【旧金浦町坂東三十三所観音霊場 画像集.7(13-15番)】


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吉浜菅原神社生江浜

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篠坂

篠坂村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237) 皇国地誌
 備中国第壱大区小田郡小四区村誌(明治9年編)」を参照




観音峠

篠坂と押撫の境にある

Y字路から細道を南へ20m程上って左折し、東へ10m上る




お堂があるY字路から舗装路を南(右)へ進むと墓地、山道を東へ上ると観音院の跡




新四国32番禅師峰寺 (大師/十一面観世音) <笠岡市押撫 小学校の上の峠 道より10m山の中に入る>
 八葉山 求聞持院 禅師峰寺 [はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「静かなる 我がみなもとの 禅師峰寺 浮かぶ心は 法(のり)の早船」

https://goo.gl/maps/6cUdFjX5XBF2

お堂の向かって左から参道を東へ35m程上る




Y字路からさらに東へ22m程上る




観音院の跡

竹藪の中にあるので判りにくい。標柱は昭和59年6月15日に建立。

室町時代(天正年間)に篠坂の泉福寺十二坊の一つである星蔵坊を普門寺觀音院として再興。
昭和14年に教蔵院、常行院、観音院が合併して三宝院となる。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の篠坂村の項)」に「観音院 東西十間(約18.18m)
南北廿二間(約40m)七合 面積七畝十七歩同
宗同末(古義真言宗笠岡村遍照寺末)ナリ
本村ノ南東(※正しくは南西)ニアリ開基創立詳ナラス」と記されている。




堂内向かって左にあるのは地蔵菩薩立像

『おん かかかび さんまえい そわか』




聖観世音菩薩立像

「十三番 *武刕(武州) 浅草寺」

坂東13番 金龍山 浅草寺 [きんりゅうざん せんそうじ] (聖観世音)
『おん あろりきゃ そわか』
「深きとが 今より後は よもあらじ つみ浅草へ まいる身なれば」

12番札所の北東965m。観音院の跡。

https://goo.gl/maps/rYQRN

Y字路まで戻り、左折して参道を南東80m程上る




観音院の卵塔場

https://goo.gl/maps/fzwnSKigKX72

県道377号線に戻って右折し、北東へ300m進む




県道377号線を右折し、民家の横の細道を南へ15m上る




大日如来立像?

新四国28番大日寺 (大日) <>
 法界山 高照院 大日寺 [ほうかいざん こうしょういん だいにちじ]
 『おん ばざら だどばん』
 「露霜と 罪を照らせる 大日寺 などか歩みを はこばざらまし」

https://goo.gl/maps/taKFtHRHdyS2




「準四国八十八ヶ所霊場 第二十八番 本尊 *(金剛界大日如来の種子「バン」) 大日如来」

28番札所前から県道を北東へ70m下る




「神の峰」の矢印がある丁字路を右折。細道を南南東へ130m程上る。




小さい溜池の下




お堂

木造地蔵菩薩立像が祀られている

『南無地蔵大菩薩』

https://goo.gl/maps/FXUoUgchPRH2

登山道を南へ370m程上る










丁字路を左折して東へ74m上る

https://goo.gl/maps/jVUSkUqXX1m




神の峰(神之峰)山頂(202.3m)の神之峯大師堂

棟木の墨書き
「祈神之峯弘法大師堂宇安全 佛法紹隆」
「発願主 三宝院住職 ◯◯◯◯ 世話方 篠坂上郷信者中」
「昭和五十九年四月二十一日 上棟」

昭和59年(1984年)に再建




井戸(使用可能)がある





手水鉢(向かって右)

「奉納」「明治三拾六年(1903年) 旧四月吉日」
「発起人 藤原◯◯ 仝 ◯◯ ◯◯ 妹尾◯◯」

水鉢(中央)

石香炉

「施主 ◯◯ ◯◯ 周旋人 ◯◯ ◯◯」




弘法大師坐像(向かって右)

「下竹田村 ◯◯ 八尋村 義蔵 上御領村 ◯◯◯ 世話人 當村(篠坂村?)  和右衛門 」




十一面観世音菩薩坐像

「二十七番 神峯寺」
台座「施?主 ◯◯作吉」

左手に花瓶を持っている

新四国27番神峯寺 (十一面観世音/大師) <>
 竹林山 地蔵院 神峯寺 [ちくりんざん じぞういん こうのみねじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「みほとけの 恵みの心 神峯(こうのみね) 山も誓いも 高き水音」

下竹田村(現 広島県福山市大字下竹田)、八尋村(同大字八尋)、
上御領村(同上御領)は旧安那郡に属していた

https://goo.gl/maps/EZ8h7MkZfuP2




大師堂

『南無大師遍照金剛』

神之峯大師堂の向かって右後ろにある。三宝院の奥の院?

「ガイドブック陶山100選(p.56)」を参照




旧大師堂跡

「小田郡誌 下巻(p.599)」には「山頂に一宇ありて弘法大師を祀る。
靈驗あらたかにして賽者多し。」と記されている。




標高は202.3m。「小田郡誌 下巻(p.599)」には「鴻の峯」、記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.254-257 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小七区村誌内の入田村の項)」には
「山 高ノ峯 高サ百丈(※303.3m)本村ノ北(※南)ニアリ
嶺上三分シ南有田村ニ属シ西篠坂村ニ属し(※ママ)
東北本村ニ属ス 山脈南ニ起リ北ニ伏ス
樹木扶疎往々開墾シテ耕地ト為ス」と記されている。

大師堂の東は篠坂村の字「竜王」、西は押撫村の字「竜王」、南は有田村の字「龍王後」。
「こうのみね」の呼び名は新四国27番札所が勧請されて以降のものである可能性が高い。

「笠岡市史 地名編(p.134, p.139, pp.148-149)」を参照。







神の峰山頂からの眺望(南東)

金崎、金浦橋、金崎大橋、生江浜、笠岡湾、笠岡湾干拓地(カブト東町、拓海町)、
片島、神島(瀬戸、天神)、横島、美の浜など。かすかに塩飽諸島が見えている。




大冝(南)

向かって右は大見山。用之江では唐松山と呼ぶ。

「笠岡市史 史料編上巻(p.211 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小三区村誌内の大冝村の項)」を参照




県道3号線、用之江交差点、城見台、茂平等(南南西)




JFEスチール、鞆の仙酔島

大師堂前から西へ175m進む




丁字路

標高約195mm(±5m)

押撫と篠坂と有田の境界。道の向かって右(北)は篠坂の字 妙山、
左奥(南西)が押撫の字 牛ノヒタエ、左手前(南東)が有田の字 龍王後。

字「牛ノヒタエ」はイヌタデ属の一年生植物ミゾソバの別名である「ウシノヒタイ(牛の額)」からきたものか?





「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の篠坂村の項)」には
「山 鴻ノ峯高六拾丈(※181.818m)、
嶺上三分シ南有田村ニ属シ東入田村ニ属シ西北本村ニ属ス
全山髡禿ナリ」と記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.226-230 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の有田村の項)」には
「山 龍王山高サ百丈(303.3m ※百間=約181.82m?)本村ノ北位ニアリ、
嶺上三分シ西押撫村ニ属シ北篠坂村ニ属シ南東本村ニ属ス」と記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.230-233 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の押撫村の項)」には
「山 龍王山高サ三百丈(909.9m ※)本村東方ニアリ、
嶺上三分シ東ハ有田村ニ属シ北篠坂村ニ属シ西南本村ニ属ス
嶺上矮松扶疎往々墾破シテ耕地ヲ為ス」と記されている。

丁字路を左折し、南へ170m下る

https://goo.gl/maps/Pkao5ViWoyH2







道沿いに土塁の基礎が延々と続いている

「ガイドブック陶山100選(p.59)」を参照




在田神社奥の院の磐座

龍王山の頂に鎮座。在田神社の御神体の依代とされている。

詳細は「ガイドブック陶山100選(p.35)」を参照

https://goo.gl/maps/th4J3L5nbm82







龍王神社

社の下に水甕が埋められている

詳細は「ガイドブック陶山100選(p.35)」を参照

標高は約165m(±5m)

「御登極記念 小田郡誌(p.69)」に「龍王山 大字有田及び押撫部落に跨り山勢美しく北に聳ゆ。
山頂に*小社(小社)あり 古來こゝに旱天の雨乞ひあり、花時登り遊ぶによし。」とある




龍王神社の南にある丁字路を左折し、東へ95m進む

土塁の基礎は磐座の手前で東に向きを変え、この道沿いに延びている




周囲に展望なし




石鎚神社

「*石鈇山大權現(石鎚山大権現) 天保十二歳(1841年) 辛丑八月日 村中 氏子」

篠坂の修験道については「ガイドブック陶山100選(p.52)」を参照

石鎚山は南南西約90kmの所にある

『南無石鎚大権現』『南無神変大菩薩』

https://goo.gl/maps/9Gw1Htaw3xq

さらに東へ40m進む




目印のテープが取り付けられている所で右折し、南東へ40m程下る










展望ポイント(南)

正面に県道3号線、用之江、城見台。
四国の石鎚山は向かって右方向(JFEスチール西日本製鉄所の彼方)。

https://goo.gl/maps/zniEfjJi5X52




鎖場?

大師堂前に戻り、東へ100m下る




丁字路を左折し、北へ280m下る










神社

祭神未確認

https://goo.gl/maps/31ntdHzfFkx

北北東へ100m下って丁字路を左折し、西北西へ200m下って県道377号線に出る 




井戸の横





地蔵菩薩立像

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

https://goo.gl/maps/fBgDwiB9f5w




車道を北北東へ65m進む




十二坊本堂之跡

熊野神社の本殿の西にある

「備中誌 小田郡(p.92 明治36年)」に「篠坂山經藏院*泉福寺(泉福寺)大坊
 右*泉福寺一山の本堂を以て本堂とす 年貢地
 本尊阿彌陀立像 本堂方三間 二王門 今廢してなし 經堂是又今はなし
二王の像 古作と見ゆ手足離散して堂中ニ有 堂敷地一反計上ニ熊野*權現社(権現社)有之
 本尊聖觀音 昔一山の本尊也 万治三年(1660年)より笠岡遍照寺の末寺と成」とある

創建当時の本尊は薬師如来で、後に阿弥陀如来に作り変えたという
「ガイドブック陶山100選(p.57)」を参照

この木造如来立像は県指定重要文化財として岡山県立博物館で展示されている
「笠岡の文化財(p.32)」を参照

「御登極記念 小田郡誌(p.72 大正13年)」に「往昔篠坂山十二坊の本堂は
境内南方の低地にありしものにして中古以來湮滅して、
今は全く田圃となれり。只現存して當時を語るものは法界塔一基のみ。」とある

『南無薬師瑠璃光如来』『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』

https://goo.gl/maps/74ZPxrG6LX72




三宝院にある法界地蔵




三寶院縁起




北西へ65m上る




篠坂の三寶院

「ガイドブック陶山100選(pp.48-51)」を参照

https://goo.gl/maps/MmF5vomGCHN2





 

水子子育地蔵尊

『おん かかかび さんまえい そわか』




仁王堂

三寶院の石段の向かって右にある。昭和59年建立。
堂内向かって左の部屋に仁王像1対が、中央の部屋に木造弘法大師坐像が安置されている。

『南無大師遍照金剛』

「ガイドブック陶山100選(p.48)」を参照




仁王像

鎌倉時代の作といわれている

「ガイドブック陶山100選(p.51)」を参照

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「因に*徃時(往時)本堂の仁王は頗る大にして
今は本院に之を藏せり。諸部離散して全形を止めずと雖も彫刻現時のものと著しく趣を異にし、
製作の古きを思はしむ。」とある




十一面観世音菩薩立像

坂東14番 瑞応山 弘明寺 [ずいおうさん ぐみょうじ] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「ありがたや 誓いの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのみや」

https://goo.gl/maps/29N9m68KYtD2




仁王堂の横にある石仏群




法界地蔵(向かって左)

「法界」「享保十二未天(1727年) 十一月廿四日」
「右爲◯◯童子 ◯◯童女 ◯◯童子 ◯◯童女 ◯◯◯◯」
「◯◯ ◯◯文左衛門 ◯◯◯◯◯ 住寺直乘代」

『おん かかかび さんまえい そわか』

直乘阿闍梨(享保二十一年辰四月十三日 歿)のお墓は常行院の卵塔場にある




千手観世音菩薩立像(向かって右)
 「十九番 上竹田村 光◯寺 名田」

西国19番 霊ゆう山 行願寺 革堂 [れいゆうざん ぎょうがんじ こうどう] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」

深安郡 上竹田村は現在の福山市神辺町大字上竹田。
大坊の堂宇が文政六年(1823年)六月の火災により失われた際に、
深安郡下竹田村から民舎をもとめてこれを再建した。

千手観世音菩薩立像(同左)
 「廿番 山城国 よしみね寺」

西国20番 西山 善峯寺 [にしやま よしみねでら] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「野をもすぎ 山路に向ふ 雨のそら 善峯よりも 晴るる夕立」




弘法大師坐像?(同4番目)

銘文判読困難




石鎚金剛蔵王大権現供養塚

「石鎚金剛蔵王大権現供養塚 」「嘉永三戌年(1850年)四月吉日 」「◯◯◯作◯」

金剛蔵王権現『おん ばさら くしゃ あらんじゃ うん そわか』

庚申塔

「青面金剛」

青面金剛『おん でいば やきしゃ ばんだ ばんだ かかかか そわか』

篠坂山の修験道については「ガイドブック陶山100選(p.52)」を参照







篠坂山大坊泉福密寺三寶院(聖観世音2躰/愛染明王)

高野山真言宗備中霊場第74番

光明山遍照寺末。昭和14年に教蔵院、常行院、観音院が合併して三宝院となる。

『おん あろりきゃ そわか』『南無大慈大悲観世音菩薩』
『おん まか らぎゃ ばぞろ しゅうにしゃ ばざら さとば じゃく うん ばん こく』

https://goo.gl/maps/PUHHMJv7LK52




観音院の跡

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「四、觀音院 眞言宗大覺寺派に屬し、遍照寺末なり。
本尊は正觀音菩薩にして、天正年間(1573-1592年)の開基なり。寺領田壹反四畝歩、畑五段四畝歩、
檀家六十戸を有す。境内六畝二十二歩。次第に荒廢に傾き 寺佛堂客殿庫裏を
兼ふるもの一宇存するのみ。これ又篠坂山十二坊の一たりしものにして
星藏坊又は普門寺と稱す。」とある

https://goo.gl/maps/rYQRN




常行院の跡

三宝院の西南西422mの所にある。火災により建物等は消失。
今は竹藪に飲み込まれて、その跡を伺いし知ることができるのは
僅かな土塀跡とこの標柱のみ。

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「三、常行院 眞言宗大覺寺派に屬し、遍照寺末なり。
本尊は愛染明王にして寺領七反七畝十六歩、畑壹町五段四畝拾七歩、
檀家九十戸あり。本院はもと篠坂山十二坊の一にして圓藏坊又は*龜福寺(亀福寺)とも
稱す。一時無住にして小學校舎に代用せしことあり。建物荒廢せしを現住橘海忍の
發願により明治三十六年(1903年)大修繕を加へ藁葺を瓦とし大いに寺院の尊嚴を添ふるに至れり。
境内壹反七歩。寺佛堂客殿庫裡を兼ぬる一棟南東に面し 西部に倉庫、
東に照樓(鐘樓?)あり。*閑靜(閑静)淨土たり、」とある

https://goo.gl/maps/EVCHBUkpzWN2




三宝院の沿革

本堂・庫裡は昭和41年(1966年)に建立





宝篋印塔

「*(宝篋印陀羅尼経の種子「シッチリヤ」)」「明和三年(1766年) 戌八月日」
「天保十二(1841年) 再興 丑二月日」「願主 篠坂村中 世話人 吉清 與四郎」

宝篋印陀羅尼
『のうまく しっちりや じびきゃなん さらば たたぎゃたなん 
おん ぼびばんばだばり ばしゃり ばしゃたい そろ そろ 
だらだら さらばたたぎゃた だどだり はんどま 
ばんばち じゃやばり ぼだり さんまら たたぎゃた 
たらましゃきゃら はらばりたなう ばざら ぼうじまんだ 
りょうぎゃらりょうぎりてい さらばたたぎゃた じしゅちてい 
ぼうだやぼうだや ぼうじぼうじ ぼうじゃぼうじゃ 
さんぼうだに さんぼうだや しゃらしゃらしゃらんと 
さらばばだに さらばはんだびぎゃてい ころころ 
さらばしゅきゃびぎゃてい さるばたたぎゃた きりだや 
ばざらに さんばらさんばら さらばたたぎゃた ぐきや 
だらんじ ぼじり ぼでいそぼでい さらばたたぎゃた 
じしゅちた だどぎゃらべい そわか 
さんまやじしゅちてい そわか さらばたたぎゃた 
きりだや だどぼだり そわか そはらちしゅちたさとべい 
たたぎゃたじしゅちてい ころころ うんうん そわか 
おん さらばたたぎゃた うしゅにしゃ だどぼだらに 
さらばたたぎゃたんさだと びぼしたじしゅちてい うんうん そわか』




奉為弘法大師一千五十遠忌法樂塔

「奉為弘法大師一千五十遠忌法樂塔」「廻末資憐愍是勝計金剛*㝎(定)水湛龍*卧(臥)?之洞」
「*酬?正法流傳之本誓鐵塔教風恢烏卯之朝」
「于時明治廿八年(1895年)三月下旬建之 現主 海忍 施主 内山與一郎」

『南無大師遍照金剛』

常行院の橘海忍和尚の代に建立




*卧(臥)/*酬




鐘楼




梵鐘

「篠坂山三寳院」「寄附者 檀徒中」「昭和廿七年(1952年)七月吉祥日」
「南無大師遍照金剛」「住職 俊朝代」「尾道市 市八梵鐘鑄造所謹製」

常行院にあった梵鐘は安永7年6月に建立されたもの

「小田郡誌 下巻(p.699)」を参照




泉福寺教蔵院(大坊)の跡

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「二、*敎(教)藏院 眞言宗大覺寺派にして、遍照寺末十三等なり。
本尊は正觀音菩薩にして、寺領田壹町歩、畑二町四段歩、山林一町三段歩 檀家三百戸あり。
大字篠坂なる篠坂山中腹松の間に隠見す。大坊または*泉福寺(泉福寺)とも稱す。
往時寺領七十二石。十三ヶの伽藍を有し 當山十二坊の首位にありたれども、
文政六年(1823年)六月火災に罹り 民舎を深安郡下竹田より需め、建設せしものなり。
境内一段三畝十二歩。寺佛堂客殿庫裏を兼ぬる一棟南面し、西南に鎮守稲荷*大明神
(大明神)を祀る。鐘樓正南に高く聳へ 東南隅に部屋、其の北に倉庫等建ち並べり。」とある




旧堂の軒丸瓦、丸瓦、平瓦等

大坊の大の字




修行大師

『南無大師遍照金剛』




手水鉢

昭和47年2月吉日寄進




三宝院前から車道を南東へ67m下る

十二坊本堂之跡の前まで戻り、丁字路を左折




不老川沿いに細道を東へ53m進む




観音堂

熊野神社の石鳥居の向かって左下にある




十一面観世音菩薩立像(向かって右)

坂東15番 白岩山 長谷寺 [しらいわさん ちょうこくじ] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「誰もみな 祈る心は 白岩の 初瀬の誓い たのもしきかな」


十一面観世音菩薩立像(同左)

西国観音霊場のもの

https://goo.gl/maps/Iq832


 

石燈籠(向かって左)

「常夜燈」「文化五年(1808年) 辰十一月吉日」

石燈籠(同右)

「寛政四(1792年)壬子十一月 氏子中」

石鳥居

「熊野權現」「安永四乙未(1775年)九月吉日」「十二氏子中」




蛟の注連縄




唐獅子(向かって右)

「奉獻」「願主 ◯◯◯」「嘉永七 甲寅(1854年) 夏六?月 ◯◯」

唐獅子(向かって左)

「安政二 年(1855年)乙 卯上 冬月(陰暦十月)二 十八日」「氏子中」




篠坂の熊野神社(熊野十二社權現)

字 北ノ坊に鎮座。祭神は伊弉諾尊。旧社格は村社。毎年正月七日に射的神事が行われている。

「ガイドブック陶山100選(pp.56-58)」、「御登極記念 小田郡誌(p.72)」を参照

https://goo.gl/maps/8cxsd3nTGmG2




覆屋に囲われた本殿




きょうぐろ(経塚)

拝殿の東22mの所にある

「ガイドブック陶山100選(p.51)」を参照

向かって左端の小社は龍王社、左から2番目は荒神社、右端は木野山神社




自然石地神

「地神」

https://goo.gl/maps/asp4Tjj2kpy

県道377号線に戻り、東北東へ112m進む




四面薬師堂

篠坂山西雲寺正楽院北之坊(泉福寺十二坊のひとつ)跡

「ガイドブック陶山100選(pp49-50, p.54)」を参照

https://goo.gl/maps/qZtYAjP4zXL2







西面/北面
東面/南面

頂点に突起があるので上に笠石が載せられていた可能性が高い

四面薬師堂前から県道を西へ23m下り、丁字路を左折




細道を南東へ42m上り、右折して墓地へ




地蔵堂

字 堂ノ上にある

「民俗資料選集39(pp.30-33)」を参照




不明の坐像(向かって左)

台座「廿五番 津寺」

一面二臂

地蔵菩薩像(同右)

新四国25番津照寺 (揖取地蔵) <>
 宝珠山 真言院 津照寺 [ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ]
 『おん かかかび さんまえい そわか』
 「法(のり)の船 入るか出ずるか この津寺(つでら) 迷うわが身を 乗せて給えや」

左右の台座の位置が逆になっている。

https://goo.gl/maps/r7LmzuNW8782

墓地から細道を南東へ85m上り、車道に出る







観音堂

「民俗資料選集39(pp.30-33)」を参照




観世音菩薩坐像(向かって左)

台座「廿四番 東寺」

未敷蓮華を持っている。聖観世音菩薩か十一面観世音菩薩。

虚空蔵菩薩坐像(同右)

左手に如意宝珠を持っている。台座の銘文は未確認。

左右の台座の位置が逆になっている。

新四国24番最御崎寺 (虚空蔵) <>
 室戸山 明星院 最御崎寺 [むろとざん みょうじょういん ほつみさきじ]
 『のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか』
 「明星の 出でぬる方の 東寺 くらき迷いは などかあらまじ」

https://goo.gl/maps/SHMeiYXXXAp

24番札所前から車道を東へ41m進み、丁字路を左折して北へ265m進む




地蔵堂(向かって右)と牛供養碑2基(同左)

https://goo.gl/maps/3GBdvXVrjrB2




地蔵堂




不明の石仏

卒塔婆に地蔵菩薩と記されている

『おん かかかび さんまえい そわか』




牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「牛供養 金政茂一」




牛供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「昭和三十七年(1962年)五月八日 飼主 西江熊造」

「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の篠坂村の項)」には「牛馬 牡牛弐拾壱頭、
牝牛四拾四頭、惣計六拾五頭、馬無シ」と記されている。
「皇国地誌」は明治九年(1876年)一月調、同年十月進達。

地蔵堂前から北へ48m下って県道377号線に出て右折し、字「峠ノ口(たわんくち)」を東へ73m下る。

「ガイドブック陶山100選(pp.75-76)」を参照


画像集.1画像集.2画像集.3画像集.4

画像集.5画像集.6画像集.7画像集.8

画像集.9画像集.10画像集.11画像集.12

吉浜菅原神社生江浜

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