【旧金浦町坂東三十三所観音霊場 画像集.4(9番)】
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吉浜菅原神社/生江浜
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有田
有田村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.226-230) 皇国地誌
備中国第壱大区小田郡小四区村誌(明治9年編)」を参照
県道3号線の塞の峠(通称「さんたわ」)にある丁字路を左折し、北西へ175m、西へ160m進む
この辺りの字名を「惣津池上」という
御手洗の井戸・ソウヅ川
丁字路の南にある
「ガイドブック陶山100選(p.11)」を参照
https://goo.gl/maps/ucLahMxMGFH2
丁字路から参道を北へ25m上る
国司神社
祭神は大己貴命
「ガイドブック陶山100選(p.12)」を参照
向かって右の石燈籠は無銘。左にあるのは自然石の燈籠の竿石。
https://goo.gl/maps/NcagsQ6tXiA2
在田村庄屋屋敷(惣津家)
「ガイドブック陶山100選(p.12)」を参照
https://goo.gl/maps/oyTuyNbVzgE2
丁字路から南へ100m下る
惣津池
「惣津池 東西十六間(約29.09m) 南北三十間(約54.55m) 周回百間(約181.81m)
本村ノ南ニアリ田畑ノ用水トナス」(「皇国地誌」より)
https://goo.gl/maps/XBDDGCCwYvw
池の北にある丁字路を右折し、東北東へ213m下る。
つきあたりの丁字路を右折し、東へ50m進んで十字路から北東へ145m進む。
丁字路から車道を北へ62m進む
Y字路から山際の細道を南南西へ10m上る
石燈籠(夜燈様、金毘羅様)
「常夜燈」「金毘羅大權現」「吉備津彦*大明神(大明神)」「文政十三(1830年)寅三月吉日」
「十方施主 平?◯◯◯ ◯右エ門 仙子? ◯◯◯ ◯◯エ門 ◯十良 信九良 ◯助」
「世話方 大迫中 發起人 熊吉 久吉 五兵エ 長吉」
「○池 ◯◯ 傅治良」
有田の大迫地区の「はっさき(波端)」にある。紀年銘(文政十三寅)は風化により判読困難
「ガイドブック陶山100選(p.18)」、「笠岡市史 第三巻(p.327)」を参照
https://goo.gl/maps/4h89ePdYYo72
車道に戻り、北北東へ224m進む
県道3号線の横断歩道がある交差点の手前で左折し、参道を西へ80m程上る
石燈籠
「奉燈」「明治十四年(1881年)」「巳十月吉日」
「氏子中」
社稷碑
「社稷」
清友荒神社
「ガイドブック陶山100選(p.27)」、「笠岡の歴史散見集(p.11)」を参照
https://goo.gl/maps/ev5RLmYnf4E2
荒神社がある山には第二次大戦遺跡・軍需品貯蔵壕掘削の跡がある
県道3号線の横断歩道の所に戻り、県道を横断して北東へ140m進む
有田公会堂
かつて御高札場があった場所。この辺りの字名を磯田という。
「笠岡市史 地名編」 の有田村全図(天保十一年=1840年)を参照
https://goo.gl/maps/3gZN4Ppr1qH2
公会堂のすぐ横を南東へ20m進む
有田の清友の地藏堂(四ツ堂)
有田公会堂の南東、田郷川(押撫川)と大迫川の合流点にある。元は塞の峠(才ノ峠)にあった。
塞の峠は県道3号線と広域農道の交差点(ファミリーマートがある)から
北へ150m上った所(用之江と有田の村境)にある。
「皇国地誌」によると字 清友は「本村ノ北ヨリ南ニ連ナル田ノ橋*ヨリ新橋迄
南北五町東西三町」と記されている。
地藏堂より下流の有田川南岸を「新涯川南」、北岸を「新涯川北」という。
「民俗資料選集39(p.29)」、「ガイドブック陶山100選(p.30)」を参照
https://goo.gl/maps/aUgLQW7Dsg32
地藏堂(2017年)
露盤の上にあった宝珠がなくなり、道路改修により石橋が撤去されている
地蔵菩薩坐像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
小屋束に墨書きがあるが判読困難
有田公会堂前から有田川沿いの道を東南東へ360m進む
吉浜と有田の村境にある丁字路
https://goo.gl/maps/N6qwxDh2RdN2
丁字路を左折して北へ44m進む
石州往来(石州街道銀の道の笠岡道)
「ガイドブック陶山100選(p.26)」を参照
丁字路を左折して西北西へ62m進む
石鳥居
「明和九(1772年)*壬𫝕(壬辰)九月」「◯十◯氏子寄進」
石燈籠(石鳥居の向かって左後ろ)
「◯十◯氏子寄進」とは有田八幡宮の石鳥居に刻まれてい 「大氏十三ヶ村助寄進」と同義?
供養堂
十一面観世音菩薩立像
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
https://goo.gl/maps/JgHqwBppBMu
犬塚の四つ堂跡
この辺りの字名を犬塚という。「皇国地誌」によると字犬塚は「本村ノ南ヨリ北ニ連ナル惣堂*ヨリ輌ノ川橋迄
南北九町東西七町」と記されている。
天保十一年(1840年)の在田村全図(「笠岡市史 地名編」を参照)には「惣堂」と記されている。
詳細は「ガイドブック陶山100選(pp.6-7)」を参照。四つ堂の写真あり。
石仏群(供養堂の横)
「笠岡市史 史料編上巻(pp.226-230 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の有田村の項)」には「牛馬 牡牛四頭、
牝牛五拾八頭、惣計六拾八頭(ママ)、馬無」と記されている。
「皇国地誌」は明治九年(1876年)一月調、同年十月進達。
万人講供養碑(地蔵菩薩坐像?)
「万人講」
牛供養碑?
銘文は判読困難
笠塔婆?(阿弥陀如来坐像? 地蔵菩薩坐像?)
頭頂部に突起があるので上に笠石が載せられていた可能性が高い
寄島の西安倉の三面地蔵にも突起がある
https://goo.gl/maps/onZK2Hz29Ks
地蔵菩薩坐像
銘文は判読困難
畜生供養碑
「畜生発菩提心」
畜生供養碑
「大日如来為如是畜生発菩提心也」
里見四国70番本山寺(里庄町里見大原東の墓地内)と同81番白峰寺にある
https://goo.gl/maps/bqEXJZypSNs
https://goo.gl/maps/ov6CZcoHn5v
陶山神社の由来
供養堂の石仏の由来についても記されている
「
小田郡誌 下巻(pp.596-599)」、「ガイドブック陶山100選(p.6)」、「笠岡ふるさとガイド(p.132)」を参照
陶山神社
在田神社の末社。祭神は経津主命と武雷主命。この地で自害したとされる陶山藤三義高も合祀されている。
義高が南都春日大社より勧請した陶山大明神(祖堂)はここから北北東へ上った所にあったことが、
天保十一年(1840年)の在田村全図(「笠岡市史 地名編」を参照)に記されている。
「義高迎へて籠山に戰ひ、大いに敗れて祖堂(今は惣堂に作る)の小丘に逃る」と
「小田郡誌 下巻(p.597)」に記されている。義高の死については諸説あり。
陶山氏については「小田郡誌 上巻(pp.78-82)」、「笠岡市史 第一巻(pp.387-408)」を参照
https://goo.gl/maps/N8USP2BANc62
本殿と拝殿
明治32年(1899年)9月に遷座・再建。
昭和60年(1985年)に拝殿、平成6年(1994年)に本殿の屋根を修復。
平三社(平藏社)
陶山藤三義高の郎党 平三(平藏)を祀っている。
「郎黨平藏、主人の首を敵に辱められんことを憂ひ。自ら屠腹して義高の首を肝裏に隠して死す」と
「
小田郡誌 下巻(p.598)」に記されている。
「ガイドブック陶山100選(p.6)」を参照
手水鉢(拝殿の前)
「奉寄進」「當邑 枝廣○兵衛」「慶應四年(1868年)九月吉日」
向かって左に古戦場、逆さの矢竹等がある籠山(向山)
石段を下って右折し、石州往来を北へ200m進む
山陽新幹線の高架下を通過し、備南街道に出て北北東へ120m進む。
横断歩道の手前にある五叉路を右折し、参道を南東へ45m進む。
谷稲荷大明神の向かって右は高橋代官屋敷跡
「ガイドブック陶山100選(pp.37-38)」を参照
谷正一位稲荷大明神(谷のお稲荷さん)
祭神は太鼓谷稲荷明神
注連柱
「*奉𤣉(奉獻)」「*峕(ときに)明治十五壬午年(1882年)旧暦四月十二日」
自然石の燈籠
「*奉𤣉(奉獻)」「氏子中 石工 富?田長平」
「ガイドブック陶山100選(pp.37-38)」を参照
https://goo.gl/maps/DhmtfpmWQWT2
自然石地神
新幹線の高架下まで戻り、右折して備南街道を西南西へ320m進む。
横断歩道がある十字路(有田公会堂前)を右折し、北西へ24m進む。
有田八幡宮の石鳥居
「八幡宮」「寛保二壬戌(1742年) 寛政五癸丑(1793年)」 「大氏十三ヶ村助寄進」
地藏堂の北西68mの所にある。この辺りの字名を「鳥居」という。
https://goo.gl/maps/917eigUtNRT2
大氏十三ヶ村とは西濱村、生江濱村、吉濱村、茂平村、大冝村、用之江村、有田村、
押撫村、篠坂村、入田村、西大戸村、大河村、木之目村と云われている
「ガイドブック陶山100選(p.30)」を参照
石燈籠(石鳥居の向かって右)
「獻燈」「寛政十一(1799年)己未」「八月吉日」
備中国式内社の神標(石鳥居の向かって左)
「當國十八◯」「笠岡町 竹本林吉」
在田神社は全国で2861社あった延喜式内社のうち備中国式内社十八社のひとつ。
笠岡市内では神島外浦にある神島神社も式内社のひとつに数えられている
https://goo.gl/maps/mM6FwJqA5bz
石段の横にある地藏堂跡に建てられている観音堂
「民俗資料選集39(p.29)」に旧堂についての解説・写真あり。
「ガイドブック陶山100選(p.31)」を参照
旧堂の鬼瓦が残されている
坂東9番 都幾山 慈光寺 [ときさん じこうじ] (十一面千手千眼)
『おん ばざら たらま きりく』
「聞くからに 大悲大慈の 慈光寺 誓いも共に 深き岩殿」
7番札所の北1.64km
https://goo.gl/maps/GLKx1
子安大師坐像?
「*(種子「ア」) ○谷文?七」
「明治五(1872年)壬申◯◯月吉?日 」「清月妙?心信女?」
右手に錫杖を持ち、左手で赤子を抱きかかえている。地蔵菩薩かもしれない。
牛供養碑(向かって右から2番目、同4番目)
随神門
随神門の前には木造の鳥居の台石が残されている
「ガイドブック陶山100選(p.32)」を参照
https://goo.gl/maps/ZvPxonZAm8U2
この辺りの字名を「宮ノ前」という
木造の随神像1対(向かって右は阿形、左は吽形)と
木造の唐獅子と狛犬?(どちらも阿形)が安置されている
盥漱盤(手水鉢)
「漱水」「◯◯ ◯◯ 八月 吉日」「當村 ◯◯◯◯ ◯◯」
福山市東深津町にある王子神社の水盤(尾道の石工 山根十三郎 作)に似ている
百度石
「百度石」「当村 願解主 松浦伊?三郎」「明治丗九年(1906年)」
鎌倉積みの石段
「ガイドブック陶山100選(p.32)」を参照
下る時には要注意。石段の脇を通った方が安全。
拝殿
唐獅子a(向かって右)
「村中」「癸天保十四年(1843年)」
唐獅子b(同左)
「村中」「尾道 石工宗八 作」「卯八月吉日」
石工は尾道の山城屋宗八
石燈籠1対
「奉寄進」「坂本菊右衛門 二代目」「文政八酉(1825年)八月吉日」
在田神社(有田八幡宮)
八幡宮(八幡神社)と式内社の在田神社が合祀されている。
旧社格は村社。八幡宮の祭神は神功皇后・應神天皇・玉依姫。
在田神社の主祭神は苅田彦命(かりたひこのみこと)、苅田姫命、
併神は宗像三神である田心姫命(たごりひめのみこと)、
湍津姫君(たぎつひめのみこと)、市杵島姫君(いちきしまひめのみこと)。
「ガイドブック陶山100選(p.33)」を参照
笠岡市内の式内社については「笠岡市史 上巻(pp.345-348)」を参照
https://goo.gl/maps/BzymhTDURZH2
八幡宮の石燈籠1対(本殿前)
「奉寄進八幡宮御神前 武運長久処 元禄十二*秊(年)(1699年) 施主 當村住人 卯八月吉日
江木與?七郎」
元禄11年より有田村は幕府代官の支配地となっている
「笠岡市史 史料編上巻(pp.226-230 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の有田村の項)」を参照
本殿は明暦2年(1656年)に再建。昭和40年(1965年)に改築。
簡易仮設トイレあり
本殿の後ろにある車道を北へ40m程下ってY字路から登山道を左(北)へ1km程上ると
神之峰の尾根路に出る。右折して東へ115m程進むと山頂。
本殿の東
境内の東端
瓦質の小祠4個と旧祠の瓦が残されている
参道を下って石鳥居の前に戻る
石鳥居の前の石橋を渡った先(LAWSON 笠岡有田店がある辺り)の字名を「鳥居前」という
徒歩なら石橋を渡って有田川沿いの細道を北西へ128m進み、県道3号線を横断。
車なら山陽新幹線の高架下の十字路に戻り、備南街道を西へ90m進む。
つきあたりの丁字路を右折して県道3号線を北北西へ116m進む。
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吉浜菅原神社/生江浜
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