【三山から松山への魚荷道】
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追記する予定
井原市美星町三山の尾崎→塚原→名畑→宇戸谷の谷上→谷中→高梁市玉川町の増原→玉→玉川橋
→高梁市松山の広瀬→高梁市段町→横町→南町→旭町→鍛冶町→下町→新町
「美星町史 通説編(p.493、p.502)」の町への通い道の地図と魚仲仕の道の地図を参照
井原市美星町三山 尾崎(おさき)地区
尾崎、名畑、吉田布郡には魚荷の仲継ぎ場があった
自然石地神
「地神」
https://goo.gl/maps/wGKc54rHVek
東へ280m進み、歌の広場一番星がある変則十字路から北北東へ70m進む。
変則十字路からコンクリート舗装の道を北北東へ90m上る。
井原市美星町三山 塚原(つかばら)地区
旗道大師堂(井原市美星町三山4390)
堂内に弘法大師坐像、御宝号碑、コゴメ石の地蔵菩薩像等が安置されている。
お堂の脇に自然石地神、自然石の燈籠2基、手水鉢がある。
https://maps.app.goo.gl/H2rEKLJ8J7DNGW6UA
大師堂前の丁字路を右折し、東へ190m進む。
三山第三公民館前の丁字路を左折し、北東へ15m進む。
酒の店 菊池の前の十字路を右折し、南東へ33m進む。
万人講供養碑 兼道しるべ
「万人講 右 経堺(旧小田郡堺村)至井原 左 経烏頭(旧小田郡烏頭村)至矢掛」
「施主 菊池◯◯建」「昭和三十七年(1962年)四月」
https://goo.gl/maps/9CgGBfiZpe92
酒の店 菊池の前の変則十字路に戻り、右折して北東へ270m進下る
井原市美星町三山 名畑(なばた)地区
十字路
万人講供養碑 兼道しるべ
「万人講 右 矢掛 左 宇頭」
「昭和廿三年(1948年)一月廿◯◯」「施主 木尾◯◯」
https://maps.app.goo.gl/qCJdJgSxVNGhFDW19
十字路を右折して南へ157m上る
自然石地神
「地神」
https://maps.app.goo.gl/Wcn3Sgv25YrhXfrbA
十字路に戻り、北東へ343m進む
井原市美星町三山 谷下地区にある変則六叉路
万人講供養碑 兼道しるべ(牛)
「万人講 右 宇頭 高末 左 八日市 井原」
「昭和二十八年(1953年)七月之建」「施主 細川◯◯◯」
南(三寶大荒神社前の十字路)から来た人用の道しるべ
https://maps.app.goo.gl/jdppnWTCPPyfjJnB9
東へ105m上る
十字路の横にある墓地の端
備北バス 谷下乗り場の下
東へ直進すると
美星町宇戸(うと)、烏頭(うとう)
、矢掛町上高末へ。
烏頭の八幡神社参道口から北へ150m上り、峠から約1.3km下ると宇戸谷の谷下地区へ。
左折して北へ下ると 県道166号線、県道48号線、県道35号線を経て成羽へ。
右折して南へ進むと、美星町大倉、県道48号線、県道408号線を経て矢掛へ。
道しるべ
「*(方位記号)」
「北ハ成羽」「東ハ宇戸」「南ハ矢掛」「西ハ八日市」
美星町宇戸には笠岡市の西浜(ようすな)から魚介類、井原から馬肉と牛肉を売りに来ていたと云う
「岡山県史 第十五巻 民俗1(p.334)」を参照
https://maps.app.goo.gl/nrTzG8tXpkmtk7Lx5
牛供養碑兼道しるべb
「牛供養 右ハ山 左ハ 宇戸谷」
烏頭中の地蔵峠(烏頭の八幡神社の北西130mの所、美星町烏頭 道-29)から
宇戸谷の谷下地区へ下る道(美星町烏頭 道-27)の丁字路にある
https://maps.app.goo.gl/cvrdm2cozg5TEdxs5
西北西へ250m下る
宝篋印塔型の供養塔2基と地蔵菩薩立像
上記の道しるべから、250m下った所にある
『南無地蔵大菩薩』
https://maps.app.goo.gl/opZmPCLFg2cQ345X9
北へ215m下る
張屋妙見社前
県道166号線の変則十字路を右折
張屋妙見社
「井原・笠岡・浅口今昔写真集(p.92 2014年)」に古い写真がある
https://goo.gl/maps/7BmSDQ6wm6z
県道166号線を北東へ425m下る
県道166号線と県道48号線の分岐から、県道166号線を北北東へ90m進む
山際で県道166号線の丁字路を右折
https://maps.app.goo.gl/HRNHLyBYxZ5kjten8
東へ170m上る
井原市美星町三山の赤の谷地区の旧道との交差点
Y字路を左折し、北西へ20m上る
次のY字路を左折し、西へ40m下る
お題目塔(法界塔)a
「南無妙法蓮華経 法界 明治十七年(1884年)四月十二日」
自然石の燈籠
お題目塔(法界塔)b
「南無妙法蓮華経 法界 安永二癸巳年(1773年) 十月吉日 ◯中」
自然石地神
「地神」
https://maps.app.goo.gl/ESpyy98BUyDKDYV88
Y字路に戻って左折
北西へ30m、北へ35m、北東へ53m上る
三山から宇戸谷への旧道(高梁往還)
Y字路から道-63、道-38、道-425、道-429、道-416を北北東へ進み
井原市美星町宇戸谷 道-279、道-270、長狭物不明-1を下ると宇戸谷の美山川近くに出る。
陸地測量部の明治31年(1898年)測図同34年製版の地図に三山と宇戸谷を結ぶ道として
この一本松峠を通る道が二重実線で記されているが、美山川沿いに道は記されていない。
現在の美山川沿いに下る県道166号線は
明治29年測図の縮図及同31年測図同43年修正測図昭和7年(1932年)要部修正測図及修正縮図
から二重実線で記されている。
一本松峠を通る道は三山側が二重破線、宇戸谷側が破線で記さている。
「皇国地誌」の宇戸谷村の項に「道路 高梁往還三等ニ属ス、
西三山村界ヨリ東増原村界マテ長二十八町(3,054.54m)幅壱間、道傍並樹等ナシ」とある。
実測では三山と宇戸谷の境(一本松峠)から高梁市玉川町増原上野との境までの道程は約3,830m
https://maps.app.goo.gl/11nbnMxCpAba7fBy6
井原市美星町三山 道-425を北へ進む
井戸
道-429
この辺りから草刈りや倒木の撤去が必要になってくる
Y字路から道-416を右へ進む
https://maps.app.goo.gl/dmdgYFM1nV91Qo6t8
丁字路(井原市美星町三山 道-416)
軽トラックが入って来られるのはここまで。
この辺りが一本松峠か?
それらしい松は見当たらない
https://maps.app.goo.gl/8w12WYxDuABDQZZg6
ここから井原市美星町宇戸谷 道-279を北へ進む
向かって右に農園がある
この辺りからMAPPLE法務局地図ビューアーがないと、どこが道か分かりづらくなってくる。
https://maps.app.goo.gl/9CwJPacVsZ776Lb26
この辺りから道が水路になっていて、ぬかるみ始める
https://maps.app.goo.gl/QCTw7amWeN7M6XTb7
井原市美星町宇戸谷 道-270を北へ215m、北東へ115m下る
水路となった道に沿って下っていく
境界標
井原市美星町宇戸谷3833-2と同3844-1の境
https://maps.app.goo.gl/x8XiKMhUTVVWF2TR8
水路が途切れる辺りから北東へ下る
https://maps.app.goo.gl/cBZXze7TYEtjNVeq5
MAPPLE法務局地図ビューアー上で現在位置を表示させながら進まないと
道を特定するのは困難。
冬期は落葉しているため比較的正確な位置を表示できるが、
夏期は衛星を拾いにくくなるので
スマホのGPSでは正確にトレースする事は難しいと思われる。
井原市美星町宇戸谷 長狭物不明-1
https://maps.app.goo.gl/FHCtK41jj1eJecJb7
Y字路を左折して舗装路を北西へ20m程進む
https://maps.app.goo.gl/aJCr9Gpkimfqf93n8
丁字路を右折
https://maps.app.goo.gl/KzeL2B6QPY7Vr9qB9
北東へ55m進む
美山川を渡る
東へ100m上る
県道166号線に合流
https://maps.app.goo.gl/EfWpgyX7MHjkgNRw6
東へ65m、北へ100m下る
井原市美星町宇戸谷の谷上(たにかみ)地区
https://maps.app.goo.gl/eSBVotQBfwMmZ1iH9
県道166号線の脇にある墓地の南で左折し、細道を北西へ30m程上る
旧堂の平瓦と宝珠が残されている
手水鉢
「本願講中」「文化十一戌天(1814年)」
「十方施主」「大師遍照」
青高 岡の鼻の大師堂(井原市美星町宇戸谷879)
御堂屋根替の際の寄附者芳名録(大正12年)あり
「美星町史 史料編(p.624)」を参照
https://goo.gl/maps/FhkK1xTmr2F2
弘法大師坐像
『南無大師遍照金剛』
県道に戻り、北東へ610m下る
お堂(井原市美星町宇戸谷1133-6)
「美星町史 史料編(p.624)」にある引原の大師堂?
https://goo.gl/maps/VHk6dtcEyPx
お堂の前から県道を北東へ22m下り右折
自然石地神
「地神」
スクールバスの停留所(引原)の前、引原橋の西詰にある
https://goo.gl/maps/2Ffa73GMdVy
県道に戻り、右折して北北東へ295m進み左折
旧美星町立宇戸谷小学校(現 雑貨とアンティーク 海猫)
1971年に廃校。現在、アンティークショップになっている。
宇戸谷小学校の沿革は「小田郡誌 下巻(pp.271-273)」、
「御登極記念 小田郡誌(p.141 大正13年)」を参照
https://goo.gl/maps/qfV9otCQXd22
県道166号線を北北東へ220m下る
宇戸谷の仲継ぎ場跡
午後9時に西濱(ようすな)を出発した高梁向けの魚荷は、午前4時頃宇戸谷に着いていたという。
ここまで約28kmの道程。
「高梁川 No.83(高梁川流域連盟 編、2025年)」の特集Ⅱ「-歩こう 愛そう いつまでも ♪♪
「備中とと道トレイル60km!」- 笠岡市・金浦から高梁市・吹屋まで全コース再開発報告」の項を参照
https://maps.app.goo.gl/PJnneu2AwpffW1j99
北東へ100m進む
西平橋西詰の丁字路を左折し、川沿いに北へ30m進む
自然石地神(井原市美星町宇戸谷1317)
「地神」
https://maps.app.goo.gl/CrmXm7fpqsUtCVD26
自然石地神の西50mの山中に井原市指定文化財 宇戸谷の五輪塔群(
宇戸谷1379-2
)と
摩利支天神社がある
「井原石造物歴史散策(大島千鶴著、pp.26-29)」を参照
県道166号線を東北東へ90m進む
県道166号線と県道35号線の交差点を左折し、西北西へ2m進む
万人講供養碑兼道しるべ(牛)
「右(西北西)ハ成羽 左(南南西)ハ三山 講主 木口◯◯◯」
矢掛(東)から県道35号線を上って来た人、あるいは増原(北)から下って来た人用
ここから高梁市成羽美術館(下原1068-3)前まで約12.2km。
高梁市役所(松原通2043)まで約12.9km。矢掛町役場(矢掛3018)まで約13.3km。
https://goo.gl/maps/2YVaXAYxM2L2
スクールバスの停留所(谷中)前から県道35号線を東へ40m進む
県道35号線のY字路を左折して道-92、道-64を北東へ40m進む
https://maps.app.goo.gl/zn1rWjwM5DxjcM5h8
Y字路を左折
https://maps.app.goo.gl/G2MhGiSbdnVbz2BM8
北へ15m上り、Y字路を左折
北西へ35m上る
自然石の燈籠
「金毘羅宮 諸神燈」
「文化十癸酉年(1813年)六月吉日」
『南無金毘羅大権現』
大師堂(井原市美星町宇戸谷1793)
昭和六十二年(1987年)八月吉祥日の棟札あり
https://maps.app.goo.gl/c6ACQ2yvGqCKRHmY9
弘法大師坐像a(御宝号碑)
「*(種子「ア」)」
「南無大師遍照金剛 文化元甲子年(1804年) 三月二十一日 *𭤮主(施主) 甚藏」
弘法大師坐像b(向かって右端)
弘法大師坐像c(向かって左端)
「講連中」
不明の立像
コゴメ石の地蔵菩薩像3躰
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
五輪塔の水輪
大師堂前から道-64を北へ20m上る
Y字路から道-64、道-375を北へ約150m上る
右折して水路を横断
道-373を北へ45m上る
右折して道-383を北東へ20m上る
道-331を北北東へ195m下る
丁字路(道-333)を左折
https://maps.app.goo.gl/g3AmsjBg1skFsU939
井原市美星町宇戸谷 道-329、道-251、道-271、道-277、道-256、道-248、道-245を北へ720m上り、
高梁市玉川町(たまがわちょう)増原(ましはら) 道-198、道-199、道-181、道-175、道-188を北東へ435m下り、
上野下(うえのしも)から岡山県道293号宇戸谷高梁線を増原川沿いに北北東へ下る。
高梁市玉川町玉で高梁川を渡り、広瀬(高梁市松山)から北上して高梁に至る。約3里の道程。
木口政次郎君碑銘(井原市美星町宇戸谷1864-2)
県道166号線と県道35号線の交差点から東へ230m進んだ所にある。
宇戸村出身の陸軍一等兵 木口政次郎さんの碑。
明治三十三年(1900年)北清事変に従軍。同年8月5日の開戦時、胸部に被弾。
8月9日、天津戦地定立病院にて享年24歳で歿。
文学博士 重野安繹(やすつぐ 1827-1910年)翁の撰并びに書
碑の建立は明治39年
「小田郡誌 下巻(p.328 昭和16年)」を参照
https://maps.app.goo.gl/vsWPjZB3HGGqMBVR8
県道35号線を東へ20m進む
県道35号線のY字路を左折
https://maps.app.goo.gl/P23sAYnovUGvxLnFA
川沿いの道を北へ493m上る
丁字路(道-333)で道-331と合流
https://maps.app.goo.gl/g3AmsjBg1skFsU939
農作業小屋の横を通過
道-251
軽トラックでの通り抜けは不可能
https://maps.app.goo.gl/XLwmCuDLq3YXVn4C6
道-271
出谷2号池
https://maps.app.goo.gl/5jHFKuNqdNfTAcNF7
道-277
鉄塔巡視路と合流する手前辺りが最も急勾配
「美星町史 通説編(p.494)」に記されている通称ケツノコ坂か?
Y字路
右折して巡視路を南へ65m進むと鉄塔がある
https://maps.app.goo.gl/yLhZnDkr4TRipxWQ7
北へ25m程進む
Y字路から左へ上る
道-256
ここから先(北)は草刈りが必要
https://maps.app.goo.gl/aQjBL5aQMp2qjjjf7
北へ55m上り、ため池の横で右折して東へ47m、左折して北へ110m進む
増原の上野側から上った際の到達点(井原市美星町宇戸谷 道-245)
井原市と高梁市の境から南へ40m程下った所。ここから先(南)は草刈りが必要。
https://maps.app.goo.gl/3ozLKhwBDpKWbAo18
道-245を北北東へ上り、市境を越える
高梁市玉川町増原 道-198を北北東へ下る
タワノ池の横を通過
高梁市玉川町増原の上野地区
上野地区には明治新四国54番の観音堂があるらしいが所在地未確認。
防火水槽の上に
自然石の燈籠と露座の弘法大師坐像
がある。
民家の横を通過したら、つきあたりの丁字路を右折
東へ77m上る
つきあたりの丁字路を左折
上野下(うえのしも)の大池前の丁字路
乗合タクシー待合所
カーブミラーの後方に玉川町の観光案内板があるが、草に埋もれているため見えない
https://maps.app.goo.gl/LhRb6iZoPh77YqqPA
県道293号線を北へ780m下る
増原農村生活改善センター(高梁市玉川町増原779)
大正天皇御即位記念の門柱(大正4年=1915年11月10日の紀年銘あり)と二宮金次郎像がある。
高梁市立玉川小学校増原分校(昭和38年=1963年2月末を以て廃校)のものか?
https://maps.app.goo.gl/bL22kJ71df4bGASb6
大師堂
高梁市玉川町増原の中仙戸(なかせんど)地区にある
https://maps.app.goo.gl/dJJW7Xvg3cSULRXc8
堂内に石仏3躰が安置されている。
中央の石仏は前のめりに倒れているので、弘法大師坐像なのか地蔵菩薩坐像なのか確認できず。
弘法大師御影
「五拾五番」
明治新四国55番南光坊 (大通智勝) <>
別宮山 金剛院 南光坊 [べっくざん こんごういん なんこうぼう]
『なむ だいつう ちしょうぶつ』
「このところ 三島に夢の さめぬれば 別宮とても 同じ垂迹(すいじゃく)」
地蔵菩薩立像?(向かって左)
札所案内板
「豫州第五十五番 本尊 大通智勝◯」
北へ20m進む
自然石地神
「地神」
https://maps.app.goo.gl/u9wz3TRGAq6Kdxe4A
県道293号線を北北東へ130m下る
十字路
右折して北北東へ190m上ると八幡神社の境内へ至る
https://maps.app.goo.gl/odvQbcPC6RDHWbVU6
県道293号線を北へ210m下る
宮ノ下橋の手前で右折
八幡神社(高梁市玉川町増原971)
旧社格は村社
注連柱
「報本」「反始」
参道は通行困難
https://maps.app.goo.gl/fEdeSB5rpnuiTLYs7
宮ノ下橋
県道293号線を北へ380m下る
瓦質の小祠
祭神未確認
お堂
高梁市玉川町増原の下村地区の南端にある
https://maps.app.goo.gl/fBXX8d8mbSi4v9Rk8
弘法大師坐像
「昭和七年(1932年)三月」「長谷川◯◯」
不明の坐像
四国41番龍光寺 (十一面観世音) <>
稲荷山 護国院 龍光寺 [いなりざん ごこくいん りゅうこうじ]
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「この神は 三国流布(さんごくるふ)の 密教を 守り給はん 誓いとぞ聞く」
明治新四国霊場の41番札所は華厳院(総社市影1893)
県道293号線を北北東へ320m下る
下村集会所前の丁字路を左折
寺標
昭和六十三年(1988年)十月吉日に建立
参道を北西へ上る
徒歩の場合は右折、車の場合は左折
真言宗 梅木山蓮金院寶藏寺(高梁市玉川町増原407)
開創は康永2年(1343年)3月、開山は僧増範。
日照山国分寺(備中国分寺)末。
高梁市史によると本尊は阿弥陀如来。
石段の途中にある赤い幟旗には「奉納 南無薬師如来」とある。
『おん あみりた ていせい から うん』
https://maps.app.goo.gl/iW12REoMuUny86rr7
宝篋印塔
「*(宝篋印陀羅尼経の種子「シッチリヤ」」
「若有有情能於 此塔一香一花 礼拜供*𫝥(養)八十
億劫生死重罪 一時消滅生免 災殃死生佛家」
「若有應堕阿鼻 地獄若於此塔 或一礼拜或一
右遶塞地獄門 開菩提路◯◯◯ ◯◯安穏快樂」
「◯◯◯◯◯◯◯居士 ◯◯◯◯◯◯◯大姉」
「現住 増◯代 施主 真野◯◯◯」
「宝暦八戊寅年(1758年)九月吉辰」
弘法大師坐像
「爲法界萬霊」
『南無大師遍照金剛』
明治新四国56番泰山寺 (地蔵)
金輪山 勅王院 泰山寺 [きんりんざん ちょくおういん たいさんじ]
『おん かかか びさんまえい そわか』
「みな人の まいりてやがて 泰山寺 来世の引導 たのみおきつつ」
鐘楼堂
手水鉢
「宝暦六丙子天(1756年)」
県道293号線に戻り、北北東へ130m下る
自然石地神
「地神」
https://maps.app.goo.gl/8bnJitRLzmYWQMjL6
県道293号線を約2.1km下る
向かって右のガードレールの切れ目から東へ下ると
金毘羅大権現宮跡がある
https://maps.app.goo.gl/ZSESj1ctMrrCLtoKA
県道293号線を北へ約350m下る
丁字路
左折して勘場中田橋(1977年竣工)を渡った所は勘場地区。
玉田神社、八幡神社、
牛馬供養碑
(三面馬頭観世音菩薩坐像)等がある。
明治新四国57番の大師堂があるらしいが所在地未確認。
https://maps.app.goo.gl/66ma1Lk3HnM7mXGQA
県道293号線を北東へ195m進む
役場橋(1955年竣工)東詰の丁字路
https://maps.app.goo.gl/AvQhuGD4BjyhM8R47
東へ30m進む
高梁市立玉川小学校前
向かって左の玉川地域市民センターの敷地内に
明治6年(1873年)創立の栄幹小学校碑がある。
https://maps.app.goo.gl/wJTG6ZcNthH9kr9x9
東へ120m進む
玉田橋南詰の十字路
右折して南へ80m進み、Y字路を左折して南東へ120m進むと
玉泉院(明治新四国58番札所)
に至る
十字路を左折
玉田橋
昭和四十二年(1967年)三月竣工
https://maps.app.goo.gl/mhwLMkR4CWh8eJ946
玉谷川
玉田橋北詰から北へ23m進む
舟津石佛大師堂
高梁市玉川町玉746-1
三方吹き放しの四ツ堂だったが、平成30年7月豪雨で被災し、傾いていた。
浸水エリアマップで確認すると浸水深は1m~2m未満。
その後、コンクリートブロック造りの小堂として再建。
石標
「舟津石佛大師改築記念碑」「令和七年九月吉日建立」
https://maps.app.goo.gl/DhTnA1dihnV6mcru7
木造阿弥陀如来立像
『南無阿弥陀佛』
地蔵菩薩立像a(向かって右)
「文化十三(1816年)子 七月十五日 おち与(よ)」
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
地蔵菩薩立像b(中央前)
「文化十三(1816年)子 七月十◯日 千代吉」
地蔵菩薩立像c(向かって左)
「文化十三(1816年)子七月十一日 房吉」
北へ270m進む
向かって右は玉川簡易水道水源地
旧バス停(舟津)
現在は乗り合いタクシー待合所になっている
玉川橋跡(南詰)
高梁市玉川町玉と高梁市松山(広瀬)間は古くは渡船を使い渡っていた(玉川の渡)。
先々々代の玉川橋の竣工年は未確認。
昭和4年(1929年)に竣工した先々代の玉川橋は現在の玉川橋より200m上流に架けられていた。
半下路式曲弦プラットトラス構造の橋と木桁橋からなっていた。
昭和9年9月20日の室戸台風で木桁部分が損壊。広瀬では26人死亡し、大半の家屋が失われた。
昭和11年(1936年)竣工の先代の玉川橋は先々代の玉川橋と同じ場所に再建。
流された木桁橋部分を2連の半下路式曲弦プラットトラス構造の橋とコンクリート桁橋で補った。
昭和47年7月豪雨後の昭和48年(1973年)に修理されている。現玉川橋の竣工に伴い、撤去された。
現在は高梁川を渡るのに平成26年(2014年)8月に竣工した玉川橋を渡る。
玉川の渡については「
沿線誌集成 第1輯(宇垣武治 編、昭和2年、p.532)
」の廣瀬固屋の趾の項を参照
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.45)
」に「渡船塲は古來合の渡(※阿井の渡)、玉の渡の二つありて、
一は段より落合村に通ずるものなりしが、明治四十三年(1910年)落合橋を架せられて後廢せらる、
一は廣瀨より玉川村に渡るものにして今尚同村に通ずる、唯一の交通機關となれり。」とある。
昭和47年7月豪雨時や平成30年7月豪雨時の玉川橋周辺の被災状況については
「
高梁市平成30年7月豪雨災害記録誌
」を参照
旧玉川橋については「増補版 高梁市史 下巻(平成16年、p.184)」を参照
「笠岡市史 第三巻(pp.700-703)」の「魚介類の行商」の項に、自転車を押して広瀬まで来た行商人が
川が増水していたために高梁の町へたどりつけず、泣く泣く魚を投げ売りして帰った話がある。
https://maps.app.goo.gl/527CbyoWgFeiKtwQ9
神崎山を望む
渡し場はこの辺りか?
玉川橋
玉川橋を北へ渡る
県道293号線と国道180号線の交差点
交差点から鶏足山(標高585.4m)を望む
赤茶色の建物は2025年7月に建て替えられた備中広瀬駅舎
交差点を左折して国道180号線を北西へ200m進む
丁字路(旧玉川橋北詰の交差点)を右折し、伯備線の柳井下踏切を横断。
https://maps.app.goo.gl/cdnzGjqHS9zL8FGy5
つきあたりの丁字路を右折して松山往来を東へ515m進む
広瀬の松山往来(美袋松山往来)沿いにはかつて「廣瀬の梅林」と称される数百株の老梅林があった
「
沿線誌集成 第1輯(宇垣武治 編、昭和2年、p.532)
」を参照
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.13)
」に「広瀨の梅林 字 広瀨にあり。
もと渡邊與茂助梅實を収穫するの目的を以て、山を開き植付をなせしが、
この地碧水洋々たる高梁川の流れに望み、のちに雄大なる尾立山を負ひ、
自然の景と偶然調和せしを以て、有名なる觀賞梅林と化し、早春花時の士女絕ゆることなし。
二月下旬より三月上旬を盛時とす。」とある。
「松山八景」の一つに数えられた梅林の大半消え失せ、僅かに残る梅木に往時の面影を見るのみ。
広瀬踏切
https://maps.app.goo.gl/2z3fi7t3jKLTTT8t8
踏切の手前で左折
寺標
「*(聖観世音菩薩の種子「サ」) 當國巡禮 第二*畨 (番) *㳒林坊(法林坊)」
「文政十一年(1828年) 戊子三月 現住 求寂如實 代」
「發願主 近似村 田中五右衛門 阿部村 西太次郎」
石燈籠
「常夜燈」「嘉永元年(1848年)」「戊申九月」
石標
「高梁観光百選 法林坊」
大嶽山法林坊(真言宗御室派)
東向山松蓮寺(備中西国3番札所)の末寺。
本堂は中興少僧都素光の代、明治30年(1897年)に新築。
備中西国観音霊場2番札所。明治新四国八十八ヶ所霊場59番札所。
同霊場は明治35年開創。総社市の美袋、日羽、原、影、中尾、下倉、種井、延原、宇山、槁、
高梁市の玉川町、松山にまたがる地域に札所が点在する。
「全国三十三カ所観音霊場および全国八十八カ所霊場資料集(pp.532-533)」、
「昭和町史(昭和町史編纂委員会 編、昭和45年)」を参照。
境内から裏山の中腹にかけて四国八十八ヶ所霊場がある。
山頂には廣瀬固屋の趾(三村氏の陣屋跡。天正3年=1575年3月の毛利氏との合戦の際に落ちる。)もある。
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.43)
」に「大嶽山法林寺(或は法林坊)
眞言宗御室派の末派にして、本尊正觀音 長一尺二寸(或は不動明王)なり、
此山に四國八十八ヶ所に准じたる石佛あり、
又西國三十三ヶ所の石佛もあり、毎年三月のはじめより下旬に至る近傍の貴賤群衆參拜す。
弘法大師の開基にして、中興播磨權大椽藤原朝臣重法の建立に係る。」とある。
御詠歌「曇り無き御法の弟子に参詣し 法の力に西へこそ行け」
明治新四国59番国分寺 (薬師瑠璃光)
金光山 最勝院 国分寺 [こんこうざん さいしょういん こくぶんじ]
『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
「守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよめぐむ 薬師なりけり」
『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』
『南無大師遍照金剛』
半鐘
石香爐
「奉寄進 天保三年(1832年) 壬辰三月日」
「*𭤮主(施主) 水内(みのち) 原 影 村」「*世話人 若連中」
下道郡原村は現在の総社市原、下道郡影村は総社市影。
明治22年に中尾村、原村、影村が合併して水内村が発足。
手水鉢
六地蔵石尊
明治12年(1879年)に建立
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
弘法大師坐像a(向かって右)
弘法大師坐像b(中央)
銘文判読困難
地蔵菩薩立像(向かって左)
石碑
「立塔志主芳名*單」
石標
「降龍松 堀尾天山」「明治二十二年(1889年)十月」
「
都窪郡誌(都窪郡教育会 編、大正12年、p.1106)
」に
「堀尾虬淵(二四七三-二五五三) 本姓は高階氏、名は信徴、字は*淸鄕(清郷)、初め彌太之進と稱す、
高知泉、天山等の別號あり。萬壽村大島(※現在の倉敷市大島)の人、
幼にして學を好み、父信常に從ひて經學筆法を受け、又龜山右衛門、山本善太に師事す、
醫學を岸田冠平に問ふ。明治の初年(1868年)岡山縣の史生となる。
數年にして辭職し、家居して師弟に教ふ、詩書を能くす。
明治二十六年(1893年)十一月三十日病沒す、年八十一」とある。
「
抱膝余興(藤原藤蔭 著、明治30年)
」、「
書学階梯 補(入沢昕江 著、昭和4年、pp.350-351
)」を参照
本堂の西
お堂
木造毘沙門天立像が安置されている
『南無毘沙門天王』
西国観音霊場の本尊石仏群
十一面観世音菩薩立像(向かって左端)
「*丗三番 三(み)のゝ た尓(に)ぐ三(み)寺(美濃の谷汲寺)」
西国33番 谷汲山 華厳寺 [たにぐみさん けごんじ] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「万世(よろずよ)の 願ひをここに 納めおく 水は苔より 出(いづ)る谷汲」
「世を照らす 仏の験(しる)し ありければ まだ灯(ともしび)も 消えぬなりけり」
「今までは 親と頼みし 笈摺(おいずる)を 脱(ぬぎ)て納むる 美濃(みの)の谷汲」
宝篋印塔
「*(宝篋印陀羅尼経の種子「シッチリヤ」)」
「此塔所在 諸佛◯集 *天神(天神)護持 水土*淨福(浄福)」
「若人供養 種植善根 無諸*灾(災)横 吉祥遂至」
「本誓加持 現*扵(於)此身 必得解脱 *永不退轉」
「*旹(時)弘化二年(1845年)乙巳正月吉日」
法界地藏
「法界」
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
宝篋印塔の横から石段を上る
石標
「*(胎蔵界大日如来の種子「アーンク」) 從是四國八十八箇*𬻔(所)順拜◯」
「八十八ヶ*𬻔(所)本願*大𭤸主(施主) 柳井姓 ◯屋宗◯ ◯屋◯◯郎 ◯屋久◯郎 ◯屋◯◯郎」
「本願主 大瀧山法林坊性*嚴 願主◯蓮寺墓所用之 文化八庚未歳(1811年)十二月十二日
*𭤮主(施主)◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯」
「安永十辛丑天(1781年)三月十*𫝀(五)日 手引◯施主 松山本町 油屋◯◯ ◯◯◯◯
石工 阿部邑 岡本源兵衛」
石標の前で左折して北西へ10m程上る
大師堂
弘法大師坐像
浄瓶(じょうびょう)と沓(くつ)が牀座(しょうざ)に陽刻あるいは線刻されている大師像は多いが、
独立した丸彫の浄瓶と沓が大師像の前に置かれているものは非常に珍しい。
石段に戻り、北東へ上る
卵塔場
遍路道を東へ進む
弘法大師立像
「寶暦十二(1762年) 壬午 五月 *施主 妙◯」
菅笠を被り、右手に錫杖、左手に鉄鉢を持ち、草鞋を履いた
修行大師型の弘法大師立像は多いが、五鈷杵を持った像は珍しい。
不明の立像(向かって左)
「享保◯天 ◯◯◯◯◯」
釈迦如来坐像(同右)
「釋迦 一*畨 (番) *阿刕(阿州) 霊山寺 ◯◯◯」
四国1番霊山寺 (釈迦)
竺和山 一乗院 霊山寺 [ぢくわざん いちじょういん りょうぜんじ]
『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
「霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」
阿弥陀如来坐像
「阿弥陀 二番 *阿刕(阿州) 極樂寺 ◯◯ ◯◯」
四国2番極楽寺 (阿弥陀)
日照山 無量寿院 極楽寺 [にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ]
『おん あみりた ていせい から うん』
「極楽の 弥陀の浄土へ 行きたくば 南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
「三如來 三番 *阿刕(阿州) 金泉寺」
四国3番金泉寺 (釈迦三尊)
亀光山 釈迦院 金泉寺 [きこうざん しゃかいん こんせんじ]
『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
「極楽の 宝の池を おもえただ こがねの泉 すみたたえたる」
地蔵菩薩坐像
「地藏 五番 *阿刕(阿州) 地藏寺 柳井氏」
「◯◯童◯ ◯◯童女 ◯◯童◯」
四国5番地蔵寺 (地蔵)
無尽山 荘厳院 地蔵寺 [むじんざん しょうごいん じぞうじ]
『おん かかかび さんまえい そわか』
「六道の 能化(のうげ)の地蔵 大菩薩 導きたまえ この世のちの世」
阿弥陀如来坐像
「阿弥陀 ◯◯ ◯◯ ◯◯寺 ◯◯」
四国7番十楽寺 (阿弥陀)
光明山 蓮華院 十楽寺 [こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ]
『おん あみりた ていせい からうん』
「人間の 八苦を早く 離れなば 至らん方は 九品十楽(くぼんじゅうらく)」
薬師如来坐像
「薬師 六番 *阿刕(阿州) 安楽寺」
四国6番安楽寺 (薬師)
温泉山 瑠璃光院 安楽寺 [おんせんざん るりこういん あんらくじ]
『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
「かりの世に 知行争う 無益(むやく)なり 安楽国の 守護をのぞめよ」
千手観世音菩薩立像
「千手 八番 *阿刕(阿州) 熊谷寺」
四国8番熊谷寺 (千手観世音)
普明山 真光院 熊谷寺 [ふみょうざん しんこういん くまたにじ]
『おん ばざら たらま きりく』
「薪(たきぎ)とり 水熊谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため」
順路は裏山の遍路道を反時計回りに登って戻って来る
広瀬踏切前の国道313号線
広瀬踏切の南東約1.02kmの所
、高梁川の河中に
上房郡、下道郡、川上郡、賀陽郡の境をなす四郡境界石がある。
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、pp.15-16)
」を参照
柳井下踏切の丁字路に戻り、松山往来を北北西へ90m、北北東へ425m進む
石鳥居
「八幡宮」
「天保十二(1841年)丑八月吉日」「*𫞕子(氏子)中」
自然石地神
「地神」
「嘉永三癸戌天(1850年)」「三?月吉日 願主◯◯」
手水鉢a
「奉竒進 元文二巳天(1737年) 十二月吉日」
石燈籠a(向かって右)
「常夜燈」「文化辛未歳八月吉日」「願主 柳井勘*左エ門」
石燈籠b(同左)
「常夜燈」「文化辛未歳八月吉日」「*𫞕子(氏子)中」
文化辛未歳は文化8年(1811年)
柳井氏については「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.127)
」を参照
注連柱
「奉」「昭和十*秊(年)十月」
「獻」「寄附者 井上◯◯◯」
八幡神社(広瀬八幡神社)
御立山の麓、高梁市松山314に鎮座。
祭神は応神天皇、神功皇后、日本武尊。旧社格は村社。
「
沿線誌集成 第1輯(宇垣武治 編、昭和2年、p.531)
」を参照
https://maps.app.goo.gl/DopreZH2snb4fKCG9
境内社
祭神未確認。本殿の向かって右に鎮座。
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、pp.28-30)
」に
「明治十六年(1903年)六月二日左の諸社を合祀す。大藏神社。祭神、大己貴命 少彦名命、
木山神社。祭神、健須佐之男命(※ママ) 善覺神社。祭神、倉稻魂神、」とある。
※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社
瓦質の小祠
祭神未確認
本殿
神楽殿
手水鉢b
トイレの横にある
伯備線の河内谷踏切を通過する特急やくも
八幡神社前から河内谷踏切を横断し、右折して国道180号線を北へ155m進む
河内谷橋
左手に高梁川、正面に高倉山を望む。
向かって右の山際の建物辺りに真言宗御室派の福寿院(高梁市高松590)の卵塔場がある。
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.45)
」に「縣道は高梁町字 南町より來りて
本村(※松山村)横町に入り、櫻に名のある槿(むくげ)土手を過ぎ、轟橋(がらがらばし)によりて、
うとふ谷を渡り 段、糠淵、を經て大瀨に至り河内谷橋を渡りて廣瀨に入り
柳井氏の門前を過ぎ、梅林を左に見て南走し 富山村字 種井に入る、
長さ一里二十二町六間(6,338.18m)なり。」とある。
https://maps.app.goo.gl/ByLRL9gjNDbAcjWz7
国道180号線を北へ約600m進む
旧水準点?
明治29年測図の縮図及同31年測図同43年修正測図昭和7年(1932年)要部修正測図及修正縮図
5万分の1地形図には56.42mと記されている。
https://maps.app.goo.gl/yJgPNPVRE27LgX2C6
国道180号線を北へ約1.2km進む
落合橋東交差点を左折し、北へ渡る
高梁川の猿尾
落合橋の左手に長さ約70mの猿尾(渡船の船着き場跡)がある。
落合橋西交差点に猿尾の解説板が設置されている。
https://maps.app.goo.gl/PUBaivmhdo8QDxVm9
落合橋西交差点を左折し、国道313号線を西へ340m進む
阿部陸閘
平成30年7月豪雨時には閉鎖されず、阿部地区は2m以上浸水。
この辺りでは逃げ場を失った22人がLAWSONの屋上に避難した。
2021年に改良工事が行われ、2mから2.5mに嵩上げされた。
また道路下50cmの所にあったレールを道路と同じ高さに揃え、
道路に敷かれていた鉄板
を取り除くことで、閉鎖時間が約20分間短縮された。
ゲート閉鎖基準は落合町近似の水位観測所(標高56.12m)における高梁川の水位が氾濫危険水位4.80mを超えた時と
成羽町下原の水位観測所(標高69.53m)における成羽川の水位が氾濫危険水位4.40mを超えた時。
「
高梁市平成30年7月豪雨災害記録誌
」を参照
ゲートがある丁字路を左折
山中鹿介の墓(市指定史跡)
当地で殺された中山鹿介を供養するための墓碑。
高梁市落合町近似1-5。LAWSON 高梁落合町店の東にある。
位牌(法名「幸盛院殿鹿山中的大居士」)は
如意山観泉寺(高梁市落合町阿部1979)
に、
胴墓は
如意山観泉寺の西165mの所(高梁市落合町阿部2183-1)
に、
首塚は
正覚山静観寺(広島県福山市鞆町1199)の前
にある。
宮型香炉
「願主 近似村(ちかのりむら) 未男(未年男) 天保十三(1842年)寅四月吉日」
https://maps.app.goo.gl/wkHNjVN2ui9Pmhaw6
「山中鹿之介墓」
「正德第三龍集(1713年)癸巳十月建」
「近似村石大工 中山五良助」
「*尼子十勇 儕輩絶倫
不得伸志 無遭干時
忠肝義膽 爰樹爰封
殊勲偉績 千載流芳
前田時棟 謹銘」
「
沿線誌集成 第一輯(編著兼発行 宇垣武治、昭和2年、pp.544-547)
」を参照
拓本および書き下し文は「拓本 吉備の名碑(井上雄風 著、昭和54年、p.44)」を参照
山中鹿介追悼句碑
「四百年 瀬音の哭くや 鹿公忌 逸風」
作者は落合町出身の俳人 森下一夫氏。俳号は逸風。
昭和47年(1972年)12月に建碑。
「拓本集覧 倉敷と周辺の碑(井上雄風 著、昭和50年、p.211)」を参照
山中鹿介の墓の後ろを流れる高梁川
瀬音を聞きながら、南の神崎山(標高382.2m)を望む。
麓には
神崎神社(こうざきじんじゃ)
が鎮座。その広前で成羽川が合流する。
対岸の高梁地域事務組合クリーンセンターと高梁市斎場
天正六年(1578年8月20日)、山中鹿介(幸盛)は備中松山城へ護送される途中、
阿井の渡(合の渡)で警護役の河村新左衛門、顧問の福間彦右衛門らによって謀殺された。
「
月山夜話(並河太 著、昭和7年、pp.156-157)
」、
「
山中鹿介幸盛(老沼*堯(尭) 編、昭和16年、pp.98-103)
」を参照
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、pp.14-15)
」に「番所跡 段(※字 段)の北端
合渡(あいのわたり)の附近にあり、封建時代には通行の人を調べ、みだりに通行を許さざりしものなり。
斬首塲 下山(※高倉山)の麓 火葬塲の下にあり。封建時代罪人を斬罰に處せる塲なりしが、
今は草野と變ず。今も土中より人骨を發掘することありといふ。
梟首塲(きょうしゅば) 封建時代には番所の下、高梁街道に沿ひて、罪人の首を梟せし處あり。
今は竹藪となれり。」と記されている。
対岸の高倉山(標高382.7m)を望む
「
沿線誌集成 第一輯(編著兼発行 宇垣武治、昭和2年、p.544)
」を参照
落合橋東交差点に戻り、左折して国道313号線を東へ220m進む
向かって右に青野山栄楽院(真言宗)
明治新四国60番横峰寺 (大日)
石鈇山 福智院 横峰寺 [いしづちざん ふくちいん よこみねじ]
『おん あびらうんけん ばざら だどばん』
「たて横に 峰や山辺に 寺たてて あまねく人を 救うものかな」
https://maps.app.goo.gl/2uf3pnQvCa2FE8G78
東へ70m進む
向かって右に自然石地神
https://maps.app.goo.gl/yoiYrEvTrMMA6zim9
東へ150m進む
段町交差点を右折
南東へ55m進む
牛馬供養碑群
https://maps.app.goo.gl/CRKAazjfT4VkQLcV6
不明の立像
「*(種子「ア」?) ◯◯◯◯」
不明の坐像
銘文判読困難
地蔵菩薩立像a
銘文判読困難
地蔵菩薩立像b
銘文判読困難
三面馬頭観世音菩薩坐像a
「*(馬頭観世音菩薩の種子「カン」) 」
小社
祭神未確認。穴婆神社か?
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.11)
」に「[社名]穴婆神社 [社格]仝(無格社)
[位置]轟橋 [祭神]少彦名命 [祭日]陰暦十一月十一日
[創立年月日]嘉永五年(1852年)三月十五日 [境内坪數]一一坪」とある。
※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社
三面馬頭観世音菩薩坐像b
銘文判読困難
瓦質の小祠
祭神未確認
地蔵菩薩立像c
「交通 安全」
牛馬安全供養碑a
「牛馬安全」「昭和七年(1932年)二月十八日」「木山◯◯◯」
牛馬安全供養碑b(三面馬頭観世音菩薩坐像 + 牛)
「奉 牛馬 安全 大原◯◯ 大正九?年八月」
不明の石造物
「明治◯十八◯◯◯◯◯◯ ◯ノ川◯◯ 濱ノ枩◯吉 鶴ヶ嶽◯◯ 發起人 ◯◯◯◯◯」
銘文判読困難
牛供養碑?(地蔵菩薩立像)
「大正二年(1913年)八月二十八日 大正三年一?月十五日」
「村橋 ◯◯ 建之」
三面馬頭観世音菩薩坐像c
銘文判読困難
牛馬安全供養碑c(三面馬頭観世音菩薩坐像 + 牛)
「爲 牛馬 安全」
牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「文久二(1862年) 戌五月 爲◯」
牛供養碑b(地蔵菩薩立像)
「大正五年(1916年)三月廿四日 飼牛 上野◯◯」
「(◯◯ ◯◯ ◯◯ ◯◯)」
東へ30m進む
轟橋(がらがらばし)
https://maps.app.goo.gl/k6Vdu22W1xTncsDe7
高欄の親柱
「轟橋」
「
沿線誌集成 第一輯(編著兼発行 宇垣武治、昭和2年、pp.543-544)
」、
「
昔夢一斑(国分胤之 著、昭和3年、p.90)
」の地図を参照
「
備中誌 上房郡(明治36年、pp.19-20)
」に「からから橋 四十八橋 是をからから橋と唱ふ
松山の城南高倉山(今下山)の麓に有 昔高梁川東の山根を通りたる時は長橋にて有しか
いつれの時にか此川西手近似村(ちかのりむら)の方へ流れかはりて
今は岸の上下谷(しもだに)より落る小谷に架したれは小橋となれとも昔の名を存して人皆知る處なり」と記されている。
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、pp.12-13)
」に「轟橋 高梁街道に沿ひ字 段にあり。
松山城主水谷氏の時 現今の如く高梁川の附替あるまでは、四十八橋を架せしと云ふ。
今は長さ僅かに數間の石橋となれり。此地高倉山河岸に迫り 河を隔てて阿部山ありて、
狭間をなし其間に白帆(※高瀬舟の帆)のほの見ゆる景 筆紙に盡し難し。(以下略)」とある。
下谷川
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、p.3)
」に「高梁川 高梁町より來り松山原の西境を南流して、
平野の南端轟橋に於て下谷川を入れ、高倉山の西麓段、廣瀨の地を曲流し、
右岸に成羽川を入れ、再び南東に流れて河内谷川を入れ、鶏足山の麓を南東流して
吉備郡富山村に入る。此流程約六十町(6,545.45m)、水面の廣き處百間(181.82m)に餘り、
水深一様ならざるも、最も深き處は轟橋淵、糠淵にして、水深三十尺に達する處ありと云ふ。
鯉鮎鮒鰻鯰鮠(はや)等の生育盛にして 漁利多く、水運の便あるも灌漑用水となすを得ず。
字 広瀬より川上郡玉川村に至る玉の渡あり、もとは段より川上郡落合村に渡る
合渡(あいのわたり)ありしも、明治四十二年架橋せられて今は其名を留むるのみ。」
槿(むくげ)土手
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、pp.6-7)
」に「櫻の堤 轟橋より直走北して横町に入る處、
高梁川の*淸流(清流)に沿ひて街道の兩側に一帯の芝生堤あり、
これ櫻華を以て名ある櫻の堤なり。古は槿土手と稱し堤上にありしが、
明治三十七年(1904年)時の村長荘直温 日英同盟祝賀紀念とし、櫻樹數百本を數町に亘る堤上に植付け
現今に至れり。櫻の品種は吉野櫻最も多く、八重櫻、又浅黄櫻等あり、(以下略)」とある。
https://maps.app.goo.gl/xy86v22G3KRGREhb7
轟橋から横町、南町を北北東へ約945m進む
南町の町並み
カーブミラーの向かって左に佐藤鮮魚店がある
明治26年(1893年)10月14日、西日本に襲来した台風よる水害により、南町は2m以上浸水した。
「写真集 岡山県民の明治 大正(山陽新聞社 編、昭和62年、p.55)」に当時の写真あり。
昭和34年9月20日の室戸台風襲来時には、再び2~3m浸水。
「写真集 岡山県民の昭和史(山陽新聞社 編、昭和61年、p.35)」に当時の写真あり。
https://maps.app.goo.gl/bWFHQf5aLw1TJVvM6
北北東へ80m進む
南町の夷神社
七恵比須の一つ
https://maps.app.goo.gl/RHqCMEqHxZWGC1uk6
北北東へ60m進む
中山鮮魚店前
https://maps.app.goo.gl/4mdHYVCosvD7P5Ei6
南町交差点を右折
駅前大通りを東南東へ225m進むとJR備中高梁駅に至る
旭町交差点を左折
高梁観光交流センター ATTa!
https://maps.app.goo.gl/ckq3pFnvYTkrmgK7A
旭町交差点から北へ445m進んで花水木通りを横断し、鍛冶町を北へ70m進む
土井鮮魚店、お食事処の魚富
主に鮎や鰻等の川魚を販売している
鍛冶町の西隣が下町
https://maps.app.goo.gl/JLTryLJcwG3RsCZZ8
嘉永二三年頃より安政初年まで(1849-1854年)の松山藩の居住者について
「
昔夢一斑(国分胤之 著、昭和3年、p.83)
」に
「一 市中に鮮魚を賣る家は新町蔦屋伊八、下町魚屋平四郎、鯉屋作右衛門、松山和平のみ」と記されている。
蔦屋伊八さんは松山藩の料理向の御用聞。
魚屋平四郎さん、鯉屋作右衛門さんは生魚乾物を商っていた。
水害復興記念碑
国道313号線沿い、高梁市観光駐車場前にある。
昭和34年9月20日の室戸台風による水害からの復興を記念して建立。
https://maps.app.goo.gl/jnBG39CQcZrKZitj8
南へ20m進む
金比羅宮の小社
自然石の燈籠
「常夜燈」「金毘羅大権現 舩玉大明神」
「文政十丁亥年(1827年)七月吉日」
備北バス停留所(紺屋町筋)の横にある
https://maps.app.goo.gl/eVtZzNw39VSErqJj9
高梁市観光駐車場内を東へ50m進む
高瀬舟展示場
https://maps.app.goo.gl/GbTaLRhNdZaLd6vJ8
北へ60m進む
老松橋(おいまつはし)
「お以(い)ま川(つ)者(は)之(し)」 「老松橋」
「明治三十五年(1902年)七月」
市道南町川端町線。1960年架設。
伊賀谷川(紺屋川)
下町の蛭子神社
七恵比須の一つ。高梁観光百選。
https://maps.app.goo.gl/LPC7k132ravoggtb6
鍛冶町の蛭子神社
七恵比須の一つ。下町の蛭子神社の東60mの所にある。
https://maps.app.goo.gl/xfM6m9XtwBcnbLvj8
下町の蛭子神社の横から本町通りを北へ155m進む
本町三区
十字路を左折
菊屋小路
西へ55m進むと方谷橋東詰
初代方谷橋の竣工は大正3年(1914年)。昭和9年の室戸台風により全壊。
二代目にあたる現在の方谷橋は昭和12年(1937年)3月に竣工。
その後、昭和25年3月と昭和47年3月に補修されている。
高梁川に架かる方谷橋、田井橋、井倉橋は「室戸台風の災害復旧橋梁群」として
平成22年度に土木学会推奨土木遺産に認定されている。
方谷橋と田井橋は「おかやまの歴史的土木・近代現代建築資産」でもある。
方谷橋については「高梁川 第40号(高梁川流域連盟、昭和58年、pp.34-46)」の
児玉 享氏の寄稿を参照。明治42年竣工の落合橋の写真なども掲載されている。
https://maps.app.goo.gl/pvr6YwonpX5RRG1e6
北へ130m進む
本町二区
本町一区
池上邸(池上醤油醸造元)
高梁市商家資料館、無料休憩所になっている。2月3月に雛人形の展示あり。
https://maps.app.goo.gl/dkGRwijQWsX4ykgi8
北へ45m進む
本町の小池鮮魚店
大正時代に建てられた店舗は高梁市歴史的町並み保存地区整備事業によって改修され、
当時の商家の外観を留めている。
https://maps.app.goo.gl/VCpdZqnsoX28o6vt8
北へ25m進む
八重籬橋(やえかきはし)
小高下谷川に架かる
高欄の親柱
「明治三十五年(1902年)七月」「やへか起(き)はし」
本町一区の蛭子神社
七恵比須の一つ
https://maps.app.goo.gl/uxVzS6Jt4SdcDACs8
七恵比須の解説板
本町二区の恵美須神社
七恵比須の一つ。国道313号線沿いにある
https://maps.app.goo.gl/3Sun31juwYBvHYAn9
恵比須神社
七恵比須の一つ。八重籬神社(高梁市内山下120)の境内に鎮座。
https://maps.app.goo.gl/dBjSPRUZDx5ZtyXw9
新町のヱビス神社
七恵比須の一つ。上嶋鮮魚店の横にある。
https://maps.app.goo.gl/Hrx8D9ettpwYUYmp9
「
松山村誌(安達又二 編、大正3年、pp.58-59)
」に「高梁川は魚類の蕃殖に適し、
魚族も其數多し、殊に鰻、鯉、鮎等多量なり。近來鯉魚の水田飼育やヽ盛んなるに至りしも、
別に養魚塲の設備なきを以て多量の産額を見るに至らず。本村字 奥万田 白神喜左衛門は
明治四十二年(1909年)岡山縣水産試験塲より鯉兒養育の嘱託を受け、同年三月より養育を始む、
同氏の經營せる養育塲は、水面積三百坪を親池、産卵池、孵化池、養成池、ミジンゴ養成池等に區劃(くかく)し、
毎年十二三萬尾の鯉兒を養成し、上房、川上、吉備、阿哲の四郡に配附せり。
親魚の系統は東京深川區千田町服部倉次郎飼育に係る元信州種なりと云ふ。
明治四十三年より金魚の養育を創め、毎年二三萬尾つゝ養育配布せり。
本村に於ける漁業專業戸數は五戸、兼業は三戸にして、男十九人女二十二人之に從事す。
漁獲物は鰻二十貫(75kg) 鯉五十貫(187.5kg) 鮎二百貫(750kg) 其他三百五十貫(1,312.5kg)
價格總額七百參拾五圓に及べり。」とある。
1貫=約3.75kg
「岡山県史 第十五巻 民俗1(p.426)」に「中国地方の村々では流れ川の水を屋敷近くの池にひいて
コイを飼っている家が少なくない。コイは川魚の長とされ、祝儀料理に使われる。
(中略)川魚をとり、とった魚を串刺しにして、干し魚にし、ホデに刺す。
ホデは茗荷(ミョウガ)の葉かハナショブの葉に包んだり、
竹の皮で包み、フゴに一〇ホデぐらいを入れて、木負いこで背負うか、籠に入れて担いで売りに来たという。
行商の川魚はハエ(※オイカワ)がもっとも多かったが、次いでウナギ、ギギで、この三種が主であった。
ときには、アユやコイ・ウナギを一荷にして担いで、売りに来ることもあった。」と記されている。
フゴ(畚):稲藁や割竹や蔓で編み、籠の代わりにものを入れて運ぶもの。もっこ。
釣った魚を入れる竹籠。
畚と苗籠
畚については「
集団勤労教本(勤労教育研究会 編、昭和14年、pp.57-61)
」を参照
天秤棒(担棒)と苗籠と畚
田植機が全国に普及した1970年代以前、苗代から田圃の畔へ苗を運ぶために使用されていた。
土砂や農産物や肥料の運搬等にも使った。重い時は2人で担ぐ。
天秤棒は肥たご(肥桶)に屎尿を入れて畑へ運ぶ際にも使った。
液体を運ぶ際にはバランスが崩れやすいので、少なめに入れて小股歩きで慎重に運ぶ必要がある。
扱えるようになるには体力、訓練、忍耐が必要。
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