【魚荷道.18】
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書きかけです
吹屋→中野→宇治町穴田→成羽町長地→備中町長屋
→市場→黒鳥→阿部山→井川→惣田→田原→笠神→志藤用瀬
郷土館、旧片山家住宅、笹畝坑道、ベンガラ館、広兼邸など有料観光施設利用する場合は
共通周遊券(\1,000)がお得
吹屋ふるさと村 下町駐車場から県道85号線を南西へ80m進む。
丁字路を左折して南へ315m進む。
丁字路を右折して南西へ290m上る
https://maps.app.goo.gl/1bj3gQ3GiyVr4S1GA
ベンガラ館(弁柄工場・陶芸館)
高梁市成羽町吹屋の相山地区にある。下谷の田村家(福岡屋)の工場跡に建てられている。
日本遺産 「ジャパンレッド」発祥の地 -弁柄と銅の町・備中吹屋- の構成文化財のひとつ
https://maps.app.goo.gl/s3Jk4sD7s89o5hNh8丁字路に戻り、右折して南南東へ330m上る
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高梁市成羽町中野
たかはしグリーンスローモビリティの時刻表
4月上旬から11月末まで下町観光駐車場→笹畝坑道→広兼邸を電動車(時速20km/h未満)で結ぶ。
片道4km、所要時間は10分。土日祝日のみ、一日5便運行される。
笹畝坑道
日本遺産 「ジャパンレッド」発祥の地 -弁柄と銅の町・備中吹屋- の構成文化財のひとつ
吹屋銅山の笹畝坑道入口
https://goo.gl/maps/kAGJPL8e6fE2
吹屋銅山の歴史の解説板
頭上注意(高さ1.4m)
出口
露頭
階段を下って駐車場に戻る
南東へ480m進む
十字路を右折
南西650m上る
木造の鳥居
「金精神社」
金精神社(こんしょうさま)
※精は代字。正しくは「月」の部分が「日」の字。
陽物が多数奉納されている
笠岡市西大島鳥ノ江地区にあるかなまら神社には多数の陶製の陽物が奉納されているが、
金精神社に奉納されているものはほとんどが木造。
https://maps.app.goo.gl/aHcih2LNqZ85NhUL9南西へ315m、南南西へ645m進む
広兼邸の石垣の北端にある墓地
牛馬供養碑(三面馬頭観世音菩薩坐像 + 馬? + 牛)
「施主 松田◯◯ 世話人 廣兼◯◯◯ 松田◯◯◯」
「大正十*年(1921年) 七月十四日」
https://maps.app.goo.gl/EbpKWC9EeKmXPZug9
旧広兼邸住宅
映画 八つ墓村(1977年)のロケ地として有名
https://maps.app.goo.gl/dbstKAstfAo8fCRp7
日本遺産
「ジャパンレッド」発祥の地の構成文化財の一つでもある
高梁市指定文化財(建造物)
昭和59年11月15日指定
楼門
天広神社を望む
広兼邸の南東170mの所に鎮座
https://maps.app.goo.gl/NawVPoM7u84R3QYQ8
駐車場から旧広兼邸を望む
駐車場にトイレあり
吹屋観光案内板(日本遺産関連)
たかはしグリーンスローモビリティの時刻表

駐車道の南上にある丁字路から南へ320m下って十字路を右折
南西へ362m進む
丁字路左折して南へ80m上る

上長田圃場整備記念碑
「上長田圃場整備記念碑 事業費 一億二千万円 面積 十ヘクタール 昭和五十七年度施行」
自然石
祭神未確認
https://maps.app.goo.gl/fnjmEC9kf5E3Ax8M6南へ150m、右折して西へ100m上る
宝樹山善教寺(浄土真宗本願寺派)
『南無阿弥陀仏』
https://maps.app.goo.gl/fnjmEC9kf5E3Ax8M6道なりに南へ370m上る

つきあたりの丁字路を左折して、かぐら街道を南へ400m進む。
丁字路を左折して道なりに約860m下った所に雲泉寺がある。
曹洞宗 青龍山雲泉寺
彩りの里山七福神巡りの7番札所(弁財天)
https://maps.app.goo.gl/kKTLqUWJxkHsf8Zh6かぐら街道を南へ2.05km進む
カーブミラーがある十字路を左折

薬師堂
堂内中央に曹洞宗 長福寺の本尊だった木造薬師如来坐像(大永4年=1524年の作、作市指定文化財)が、
向かって左に木造如来立像、右に木造観世音菩薩立像?が安置されている。
『南無薬師瑠璃光如来』『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
https://maps.app.goo.gl/u1YkyW7MQQagVBq7Aq7Aかぐら街道を南へ100m下る
かぐら街道塩田焼瓦公園
塩田瓦窯跡の解説板
塩田瓦窯跡?
塩田焼工房
https://maps.app.goo.gl/YNg2bpZ8PUo2mvk76かぐら街道を南へ275m下り、十字路を左折して東へ50m進む
自然石地神
「地神」
https://maps.app.goo.gl/6mx9Qf2GcFeHWHhu5東へ90m進んで丁字路を右折

備北バス停留所(穴田)
東へ100m進み、つきあたりの丁字路を右折し、県道435号線を南へ60m下る

高梁市宇治町穴田と成羽町布寄の境
左折して参道を東へ進む(駐車場あり)
彩りの里山七福神巡りの6番札所(恵美須)

曹洞宗 如意輪寺
本尊は如意輪観世音菩薩。子安観音として信仰されている。
『おん ばだら はんどめい うん』
『南無釈迦牟尼仏』
https://maps.app.goo.gl/PFcLS22TV9iMbLuv7
地蔵菩薩立像
卵塔場と五輪塔群の横にある
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
県道435号線を南へ440m下る
つきあたりの丁字路を左折
かぐら街道布寄直売所
自動販売機あり
https://maps.app.goo.gl/NuWDtEQ4vEjP4MNt7
高梁市中央高原地域案内板

かぐら街道を東へ50m進み、丁字路を右折
県道435号線を南へ410m進む

県道435号線と436号線の交差点
https://maps.app.goo.gl/GysPzYsdxLtdaxam6本来は交差点から南へ130m、右折して西へ145m進み、
中郵便局前で左折し、南へ165m、右折して西へ140m、左折して南西へ950m進むと、
早川代官墓碑前に至る。
※2025年1月時点で道路工事により夫婦岩方面へ行く際は左折して迂回しなければならなくなっている
(工事期間R6年9月16日~R7年2月15日)
宇治町穴田のかぐら街道の丁字路から南西へ約900m進む
https://maps.app.goo.gl/fbj54C9y22VPqz3X9
中ふれあい広場
お盆には早川代官の遺徳を偲んで早川踊り大会が催される
https://maps.app.goo.gl/KbH8bmkpDPpBVUrJ9
牛馬供養碑(馬頭観世音菩薩坐像? + 牛?)
「昭和十?四年四月十二日 施主 ◯◯◯◯◯」
https://maps.app.goo.gl/ztCSdrnDCvv1UuGx8

那須忠雅翁像前の丁字路
丁字路から西へ250m進む
と県道435号と436号線の交差点
那須忠雅翁像(頌徳碑)
那須忠雅先生(1891-1970年)は城松山教蓮寺(浄土真宗本願寺派、高梁市成羽町小泉)の住職の二男として生まれ
手荘尋常高等小学校長、成羽国民学校長、中村の村長を務め、成羽町との合併を果たすなど、
教育・行政において多大な貢献をされた
https://maps.app.goo.gl/KRrooQDg8YwhdfYL8
昭和四十六年(1971年)四月に建立
お堂
堂内にあるのは柩を運ぶための輿
https://maps.app.goo.gl/a2TCchFx6vdEdgpc7
中央にコゴメ石の宝篋印塔形の墓の塔身部(正面に地蔵菩薩像を陽刻)、
周囲にコゴメ石の地蔵菩薩像4躰、向かって右端に地蔵菩薩立像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
県道436号線を南東へ300m進む
十字路を右折して西へ540m進んで右折し、参道を北へ45m進む
諏訪神社
https://maps.app.goo.gl/iMvvi8PyWbYosa3j9参道前から西へ60m進む
自然石地神
「地神」
https://maps.app.goo.gl/oxBm7WSoNLVY9j1y9
Y字路を左折して南西へ110m下り、左折して南へ45m下る
十字路を右折して西へ220m下る
https://maps.app.goo.gl/1Nk4fbGaxmnExpVn7
つきあたりの丁字路を左折
https://maps.app.goo.gl/QHVSE6HxRxMjVEga6
県道435号線を南西へ790m下る
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高梁市成羽町布寄(ふより)の木之村
高梁市成羽町布寄の県道435号線沿い(夫婦岩の東425mの所)
自然石地神
「地神」
木之村の辻堂(観音堂)
早川代官墓碑の向かいにある
「成羽町史 民俗編(p.224)」に「(整理番号)14 (地区名)木之村
(俗称)辻堂 (本尊他)女神像」と記されている
htthttps://maps.app.goo.gl/gjaxaaYCNzMrAYXx6
コゴメ石の双体道祖神像とコゴメ石の地蔵菩薩像群
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
本尊は木造聖観世音菩薩立像
『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』
棟札
「奉新建立観音當壹宇 諸願成就 天下泰平 *国土安穏 村内磐昌 五穀成就
時寶暦八寅天(1758年) 二月中旬十一◯日 願主 (以下未確認)」
荒神社
「昭和四十五年(1970年)一月十日上棟」と記された棟札、
「平成十二年(2000年)十二月九日
奉上荒神社勧請」と記された棟札がある
「五社宮一同 献再建立 天保九(1838年)戊戌菊月大吉良日
世話人
仲嶋◯◯◯ 大福◯◯◯」と記された板もある
早川代官御歌碑
「昭和五十四年十一月吉日 墓石移転記念之建 近郷中」
早川代官墓碑
元は川上郡中村(なかそん)大字 長地(おさじ)の字
早川にあった。
昭和54年(1979年)に当地へ移転。




「寶岸院殿到譽離染居士」
「文化五辰年十一月十日 久世先君 早川八郎左衛門源正*純(ママ)公墓」
「多(た)の毛(も)し哉(や) 毛(も)つの道をま毛(も)累(る)てふ
ひとつこゝろの 民のま古(こ)登(と)者(は)
発願主 穴田郷 三村文水 世話人 木野村中 本願主 隣郷中」
詳細は「拓本集覧
倉敷と周辺の碑(井上雄風 著、p.93)」を参照
たのもしや もつの道をまもるてふ ひとつこゝろの 民のまことは
もつの道:早川代官が唱えていた六本の戒のこと。
一、酒食をすごすは病を生ずる本なり
二、言を敬まざるは災の本なり
三、思案せざるはあやまちの本なり
四、私慾深きは身をころす本なり
五、倹約ならざるは困窮の本なり
六、怒をこらえざるは爭の本なり
てふ:~という





「民俗資料 久世代官早川八郎左衛門(明治45年、編集兼発行 花土文太郎、p.83)」
に
「川上郡十二箇村は當時代官野村彦右衛門の管する所なり。
八郎左衛門の久世に來任するに及び、代てこれを管す。之より先、天明三年(1783年)秋霖(ながあめ)相次ぎ
百穀登らず。農民亦積年の困弊(こんぺい)を享(う)けて倉廩(そうりん)餘資なし。
止む得ず稻株草根古蓆(ふるむしろ)等を食して
僅に露命を支うと雖も*餓莩(がひょう)*途に載(すなわ)ち慘狀見るに堪ゆべからず。
而かも代官彦右衛門專恣横暴にして良民を苦しめ些少の納租すら怠るものあらば、
忽(たちま)ち捕へて重刑に處す。百姓塗炭に苦み、怨聲四方に起る。八郎左衛門の來るや、直に郡内を巡檢し、
農桑殖産に意を注ぎ、養蠶(養蚕)を奬勵し勤儉貯蓄を勸め、風俗を改良し、
專ら久世條*敎(教)及(および)呂氏鄕約の實行を期し、孜々(しし)として改善に努めしより、
農民何れも嬉々として業を勵み、彼を慕うこと恰(あたか)も赤子の慈母に於けるが如し。
後年彼が江戸にて死亡するの報を聞くや、領民皆業を廢してこれを吊す◯
のみならず穴田の鄕(宇治村大字穴田)三村文永(ママ)發起となり碑を郡内中村(なかそん)大字長池(ママ)
字
早川の上に建て、領民遙拜の誠を表せり。碑の正面に「寶岸院殿到譽離染居士」の十字を刻し
左側に「文化五辰年十一月十日久世先君早川八郎左衛門源早紀公墓」を
右側に「たのもしやもつの道をまもりてしひとつ心の民のまことは」の字を記せり。
所謂もつの道とは六本の戒を指せしものなるべし。
又近年に至るまで同村字 木野沖島某の庭前に於いて、毎年七月十八日を期し早川踊を執行し、
領民相會して彼の冥福を祈れりといふ。」とある
倉廩(そうりん):米穀をたくわえるところ
*餓莩(がひょう):餓死した人。餓死の状態。
專恣(せんし):ほしいままにすること
怨声(えんせい):うらみの気持ちを込めた声
塗炭(とたん):泥にまみれ火に焼かれるような極めて苦痛な境遇
郷約(きょうやく):中国の郷村社会で道徳の実践と相互扶助をはかるために設けた規約。後世その団体をも郷約という。
川上郡中村(なかそん):明治22年(1889年)に川上郡布寄村、長地村、相坂村、羽根村、小泉村が合併して発足。
昭和30年(1955年)に川上郡成羽町と合併して廃止となる。
天明3年には岩木山と浅間山が噴火
久世条教(寛政11年=1799年、早川正紀
作)、呂氏鄕約(りょしきょうやく)については、上記の民俗資料の附録を参照
備中川上郡における早川代官の政績については同書pp.81-85を参照
前任者で第26代笠岡代官でもある野村彦右衛門は明和の種麦事件でも厳しい裁きを出している。
「笠岡市史
第二巻(pp.225-228)」を参照
早川代官は出羽國尾花澤(山形県尾花沢市)の代官(1781-1788年)を務めた後、
第20代美作國久世代官となり、第30代備中國笠岡代官(1788-1801年)も兼任。
寛政9年(1797年)6月、幕府は金帛(金3枚、時服2領)を早川代官に賜い、2万石分の隷村を加えた。
武蔵國久喜へ移る際には、管内民(美作國大庭郡41個村、西西條郡21個村、
備中國阿賀郡13個村、川上郡10個村、哲多郡10個村、計135個村)による留任運動が起きた。
笠岡でも吉濱、大下(大冝)、上稲木、下稲木村、岩倉、西濱、木之目、生江浜、用之江、押撫の10ヶ村の村役人の連名で
福山藩に対して早川代官留任のとりなしの願い書を出している。
「笠岡市史 第二巻(pp.232-236)」を参照
川上郡十二箇村は天明8年(1788年)6日5日より早川正紀の隷村となる。
「合同年鑑
附録(昭和14-15年、合同出版社 編、p.107)」を参照
https://maps.app.goo.gl/tAYTP1EZ59U2KwBp9
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◆明和の種麦事件
天候不順により凶作となった明和7年(1770年)の9月8日夜、天満神社
(威徳寺の横にある「西の天神さん」)の奥で百姓衆が庄屋に種麦の
貸出を願う相談をした。11日に仁王堂町へ集合した百姓衆は代官所の役人に
捕らえられた。明和9年6月、主謀者2名(百姓久兵衛、水呑百姓義兵衛)が死罪となる。
明和7月夏は九州から東北まで全国的に大旱魃となり、各地で年貢減免を求めて一揆がおこった。

天満神社(笠岡市笠岡5531)
https://goo.gl/maps/CTmRq8nGwGK2

明和義民の碑
「久兵衛義兵衛両義民百五十年記念 一代義心兩間正氣 犬養毅 書」
「大正七年(1918年)建 發起者
小川益男 小川富太郎」
*高龗(たかおう)神社(笠岡市笠岡2284)の石鳥居の向かって左前にある
「おや こんなところにこんなものが(pp.83-84)」を参照
https://goo.gl/maps/Yo6Z8nmg5bp

徳民於賀神社(笠岡市富岡863)の南東125mの所にある観音堂
https://goo.gl/maps/bZtNxHx5kTD2
観音堂の横にある義民地蔵
「願主 地福寺(地福寺) 榮嚴」「俗名 仁王堂町 久兵衛 明和九壬辰天(1772年)」
「六月十三日 川部屋町 俗名 義兵衛」「旭山照空 理諦信士」
水鉢「施主 新屋」
水鉢・花立て「奉納 二百年法要記念」「昭和四十七年(1972年) 八月三十一日」
主謀者として斬首に処された久兵衛さんと水呑百姓義兵衛さんを供養するため建立された----------------------------------------------------------------------------------
県道435号線を南西へ70m下る

丁字路を左折して、県道435号線を南へ30m下る
牛馬供養碑(三面馬頭観世音菩薩坐像 + 牛?)
「◯◯ ◯◯」
「昭和廿◯ 四◯◯◯ 施主 杉◯◯◯」
https://maps.app.goo.gl/A2jfWdYh5bx92UXk8
丁字路に戻り、左折して南西へ100m、Y字路から西へ100m下る
夫婦岩の館があるY字路から北西へ95m上る
國司神社
祭神は大国主命
https://goo.gl/maps/nCAXdrkQCAT2
2024年3月に高梁市の天然記念物に指定
夫岩(手前)と妻岩(奥)
東展望台から
阿部山橋の向かって右には浄福寺
成羽川の河川敷には彼岸花が咲き誇る
夫婦岩
南展望台から
伝説によると子供の姿が刻まれているらしい
https://goo.gl/maps/K3STjUoPQ5Q2
北展望台から
夫婦岩から県道435号線(長屋坂)を南東へ道なりに3.5km下る
成羽町と備中町との境から100m程下った所から黒鳥地区を俯瞰
布賀駐在所や旧布賀代官所跡が見える
長屋坂を下る途中にビューポイントはここぐらいしかない
https://maps.app.goo.gl/kK1r8ME5ydupC2om9
Y字路を右折して西北西へ425m下る
https://maps.app.goo.gl/iYnWMMfd3H9c4DaFA
高梁市備中町長屋の向長屋地区
向長屋地区の長屋橋北詰
右折して北へ90m上ると天津神社に至る
トロッコ道跡
5万分の一地形図 高梁(明治29年測図の縮図及同31年測図同43年修正測図昭和7年要部修正測図及修正縮図)には
「人車軌道」と記されている。
幅5尺の専用道(トロッコ道)は吉岡銅山の田原停車場から成羽川北岸を東へ約16km進み、成羽停車場に至る。
明治40年から大正8年(1907-1919年)にかけて整備された。
開通当初は鉱山関係の輸送専用だったものが、後に一般輸送や旅客も許可され、
人力で押していたトロッコも、馬引きとなるなど、交通の大動脈となった。
停車場は原田、長砂、阿部山(浄福寺付近)、詣足、中之小屋、長屋、志藤、用瀬、吉木、新山、成羽。
しかし、昭和6年(1931年)の吉岡銅山の休山、昭和10年の芸備線全通などの影響で衰退し、廃線となった。
日本遺産
「ジャパンレッド」発祥の地 -弁柄と銅の町・備中吹屋- の構成文化財のひとつ。
現在は中国自然歩道「成羽川の渓谷と巨大ダムを眺めるみち」となっている。
道幅が狭いので車の通行はできない。
長屋橋から成羽沿いに西へ1.12km直進すると黒鳥ダムに至る。
https://maps.app.goo.gl/SvKf8GgkMgWu5v47A

長屋橋
木造の初代長屋橋は昭和25年(1950年)に竣工。
「高梁川
No.40(高梁川流域連盟、p.54)」に木造橋だった総門橋の廃材を無償で払い下げてもらい、
長屋橋を建設していたが、昭和20年の洪水によって廃材の大部分を失った話が記されている。
橋を南へ渡り、右折して県道33号線に下る

高梁市備中町長屋の市場地区
成羽川沿いの県道33号線を西へ1.17km進むと黒鳥ダムが、
向かって左の旧道を進むと黒鳥橋、旧布賀代官所跡がある
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高梁市備中町長屋の黒鳥(くろどり)地区
黒鳥の大師堂
黒鳥橋西詰の丁字路を左折し、南へ90m上った黒鳥集会所の横にある。
大師堂の上には稲荷神社、住吉神社、荒神社が鎮座する。
「民俗資料選集39(pp.244-248、平成21年、文化庁文化財部編)」を参照
https://maps.app.goo.gl/tSJRM62TPYDVpvEw8
旧鶴見眼科醫院
鶴見鎌三郞氏が明治43年(1910年)12月に開業。建物は大正6年(1917年)に建立。

旧布賀代官所長屋門
旧布賀代官所跡
嘉永元年(1848年)に布賀の郷地区にあった
代官所を当地へ移転
https://maps.app.goo.gl/DWMbzahFtCDxZprh6
石燈籠a(向かって右)
「献燈」「天保七(1836年)丙申三月吉日」「願主 ◯◯」
石燈籠b(同左)
「献燈」「天保七丙申三月吉日」「願主 ◯◯」
手水鉢
石鳥居
「鎮守*五社(五社)大前」「大正四年(1915年)九月奉額」
神明宮 一品吉備津宮 正一位稲荷大明神
https://maps.app.goo.gl/qSYniAkVbCQ8QfNcA
旧布賀代官所跡前から西へ125m進み、県道33号線を西へ460m進む
黒鳥ダム
昭和43年(1968年)に竣工
https://maps.app.goo.gl/rAxVWgQEVY6YMrHb7
黒鳥発電所(出力2,200kW)
県道33号線を西へ180m進む

小田武雄頌徳碑
備中町初代町長小田武雄氏(1908-1989年)の頌徳碑。
町内の道路網整備に尽力。新成羽川ダム、新岡山発変電所の建設に際しては
企業と関係住民の調整に努め、事業を完成に導いた。
石碑は平成6年(1994年)12月に建立。
https://maps.app.goo.gl/hAxUeGYokDnHyKWB7県道33号線を北西へ1.5km進む
阿部山橋の東の成羽川河川敷はヒガンバナの群生地
阿部山橋
市道阿部山線。橋長75.9m。1974年に竣工。
https://maps.app.goo.gl/5LWA9mFG6V2UXMHU8橋を北へ渡って右折し、阿部山橋の北詰から東へ100m進む
----------------------------------------------------------------------------------
高梁市成羽町布寄の阿部山地区
丁字路を左折して参道を北へ100m上る

清瀧山浄福寺(浄土真宗本願寺派)
本尊は阿弥陀如来
『南無阿弥陀仏』
https://maps.app.goo.gl/VXrQLdopEpHaJmkY6
参道を下って右折し、阿部山橋に戻る
トロッコ道跡
阿部山橋から東を望む
阿部山橋から西を望む
阿部山橋南詰を右折して、県道33号線を西へ410m進む
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高梁市備中町布賀の下長谷地区
長谷橋(ながたにばし)
昭和60年(1985年)10月竣功。長谷川と成羽川の合流点。
備中バス停留所(川戸)がある。
大正7年(1918年)に備北自動車株式会社が高梁→成羽→川戸の間のバス路線の運行を開始。
https://maps.app.goo.gl/Wcb5KDn3rUTGnzc49
田原ダムの排水口
田原発電所から約1.38km
https://maps.app.goo.gl/41dU2H4WUiCKTe8a9
排水口側から長谷橋を望む
県道を西へ400m進む
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高梁市備中町平川の井川(いかわ)地区
沈下橋
https://maps.app.goo.gl/qzm87meZUnimeqft9

県道33号線を北西へ700m進む
山陽中央水電株式会社成羽川発電所跡
発電所建物は鉄骨鉄筋凝土造り3階建て。
半月状の窓枠を採用するなどモダンな造りになっている。
壁の色は元は黒色ではなかった。
岡山縣川上郡平川村(現 岡山県高梁市備中町平川)字 道ノ間112ノ1にあった。
大正14年(1925年)11月に起工し、昭和3年(1928年)12月29日に竣工。
総容量15,000kVA(芝浦製作所製5,000kVA*3基)。
取入口は
成羽川と帝釈川の合流点付近(廣島縣神石郡大字竹川内谷)。
広島県神石郡神石高原町の国道182号線と岡山県道107号奈良備中線の交差点の南南東約160m。
落差110.3m(標高232m→122m)。隧道の長さは7,329.74間(13.3268km)
「
全国大発電所一覧 訂(オーム社 編、昭和4年)」、
「
日本の発電所
中部日本篇(日本動力協会 編、昭和12年)」を参照(写真あり)
現在はグリーンエキスプレスの施設として使用されている
https://maps.app.goo.gl/s3owoTtcjFd7kk3Y6県道33号線を北西へ90m進み、Y字路を左折
旧井川発電所の水槽の石垣
石垣の上にあるのは民家

井川発電所跡
明治36年(1903年)10月、三菱合資会社によって川上郡平川村字 金平1726番地に
県内初の水力発電所である成羽川發電所(後の笠神発電所)が建設される。
自家用発電所として吉岡銅山の坑道内電車やイラクライン(傾斜鉄道)や施設内照明等に電力を供給。
第一水力発電所とも呼ばれた。昭和6年(1931年)に三菱が吉岡銅山の経営から撤退。
昭和9年に井川発電所と共に山陽中央水電株式会社に買収され、山陽中央水電株式会社笠神発電所となる。
「
発電所電気事業要覧 明治41年(逓信省通信局
発行、明治42年、p.122)」、
「
官報
1924年12月16日(大蔵省印刷局 編、大正13年、p.444)」
「
官報 1934年01月30日(大蔵省印刷局 編、昭和9年、pp.726-727)」を参照
井川発電所は三菱が大正6年(1917年)、川上郡平川村字 大スヘリ下モ710番ノ3に自家用発電所として設置。
第二水力発電所とも呼ばれた。出力560kW。
日本遺産
「ジャパンレッド」発祥の地 -弁柄と銅の町・備中吹屋- の構成文化財のひとつ
https://maps.app.goo.gl/z8YHtLhiwmf7EvKF6KF6

県道33号線に戻り、東へ350m進む
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高梁市備中町平川の二又瀬(ふたまたせ)地区
備中トンネル南口の手前にある十字路を左折
西へ30m進む
お堂(観音堂?)
https://maps.app.goo.gl/kpContBoAEjyHbcV9
観世音菩薩立像(向かって右)
「明治三十一年(1898年) 丹上◯◯」
『南無大慈大悲観世音菩薩』
弘法大師坐像
「明治廿六年(1893年)三月廿一日」「施主 物部◯◯」
『南無大師遍照金剛』
十字路に戻る
旧道(成羽新見往来、成羽東城往来、現 中国自然歩道)
https://maps.app.goo.gl/NK9MTWyZLAjGyKg37旧道を直進するか、備中トンネル北口を出てすぐの所にあるY字路を右折し、旧道を南へ100m進む

備中トンネル(南口)
昭和49年(1974年)3月に開通。延長286m。
トンネルの開通により旧道を通るよりも約420m短縮された。
https://maps.app.goo.gl/UkzxbC6qfoUxn9jw7
十字路から旧道を東へ60m進む
自然石地神
「*地神(地神)」
小社a
祭神未確認
小社b
祭神未確認
https://maps.app.goo.gl/uDBB3d5LdeKz2UES6旧道を東へ350m進む

左手に開鑿された荒々しい岩肌が続く

右手の成羽川を俯瞰する
対岸のトロッコ道に迫る岩肌に、開削工事中の事故で犠牲となった人を供養するため
「南無妙法蓮華経
日蓮大士」と刻まれている
旧道を北へ225m進む
全通橋(市指定史跡)
南詰向かって右の高欄の親柱「全通橋」「大正八年(1919年)一月」
同左「ぜんつう◯◯」「成羽町江◯◯」
北詰向かって右の高欄の親柱「全通橋」「大正八年(1919年)一月」
同左「ぜんつう◯◯」「新見町江六里」
旧全通橋(木橋)は難工事の末、明治32年(1899年)6月に竣工。
橋の竣工により成羽東城間の道路が漸く全通した事から、
発起人で東油野・坂本村の戸長や県会議員を務めた平松爲三郎氏によって命名された。
現在の全通橋(RC橋)は大正7年8月に竣工。橋長17.7m。現存する県内最古のRC橋といわれる。
布晒の紅葉(成羽町下原白谷)、夜山(成羽町・落合町福地)、鷹山公園(日里村中山)、
高巖(手荘村)、鶴首城跡(成羽町)、佐々木四郎高綱墓(成羽町)、早川代官墓碑(中之村)、
山中鹿助墓(落合町)と並んで川上郡の名勝の一つに数えられていた。
「
岡山県年鑑 昭和11年(中国民報社 編、昭和10年、p.74)」を参照
橋の全景は成羽川を挟んだトロッコ道跡から見ないと分からない
https://maps.app.goo.gl/31texYboCi5o597B8

高欄が低いので座り込んで橋下を覗く
成羽川の水面の標高は115m、橋の上が約140m
全通橋北詰
北へ100m進む

中国自然歩道の案内場と全通橋の解説板
全通橋と解説板が離れ過ぎている
備中トンネル(北口)
備中トンネル北口から県道33号線を北西へ300m、北へ450m進む
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高梁市備中町平川の惣田地区

バス停(惣田)前の県道437号線との交差点
交差点の南
石段は平成3年(1991年)11月吉日に寄進
石鳥居
「惣田神社」
「奉」「平成三年十一月吉日」
「献」「惣氏子中建之」
注連柱
「御記念 發起者 (3人の芳名)」「昭和三*年(1928年)」
「御大典 惣氏子中」「十一月」
手水鉢
惣田神社
高瀬舟で栄えた惣田。
多くの船頭が暮らしていたが、大正6年の井川発電所建設による成羽川の水位の低下、
大正7年の全通橋の竣工、大正8年の坂本・成羽間のトロッコ道の開通などにより、廃業に追い込まれた。
そして大正8年の田原橋の竣工に伴い、渡し舟も無くなった。
今は社殿内に奉納された絵や、田原橋の高欄の親柱の上に往時の高瀬舟の姿を見るのみである。
https://maps.app.goo.gl/gziSg2BjLHdwcRuh9
瓦質の小祠
祭神未確認
県道33号線に戻り、北へ進む
田原橋(3代目)
昭和57年(1982年)12月竣工。坂本川と成羽川の合流点にある。
田原橋については成羽の万福寺の住職 翁正順氏が「高梁川 第40号(昭和58年、高梁川流域連盟、pp.58-66)」に
笠神の文字岩、高瀬舟、全通橋等も含めて詳述されている。
https://maps.app.goo.gl/BkbvaieBmJXjpVRP7
田原橋の高欄の親柱の上にある石造の高瀬舟
田原橋北詰から南南西(惣田地区)を望む
南南東(坂本川と成羽川の合流点)を望む
西(田原ダム)を望む

-
2代目の田原橋跡
初代の田原橋(土橋)は大正8年(1919年)6月25日に竣工。
2代目の田原橋(RC橋)は昭和8年(1933年)6月に竣工。
橋が架かる以前は惣田と田原の間を渡し舟で渡っていた。
大正6年(1917年)に井川発電所が設置され、
隧道を使って発電所へ水を引き込んだため、成羽川を流れる水量が減り、高瀬舟の運行は困難となっていた。
初代の田原橋については「
川上郡史(pp.694-696、昭和2年)」を参照
成羽川東岸のトロッコ道跡から田原橋を望む
橋を渡ってすぐの交差点を左折し、岡山県道107号奈良備中線を西へ120m進む
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高梁市備中町東由野の田原下地区

2代目田原橋東詰
標高130m
https://maps.app.goo.gl/vCURzHEQDBR4nnWk6Wk6
2代目田原橋西詰を望む
2代目田原橋東詰から田原橋を望む
県道107号線を西へ490m上る
田原ダム
昭和43年(1968年)11月に竣工
https://maps.app.goo.gl/dhrc1BhK9UqfxDZR6
堤体
田原発電所(出力22,000kW)
県道107号線を北西へ2.4km上る
白糸の滝
https://maps.app.goo.gl/6gmwSz7tAUZ67Y9B8
県道107号線を西へ105m上る
笠神の文字岩と早川代官歌石(原寸大レプリカ)
笠神の龍頭の瀬を中心に、上下十ヶ所を開削し船を通した船路開削工事の記念碑。
新成羽川ダムの堤体の東410mの所にある。
実物の笠神の文字岩(国指定史跡)はここから南下の湖底に沈んでいる。
高梁市教育委員会や文化遺産オンラインのWebページに実物の画像あり。
昭和56年(1981年)には浩宮徳仁親王殿下が当地を訪れ、見学されたという
先述の翁正順氏の寄稿の中に、今ある原寸大レプリカとは異なる文字石と歌石の模造碑の写真がある。
https://maps.app.goo.gl/GgoY3Gr42NEuEoiu8
笠神の文字岩の解説板
昭和16年(1941年)2月21日に国指定史跡となる
「成羽町史 民俗編(pp.202-203)」、「美星町史 通説編(pp.107-108)」を参照
現地で肉眼で文字を判読するのは困難
碑文解説板
「笠神船路造通事 .
徳治二年(1307年)丁末七月廿日始之八月一日平之畢其時□□
右笠神龍頭上下瀬十余ヶ所者為日[域]川無雙難所之間
薩埵慈悲大士[温]懐不可不奉不可不[行]依之
相勧諸方十余ヶ月平之功已*畢(※1)
當国(備中國)成羽善養寺(ふようじ)
大勧進 沙門尊海
南都西大寺實行
奉行代 沙門實専
根本発起 四郎兵衛[沙弥]
石切大工 伊 行経
主[帳]藤原□□」
と解説板に記されている
※()中は追記
※1:「畢」の異字(「増訂 近世 古文書解読字典(1976年、柏書房、p.316)」を参照)
南都(=奈良)西大寺は真言律宗の総本山勝宝山西大寺(奈良県奈良市西大寺芝町1丁目1-5)のこと
「古戰塲
備中府志(元文二年=1737年刊)」の紫の城 平川村の頁に
「元暦年中(1184-1185年)散位藤原資親備中の官廳として當郷(※穴門郷)を領春(す)
旧記爾(に)今有
元弘(1331-1334年)の頃は日野中納言資朝(すけとも)本主二(に)天(て) 代官爾(に)八(は)田口又四郎在役春(す)
日野山田口山とて事跡有 徳治二年(1307年)日野家与(よ)り石碑を建らる *世爾(に)文字岩と称して感賞春(す)
享保年中(1716-1736年)迄凡四百余年爾(に)及ひ須(す)れとも篆字正志(し)久(く)傳八(は)れり」とある
散位(さんい/おんい):律令制で、位階だけあって官職についていない者。
蔭位により官位があって、役職のない者、または職を辞した者などの称。
日野資朝(1290-1332年):公卿。茶人としても知られる。倒幕を疑われて佐渡に流され、元弘の乱(1331年)の後、処刑された。
日野山は新成羽川ダムの南南西約5km、高梁市平川にある山(標高668.8m)。
清河内:平川村清河内
笠神という地名については、嘉永七(1854年)甲寅二月発行の「*僃中國巡覽大繪圖(備中国巡覧大絵図)」に
「紫城趾」「笠神ノ瀬」「*淸河内(清河内) *德治(徳治)二年*𠩄(所)建ノ碑アリ」と記されている。
「
吉備郡史 巻中(岡山県吉備郡教育會、昭和12年、pp.1445-1447)」に「*德治二年丁末七月廿日笠神四十八ヶ瀨(文字石)
所在
川上郡平川村笠神 文字石及歌石、 平川村成羽川上流、成羽東條、街道の對岸 字笠神、山陽水電發電所の上流十町許
同第二の樋の口の北方河中に在り、上中下大小三個の巨巖あり 上の巖上に笠神*高龗(たかおかみ)神社の証紙あり、
中下二巖は其の下流、近く隣接して殆ど一所に在り、中巖、即、文字石にして下巖は歌石なり。
文字石は長徑二十七尺、短徑十五尺
亥(北北西方)に面してその中央部竪穴六尺 横八尺許の平面を作り
之に十行の大字を刻す。所謂磨崖又磨巖の碑と云ふべきものなるが惜矣哉、年所を經ること久しきが爲に
碑面著しく破壊せられ、字形著しく磨滅して讀み難く到底その意味を解すること能わざれるに至れり。
唯、第一行 笠神船………… 第二行
*德治二年丁末七月廿日…… 第三行 笠神龍頭上下瀨十余ヶ所……
第四行 薩陲慈悲大…… 第五行 ……方千人…… 第六行
大勸進………… 第七行 奉…………… 第八行 發起……………
第九行 大公……行…… 第十行 午…………… 等の文字を辛うじて讀むことを得べし、
但し何れも拳を容るゝに足るべき大文字なり。
實に「*德治二年丁末七月廿日」とあれば後二條天皇の御宇、皇紀一九六七、に相當する古碑として
又磨崖の碑として珍重すべきものなるに 磨滅の著しく 文字殆ど讀むに堪えざるは遺憾の極みなりとす。
因に第九行に「大公……行」とあるは上房郡上有漢村保月山の六角柱に「大工井野行恒」の其れにはあらざるか果たして
然らば井野行恒は此二所に傑作を殘せるものと云ふべし。
附録 寛政九年皇紀二四五七、四月 名代官早川八郎左衛門源正紀 年五十九歳
笠神ノ*高龗(たかおかみ)神社ニ詣リ
文字石ノ傍ナル大石ニ和歌一首ヲ題セリ 此巨巖亦河中ニ在リ 長徑三十尺 短徑二十尺 高十五尺 西北ニ面スル
中央部ニ左右幅八尺天地竪穴六尺許ノ平斜面アリ 卽チ短歌ノ部面ナリ、刻シテ曰ク
寛政九年卯月末つかた。來りて笠神なる石ふみ見けるにかゝる川中に幾百年經にけむ日に晒水にうたれ
文字の跡もわかれさりけれは 源正紀
たき河に幾百とせをへにけらし*德治の文字の殘る石ふみ
堂々タル大文字 實ニ河中ノ偉觀タリ、
頃日學者專門家ノ間ニ八釜シキ磨崖文字而モ相距ル四百九十年一雙ノ磨巖文字ヲ同時ニ同處ニ觀得ルコト、
念々仁政*德治、理世安民ニ腐心セル早川正紀ノ至誠熱烈ナル*精神(精神)信念ヲ偲ヒ得ルコト
特ニ注意ニ値スルモノ也。(早川代官)」とある(※同頁に文字石と歌石の拓本あり)。
※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社
*高龗神(たかおかみのかみ):水や雨を司るとされる龍神
「保月山の六角柱」は臍帯寺石幢及び石塔婆(国指定重要文化財)のこと
井野行恒=伊 行経
山陽水電發電所は笠神発電所(明治36年竣工)のことか?
「
官報 1943年01月30日(昭和9年)」に「岡山縣川上郡平川村字金平千七百二十六番
山陽中央水電株式*會社(会社)*笠神(笠神)發電所」とある
笠神発電所の遺構は現在、文字岩と同じく田原ダムの底に沈んでいるため、渇水時に一部が見えるのみ。
渇水時に撮影された国土地理院の空中写真(1975年4月7日)で確認できる。


画像処理をしても、なんとか判読できるのは「治二*年」「龍頭上下瀬十余」「大士」のみ。
1行目は「笠」の文字以外、下に文字の痕跡の一部さえない。
早川代官歌石
名代官として知られる早川八郎左衛門正紀(まさとし 1739-1808年)さんの歌碑。
出羽國尾花沢、美作國久世・備中國笠岡・倉敷、武蔵国
久喜の代官を務めた。
寛政9年(1797年)に巡見のため当地を訪れた際に詠んだ歌。
「寛政九年卯月末かたに廿四日
来りて笠神なる石ふ三ゝつ
けるに かゝる川中に幾百とせを
経にけむ日に晒水にうたれて
文字の跡もわかれさりけれは
源 正紀」
と現地の解説板には記されている
実際に視認できるのは
「寛政九年卯月末(ま)つ◯◯◯◯
来りて笠神奈(な)る石ふ三(み)◯◯
个(け)るに 加(か)ゝ流(る)川中二(に)幾百◯◯◯
経爾(に)个(け)む日に晒 水爾(に)う多(た)れ
文字能(の)跡もわ可(か)れさり个(け)連(れ)八(は)
源 正紀」
「多(た)き河爾(に) 幾百登(と)勢(せ)可(か) 遍(へ)に个(け)らし
*德治の 文字能(の) 残る石ふ三(み)」
滝河に
幾百歳か 経にけらし 徳治の文字の 残る石文

早川代官の思徳之碑
文政7年(1824年)、小寺清先の撰文。敬業館の跡(笠岡市指定史蹟)にある。
https://goo.gl/maps/94KzFyBXU7U2
享和元年(
1801年)に武蔵国久喜へ移り、代官を務めた後、文化5年(1808年)冬に江戸で病歿。
常在山霊山寺(浄土宗)に葬られた。
早川代官遺愛碑
真庭市台金屋、金屋農村公園の東にある。真庭市指定文化財(昭和38年5月1日指定)。
篆題「*遺𢜤碑(遺愛碑)」
「故久世令早川君 諱正紀 字子綱 江戸人 其先出自甲斐武田氏
君爲人(ひととなり)敏而好學 寛而愛衆 謙恭自持 施人不吝(おしまず)
莅政之初聞
邦俗生子多不育 下令禁之 除其陋習 尋興鄕學 親論倫理 勤勉農耕 民大化
公朝善之 特賜金帛 又加其隷邑
享和辛酉(享和元年=1801年)遷任于關東
上途之日郡民踰境而送之者雲集矣
關東任數年罹病 卒于江戸私邸 實文化戊辰(文化5年=1808年)冬十一月十日也 得年七十
訃至于久世
吏民哀悼 莫不流涕者 乃相與謀建碑 以歳時享祀焉
令好直銘之 好直受知遇之久 義不可辭也 乃銘曰
嗟(ああ)公之政 本諸其躬 庠序設爲 *溝瀆(溝涜)開通
革舊染俗 反仁厚飌(風) 視民如子 民亦父公
嗟公之化 可慕可隆 *遺𢜤(遺愛)所存 神兮来降
文化七年(1810年)歳次庚午秋八月
西播 菊池好直 撰
江戸
高島 *靑(青) 書」
莅政(りせい):政治をとり行う
邦俗(ほうぞく):国の風俗
陋習(ろうしゅう):いなかびて下品な風習
庠序(しょうじょ):学校
吏民(りみん):官吏と民衆。官民。
溝涜(こうとく):みぞ。どぶ。人家のないさびしい所のたとえ。
相与(そうよ):互いに
菊池好直(正因 まさより):播磨龍野の儒医。
寛政9年(1797年)に久世代官早川正紀の招聘に応じ、久世の郷校典学館の第2代都講(館長)となる。
墓は真庭市久世の正法山興善寺にある。
https://maps.app.goo.gl/Fk6rXejaUTMBaKUp6
笠神文字岩展望公園
平成3年(1991年)水力発電施設周辺地域交付金事業として整備された公園
展望台
本来は南方の湖底に沈む笠神の文字岩周辺を俯瞰するための展望台と思われるが
周囲が木に覆われているため展望なし。その存在意義を失っている。
落石予防網
翁正順氏の寄稿の中に「笠神の文字岩の北岸は「犬ガエリ」とよび、けわしい岩盤がそそり立ち、
この岩を砕いて道をつけることができなかった。そこで、かずらをたらしてそれにつかまり、
あちこちの岩場をつたって越したという。」という一文がある。
県道107号線を西へ550m進んで新成羽川ダムへ
新成羽川ダム
昭和43年(1968年)の竣工
水不足に悩まされていた笠岡市、旧鴨方町、旧寄島町、里庄町の一市三町は
水源を新成羽川ダムの放水に求め、昭和43年3月に岡山県西南水道企業団を発足。
昭和47年に新庄浄水場(浅口郡里庄町新庄2)が竣工。
平成2年(1990年)に鴨方浄水場(浅口市鴨方町小坂西2882)が竣工。
上記市町村は安定した水源を得るに至った。
取水は高梁川西岸、霞橋の北約940mの所にある船穂揚水機場(倉敷市船穂町船穂745-5)から。
船穂揚水機場から笠岡市と里庄町の境にある新庄浄水場まで直線距離で16.4km。

共用導水事業船穂揚水機場
中国四国農政局笠岡湾干拓建設事業・岡山県笠岡工業用水道事業
・岡山県西南水道企業団用水供給事業・岡山県寄島農業用水事業
昭和47年(1972年)3月竣工
給水能力は1日あたり250,000立方メートル
https://goo.gl/maps/Fgo13qpY9C1PUNMj9
新庄浄水場
https://maps.app.goo.gl/GZVjK8e4doPkNxtp8
堤体横から南南西(日野山がある方角)を望む
向かって右上の山に紫城跡がある
堤体を南へ渡り切り、さらに南へ380m進んだ所に
新成羽川ダム・田原ダム・黒鳥ダムの水没記念碑、
中国自然歩道の案内板、笠神の文字岩の解説板等がある
新成羽川発電所(出力303,000kW)は向かって左下にある
新成羽川ダムの堤体上から湖底に沈む笠神の文字岩周辺を俯瞰
岩は北岸(向かって左)に近い所に沈んでいる
htthttps://maps.app.goo.gl/FtVgb6hnjN8mWmuj8長屋橋長屋橋の南詰まで戻り、県道33号線を南東へ1.04km、東へ160m、北東へ245m進む
----------------------------------------------------------------------------------
志藤橋
昭和49年(1974年)10月竣工
https://maps.app.goo.gl/XwPRC9czDAd31H2h7
用瀬之岳を望む
志藤橋の北詰の十字路を右折
畜牛供養碑(三面馬頭観世音菩薩坐像)
「爲 畜牛 安全 大正十四年二月 畜主 ◯◯◯◯」
https://maps.app.goo.gl/BsWPbZzubFbNzkR3A
北北東へ160m進む
川中神社
旧社格は村社
https://maps.app.goo.gl/wA8MNVT6iGb2nXop6
手水鉢
「大正十五年一月吉日建之」
北東へ200m進む
Y字路
https://maps.app.goo.gl/tFYxRVWNDp3DWyEK8

トロッコ道
トロッコ道を北東へ120m進む
Y字路
向かって左は(株)カルファイン採鉱事務所に至る鉱山道路(立入禁止)
https://maps.app.goo.gl/vA7sCPoHwpTcPPbdAトロッコ道を川沿いに125m進む
雨のあとは落石が多いので要注意
用瀬線
平成6~7年にかけて農林水産省の中間地域総合整備事業として
延長738mの区間に柵が取り付けられている。
ここから先は車では通れない
https://maps.app.goo.gl/ma6MFP8E5fe6gYFH9
落石によっていたる所で柵がねじ曲がっている
(株)カルファインの鉱石(石灰岩)運搬専用橋
ここから先は立ち入り禁止(鉱山の発破作業の振動による落石の可能性があるため)
毎年4月に開催される備中高梁歴史街道ウルトラマラニックの時は通行可能
橋の下を通過して南東へ420m進むと用瀬嶽ミニキャンプ場、用瀬小屋、用瀬嶽フリークライミング広場がある
https://maps.app.goo.gl/j9Q1wP2DNFhYnLAP6
用瀬小屋側から行ける所まで行って引き返す
(株)カルファイン山宝工場
柵が無くなる程の落石があった所
小祠
祭神未確認
https://maps.app.goo.gl/b2YfTGRHFeW8iEAr7南東へ20m進む
用瀬小屋
https://maps.app.goo.gl/nso5orxVEnHLfb4w6向かって右にミニオートキャンプ場がある

用瀬之岳
用瀬嶽フリークライミング広場
南東へ120m進む
山宝鉱山関連の遺構
磁鉄鉱、黄銅鉱、蛍石、ウラン等も産していた
5万分の一地形図
柚木(明治31年測図昭和7年要部修正測図)には
「*ひ」の印(石灰製造釜、石灰製造所の地図記号)が記されている
https://maps.app.goo.gl/NAJx3idkayyDd1ut6
南東へ470m進む
石鎚大権現
https://maps.app.goo.gl/bBZzgeVU1qkJ5T8q9東南東へ390m進む
用瀬橋
先代の用瀬橋が平成30年7月豪雨で流された後、2年4ヶ月かけて架替えられた
https://maps.app.goo.gl/tQsn9xXb26cYZx6R8
先代の用瀬橋
1973年竣工
東南東へ410m進む
荒神社の横
馬供養碑(三面馬頭観世音菩薩坐像 + 馬)
「*(馬頭観世音菩薩の種子「カン」)」
「大正十一年(1922年)三月六日 宮本◯◯◯」
荒神社
https://maps.app.goo.gl/hmDCfz8HDEqmoeNWA
自然石の燈籠
「このツタを取らないでね!」と記されているので銘は読み取れない
灯台の役割を果たしていた可能性もある
木造の火袋はガラス入り
阿弥陀堂?
近隣から集められたと思われる五輪塔に囲まれている
阿弥陀如来坐像
『南無阿弥陀仏』
コゴメ石の地蔵菩薩像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい
そわか』
用瀬の船着場?
南東へ460m進む
備中町志藤用瀬から川上町吉木へ
吉木橋北詰の丁字路
トロッコ道は成羽川沿いに直進
丁字路を右折して橋を渡る
川合(成羽川と領家川の合流点)を望む
吉木橋
1974年竣工。南詰に備北バス停留所(一の谷)がある。
https://maps.app.goo.gl/CmxXC65j5S1PvjFi6吉木橋南詰の丁字路を左折して県道33号線を南南東へ345m進む

、
手川橋交差点
向かって右に備北バス(株)の本社と全国川上水と緑のふるさとプラザがある
https://maps.app.goo.gl/LvgFsJwyzoU2PcXV9交差点を左折し、国道313号線を東へ110m進む
備北バス停留所(川合)
https://maps.app.goo.gl/E5VYzKC7EKgwDrsM7
川合地域国道改良完成記念碑
「川合地域国道改良完成記念 岡山県議会議員 柳井寧治 書」
「昭和61年(1986年)3月 発起人 (8人の芳名)」
金比羅宮

石碑兼道しるべ
「神辺川者*中𬾨(中備)第一之大川而水勢亦急也 潦水時出則濁浪漰
渤而至于撼於地軸 其難不可舉数矣 往古川上姓訴于縣令聊上
商舩之貢 令寶其功為首長 有年今茲良輝不煩他力自費若
干金畳石脩長堤数十間以充川舟運送之便 其功又可稱也
于*𭥱(時)?慶應元(1865年)乙丑初秋日 葆*真 撰」
「右 く路(ろ)取 *㔫(左) 地堂(た)う 道
長堤主 川上芳右衞門」
成羽方面から来た人用の道しるべ
右(北西)へ進むと備中町の黒鳥(富家村黒鳥) 左折して南へ進むと川上町の地頭(手荘村地頭)
風化し、苔むしているため判読困難
「吉備の道しるべ(井上雄風著、p.136)」に拓本と書き下し文あり
川上家は領家村の庄屋
成羽川沿いの高瀬舟の船頭集落は渡雁、下原、古町、佐々木、
小瀬、境谷、川合、用瀬、布瀬、阿部山、井川、惣田など
于*𭥱(時)?
きじ丸像の看板の下
交通安全供養地蔵(向かって左)
地蔵菩薩坐像2躰
不明の坐像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび
さんまえい そわか』
国道313号線を成羽川沿いに進んで成羽町下原へ戻る
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全国の魚荷道について
若狭湾で取れた鮮魚を京都へと運んだ「鯖街道」。
複数のルートがある。小浜・京都間の里程は約18里。
「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~」として
2015年度日本遺産に認定。
江戸時代から大正時代にかけて、兵庫県神戸市東灘区深江から
六甲山を越えて有馬温泉(兵庫県神戸市北区有馬町)へ鮮魚を運んだ「魚屋道(ととやみち)」。
それ以外にも江戸時代に大阪、堺、京都の間を往復し、魚仲仕と飛脚を兼ねた魚荷飛脚が居た。
「
日本風俗図絵
第7輯(黒川真道 編、大正3年、日本風俗図繪七ノ一二一) 」に
「堺街道 どうぞどうぞと以(い)ふ 盲人
魚荷乃(の)行街道で とふぞとふぞ以(い)ふ盤(は)
うるめやほしく 思ふ盲人
古(こ)つじきに 銭や累(る)人と 鳥さし盤(は)
げ丹(に) 善悪の さ可(か)ひ か以(い)だう」という歌と共に
往時の魚荷飛脚の姿が描かれている。
町中の魚の行商人を描いたは絵は天秤棒に桶をつけ運ぶスタイルが多いが、
この絵図に描かれた魚荷飛脚は籠を数段重ね、筵を掛けたものを束ねて裸足で運んでいる。
向かって左端の鳥刺しは草鞋を履いている。
飛脚はアベレージ7~8km/h程度で走っていたと言われるので、
40kgもの重荷を担ぎ山坂を越えて運ぶ魚仲仕となると
アベレージ5km/hのペースを維持するのも大変な事であったと思われる。
堺街道 どうぞどうぞといふ 盲人
魚荷の行街道で とふぞとふぞいふは
うるめや
ほしく 思ふ 盲人
こつじき(乞食)に 銭やる人と 鳥さしは
げに 善悪の さかひ かいだう
うるめ:ウルメイワシの略称。ウルメイワシを乾燥させたのがメザシ(目刺)。
鳥刺し:細い竹竿などの先端にトリモチを塗りつけ、小鳥を捕え、売る人
魚荷飛脚については「
北区財産区誌(大阪市北区
編、昭和14年、pp.399-401)」に
◎飛脚 江戸・大阪間の陸上交通に三度飛脚といふものがあった。その名の起つたのは大阪在番の士が
東海道各驛の長と協議して其の從者を飛脚として毎月三回、日數八日を限つて往復させたことに因る。
後、市人が之に倣つて飛脚業を營むものが出來た、皆その名を在番藩士の從者として
其の法被を着し、兩刀を帶して路次の賊難を防いだ。
寛文三年(1663年)、三都飛脚業者が協議して、問屋十四名で三都飛脚問屋といふものを起し、
江戸に七名京都に三名大阪に四名であつた、
飛脚の旅装は商人風とし、町飛脚問屋抱宰領某といつた、
それは東海道の旅の日程を六日と定めて往來させることになつた。
出發日を毎月朔日、四日、七日、十一日、十四日、十七日、二十一日、二十四日、二十七日の九回と定められた、
この町飛脚に對する本飛脚といふものは、飛脚問屋が五名あつて城中の公用を辨ずるもので、
毎回町飛脚に一日後れて出發するのである。
此の外に長崎飛脚宿二名、京大阪通路魚荷飛脚宿とふのが七名あつた、
魚荷飛脚屋は魚荷物外の運送も扱つていた。當時、大阪には繼飛脚問屋が四軒あつた。
元文四年(1739年)に大阪飛脚問屋柳屋嘉兵衛等によつて柳屋飛脚といふものが始められた、
それは騎馬をもつて運送に從事するものであつたが、若し川留等に遇ふ時は、
其の駄宿中から急用の書狀葛籠を抜き出して、それを遞夫(ていふ)に付して傳送させると云ふ法である。
又、大阪の島屋・京都の近江屋・江戸の江戸屋等によつて「抜狀急使」と云ふ法も
全然これに倣つたもので、それは駄荷の中から急便のものをぬき出して、
遞夫三人- 晝一人夜二人として晝夜の別なく、遞送して速達せしめるといふ便利なものであつた。
その他延享二年(1745年)十月仕立飛脚・間飛脚の二種の便を置いた。
明治元年(1868年)四月、京都に宿驛會所が開かれ、明治四年三月に新式郵便が開始され、
次いで道中各驛に陸運會社の設立となつて飛脚屋は廃止となつた。(以下略)」と記されている。
駿河湾で捕れた鮮魚(主に鮪)を吉原(静岡県富士市)から甲府へ約15時間かけて運んだ「魚の道(中道往還)」については
ミツカン
水の文化センターの「
海のない地域に残る「海魚の食文化」~「魚尻線」がもたらしたもの~」や
「
日本山岳会が選ぶ日本の山岳古道120選
鎌倉街道御坂みち・若彦路・中道往還」を参照。
漁港から鮮魚を内陸へ運ぶ限界線を魚尻線という。
中道(ちゅうどう)往還の道程は約78km。
備中とと道の場合、西浜-新見間が最短約71km。
「
夢路の記(島本北洲(仲道)
著、明治24年、p.18)」に「魚荷飛ぶ あし*抦山の 月高く」の句と共に
月夜に4人の魚仲仕達が鮪をのせたオウコをかついて駆け抜ける挿絵がある。
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