【生江浜の霊場巡り】



ルート: http://yahoo.jp/01YRcj


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吉浜菅原神社生江浜

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備中国小田郡生江濱村については「笠岡市史 史料編 上巻(pp.217-221)
 皇国地誌 備中国第壱大区小田郡小三区村誌(明治9年編)」を参照

昭和30年(1955年)頃の生江浜地区全体図は「語り継ぐ金浦(p.6)」の地図を参照




国道2号線の丁字路を右折

https://goo.gl/maps/CDxQm1NsSP52





上道を南へ170m進んで左折




背戸川井戸

厳島神社の本殿の後ろ(カーブミラーの横)にある

https://goo.gl/maps/CsTfSLp1gTC2





注連柱

「寶無窮」
「國運興隆」「昭和三年(1928年) 十二月建之」

宝祚(ほそう): 天子の位

https://goo.gl/maps/zrNfdvdnBwN2




社号標

「嚴島神社」

石燈籠ab

「常夜燈」「文政三庚辰年(1820年) 」「九月吉日」「東西若連中」




石鳥居

「嚴島神社」
「氏子中」「大正元年(1912年)十二月再建」




蛟の注連縄







春日燈籠cd

「奉燈」「昭和三年(1928年) 拾二月」「藤井九一郎」
「昇格記念」




手水舎




手水鉢





唐獅子(向かって右)

「奉寄進」「若連中」「文政十一◯(1828年) 子八月吉日」
「尾道 石工 嘉四良」

狛犬(同左)

「奉寄進」「若連中」「(寄進者?十数名の芳名




御大典記念植樹?の石碑

「御大典記念植樹?」「昭和三年(1928年)十一月十日 青年団」





厳島神社

「御登極記念 小田郡誌(p.62 大正13年) 」に「八、嚴島神社 大字生江浜字上道に鎭座あり。
歡請年月不詳、祭神は三女神(※宗像三女神)にして村社なり、祭日は九月十七日、
社地反別一反三畝歩、氏子は本町百七十七戸なり。境内建物本社梁行二間三尺、桁行三間、
釣殿梁行一間、桁行三間、拜殿梁行二間、桁行五間 石鳥居高九尺三寸、海岸に接し、
笠岡神島の山々近く遠く前面に横たはる。」とある

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

宗像三女神=市杵島姫神、田心姫神、湍津姫神

現在は神社の東側が干拓により住宅地となっているため、神島は見えない

「孫たちに語りつぎたい金浦(p.23)」に「最初、生江浜村、字風呂の谷という山腹に
奉祀したといいます。宝永年間(1704-1710)、現在の所に社殿を造営し、
今日に至っています。」とある

https://goo.gl/maps/X5bBf2pQaxw




扁額

「厳嶋大明神」




宮島の鹿











奉納額

「神王(は)正直能(の)頭耳(に)や登(と)類(る)
人王(は)善惡能(の)友耳(に)よる
奉納 明治三十九年(1906年)午第一月吉祥日 施主 樋之津◯◯」




拝殿内に絵馬が多数奉納されている










旧生江浜橋の親柱

「生江濱◯」「大正十四年(1925年)七月」
「を江はまは◯」

木造橋を石橋に架け替えた




現在の生江浜橋

吉浜の土手と生江浜の間を結ぶ

https://goo.gl/maps/hwkWDoWHQ912




神輿殿?




本殿の後ろ




生江浜橋の親柱のところまで戻る







三鬼大權現

「三鬼大權現 生江浜地区守護神 祭日九月二十三日」

宮島の弥山にある三鬼堂に鎮守として祀られている

https://goo.gl/maps/e5Mes4K1aFx




石碑

「三鬼大權現 再建立 昭和四十年(1965年)九月」







荒神社

祭神未確認




基壇の四面に飾り石あり(小槌1、扇3)




境内の東




樋之津重吉翁頌徳碑

「樋之津重吉翁頌徳碑 白道人(※津田白印) 書」
「昭和十三年(1938年)八月建之 有志者」「石工 魚谷市松 後藤惣一」

樋之津重吉翁(1874-1837年)は生江浜と金浦の上下水道を敷設、金浦湾の浚渫、
生江浜の船溜まりの埋立地造成等に尽力。金浦町議(1913-1937年)。

「孫たちに語りつぎたい金浦(p.65)」を参照

https://goo.gl/maps/RuKwqhueAPL2







金毘羅宮

注連柱

「(金)」「昭和十年(1935年)十月建之」
「(金)」

石燈籠ef

https://goo.gl/maps/r9PFPVA7CEG2




船魂大權現

「船魂大權現 生江浜地区守護神 祭日六月二十三日」







厳島神社前の丁字路から東へ68m進む




渡し場跡

渡船は国道の金浦橋の開通に伴い昭和35年に廃止

https://goo.gl/maps/wULjZN9JL5M2




生江浜港

昭和3年3月24日、生江濱海岸一帯が天然記念物カブトガニの産卵繁殖地として指定される

小田郡誌 下巻(pp.592-595)」、「金浦要覧(pp.77-83 昭和11年)」を参照

今は手厚く保護されているカブトガニも、かつては「どん亀」と呼ばれ、肥料にされていた




笠岡市立カブトガニ博物館の後ろ







標柱

「天然紀念物 かぶとがに蕃殖地」「史蹟名勝天然紀念物 昭和三年(1928年)三月内務省」

以前は生江浜の海岸にあったが、笠岡湾干拓により生息数が激減。
生江浜の蕃殖地は指定解除され、昭和46年(1971年)6月16日に
神島水道が新たに蕃殖地に指定された。それに伴い標柱も現在地へ移転。

小田郡誌 下巻(p.592)」の画像を参照

https://goo.gl/maps/LGEDZP4QCn22




渡しの航路(満潮時)

金崎バス停の前の渡し場との間を結ぶ

中央の橋は国道2号線の金浦橋




干潮時

中央の幅20m程の水路にしか海水が無い状態

画像左端が生江浜側の渡し場







渡しの航路(干潮時)

渡し場から東へ150m進み、左折して北へ190m,進み、
現 金崎橋東詰附近で右折する

国土地理院の航空写真(1974-78年)で水路と渡し場の位置を確認可能




金崎バス停付近

https://goo.gl/maps/dfUhC8GiYtA2




金浦橋

昭和35年(1960年)に竣工。金浦橋の北に連なるのは陶山が岡。

画像の向かって左から行者山、後山、テンジク山、アンビイ山、高坪山

中央の後山の麓に西浜の八幡神社がある

「御登極記念 小田郡誌(p.59 大正13年) 」に「陶山が岡の連丘中 主なる山は
海抜三百九十六尺(120m)なる高坪山 其他アンビイ山、テンジク山、後山、
及び海抜二百九十尺(約87.88m)餘の行者山、海抜二百三十一尺(70m)なる當摩山
 其他西の山等あり」と記されている

※昭和26年以前の文書に記されている地形図や標高データ等は不正確なものが多いので要注意

西の山の標高は77.9m

「小田郡誌 下巻(p.590)」に「西濱城址 陶山岡城とも云ふ。大字西濱の背後に聳ゆる、
標高百餘米の丘陵なり。この山三つの峯ありて洲濱の形をなし、麓に近く陶山井と
稱する大いなる堀井ありて、今も其形を殘せり。(以下略)」とある


「孫たちに語りつぎたい金浦(p.58)」に陶山城復元想像図あり

https://goo.gl/maps/r5BEtHpzocK2




陶山井

観音堂の前にある

https://goo.gl/maps/CHhsDW3Z5Xz




金崎と金崎大橋(昭和53年11月竣功)




渡し場跡から北へ135m進む




砂浜(通称「テッポー」)があった場所

丁字路を左折




おえはま会館付近

生江浜の船溜まり(通称「タンポ」)があった場所

「孫たちに語りつぎたい金浦(p.52)」を参照

https://goo.gl/maps/WGrCKQGuNNp




渡し場跡に戻り、南南西へ76m進む




松成鶴吉翁功労記念碑

「松成翁功勞記念碑 八十三翁 津田明導(※津田白印) 書」
「昭和十九年(1944年)三月建之 有限 責任 生江浜漁業協同組合」

初代生江浜漁業協同組合長を務め、カブトガニの生態の研究者もである
松成鶴吉翁(1851-1940年)については「語り継ぐ金浦(p.30)」、
「笠岡ふるさとガイド(p.140)」を参照

https://goo.gl/maps/KgVSPkFXvuD2

南西へ120m進み、丁字路からさらに南西へ進む




道路があたる辺りにはかつて明石浜海水浴場があった

「孫たちに語りつぎたい金浦(pp.51-52)」を参照

「小田郡誌 下巻(p.592)」に「明石濱 生江濱の海岸を云ふ。白沙青松の間遠く仙酔島を望み、
近く*神島(神島)、笠岡に相對し眺望絶佳、夏期海水浴場として好適地たり。」とある





笠岡総合スポーツ公園




総合体育館

https://goo.gl/maps/8xvGjHM8YRo




笠岡総合スポーツ公園の西にある丁字路からさらに南西へ100m進む




このあたりの字を三反畑という

https://goo.gl/maps/G76e7msj2bm

さらに南西へ150m進む




このあたりの字を一枚田という

https://goo.gl/maps/FgU5E1YbDWn

さらに南西へ220m進む




採石場

このあたりの字を柚之木という

https://goo.gl/maps/De3GDUhrZin

さらに南西へ126m進み、丁字路を左折




笠岡湾干拓土地改良区(笠岡湾干拓中央管理所)

笠岡湾干拓地内の農業用水配水施設(金崎分水塔、国繁用水機場、片島用水機場等)と
排水施設(寺間排水機場、片島排水機場等)の監視を行っている

https://goo.gl/maps/PrMrrjGvnw62




金崎分水塔と金崎水管橋

https://goo.gl/maps/AvJzrGhZUwT2




分水塔

金崎橋を南へ渡った所にある

https://goo.gl/maps/hqgGJep8UwD2




石碑

「拓 岡山県知事 長野士郎 書」

「国営笠岡湾干拓建設事業は、笠岡湾を東西二本の堤防で締切
り、地区内の海水を◯◯して千百九十一ヘクタールを干拓し、
九百四十四ヘクタールの農地等の造成を行い、畜産及び畑作の
大規模な近代的自立経営農家を創設し、地域農業の発展に寄与
することを目的とした農林水産省の◯◯干拓事業である。   .
東側堤防は、延長三千八百十六米の基礎置換後傾斜型で、生
江浜を起点に神島瀬戸を結び、西側潮止堤防は、茂平を起点に
した工業用地の堤防から延長八百五十米の◯礎置換傾斜型で神
島寺間に至る。                           .
農業用水は 水源を高梁川支流の成羽川上流に築造された新
成羽ダムに求め、高梁川船穂地点より取水して農・工・上水
の◯◯事業で建設した延長二十四キロの共用導水路により干拓
◯◯内へ導水し、中央管理所で水管理を行い農地へ配水する。
 また◯水は、地区内最低位◯に建設した寺間排水機場◯片島
排水機場により安全な管理水位を行い、常時排水、洪水時排
水に備えている。                        .
こうして道路◯、用排水路◯を備えた大区画の農地整備を行
い、総費費三百億円をもって昭和四十一年(1966年)度着工以後二十四年
間に亘る事業の完成を見た。                   .
本事業により新しい大地と水がもたらされ、ここに笠岡の地
域発展の礎が築かれたのである。   平成二年(1990年)◯月◯日」

笠岡総合スポーツ公園の西にある丁字路に戻って左折し、北西へ80m進む




巣林山蓮乗寺

本尊は阿彌陀如来

『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』

外見は民家にしか見えない

「御登極記念 小田郡誌(p.62 大正13年) 」に「二、蓮乗寺 大字生江濱にあり。浄土眞宗本派
本願寺派に属し、本尊阿彌陀如来を安置す。此の寺は其の昔一人の浪士此の地に來り
出家して理明と名乘り、庵を結び近郷の布教に從事したりしが後數代を經て大乘に至り、
安永八年(1779年)十二月寺号公稱となり、それより大同・覺明・覺準を經て
現在鈴木*德風(徳風)氏に至る。現在檀家五戸を有す」とある

「御登極記念 小田郡誌(p.61 大正13年) 」に蓮乗寺関係の記述が三項目ある

「五、生江浜婦人會 天保三年(1832年)八月の創設にして、最勝講ともいふ。
大字生江浜一般婦人の*德性(徳性)涵養を目的とし、
毎月二回講員を集めて講話會を開く。講師は蓮乘寺住職にして、
大正五年(1916年)十二月現在會員三十人。 」

「六、善導會 大字生江濱にあり。大正四年四月二十五日の創設にして、
眞宗眞俗二諦相資の宗旨を遵奉し、信仰の導念に基き、*精神(精神)の収容をなし、
華美を去り、質素を主とし以て*社社(社会)の幸福を増進するを以て目的とす。
月一回會合をして二諦の教義を聴講せり。大正五年十二月現在會員九十八名なり。」

「八、蓮乘寺の日曜學校 大字生江濱にあり。大正四年(1915年)九月の創設にして
眞宗眞俗二諦の教義により、心的生活の基礎を完全に
發達せしむる爲め、兒童の*德性(徳性)を涵養するを以て目的とし、
毎週日曜日生江浜部落の兒童を集めて訓話戒話等を授く。時に父兄會を開きて
種々の講話并に兒童教育に關する懇談をなす。」

大正時代に創設された金浦の婦人会の沿革については「語り継ぐ金浦(pp.23-27)」を参照

https://goo.gl/maps/CYJa9XRfowm




蓮乗寺の西の山際にあった阿弥陀池は埋め立てられて消滅

北へ58m進んで丁字路を左折し、細道を西へ22m、右折して北へ150m進む

https://goo.gl/maps/Cnz6umptvqt




このあたりの字を迎という











上川井戸

車道を北西へ80m進む

https://goo.gl/maps/nN55qa1fpxr




このあたりの字を新池下という









新池

生江浜新田の完成(寛文9年=1669年)に伴い、田畑の水源として造られた

https://goo.gl/maps/KNFyFhyKbJo




新池の北にある十字路を左折して南西へ上った所が「風呂の谷」

厳島神社の旧所在地とされている

https://goo.gl/maps/RU34UPm16v92

東へ765m進む




国道2号線の下を通過




大池の東

このあたりの字を池ノ下という

https://goo.gl/maps/6rgSDxK9D8D2







愛の郷笠岡の西の丁字路

このあたりの海抜は約2.6m

https://goo.gl/maps/eQkp2F2UQF82

左折して西へ80m上る




旭が丘団地の南の交差点




大池

南北約75m、東西約178m、周回約410m。池の西端は城見隧道。

「皇国地誌」に「池 才ノ峠池 東西五十三間(約96.36m) 南北二十八間(約50.91m)
 周回百六十二間(約294.55m)、本村の西方にアリ 田方用水トス」と記されている

https://goo.gl/maps/J9QgzSNLGJC2

丁字路に戻り、左折して北東へ進む












このあたりの字を吉井田という




井戸

https://goo.gl/maps/CBfpxuLRNCD2




このあたりの字を北山下(あるいは北山ノ裾)という

海抜は約0.6m

https://goo.gl/maps/QD6trjuP2c52




樋門

https://goo.gl/maps/CstdXWGLR6s




生江浜を流れる大溝川、中溝川、浜川の水がすべてここに集まる




生江浜橋

吉浜の土手と生江浜の間を結ぶ

https://goo.gl/maps/hwkWDoWHQ912








旧生江浜橋の親柱

厳島神社の境内にある




生江浜新田の防潮堤

寛文九酉年(1669年)に完成。堤防がある辺りを字 土手之内、その西側の字を塩浜という。
塩浜には明治44年まで塩田があった。

生江浜新田については「笠岡内史 第二巻(pp.436-439)」を参照

塩田の範囲については「正式二万分一地形図集成 中国・四国2(p. 3 柏書房)」の
西濱地図(明治30年測図 同32年製版)を参照




古城山の展望台から生江浜(北西)を望む

向かって左に岡山県笠岡陸上競技場、中央に金崎大橋と生江浜、右に金崎、手前に西の浜

「楢園集(小寺清先 著)」に吸江(笠岡の古城山)八景として往時の生江浜を歌ったものがある
「生江濱の 松の常磐の 色ならす もしほ(藻塩)の煙 はれみはれすみ」

一本松は古城山からは見えない。生江濱の松は明石濱沿いにあった松のことか?

https://goo.gl/maps/B8knHotuiN72




生江浜橋から樋門前のY字路に戻り、南南東へ237m進む




一本松伐採之跡

標柱

「一本松伐採之跡」「昭和四十三年(1968年)五月十四日」

後ろにあるのは日露戦争(明治三十七・八年戰役)における生江浜出身の戰病歿者の墓誌

「小田郡誌 下巻(p.335)」、

金浦要覧(p.59 昭和11年)」に一本松の写真あり

一本松は字名にもなっている

「笠岡市史 史料編 上巻(p.218) 皇国地誌 備中国第壱大区小田郡小三区村誌(明治9年編)」に
「一本松 本村ノ北ヨリ南ヘ連ル東西一町南北五町」とある

https://goo.gl/maps/GQ4ngAkzjXv




一本松の十字路を右折して北西へ55m下る




丁字路を左折して南南西へ115m進む






つきあたりを左折




東へ35m進んで右折し、細道を南南東へ190m進む




このあたりの字名を塩浜という

「小田郡誌 下巻(p.381)」に「生江濱新涯地に鹽田を造りしこと、其起源明らかならざれども、
明治初年(1864年)頃*既(既)に四町歩(約3.97ha)あり、其後漸次増加して五町二畝六歩(約4.98ha)となり、
製鹽所八ヶ所、年産額二百七十二坪四合五勺、鹹水(かんすい)貯藏場七十一ヶ所にて
二段七畝二十九歩、鹽田所有者四十四人、從業者二十八人、小作三十五人、
合計六十三人ありしが、明治四十四年九月三十日限廢止せられしにより、
同年十一月十五日耕地整理の企てをなし、國有地を其區域に編入せんことを申請して
許可を得、同四十五年(1912年)二月耕地整理組合成立し、同年五月三十日竣工。
大正二年度(1913年)より植付を開始せり。(以下略)」とある

かつて塩田があった場所。現在は太陽光発電施設と田畑。







耕作中の田圃は3枚程







2号線の下を通過し、細道を南へ130m進む




ここにも太陽光発電施設




国道2号線より南には耕作中の田圃はなく畑のみ




字 塩浜の南端

https://goo.gl/maps/a7jedUjFAkP2

つきあたりの丁字路を右折し、西へ37m進んで十字路を右折。
北へ104m進んで生江浜西交差点の手前で左折。
西へ37m進んで丁字路を右折し、2号線の下を通過。




弘福寺(真言宗)

本尊は大日如来

『おん あびらうんけん ばざら だどばん』

国道2号線沿いにある

https://goo.gl/maps/pTnYMkiWrJT2




地蔵菩薩立像(向かって右端)

「水掛地蔵」

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

聖観世音菩薩立像(向かって右から2番目)

「福寿観音」

『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』

不動明王坐像(同3番目)

「成願不動」

『南無大聖大悲不動明王』『のうまく さんまんだ ばざらだん
 せんだ まかろしゃだそわたや うんたらた かんまん』

阿弥陀如来坐像(同4番目)

「南無阿弥陀仏」

『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』


生江浜西交差点から国道2号線を東へ177m進む




交通安全地蔵

「交通安全地蔵」「あ、あぶない ほら車」

交通事故犠牲者3人の名が刻まれている。昭和40年代に建立。

『南無地蔵大菩薩』

https://goo.gl/maps/EUb6HdNkRjn


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吉浜菅原神社生江浜

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