【旧金浦町坂東三十三所観音霊場 画像集.1(1-3番)】

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吉浜菅原神社生江浜

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笠岡市西部にある坂東三十三所観音霊場。開創は1751年。順路は西浜(ようすな)
→吉濱(=吉浜)→大冝(おおげ)→用之江(もちのえ)→在田(=有田)→押撫(おしなで)
→篠坂(しのさか)→入田(にゅうた)→西大戸(にしおおど)→大戸(おおど)
→大河(おおこう)→木之目(=現:相生)となっている。

金浦町(1901年~1952年。1952年4月に笠岡町と合併して笠岡市になる)域は西浜、木之目、吉浜、生江浜、大河のみ。
城見村(大冝、用之江、茂平。1889~1953年)、陶山村(有田、押撫、篠坂、入田。1889~1953年)、
大井村(西大戸、東大戸、小平井。1890~1953年)は1953年10月に笠岡市に編入されている。  

金浦町については「御登極記念 小田郡誌(pp.58-66)」を参照

西浜→吉浜


西濱村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.197-201) 皇国地誌
 備中国第壱大区小田郡小二区村誌(明治9年編)」を参照




県道289号線が西浜(ようすな)で山陽本線と交差する所に道しるべがある




地蔵堂(1番札所)への道しるべ

「弘化二巳年(1845年)建之有心 右 ふく山道 左 地藏堂」
「平成13.7月復元」

「ふく山道(福山往来)」は備中国岡山城下と近世山陽道の津之郷を結ぶ鴨方往来の一部

https://goo.gl/maps/b9uIv



盃状穴あり




笠岡市立郷土館にある道標

「ふく山みち」「右 たましま道」「天保四巳(1833年)五月」

https://goo.gl/maps/fuiKvGM2H2P2


 

道標のところから山陽本線沿いに西へ13m進んで右折し、民家の横の細道を北へ20m進む




地蔵堂

西浜の墓地にある

「御登極記念 小田郡誌(p.62 大正13年)」に「五、地藏堂 大字西濱にあり。もと笠岡稱念寺(正岡山称念寺)末にして、
淨土宗に屬せしが明治初年(1868年)頃 堂守眞念なるもの眞言宗の*僧(僧)なる關係よりこゝに眞言宗に轉じ
笠岡地福寺(※光明山地福寺)に轉屬す、本尊は阿彌陀如來座像を安置す。現堂番藤井良田氏たり。檀家無し。
 備考 本堂所在の位牌に承應二年(1653年)*道淸(道清)の死あれば
其の以前の建立にして、今日迄に貳百五六十年を經たるものなり。」とある




法界地蔵

「元文四己未歳(1739年) 十月廿四日」

台座に是心さんの辞世の言葉が刻まれている

『おん かかかび さんまえい そわか』


三界萬靈供養塔(如意輪観世音菩薩像)

浄土宗の上人2人と念仏講中の17人の銘と共に「講中一蓮托生」と刻まれている

『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』




金浦四国57番栄福寺 (阿弥陀/大師)
 府頭山 無量寿院 栄福寺 [ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ]
 『おん あみりた ていせい からうん』
 「この世には 弓矢を守る 八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏」

向かって左にある本尊の石仏は阿弥陀如来ではなく十一面観世音菩薩坐像




十一面観世音菩薩立像

「鎌倉 壹番 杦本寺」

坂東1番 大蔵山 杉本寺 [だいぞうざん すぎもとでら] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかわらじ」

笠岡金浦郵便局の南東40m。地蔵堂の中(向かって左端)。

https://goo.gl/maps/io2dr




地蔵堂の向かいに金浦四国88番のお堂がある




金浦四国88番大窪寺 (大師/薬師)
 医王山 遍照光院 大窪寺 [いおうざん へんじょうこういん おおくぼじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「なむ薬師 諸病なかれと 願いつつ 詣れる人は 大窪の寺」

https://goo.gl/maps/EJ7KBUQB9ip




墓地の中を北へ抜けて左折し、県道289号線(福山往来)を西へ137m進む




恵美須神社

字 町分にある。祭神は事代主命。

石燈籠(向かって右)

「常夜燈」「文政十(1827年)亥八月吉辰」

石燈籠(同左)

「常夜燈」「天保十三壬寅年(1842年)」

石鳥居

「恵美須神社」「願主 氏子中」「文化貳(1805年)乙丑四月吉辰?」

https://goo.gl/maps/EG88nMbwzrM2




唐獅子(向かって右)

「*奉𤣉(奉獻)」「氏子中」「周旋人(6人 + 18人)」

唐獅子(同左)

「奉𤣉(奉獻)」「氏子中」「周旋人(8人 + 18人)」 




松尾神社(恵比寿神社の後ろ)

「信者中 明治十四年(1881年) 巳三月吉日 久我房三 戸長 原 完次 」「周旋人(12人)」




久我邸

「語り継ぐ金浦(pp.41-46)」を参照

毎年ひったかの日(旧暦の5月5日に近い土曜日)には露店が立ち並び、若者で溢れかえる





吉田川(新川)にかかる千歳橋の横に展示されているこどもひったか(金浦小学校の児童作品)




2013年時点で34周年(吉田川に展示するようになって30年)




ひったかは国の選択無形民俗文化財、市の重要無形民俗文化財に指定されている

妙見山(平家方)のひったかはダルマ(2013年)

昭和30年代以降のひったかの図案は「ヒッタカ -笠岡市指定無形民族文化財記録保存報告-」を参照




行者山(源氏方)のひったかは富士山(2013年)




恵美須神社前の十字路から南へ75m進み、山陽本線の下を通過

https://goo.gl/maps/bCJtS9PXFDt




竜宮荘前

このあたりの字名を新開住吉町という

https://goo.gl/maps/Hb9Ujw9is412




八幡神社の参道にある石燈籠ij

「奉燈」「新開住吉町 當番組中」「昭和六年(1931年)十月祭典紀念」

https://goo.gl/maps/CjHwVaSoiYB2


山陽本線と消防機庫の間にある細道を西へ12m進む




吉田川河口の東にある住吉神社

石燈籠(向かって右)
「奉燈」「昭和二十六年(1951年) 一月吉日 建之」
「杉原荒一 *桒田(桑田)辨太郎 八杉五市 八杉嘉一  *桒田(桑田)菊一 八杉房次郎 小川初一」

石燈籠(向かって右)
「奉燈」「塚本達平 杉原安太郎 酒井秀太郎 唐下格治 酒井傳吉 *桒田(桑田)八郎」

石祠
「漁方中 明治廿七年(1894年) 午三月十五日」「久我房三」「石工 千代吉」
「周旋人 八杉五郎吉 *桒田(桑田)芳五郎 八杉多?七 唐下実五郎 仝 久平 藤本重吉
 *桒田(桑田)森三 佐藤岩吉 津田久三 笠原種吉」「八杉福松 仝 正平 小川久助
 仝 弁?吉 小林嘉一 藤原茂三 平田◯◯松 唐下万吉  仝 米七 仝 仁三吉 八杉吉平」
「魚問屋 原 定◯ ◯谷慶?次郎 原 三郎 小早川都之助 周旋人
 八杉富?四良 大内勝二郎 ◯藤◯久吉 *桒田(桑田)源兵衛 藤原今?吉」

https://goo.gl/maps/uGNPjEnujE42




住吉神社の横

纜石あり










西濱港

「御登極記念 小田郡誌(p.59 大正13年)」に「灣口より灣底に至る約十町、滿潮時の水深
平均四尺五寸(約136cm)、潮汐干滿の差最大十二尺五寸(約379cm)、最小四尺五寸、
平均八尺(約242cm)にして大型船の停泊に適せず、僅かに漁舟の出入りせるのみ、」とある

「御登極記念 小田郡誌(p.64)」に「漁業は多く水島灘で行はれ遠洋漁業に從事するものなし。
昔木とは漁獲も多かりしが、近年は鐵道敷設の爲め大いに減退し漁家の不景気を
表せること甚し。沿岸には近年牡蠣の飼養行はれ、西濱生江濱等
夫々組合を設けて飼養しつゝあり。」

「西濱港 港内水淺く大船の寄港せしむるに足らずと雖、風波静かにして
港内連*漪(さんずい + 猗)靜穏にして、漁舟の多く出づるを以て知らる。
備後の詩傑菅茶山(1748-1827年)嘗(かつ)て港を見て賦したる七律を左に掲ぐ。 
 人家斷續枕汀沙 滿港斜陽*曬(晒)釣蓑
 橋影馬聲紅鬣市 皚風輕靄白*鷗(鴎)波
 百年四海干戈息 千古扁舟遺逸多
 我亦山林考盤春 吟詩行答濯纓歌。」とある

干戈(かんか): 戦争
扁舟(へんしゅう): 小舟








ひったかの翌日に吉田川河口付近でおこなわれる金浦のおしぐらんご(市指定重要無形民俗文化財)

妙見丸・兜丸・乙女丸(平家方)・行者丸・五月丸・龍宮丸(源氏方)の6艘を使い、6戦行われる

「御登極記念 小田郡誌(p.68 大正13年) 」に「八、おしぐらんごう 古くより行はるれども、
何時代よりなるか明らかくならず。 西濱部落を北より南に通ずる吉田川(新川)あり、
今より三百七十年前開鑿せられたるが、其の頃以前より行はるゝ事は明かなり。川を隔てゝ東西に小山あり。
之を東山・西山と稱す。毎年端午の節句には東西を紅白の二團とし、兩方の山腹には物に象りたる
紅燈のイルミネーシヨンを作り、点灯して互に競爭す。家々には紅軍は平氏、白軍は源氏の名將の名を記したる
紅白の旗を立て、各自氣勢を振ふ。當日滿潮の頃に至れば、豫ねて用意したる漁舟數艘に若者分乗し、
紅白二軍となりて、競爭を行ふ。往昔はおしぐらんごうに於て東軍勝てば、米の豊作を意味し、西軍勝てば
綿の豊作を意味すとて、*近鄕(近郷)近在より觀衆多く。然も實際の競爭者よりも、觀衆に於て
紛爭を見ること多かりき。 競爭に用ふる漁舟は、昨年五月より端午までの新造のものを用ふ。
若者は其の地にて選抜し、抽籤にて其の舟を定む。西濱にて漁舟は古來赤舳と稱して
船首の水を押し切る木を赤く塗りたるものを用ふ。是も亦おしぐらんごうより胚胎せりと言ひ傳ふ。」とある

金浦要覧(pp.93-100 昭和11年)」に「◆郷土名物 おしぐらんごとひつたか
 此の「おしぐらんご」と「ひつたか」は毎年陰暦五月五日、即ち菖蒲の節句當日、晝(昼)と夜に分れて
催されて居る行事である。もとより正確なる*記錄(記録)も無く、何百年も前から口から口へと
傳へ殘されたものであつてその沿革に就ては勿論不明な点が多々あり、恐らく活字となって現れるのも、
之が最初ではないかとも考えられるので、之れに就ては過去の傳説と、殘された文獻及び史實と、
更に編者の推斷が多分に含まれている事を豫め御承知願ひたい。

 この行事が、源平の合戰に因を發してゐる事は勿論何人も否めない事實であり、行事の内容そのものが
如實にそれを物語つてゐるのである。其の起因したる源平合戰を立證するものは現在川上郡平川村、
その當時の藩主であり學者でもあつた、平川金兵衛尉、源親忠公の著書「古戰塲備中志」である。
この書物は今より約二百余年前の著述であつてその一節に『元暦元年(御鳥羽天皇の御代
今より約七百五十年前)屋島をその本陣として居た平家の越前守三位平通盛と能登守教經の
二人方が備中方面の兵力を集める爲 魚緒郷(※原文ママ)陶山城(今の西濱八幡神社)の西 觀音堂の邊り
 當時高坪山行者山には陶山城の見張り所があつた)に滯在してゐた。その時 通盛、
教經等の手兵の薄きを幸と 密に源氏に心を寄せ時節を待つていた讃岐國の直廳等が、
俄に平家に叛き 軍船三十隻に二千余の軍兵を師ひ、陶山城に押寄せて來た、
此の時城主陶山備中守 己が手兵を率ひ、先陣となり軍船十隻にて迎へ撃ち、
敵を散々に追い散し 通盛、*敎經(教経)をして驚嘆せしめた』と記してある、

此の勇壯な源平の舟いくさが、當時の漁夫の勇猛心を刺激し、東西二派の對立となり、
出港に入港に先陣を競ふ風習となり、遂に恒例年中行事として、紅白二軍の船漕ぎ競爭が
行はれる様になつたものゝ如くである。 從つて此の行事の起源も亦戰後の餘燼未だ消えぬ中に
始められたものと推定するのが妥当で有り 七百余年前よりの傳統的行事なりと言ふ所以でもある。
以上の諸点を綜合すれば今日使ふてゐる白旗赤旗の起源が自然明瞭となるわけである。

 尚「ひつたか」も之と殆ど期を一にして起つたものであり「おしぐらんご」晝間(昼間)主として
大人丈けの競漕であり「ひつたか」は夜間子供を主としての行事であつたものである。
子供も同様に源平二軍に別れて東と西の二山に對陣し、各自持ち寄りの松明を焚き、
両軍各々盛んに氣勢を揚げ、或は石の投げ合ひをし、敵の陣地に登り 捕虜をかついで歸へるとか、
謂はば一種の夜襲の如き相當野蠻な遊びも行はれて居た模様である。それが追々進んで
三百年程前頃になりて西方は赤旗に平家の大將の名前を記し、東方は白旗に源氏の大將の
名前を記し、それを互ひに奪い合つたものである それが次第に進化して美的技巧が
加味される様になり、遂に今日の如く提灯による優劣勝敗の爭ひとなり、作戰計畧の秘法を誇る
一種の知能的戰法に變つて來たわけである。

そこでこの新川の流れる今日の西濱の地勢を頭に持ちて考へては、昔の「ひつたか」の
シキタリがハツキリ頭に浮かばない、でここに余談乍ら説明を記して置く必要がある。
今から約三百年前にはこの新川は無かつたのである、現在の川の流れてゐる所は
豪谷と言つて東西二山にはさまれた峡谷であり、自由に東山から西山へ、
西の山より東の山へ登り下りが出來てゐたのである。 現在の新川を切り開いたのは
約三百年前 *福山(福山)城主水野公が吉濱新涯を造る爲 吉濱土手を築くに方り
吉田川の水の抜け口として新川を掘つたものである。それまでは海水は吉濱土手の邊りから
ドンドン這入つて今の吉濱の邊は箱島を浮べる外 大河(おおこう)鯨鼻の邊まで海であつた。
それを水野公が吉濱に堤防を築き海水の侵入を防ぎ 吉濱新涯を造り、更に吉田川の水の抜け口として
最も近道であり、尚土地の凹み豪谷を切り下げて今の新川築造を考へついたものである。

この豪谷切り下げについて面白い話がある。それは、その當時西濱の顔役某が
此の豪谷切り下げを承知しなかつた、ところ其の男 日頃酒好きである。それを利用して
水野公の家臣 彼に酒數升を與へて承諾せしめたと言ふ。

次に「おしぐらんご」の語源である。これは此の地方の方言として、櫓を漕ぐ事を押すと言ふ、
又駈足競争の事を「かけりぐらんご」と言ふ、これから推して「ぐらんご」と言ふ言葉は
競争といふことゝ同意義である。 即ち「おしぐらんご」は「船漕ぎの競漕」と言ふ事である。
「ひつたか」は昔松明を山高く焚き 両山大いに氣勢を揚げ合つた事より「火を高く焚く」事を
そのまゝ「ひつたく」から「ひつたか」へと今に呼稱せられて來たわけである。

次の文は本年一月一日 山陽新聞紙上に山田定男氏が郷土自慢として發表しニ等を得て
掲載されたもので、「おしぐらんご」の實況を詳細に冩してあり 参考に全文をこゝに*再錄(再録)す。
吾が郷土金浦町西濱部落には古來傳統の「おしぐらんご」が行はれてゐる。
時は毎年菖蒲の節句 源平古戰の名殘りを留めて、龍虎呼相打つ部落對部落の一大船漕ぎ
競漕である。五月五日といへば、まだ陽光は鈍く、日傘の顔見せが何んとなく珍らしがられる時だ。
貧しい漁村の若人にとつて、この一日の訪れこそは將に慰安と歡樂の坩堝となるのだ。

扨て當日晝間の催しとして、午後十一時頃より午後二時迄滿潮の時刻を期して、東西紅白に別れて、
一大船漕ぎ競漕が行はれる。名づけて之を「おしぐらんご」と言つてゐ。恰度街の中心を
東西二つに分けて、西側は紅、東側は白とし、それぞれ紅白の印しを用ふるものだが、
此の日は老若男女は問はず、約三千五百の部落民が夫々味方の船の應援に押し出すのだ。

古い傳説に從へば、源平合戰に形どつたものだと言はれ、此の競漕に勝つた方はその年、
一ヶ年間豊漁であると言ふので、部落民の力他の入れ方は一通りではない。
時には之が爲 流血の惨を見た事も*屢(屡 しばしば)あつた程だ。で此の日使用される
競漕船は皆其の年(一月以降)に造られた新造船計りで、西側から四隻、東側からも四隻が
選定される。斯くして選定された白木の新造船には、夫々部落の腕利が乘り込む。鍛へに
鍛へた赤銅肌も凛々しく、東の漕手は白鉢巻に白褌、西は赤鉢巻に赤褌、何れも素裸の
荒武者揃ひである。舟も同様 舟首に夫々紅白の布を巻き、丈餘の旗を押し立てゝ
威勢よく待機してゐる。一隻に漕手四人、旗手一人、采配者一人が夫々八隻に乘り移ると、
やがて*前祝(前祝)の酒が積まれる。用意がすむと遙か一千米沖の出發点へ急ぐのである
(中途より歸へり丈け競漕する様になつた)

 豫ねて用意の審判船から號砲一發空に轟けば、紅白二隻の物すごいスタートだ、
其の時おそしと、陸上及び海上の群衆はワツと許りに遙か沖合の二隻に聲援を*贈(贈)る、
同時に船からは長い紅白二旒の旗が大きく振られる、潮に濡れた旗の先からは
シキリに飛沫が先方の漕手にかけられてゐる、
船がだんゝ近づくにつれ、二隻はもつれる様になつて、裸體がはげしく交錯する、
船は荒波の上を行が如くに船首が大きく起伏しゐる、此處數分間海上には緊張し切つた
必死の白熱戰だ。 群衆は鐵道線路と言はず屋根とは言はず數萬の眼を一点に集めて
海を壓(圧)してゐる、更に近づく船の中を見れば、紅白裸漢の眼は血走り、
五體はシブキと汗に滴つてゐる、船首は間一髪の差を以つて、グンゝ(ぐんぐん)決勝に迫つてゐる、
両者の勝を見極める間もなく船は木ノ葉を二つに合せた様になつてゴールインする、
もうヂツトしてはゐられない、群衆はスワと許りに散さ亂して決勝点に崩雪れ寄る。(以上掲載のまゝ)

然して晝の競漕に、緊張と昂奮に巻き込まれた部落民が、疲弊しきつた體を吾家へ運ぶ時
もう東西紅白に二分された數百の子供達の手に依つて、西と東の両山に夜の豪華
「ひつたか」の準備は進められて行くのである。 然し晝間はどうしても相手の出し物を知らせない
又判りもしない、そこで両軍參謀の秘策がある あらましの組立はしてあつても愈々提灯を點けて
其の組立を起さなければ愈何んであるかゞ判らない、從つて日はとつぷり暮れて急ぎ目に
夕飯をすませた子供達が夫々味方の山に登り 相方から揚る喊聲を合圖として各提灯に
火を點け始める。そうして氣先を制すべく競ふて之を引き起す。然し無闇に急げば落ちたり
焼けたりして*既(既)に一分の負けとなる、故に緩急よろしき采配下に子供は夢中となつて
活動を續ける斯くして、黒一色に塗りつぶされた山腹にクツキリと浮び上る謎の課題を
待望するのである、そうして意匠及構造の嶄新雄大を誇るのである。」と記されている

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社、「節」の字は旧字の*節、
「教」の字は旧字の*敎、「鄕」の字は旧字の*鄕

「目で見る 井原・笠岡の100年(p.75 2000年)」に昭和6年(1931年)当時の、
「保存版 井原・笠岡・浅口今昔写真集(p.135 2014年)」に昭和36年当時の写真あり

おしぐらんごのかつてのスタート地点は金崎大橋の辺り(ゴールまで約1km)。
現在は金浦大橋の辺り(同約350m)。

https://goo.gl/maps/cVYgvBeWV5E2




後方の西の山の斜面がひったか設置場所




スタート地点(ボートがある辺り)




中学生 vs 中学生




小学生 vs 婦人会?




おしぐらんご保存会メンバーによる最終戦




ゴール前のラストスパート




最後に観客への大盤振る舞い(駄菓子・餅投げ)がある




千歳橋




千歳橋の北にも纜石が4基ある

橋を渡って左折




千歳橋西詰にある石燈籠

「常夜燈」「金毘羅大權現」「講中」「安永七戌天(1778年)四月吉旦」「當村 石工定吉」

石燈籠の後ろにあるのは金毘羅神社

『南無金毘羅大権現』

https://goo.gl/maps/Q5cwQ2tBMyQ2


石燈籠の横を南へ30m進み、光明院の境内に入る




光明院の山門の横

金浦四国2番極楽寺 (大師/阿弥陀)
 日照山 無量寿院 極楽寺 [にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ]
 『おん あみりた ていせい から うん』
 「極楽の 弥陀の浄土へ 行きたくば 南無阿弥陀仏 口癖にせよ」

https://goo.gl/maps/k68VAvf68iP2




宝珠山光明院(高野山真言宗備中霊場第75番)

本尊は大日如来、脇仏は弘法大師。

『おん あびらうんけん ばざら だどばん』
『南無大師遍照金剛』

「御登極記念 小田郡誌(p.62 大正13年)」に「四、遍照庵 大字西濱にあり。大覺寺派眞言宗にして
本尊大日如來并に弘法大師を安置す。元大師堂と稱す。弘法大師の尊像は元祿年中(1688-1704年)に於て
西濱の漁業者山西與兵衛門、或日同人の網へかゝりしを拜受して、當庵へ安置す、
依つて同人の家を今日に至る迄家号を弘法屋といふ。この庵は元祿九年(1696年)理休法尼堂となり、
それより數人を經て世導に至り、天保七年(1836年)大師堂を遍照庵と改稱す。
後世良智*敎房(教房)を經て現住藤原良導氏に至る。現在檀家無し。」とある

「小田郡誌 下巻(p.490 昭和16年)」に「光明院 西濱 大覺寺派眞言宗 大日如来 弘法大師 不詳(建立年代)
 本堂一〇・五十坪 境域 四二・九八坪 ナシ(檀家数)」とある


https://goo.gl/maps/Kqeo3kyyQTp




光明院の境内の東にある観音堂。向かって左にあるお堂は金浦四国1番札所。




金浦四国1番霊山寺 (大師/釈迦)
 竺和山 一乗院 霊山寺 [ぢくわざん いちじょういん りょうぜんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」




観音堂内向かって右にあるのは高王(こうおう)観世音菩薩坐像




十一面観世音菩薩立像

坂東2番 海雲山 岩殿寺 [かいうんざん がんでんじ] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「たちよりて 天の岩戸を 押し開き 仏を頼む 身こそたのしき」

1番札所の西195m。光明院の境内の東にある観音堂(堂内向かって左)。

https://goo.gl/maps/0Ecmm


 

光明院から千歳橋に戻り、左折して福山往来を西へ160m進む




金浦四国59番国分寺 (薬師瑠璃光/大師) 
 金光山 最勝院 国分寺 [こんこうざん さいしょういん こくぶんじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよめぐむ 薬師なりけり 

https://goo.gl/maps/FL6ZhE8D1qm




墓原の墓地の東端にある観音堂




堂内向かって左に薬師如来坐像がある

『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』




坂東3番 祇園山 安養院 [きおんさん あんよういん] (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「枯木にも 花咲く誓い 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき」

2番札所の西100m。金浦の墓原にある観音堂内。

https://goo.gl/maps/87ff2










観音堂の石段の横にある陰陽石神社




陰陽石神社の後ろにある金浦四国58番札所

金浦四国58番仙遊寺 (千手観世音/大師) 
 作礼山 千光院 仙遊寺 [されいざん せんこういん せんゆうじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「立ち寄りて 作礼の堂に やすみつつ 六字をとなえ 経を詠むべし」

https://goo.gl/maps/RdAKyBUyJts




十七瀬川亀之助の墓

「*(種子「ア」)浄蓮墓 大印書」「*旹(とき)天明七(1787年)丁未載 四月二十一日臨終
 十七瀬川号抜山 世名内山亀之助 享年 三十八」

力士。初代十七瀬川。

金浦要覧(p.89 昭和11年)」、「小田郡誌 下巻(p.712 昭和16年)」、
「孫たちに語りつぎたい金浦(p.59)」、を参照



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吉浜菅原神社生江浜

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