムカプセル - 史跡 津雲貝塚」の頁を参照

https://maps.app.goo.gl/JwiFC16yvSMWSxHdA




西浜の吉田川の河口から直線距離で約2.91kmの所にある。
曽谷貝塚(千葉県市川市曽谷)や姥山貝塚(千葉県市川市柏井町)と同じ条件の立地。

国土地理院のwebページ「国土地理院地図から考える貝塚の立地」を参照




ハイガイの殻が散乱している




十字路に戻る




丁字路に戻り、車道を北東へ65m下る




吉田川に架かる助実橋(吉田川14号橋)

https://maps.app.goo.gl/4DKyGiyAmzPFYz3P7

橋を渡って東北東へ30m進む




とんぺい(ラーメン屋)の前の県道34号線の交差点を右折すると自動販売機あり




県道を横断し、東北東へ35m上り、丁字路を左折




旧県道

「皇国地誌」の備中小田郡東大戸村の項には七日市往還とある。
東城笠岡往来、自高山至笠岡道。

東大戸の字 長町

https://maps.app.goo.gl/W58ufTdMk1Hr4xKe7Ke7

北北西へ210m進む




大井小学校前

小学校の体育館の裏(北)に忠魂碑(陸軍大将宇垣一成 謹書 昭和四年五月建之)あり







自然石の燈籠と石燈籠

https://maps.app.goo.gl/DH2Sf4UFU4AMWUHB8





大井まちづくり協議会事務所(旧倉敷かさや農協大井支店)

自動販売機あり。向かって左にふれあい花壇がある。

Y字路を右折




北東へ15m程上って右折




小学校の体育館に向かって南東へ15m程上る




大師堂

https://maps.app.goo.gl/kPv6i6iDBWC4tVkA8





牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「大正元年(1912年) 三月廿一日」




牛供養碑b(牛)

「供養 昭和四年(1929年) 旧十月」




万人講供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「万人講」







弘法大師坐像

「文政十(1827年) 亥七月日 世主 清八」

『南無大師遍照金剛』

旧県道に戻り、右折して北へ30m進む




県道34号線東大戸交差点を西へ横断し、バス停(大戸口)へ


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車の場合は大河東橋西詰の十字路から県道289号線を北東へ161m進む




吉田川を境にして向かって左は東大戸の字 下河内、右は字 渕ノ上




名称不明の橋

https://maps.app.goo.gl/44LYBruzYQanWyEKA

山陽自動車道の高架下を通過し、北へ160m進む




東大戸の字 ニタ川




地蔵菩薩立像と五輪塔

吉田川の土手道(明治30年頃の旧道)の脇にある。
土手道については「皇国地誌(明治9年1月調)」の備中小田郡東大戸村の項に「吉田川ニ沿ヒ村ノ南ニアリ
北小平井村界ヨリ南大河村界ニイタル長サ弐百間 馬踏四尺 堤敷五間費用」とある

「大井の文化財ミニガイド(2023年、大井文化探訪の会 編、p.15)」によると
吉田川の土手の改修工事の際に人身御供にされた娘を供養したものとする説と
歯痛で身を儚んで入水自殺したお手伝いさんを供養したものとする説があるという。

https://goo.gl/maps/aKr5XBsa2yM2

北北東へ170m進む




助実下橋

上流の助実橋(吉田川14号橋)も助実下橋(吉田川13号橋)も元は石橋だった

「笠岡市史 史料編上巻(p.260 皇国地誌 明治9年調)」に
「吉田川三等に属ス 平時水浅フシテ僅ニ脛ニ及フ 北小平井堺ヨリ西大河村堺マテ屈曲シテ流ル
長四百九拾間(約891m)幅六間 石橋二ヶ所ヲ架ス 修繕費用民ニ属ス」とある

橋を渡って南東へ90m上り、丁字路を左折して北北東へ45m進むと助実公会堂に至る

橋の西詰は字 経納、東詰は字 柳之内

https://maps.app.goo.gl/pXdimae3iJCq7Yds7

助実下橋の西詰(消防機庫と火の見櫓あり)の十字路を左折して北北西へ570m上る




東大戸の田淵の丁字路にある観音堂と薬師堂




道しるべ 

「右 ふく山(福山) 左 西濱」「大平佐太良」

観音堂(坂東21番八溝山日輪寺)と薬師堂の間にある

北から下って来た人用の道しるべ。
右折して西へ向かうと、西大戸、入田、篠坂、坪生を経て福山に至る。

https://goo.gl/maps/k6b0l

北北西へ約1.09km上る




中国ベントナイト鉱業(株)大戸工場がある十字路

道路の向かって左(東)が字 中ノ才、右(西)が字 蛸村下

東大戸の字(あざ)については「笠岡市史 地名編(pp.165-173)」を参照




半分地中に埋まっている




東城往来の道しるべ

「右 なかた爾(に)本(ほ)う世(せ)ん(長谷 法泉)
 *㔫(左) い者(は)良(ら)加(か)うやま(井原 高山)」

右(北)へ進むと門田との境(※道しるべあり)を越えて女官、蔵本、実相、仁古谷へ下り、
木之子の淀、惣谷、砂畑、山手と進み、錦橋(※北詰に「右 笠岡道 左 上方道」の道しるべあり)で小田川を渡り、
西江原の今市、長谷を経て、曹洞宗 長谷山華光院法泉寺(井原市西江原町4841)に至る。
法泉寺は備中西国第15番札所。
途中にある西江原の御影橋の南詰で八日市(井原市美星町黒忠)・成羽・松山(高梁)道と法泉寺に向かう道に分岐する。
法泉寺から先は井原市野上町頂見へと続く。

左へ進むと井原、吉井、高山市(こうやまいち)を経て東城(広島県庄原市東城町東城)に至る。
井原市笹賀町には備中西国第14番札所 南斗山普門院金鋪寺がある。
高梁市川上町高山市には備中西国第13番札所 南洞山円福寺があった(井原市神代町に移転後、廃寺)。
笠岡には備中西国第18番札所 笠岡山威徳寺、神島には備中西国第19番札所 青島山自性院がある。

明治30年測図の地図には東大戸の岡林付近、吉井の天神・山内・沢岡・佐原付近に
「自高山至笠岡道(高山より笠岡に至る道)」と記されている。
東城からは高山市を経由して笠岡へ農産物が、西濱からは東城へ海産物が運ばれた(魚荷道)。

大河東橋西詰の交差点からここまで、助実経由で岡山県道34号笠岡井原線の旧道を通った場合は2550m、
田淵経由の場合は1660m。

https://goo.gl/maps/4bGUEh21LcWT1aT29




雄神川に架かる御影橋の南詰の道しるべ

「右 法泉寺」「左 八日市 なり◯(成羽) まつ山(松山) 道?」

https://goo.gl/maps/zJgEZoxJfEU2




大師堂(吉井四国28番大日寺、同31番竹林寺)

井原市芳井町吉井の金比羅橋西詰、国道313号線芳井支所前交差点の南にある





牛供養碑 兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「*(地蔵菩薩の種子「カ」)
右 井原 西 中條(中条) 左 *髙山(高山) 施主 高橋◯◯」

中条は広島県福山市神辺町東中条・西中条

https://goo.gl/maps/Zyip3kG2NRznnaAc6

芳井支所前交差点を左折して西へ275m進み、Y字路を右折して北西へ190m進む




井原市芳井町吉井の東城往来

明治9年(1876年)に三等県道となる

「芳井町史 通史編(p.511)」を参照




牛供養碑 兼道しるべ

「爲 **(牛2頭) *(向かって左方向ヘの指さし印) 天神山 西吉井 *髙屋(高屋) 中条道」
「縣道 上ハ*髙山(高山)東城 下ハ佐原井原 道」
「十方施主 起者 三宅◯◯◯」

遍路道しるべに使われる指さし印があるので、天神山にあった大月山重玄寺
(備中国(小田郡・後月郡・浅口郡)三十三所観世音菩薩霊場 第10番札所、吉井四国71番)や
吉井山成福寺(同第9番札所、吉井四国74番、75番、76番、77番)への道しるべとして建立されたものと思われる。

南西へ910m進んだ所に「成福寺道」と刻まれた牛供養碑兼道しるべがある。

高山は高梁市川上町高山市
佐原は芳井町吉井にある小字

https://goo.gl/maps/R6yTZfqBg4jLWAmQ8


明治末期の後月郡の主要道については「後月郡誌(私立後月郡教育会 著、明治39年、pp.12-13)」に
「第四章 交通   交通機關ノ重ナルモノヲ擧タレバ。
一、國道  山陽街道 東方小田郡小田村ヨリ本郡ニ入リ、荏原、西江原、
出部、高屋ノ諸村ヲ經テ、西方備後國深安郡御野村(みのむら)ニ至ル。里程二里二十六町(10,690.9m)余、
全道平坦ニシテ、中央ニ日芳橋アリ。
二、縣道 出雲街道 南方小田郡稻倉村境ヨリ、本郡出部村ニ入リ、山陽街道ヲ横斷シテ、
井原町及芳井、共和、三原ノ諸村ヲ經、西北川上郡高山村境ニ至ル、
里程六里二十三町(26,072.7m)余、車馬路驛行人織ルガ如シ。
三、里道 イ、笠岡往來 備後國深安郡三谷村ヨリ、本郡高屋村ニ入リ、國道ヲ横斷シテ、小田郡大生村境ニ至ル。
ロ、井原往來 出部村大字笹賀ニ於テ、國道ヨリ分レテ井原町ニ至ル。
ハ、福山往來 荏原村ニ於テ國道ヨリ分レ、木之子、縣主ヲ經テ、小田郡稻倉村境ニ至ル。
ニ、笠岡往來 小田郡稻倉村境ヨリ、本郡縣主大字西方ニ入リ、再ヒ小田郡稻倉村境ニ至ル。
ホ、成羽往來 小田郡大江村境ヨリ、縣主、木之子ノ二村ヲ經テ、西江原村ニ至リ、
國道ヲ横ギリ、山野上村ヲ經テ、小田郡堺村境ニ至ル。
ヘ、玉嶋往來 荏原村ニ於テ國道ヨリ分レ、木之子村ヲ經テ、小田郡北川村境ニ至ル。
ト、井原往來 西江原村ニ於テ、國道ヨリ分レ、井原町ニ至ル。
チ、八日市往來 西江原村ニ於テ、國道ニ起リ、山野上村ヲ經テ、小田郡堺村ニ至ル。
リ、八日市往來 井原町縣道ニ起リ、青野、山野上、明治ノ諸村ヲ經テ、小田郡堺村境ニ至ル。
ヌ、成羽往來 芳井村大字吉井縣道ヨリ起リ、芳井、明治ノ二村ヲ經テ、川上郡大賀村ニ至ル。
ル、八日市往來 明治村大字種ヨり川上郡日里村境ニ至ル。
オ、福山往來 芳井村大字吉井縣道ヨリ起リ、高屋村ヲ經テ、備後國深安郡三谷村ニ至ル。
ワ、井原往來 備後國深安郡山野村境ヨリ起リ、本郡芳井村大字川相ニテ縣道ニ合ス。
カ、福山往來 共和村大字下鴫縣道ヨリ起リ、備後國深安郡山野村境ニ至ル。
ヨ、井原往來 三原村大字西三原ヨリ起リ、大字東三原ニ至リ縣道ニ合ス。
コレラノ道路ニ往來スル車輛ハ、人力車九十七、荷車千二百十八ナリ。」とある。

※文中の「福」の字は旧字の*福


大正末期の後月郡の主要道については
「岡山縣 後月郡誌(p.836 大正15年)」の「岡山縣後月郡地圖」を参照。

縣道「出雲街道」と里道「オ、福山往來」の交差点にこの道しるべは置かれている

旧県道を北西へ160m進む




丁字路



道しるべ

「*(地蔵菩薩の種子「カ」) 右八(は)中条福山
 をく八(は)高山道 左八(は)井原笠岡
施主 矢谷 和吉」

北(東城、高山市)から下って来た人用の道しるべ
施主名に苗字が無いので江戸時代のものと思われる。

中条(ちゅうじょう)は広島県福山市神辺町東中条・西中条。
矢谷は井原市芳井町吉井の矢谷地区(ここから南西へ約900m)。

https://goo.gl/maps/z13pGpBWMLTEWrLy6




井原市芳井町下鴫の県道9号線沿い




千手観世音菩薩立像(兼 里程標)

「千手觀音 是川下井原ヘ三里半(約13,745.44m) 是川上*髙山市一里半(約5,890.9m)
 大正四年(1915年)○月吉日 施主 ○○○○」

車道を通ると高山市の千峯坂口まで約7.7km(旧道を通れば約6.2km)

https://maps.app.goo.gl/nsWJLBHRAJH2h3xH7





山村千峯の地蔵堂

井原市芳井町山村270-2

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.68)」を参照

https://maps.app.goo.gl/ZRdh6Z3GpYAZQFM2A




牛供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像=大仙(大山)智明権現 + 牛)

「南 笠岡 北 伯耆 明治三十九年(1906年) 旧七月廿四日
*施主 山本平*𫝀(五)良」

笠岡東城往来が伯耆大山道でもあることを示している




東城往来(千峯坂街道、自高山至笠岡道)

向かって左の車道を南へ約7km下ると、井原市芳井町上鴫の日指(ひさし)地区の県道9号線に至る。
途中の旧道(徒歩限定)を通れば5.46km。中国自然歩道に指定されている。
県道9号線に至るまでの道中に、ここにあるものを含めると道しるべが9基、お堂が3ヶ所ある。
笠岡の西濱(ようすな)から高山市、東城へ鮮魚を運んだ魚荷道でもあった。

右の道を南西へ約2.4km下ると、井原市芳井町東三原の三原地区の県道9号線に至る。




千峯坂口(井原市芳井町東三原858-8)

https://maps.app.goo.gl/ArDZazAvmg8WzRn37




万人講供養碑兼道しるべ(馬)

「万人講供養 東 成羽道 西 油木 東城 昭和三年(1928年)旧七月吉日 施主 ○○○○」





千峯坂の石標

「千峯坂」

「千峯坂(せんぼうざか)街道(野呂千峯を経て坂尻まで約六キロ)
この道は高山市から千峯を通り井原、福山方面へ通じる街道で、
高山市はこの道によって南北商取引の中継地として繁昌した。
昔は坂尻から川沿いに登っていたが、盗賊が出没するので、明和年間
西暦千七百七十年頃に高山市の商人によって、谷千峯からほぼ一直線に
道巾二メートル程の急峻な坂道が造られた。これが有名な千峯坂である。
それ迄は高山市から米穀、薪炭等を牛馬の背に積み運ばれていたが、
千峯坂が改修されてからは手車を使うようになり、井原で南部の雑貨、
鮮魚、調味料等を仕入れて坂尻迄帰った頃に、家族の女、子供が牛を連れて出迎え
車ごと引張り上げていた。大正十二年共和、三原間の県道が開通した為に
交通様式は一変した。  平成五年(1993年)九月建之  松 毬子」




神山(高山)の昔話




弥高山(標高653.3m)から高山市(高梁市川上町高山市の下市、中町、上市)の町並みを望む

東城と笠岡の中間地点にあたる。
人や農産物や海産物や様々な物資が集まり、三斎市も開かれていた。
備中西国観音霊場の巡礼者や式内社穴門山神社への参詣者等で賑わった。
備中州巡礼畧記」を参照。

弥高山の頂上に至る螺旋状の道には弥高山四国八十八ヶ所霊場の石仏群が立ち並んでいる。

https://maps.app.goo.gl/dxJpZFv8cMYMpwe29





明治30年測図の地図には助実下橋の北40m程の間だけ道が途絶えているが
1925年の地図には道が描かれている




明治三十七年(1904年)に吉田川沿いの岩盤を30m以上開鑿して通行可能となった。
里道開通により、魚仲仕も距離が短く、高低差が少ない吉田川沿いの道を通るようになったと考えられる。




「御登極記念 小田郡誌(p.79 大正13年 大井村の項)」に「交通機關に關係する土地の變遷
 明治二十一年(1888年)井原往來中蛸村の切下げを行ふ。
又明治三十二年(1899年)小田往來の改修。
明治三十七年には金浦に通ずる重要里道 明治三十九年には西大戸より陶山に通ずる重要里道の開通等あり。」とある。

金浦に通ずる重要里道(現在の県道289号線)は、井原街道とも呼ばれていた。
小田往來はバス停(大戸上)から北上して新山村、北川村を経て小田村に至る道。




助実下橋の十字路から北北東へ325m進む





東大戸交差点

向かって右は字 *峝(上に「山」、下に「同」)、左は字 行信

交差点を左折し、バス停(大戸口)へ





道しるべ

「→ 以ばら(井原)爾(に)至」「左 かさをか(笠岡)爾至」
「右 ようす奈(西濱)爾至」
  「明治三十九年(1906年)十二月建 発起人 守屋四郎 藤井文武 守屋勝治」

バス停(大戸口)の横にある。里道開通の2年後に建立。

標高20m、西浜の久我邸前からここまでの道程は約3.3km

https://goo.gl/maps/Szgrk1nE5Mu


県道34号線を北へ390m上る




バス停(大戸中)の南30mの所

東大戸の字 仁伍

このあたりに一里塚(井原の旧山陽道から県道34号線を通って2里)があったあった





万人講供養碑(地蔵菩薩坐像 + 向かい合う2頭の馬)

「万人 倶會 大正七年(1918年)◯◯◯日 *世話方 岡林 山之神 中 飼主者 守屋◯◯◯」

供養ではなく倶會(くえ)と刻まれている

「大井の文化財ミニガイド(2023年、大井文化探訪の会編、p.25)」によると
自動車の走り始めの頃に馬2匹が驚いて川に転落したのを供養したものという。

大正7年といえば1918年米騒動が起こった年(8月の米価が春先の2.5倍に暴騰)

「笠岡市史 第三巻(pp.731-735)」を参照

https://goo.gl/maps/EXEtf4CwZWuZWu


県道をさらに北へ162m上る




県道34号線の交差点(お多津別館茶寮の東)にある消防機庫の横

東大戸の字 岡林




自然石の燈籠の燈籠

「当社 獻鐙」「文化十四(1817年) 丁丑◯◯」







観世音菩薩立像(向かって右)

「*常刕(常州) 二十四番 雨引山」

坂東24番 雨引山 楽法寺 [あまびきさん らくほうじ] (延命観世音)
 『おん あろりきゃ そわか』
 「へだてなき 誓いを誰も 仰ぐべし 仏の道に 雨引の寺」

法界地蔵(同左)

「正徳四◯(1714年) 法界 十一月吉日」

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

 https://goo.gl/maps/mohwQ

県道34号線を北へ254m上る




バス停(大戸上)前

県道の向かって右が東大戸の字 畷(なわて)、左が字 清水

https://maps.app.goo.gl/wPz4aYrfcpuCSaCA9CA9

徒歩の場合はバス停前のY字路から旧道を80m進む





東大戸の字 白石

向かって左上は字 神ノ神、右は字 小山

車の場合はバス停前から県道34号線を北へ105m上り、Y字路を右折。
大持池の土手まで、北へ520m上る。

https://maps.app.goo.gl/YZ5YUGDandEYiSxV7





旧道(笠岡市東大戸 道-253)を北へ175m上る(徒歩限定)

https://goo.gl/maps/2STDhg37dY22












丁字路

向かって右は東大戸の字 夫婦岩

https://goo.gl/maps/RTxzxikuv732732




丁字路から北へ向かう道(笠岡市東大戸 道-200)を上ってみる




字 長畔

向かって左は田圃だったが、現在は湿地帯と化している




丁字路から130m上った所

国土地理院の空中写真(1974-1978年)には、この辺りから北へ250m程上ると
池の土手の東端に出られそうな道が写っている。
しかし、現状は雑草が生い茂り、足元もぬかるんでいるため通行は困難。
道なりに北東へ上ると畑で行き止まり。

追記:道-200→道-189→道-106を通って大持池の東端に至る

https://goo.gl/maps/pv8y9L7m85z




丁字路に戻り、西へ15m程進んで右折し、車道(道-197→道188)を北へ350m上る




車道の向かって右下に旧道(笠岡市東大戸 道-104)がある

丁字路(笠岡市東大戸 道-197)に戻り、西へ15m程進んで右折し、車道を北へ350m上る





東大戸の字 大持

https://maps.app.goo.gl/ziNNsUTzJMt4cwpY6

カーブミラーが有る所で右折して大持池の土手道を東へ52m進む





旧道(笠岡市東大戸 道-104)

池の土手を東へ52m進む




大持池(だいもちいけ)




土手の東端の丁字路で左折し、北へ160m上る




丁字路(道-104と道-106の交差点)




以前は人通りが全くないため通行困難であったが、
2025年2月~3月にかけて草刈りと雑木伐採を実施し、通行可能となっている。




夏になると雑草がはびこるので定期的な草刈りが必要







笠岡市東大戸 道-100




















字 鉄塊(かなくろ)

「笠岡市史 地名編(p.168)」を参照

きのこエスポアールの入り口付近に出たら車道を北へ90m進む

標高74m、西浜の久我邸前からの道程は約4.8km

https://goo.gl/maps/vnHLCsnJG892




県道377号線(笠岡市東大戸 道-52)に出たら北へ80m進む


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