【旧金浦町坂東三十三所観音霊場 画像集.2(4番)】

  
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吉浜菅原神社生江浜

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吉浜

吉濱村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.204-208) 皇国地誌
 備中国第壱大区小田郡小二区村誌(明治9年編)」を参照




土手の東




地蔵菩薩坐像

『南無地蔵大菩薩』








お清明神と白馬さま

「慶雲三年(706年 丙午) 南無妙法蓮華経 石山観世音𦬇(菩薩の略字) 乙巳四月」「土手番中」

   風化の程度から見て、1300年以上前のものではない。干支も一致していないので、
  年号(元号)部分が間違っている可能性が高い。損傷または風化によって 
  判読困難となったオリジナルの供養碑に代えて、新たに供養碑を造り直した際に
  写し間違えたと思われる。本来はくずし字で「寛文五年(1665年) 南無妙法蓮華経
   石山觀世音𦬇 乙巳四月」と刻まれていたと思われる。                 .

  「よしはま物語(pp.119-120)」に、「 この石仏はむかしから、水門前の石橋の袂に
 祀ってあったものであるが、土手の人は誰一人としてそのいわれを知らなかった。
  土手というのは堤防の両側に建ち並んでいる部落のことである。 今から(※よしはま
 物語の発刊は昭和48年=1973年)二十年ばかり前、土手の中程にある某家に病人が出た。
 病状かんばしからず、病因もつかめぬので、西浜の拝み屋に拝んで貰ったところ、白馬が
 現れたという。 その頃土手の講中で道端にあった石の観音様を今の場所に祀り替える話が
 出たが、そのいわれがわからないのでこれまた前述の拝み屋に拝んで貰ったところ、お清
 (きよ)明神だという。宮の前に住む古老で氏子総代を永く勤めた高橋玉平氏が、今から
 三百年程前、吉浜土手を築くとき、水野の殿様が連れてきた、お清さんという娘と白馬が
 一匹、いけにえとして土手の中に生き埋めにされていると語ったので、はじめて石仏と
 白馬のいわれがわかり、浄財を集めて岩を削り祠を造り、のぼりをたて盛大な祭式を行った。
 以来世話するものがあって、今日迄供物と香華が絶えない。」と記されている。

  吉浜干拓は福山藩の第2代藩主 水野勝俊(1598-1655年)の代である承応2年から4年
 (1653-1655年)頃に着工し、第3代藩主 水野勝貞(1625-1662年)の代である寛文元年
 (1661年)11月に完成している(汐留は同年8月18日)。第4代藩主は水野勝種(1661-1697年)。 

  石山観世音は西国第13番札所石光山石山寺(東寺真言宗 滋賀県大津市石山寺1-1-1)の
 本尊である木造如意輪観音半跏像(重要文化財)のこと。天皇の命令によって封印され、
 33年に一度、あるいは天皇の御即位時にのみ御開扉(ごかいひ)となる日本で唯一の
 勅封秘仏。平成28年3月18日~12月4日まで御開扉 特別拝観が行われている。
 石山寺縁起絵巻(いしやまでらえんぎえまき)第7巻第31段には、母を助けるため身売り
 した娘が琵琶湖で嵐に遭うも、一心に石山観音を念じると、白馬が現れ、娘を水際まで
 引き上げる場面が描かれている。                               .

  江戸時代には干拓・治水事業が難航した際に、水神の怒りを鎮めるために人柱が捧げ
 られていた。近隣では福山市の野上堤防の「お米さん」(1623年)、笠岡市の富岡新田の
 「お七さん」(1674年頃)、岡山市の沖新田の「おきた姫」(1692年)、遠方では山口県
 周南市の道源開作の「おまつさん」など。                         .

 石山寺縁起絵巻(「Wikipedia」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E7%B8%81%E8%B5%B7%E7%B5%B5%E5%B7%BB

https://goo.gl/maps/zBBY1MGfguM2




東排水水門









八千代橋

橋を渡って西へ45m進む




吉浜踏切




踏切を渡ってさらに西へ111m進む






土手の西(西排水水門の前)

享保12年(1672年)に堤防の補強と排水水門の整備拡張が行われ、
堤防上を道路として利用できるようになった(福山往来=新道の開通)

丁字路を左折すると生江浜




用之江川の河口にある万世橋(まんせいばし)





 

金浦機械排水竣工記念碑

「昭和二十七年(1952年)六月」




水溜川

用之江川、有田川、当摩川の水がここに集まる




万世橋の東にある土手下道集会所の裏の金毘羅様

https://goo.gl/maps/Pxtx9WKR4J62




向かって左から8番、10番、11番、12番


十一面観世音菩薩立像
「八ばん はせ寺」

吉浜西国8番 豊山 長谷寺 [ぶさん はせでら] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「いくたびも 参る心は 初瀬寺(はつせでら) 山もちかひも 深き谷川」

千手観世音菩薩立像

「十ばん みむろ寺」

吉浜西国10番 明星山 三室戸寺 [みょうじょうざん みむろとじ] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波」

「十一ばん かみだいご寺」

三面准胝観世音菩薩坐像

吉浜西国11番 深雪山 上醍醐寺 [みゆきやま かみだいごじ] (准胝)
 『のうぼ さったなん さんみゃくさんぼだ くちなん たにやた おん しゃれい しゅれい そんでい そわか』
 「逆縁も もらさで救ふ 願なれば 准胝堂は 頼母しきかな」

千手観世音菩薩立像

「十二ばん いはま寺」

吉浜西国12番 岩間山 正法寺 [いわまざん しょうほうじ] “岩間寺” (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「水上(みなかみ)は いづくなるらん 岩間寺(いわまでら) 岸うつ波は 松風の音」

https://goo.gl/maps/g4aDwjUdJMR2

土手のバス停前から福山往来を北西へ310m進む


 

恵比寿神社

字 吉濱平にある。祭神は事代主命。

https://goo.gl/maps/y41PfVdpVDn

神社の前にある岩に「享保十七壬子天(1732年)此道成就」と刻まれている。
「此道」とは福山往来(「濱街道」ともいう)のこと。




「十三ばん いし山寺」「施主 西江富治郎」

吉浜西国13番 石光山 石山寺 [せっこうざん いしやまでら] (如意輪)
 『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
 「後(のち)の世を 願ふ心は かろくとも 仏の誓ひ おもき石山」

恵比寿神社の前(東)

https://goo.gl/maps/yG3EFBJa66z







寶性地蔵菩薩立像(向かって左)

延命地蔵菩薩立像(同左)

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』




十一面観世音菩薩立像

「十五ばん いまくまの」「施主 ◯◯◯◯」

吉浜西国15番 新那智山 観音寺 [しんなちさん かんのんじ] “今熊野観音寺” (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「昔より 立つともしらぬ 今熊野(いまぐまの) 仏の誓ひ あらたなりけり」

恵比寿神社の横(南)

https://goo.gl/maps/qFQFTfG556o







如意輪観世音菩薩輪王坐像

「十四ばん かん◯ん寺」「施主 岡原初恵」

吉浜西国14番 長等山 園城寺 [ながらさん おんじょうじ] “三井寺” (如意輪)
 『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
 「いで入るや 波間の月は 三井寺(みいでら)の 鐘のひびきに あくる湖」

恵比寿神社の上(南)

https://goo.gl/maps/dqDPDMPDfFB2

福山往来に下り、西へ145m進む




福山往来から左折して細道に入り、南東へ11m進んで左折し、民家の裏にまわる







観音堂




千手観世音菩薩立像

「十六ばん きよみづ寺」「施主 やぶのはな組」

吉浜西国16番 音羽山 清水寺 [おとわさん きよみずでら] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「松風や 音羽(おとわ)の滝の 清水(きよみず)を むすぶ心は 涼しかるらん」

https://goo.gl/maps/ofu23bSFuZk




福山往来に戻り、 西南西へ107m進む


 

吉浜の菅原神社の参道入口

⇒吉浜の菅原神社の画像集




出雲大社(大社教分社)の参道の石段を中ほどまで上がる

注連柱
「神依人尊」「人依神榮」




石段の脇にあるお堂




向かって右から

薬師如来坐像

「日光菩薩 十二神将 一畑藥師如来 日光菩薩 七千夜叉」
一畑薬師(薬師瑠璃光如来)
『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』

十一面観世音菩薩立像

「十七ばん ろくはら寺」
吉浜西国17番 補陀洛山 六波羅蜜寺 [ふだらくさん ろくはらみつじ] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂(ろくはらどう)へ 参る身なれば」

如意輪観世音菩薩輪王坐像

「十八ばん ろくかく寺」
吉浜西国18番 紫雲山 頂法寺 六角堂 [しうんざん ちょうほうじ ろっかくどう] (如意輪)
 『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
 「わが思ふ 心のうちは 六つの角 ただ円かれと 祈るなりけり」

https://goo.gl/maps/PuUqBVKV6Q12

福山往来に戻り、左折して西へ46m進む




関藤藤陰先生生誕之処の石碑

「藤陰関藤先生生誕之*𩂫(処)」

「小田郡誌 上巻(pp.550-552)」、「笠岡市史(pp.559-568)」を参照

https://goo.gl/maps/dfvTj17CJ6u

丁字路を右折して車道を北西へ33m進む



有田川と用之江川の合流点

https://goo.gl/maps/YBm7deNTwuN2




わんど川(椀土河/湾頭川)

「御登極記念 小田郡誌(p.59)」に「椀土河 陶山村より來る有田川、城見村より來る用之江川を併せ、
大字吉濱を流れて葦原沼となり、遂に海に入るものにして、本町内流程用之江川を
本流として二十一町(約2290.89m)なり。」とある




高屋往来

「御登極記念 小田郡誌(p.63)」に「高屋往來 大字吉濱に於て濱街道より岐れ陶山村を過ぎて
後月郡高屋に至る里道にして、本町内の里程十町(約1090.9m)とす。」とある

石州往来(銀の道)でもある

北西へ260m進む







五角柱地神(山陽本線有田踏切の南)

「天照大神」「倉稲魂命」「大己貴命」「少彦名命」「埴山姫命(=埴安姫命)」(北東から時計回り)

埴安姫命(はにやすひめのみこと)ではなく埴山姫命(はにやまひめのみこと)

https://goo.gl/maps/GfoEBPjFCKN2




山陽本線の有田踏切を渡って北西へ50m進む




西の堂(大堂)

「明治廿八(1895年)歳次乙未 五月再建之」

昭和初年頃まで茶接待が行われていたという

「よしはま物語(p.113)」、「語り継ぐ金浦(p.36)」、「民俗資料選集39 pp.34-37」を参照

https://goo.gl/maps/kWNwo










大堂の後ろにある観音堂

「昭和三十一年(1956年)二月 觀音堂再建 大堂屋根修◯」

大堂の屋根修理は平成元年(1989年)にも行われている




不明の坐像(向かって右端)




地蔵菩薩像a(向かって右から2番目)

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』




地蔵菩薩坐像b(同3番目)




十一面観世音菩薩坐像?

「鎌倉 四番 長谷寺」

坂東4番 海光山 長谷寺 [かいこうざん はせでら] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎわに たつは白波」

堂内中央にある十一面観世音菩薩立像が坂東4番の本来の本尊と思われる
坂東4番の台座の上にある十一面観世音菩薩坐像は坂東霊場のものではない可能性が高い




千手観世音菩薩立像※

「廿六ばん ほつけ」「施主 枝木善造」

吉浜西国26番 法華山 一乗寺 [ほっけさん いちじょうじ] (聖観世音)
 『おん あろりきゃ そわか』
 「春は花 夏は橘(たちばな) 秋は菊 いつも妙なる 法(のり)の華山(はなやま)」




地蔵菩薩立像c(向かって左端)




戦後の混乱期(昭和20年頃)には、行き場を失くした親子が
堂内で雨露を凌いで生活していたという




西の堂の横にある牛供養碑群




文殊菩薩坐像(向かって右)

「文殊菩薩」「法界」「明治四十一年(1908年) 戊申四月吉日」「施主 西北組?」

吉浜西国観音霊場開創の年に建てられている

西国番外 天橋山 智恩寺(切戸文殊) [てんきょうざん ちおんじ(きれどのもんじゅ)] (文殊)
 『おん あらはしゃ のう』
 「久世の戸や 松の葉越しに 沖みれば いつもたえせぬ あまのつりぶね」

https://goo.gl/maps/PKRezo19XJx




牛供養碑a(地蔵菩薩 + 牛)




牛供養碑b(地蔵菩薩 + 親子牛)

「供養」




牛供養碑c(地蔵菩薩 + 牛)





西の堂の前から新池の南の土手道を北東へ120m進む




新池の東にある五角柱地神

「天照皇大神」「倉稲魂命」「大己貴命」「少名彦命(少彦名命)」「埴安姫命」(南東から時計回り)



https://goo.gl/maps/3bbxyhqffZw




有田踏切を渡って福山往来(濱街道)に戻り、丁字路を右折して西南西へ130m進む




籠池の北の土手の下

万人講供養碑(中央)
「万人供養」「願主 小笠原清一? 世話方 舟隠組一同」

牛供養碑(向かって右端)
「大正四年◯◯◯四日 松浦◯◯」




「十九ばん かう堂?」

吉浜西国19番 霊ゆう山 行願寺 革堂 [れいゆうざん ぎょうがんじ こうどう] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」

https://goo.gl/maps/NWs2RnNU14D2

西国19番札所前から東へ20m戻り、右折して籠池の土手道を南西へ100m上る




籠池の西の土手

金毘羅大權現の石燈籠(向かって右端)
「金毘羅大權現」「常夜燈」「講中」「文化四丁卯歳(1807年) 七月吉辰」




「二十ばん よしみね」「施主 袖解組」

吉浜西国20番 西山 善峯寺 [にしやま よしみねでら] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「野をもすぎ 山路に向ふ 雨のそら 善峯よりも 晴るる夕立」

https://goo.gl/maps/FnLyrCsBToE2

堂内向かって右に如意輪観世音菩薩輪王坐像(法界萬霊供養塔)がある。
法界萬霊供養塔や三界萬霊供養塔は有縁・無縁の区別なく全宇宙のすべての精霊を
供養する目的で建立されている。通常は六道を巡って悩める霊を救う地蔵菩薩像が
本尊とされる場合が多いが、如意輪観世音菩薩像も六道の衆生を救うとされているため
本尊とされることがある。「法界」の二文字は萬霊供養を想起させるキーワードのようなもの。

『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』




坂東1番札所がある西濱の地蔵堂の三界萬靈供養塔の本尊も如意輪観世音菩薩像




伏越の地福寺にある如意輪観世音菩薩輪王坐像




吉浜西国21番 菩提山 穴太寺 [ぼだいさん あなおうじ(「or あのうじ」)] (聖観世音)
 『おん あろりきゃ そわか』
 「かかる世に 生(むま)れあふ身の あな憂(う)やと 思はで頼め 十声一声(とこえひとこえ)」

https://goo.gl/maps/6ikJABkeMiE2




観音堂前から土手の細道を北西へ30m下って福山往来に戻り、左折して南西へ52m進む




袖解(そでとき)の大師堂

https://goo.gl/maps/g7D3Dh7mokG2

籠池の西の福山往来沿いにある

大師堂前から福山往来を西へ131m進む







延命地蔵尊(宝暦十一年=1761年)

『おん かかかび さんまえい そわか』

向かって左にあるのは奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養塔

https://goo.gl/maps/1EdpNxeJyGo

延命地蔵尊前から福山往来を西へ34m進む


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吉浜菅原神社生江浜

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