【新山走出西国三十三所観音霊場.4(山口)】




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尾坂 画像集.1尾坂_画像集.2

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旧県道を横断し、道-377を東へ11m進む

https://goo.gl/maps/fieCa9imu5z




恩師岡村恭石翁之碑(笠岡市山口2606)

「恩師岡村恭石翁之碑 門弟中」「大正十一年(1922年)五月建」

山口の儒医。俗名、本籍、没年、墓の所在も不明。京都の人といわれている。
建碑の発起人は門弟の大森喜作氏。

「先哲と殉國の士 新山人物誌(pp.11-12 昭和47年)」を参照

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.38)」には「医師として治療に
あたるかたわら儒学を教えた。また和学、漢学にも優れ、
近隣の人から神のように尊敬された。」と記されている。

https://goo.gl/maps/LzNkruXombQ2

石碑の前から未舗装の細道をさらに東へ30m程上る




ヌタノヲ おおもり池(笠岡山口2589)

鋳型材に適したきめの細かい粘土を産する。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.36)」を参照

石碑の前に戻り、左折して南東へ18m上る




ヌタノオの墓地の前

 


千手観世音菩薩立像

「文化二丑天(1805年) 廿三番 八月吉日」
「施主 大森○○」

新山走出西国23番 応頂山 勝尾寺 [おうちょうざん かつおうじ] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「重くとも 罪にはのりの 勝尾寺(かちおでら) 仏を頼む 身こそやすけれ」

https://goo.gl/maps/pYqGP

23番札所前から道-377を南南東へ24m上り、つきあたりの丁字路を左折。
道-379を東へ44m上って左折。


 

明王寺薬師堂(笠岡市山口2598-6)

昭和7年(1932年)、長尾邸より当地に遷座。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.39, p.49)」を参照





向かって右から弘法大師坐像、薬師如来立像(両手首から先なし)、
観世音菩薩立像、不動明王立像、聖観世音菩薩坐像。
加えて弘法大師像の厨子の横に小さな役小角椅坐像と厨子がある。

聖観世音菩薩坐像は左手に未開敷蓮華を持ち、
舟形光背には種子(サ)が刻まれている。

『南無薬師瑠璃光如来』『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』

『南無大師遍照金剛』『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』

『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
そわたや うんたらた かんまん』

『南無神変大菩薩』

境内にある明王寺薬師堂改築碑には「御祭神 薬師如来様、弘法大師様、
石槌神体様、庚申様、摩利支天様 沿革 宝暦八年(一七五八年)建立
 文化三年(一八〇六年)改築・天保四年(一八三三年)改築
・昭和七年(一九三二年) 平成五年(一九九三年 五月吉日改築 
施主(*10名)」と記されている。

摩利支天『おん まりしえい そわか』

青面金剛『おん でいば やきしゃ ばんだ ばんだ かかかか そわか』





半鐘

薬師堂(薬師菴)に伝わる半鐘には「延享元年(1744年) 甲子三月吉日 施主 谷本茂伯」、
「京室町住 出羽大掾宗味作」と刻まれている。京都の室町に住んでいた鋳物師「出羽大掾
宗味(でわだいじょうそうみ)」の作。宗味は「宗味鉦吾」と呼ばれる鉦吾(摺鉦)の
名工。沖縄にある国指定重要文化財「旧円覚寺の楼鐘(1697年鋳、高さ206cm、幅径119cm、
重さ1.9t)」の作者でもある。出羽大掾の称号は江戸時代の刀工藤原国路も 受領している。


 ※旧円覚寺の楼鐘(沖縄県立博物館・美術館)
 
  http://ryukyushimpo.jp/photo/prentry-26337.html

  http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/166075

 



磬子

「備中国小田郡山口村長福寺末 藥師菴常付物 施主摂待(せったい)連中
 天保十三(1842年)寅二月附之矣? 世話人 廣井*類藏 廣井太十郎」

「*類」の字は「大」の部分が「石」の字。





薬師堂の横にある石仏群

向かって左から阿闍梨智真のお墓(「文政十二年(1829年)丑四月立」)、

地蔵菩薩坐像、地蔵菩薩立像、千手観世音菩薩立像、地蔵菩薩立像、

廻国供養塔、奉唱念光明眞言十萬遍供養塔。

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』





千手観世音菩薩立像
(西国24番の本尊は十一面観世音菩薩) 

「廿四番」「施主 谷本富?◯◯」
「文化二丑○(1805年) 十一月吉日」

新山走出西国24番 紫雲山 中山寺 [しうんざん なかやまでら] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」

https://goo.gl/maps/XHJCz




廻国供養塔

「*(釈迦如来の種子「バク」) 奉納日本回國供養 天下泰平  国土安全
 明和三(1766年)丙戌 十一月吉日」
 



奉唱念光明眞言十萬遍供養塔

「*(胎蔵界大日如来の種子「ア」) 奉唱念光明眞言十萬遍◯◯

 宝暦三酉天(1753年) 三月廿一日 自道上 大師講中」

『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたやうん』

薬師堂前から東へ3m進む




手水鉢に銘文なし




稲荷宮(稲荷大明神)

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.40)」に
「正一位稲荷神社は、馬鞍山城に小田家代々の守護神として
祀っていたものを廃城のみぎり移した」と記されている。

https://goo.gl/maps/qLzbuFXzp4L2




石鳥居(柱のみ)

「享保九甲辰年(1724年)」「二月廿五日」「願主 ◯◯義規」

稲荷宮と天神社(天神宮)のどちらのものかは未確認。




御大典記念碑

「昭和三(1928年)辰十一月十日 御大典記念 新山青年団○○○」




自然石の燈籠




稲荷宮の小社




十二神社の石祠

「十二神社」




天神社の石鳥居の扁額と破損した一石一体の笠木島木

「天神宮」




稲荷宮の東にある十字路を左折し、墓地への細道(道-379)を北へ119m進む







牛供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「亡牛 昭和二十八年(1953年)十一月六日死 施主 谷本◯◯◯」

https://goo.gl/maps/adthijCSmWP2

稲荷宮の東にある十字路に戻り、西へ110m下る。
左折して旧県道を南へ90m進む。




森ヶ市橋

「森ヶ市橋」「昭和五年(1930年)一月」「もりがいちはし」

旧県道48号線が開通したのは昭和5年

https://goo.gl/maps/5YiamPEZoL52




谷尻川沿いの細道を北西へ42m下って左折




石橋(補仲橋)

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.40)」を参照

https://goo.gl/maps/1DZPJKWM1U72




駄菓子屋であり、食料品店であり、飲み屋であった。昭和の面影が色濃く残るお店。

「御登極記念 小田郡誌(p.89 大正13年)」に「本村は無論農業地なれども、
人家集團して田舎町の形式をなせるを以て商店も比較的多きを認む。
呉服店四戸・飲食店三戸・旅人宿一戸・雑貨店十戸・散髪店五戸・表具屋一戸
・醤油屋二戸・自轉店一戸・ されば日常の各種需給*狀態(状態)完備して
他より仰ぐべきは殆んど何物もなく。唯僅かの不足を補ふには
何れも里餘を距たる笠岡・小田よりするに過ぎず。」とある

「御登極記念 小田郡誌(p.90)」には山口の人情風俗について
「往昔 矢掛・笠岡往還の休息所は山口なりき。随て山間の一村落なれども、
事實は彼の國道に添へる驛の如き觀を呈せしなり。
故を以て其の人情亦半都會の如き傾向あり。此の地に入るもの、山口を評して
『田舎町の心地す』とは誠に穿てる言といふべし。(以下略)」と記されている

 


石橋屋商店

松山往来(笠岡往来)を南へ46m進み、丁字路を左折して東へ50m進む




長尾山明王寺跡(長尾邸)

明王寺は修験道のお寺(山伏寺)であったため、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となる。
明王寺の沿革については「伝えたいわがふるさとの文化財(p.49)」を参照。

https://goo.gl/maps/PtTEGneuiV62

旧県道を南へ26m進み、森ヶ市バス停前の十字路を右折。
西へ52m下り、十字路からさらに西北西へ55m下る。




妹岡の勧善小学校跡

新山史蹟顕彰碑

「[新山史蹟顕彰碑] 勧善小学 (明治六年~明治十年)
山口小学(明治十二年~明治二十三年) 新山尋常小学校(明治二十三年~明治三十三年)
 新山尋常高等小学校(明治三十二年~明治三十九年) の跡」

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.43, p.51)」を参照。

https://goo.gl/maps/RBo9DzvEhB92

顕彰碑の前から西北西へ110m下る







第三號共同撰果荷造場(共撰場)

大前堂(西国25番札所)の北東75mの所にある。
新山農業協同組合の発足は昭和23年。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.42)」を参照。

https://goo.gl/maps/9JSqYMrPQz32

共同撰果荷造場前の十字路から北へ87m進み、十字路を右折して東へ35m進み左折




柏堂病院(谷本医院)

谷本峻先生(1887-1951年)は走出の悲眼院の医院長として
大正13年(1924年)より15年間無料診断にあたった。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.40)」を参照。

https://goo.gl/maps/h9dax6oqWU12

共同撰果荷造場前の十字路に戻り、右折して西北西へ5m下る




桑原(高木)医院跡

柏堂病院(谷本医院)が出来る以前は新山村の唯一の医院だった。

最後まで残っていた医院の門も現在は撤去されている。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.42)」を参照。

https://goo.gl/maps/sf8Q6zmgmyB2




桑原医院の門(2012年)

共同選果荷造場前の十字路から西北西へ140m下る







十二神社(十二神様)

笠岡市山口1908。元治元年(1864年)に社殿と築地を再建(大工は藤原春吉)。
社殿はその後もう一度再建されている。
その時の棟札には「奉再建天御中主神 罔象女神 五帝龍王 宮營永久吉祥
大工 吉田村尾坂 髙田◯◯」とある。
令和6年に建て替える事となり、社殿を新築し、築地を取り除いてフェンスの囲いを設置した。

十二神社、正一位稲荷大明神、摩利支天神社が合祀されている。
高木姓の同族神(同族で祀る鎮守)。朱色の幟は高木株の12月初旬の霜月講の日にのみ立てられる。
正一位稲荷大明神の主祭神は五穀豊穣を司る宇迦之御魂大神。
摩利支天は武士の護身の神。

注連柱

「奉」「高木株内中」「献」「大正六年(1917年)八月吉日」

「美星町史 通説編(p.781)」によると美星町宇戸谷の田辺株では十二神、牛神、
ヒノミサキ様と共に摩利支天を祀っているという。

高木株の十二神社の祭神については、はっきりとしていない。
「美星町史 通説編(pp.800-801)」によると、十二神は部落やカブや家の守り神として祀っているという。
祭神は山の神だったり、十二支だったりで、まちまちである。
祈雨の社である竜穴・火雷・水主・木嶋・乙訓・平岡・恩智・広田・生田・長田・坐摩・垂水の十二社説、
薬師如来の眷属である十二神将説、熊野の十二社権現説なども挙げられている。
また荒神と一緒に祭礼を行うことが多いとも、記されている。

他には出雲佐陀大社で祀る十二柱の神々である可能性もある。
出雲佐陀大社は現在の佐太神社(島根県松江市鹿島町佐陀宮内73)。
十二柱の神々は佐太御子大神(さたみこのおおかみ)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、
事解男命(ことさかおのみこと)、天照大神(あまてらすおおかみ)、
瓊々杵尊(ににぎのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、秘説四柱(ひせつよはしら)。

毎年3月の社日講(地神講)の際に、座元となる家の床の間には
荒神の掛け軸と社日御大神の掛け軸が掛けられていた。
後者には向かって右上に「出雲佐陀大社」の朱印が押され、真ん中に「社日大御神」と記されている。
その向かって右に「出雲那(な)る佐陀の飛(ひ)ろ田尓(に)穂可(か)けして
露毛(も)呂(ろ)登(と)毛(も)に美(み)能(の)留(る)い津(つ)久(く)さ」、
左に「国土(にちつち)乃(の)悲(ひ)路(ろ)支(き)阿(あ)ら野越(を)田と那(な)し天(て)
鍬の三(み)保(ほ)古(こ)や川(つ)由(ゆ)能(の)堂(た)万(ま)与(よ)ね」という
2首の古歌が記されている。

出雲なる 佐陀のひろ田に 穂かけして 露もろともに みのる五種(いつくさ)
国土(くにつち)の 廣きあら野を 田となして 鍬の御鉾(みほこ)や 露の玉米(たまよね)

その下には神鏡を持った天照大神(日の神)、平鍬を右肩に担いでいる大己貴命(国造りの神)、
右手に鎌のようなものを持った少彦名命(国造りの神)、
棒に2束の稲束をくくりつけたものを右肩に担いで左手に鎌を持った稲倉魂命(穀物の神)、
牛を伴い鋤を右肩に熊手のようなものを担いでいる埴安姫命(土の神)の姿と神名が描かれている。
大庭地区にある五角柱地神に刻まれている神名は掛け軸のものとは若干異なる。

https://goo.gl/maps/iDztJnGceBz





自然石の燈籠

銘文なし




大庭地区にある五角柱地神(笠岡市山口242-3)

「天照大神」「大己貴命」「少彦名命」「埴安媛命」「蒼稲魂命」(北正面 時計回り)

以前は古木だったものを石造五角柱型にしている

祭礼の日には米、イリコ、梅干し、水、神酒を供える

以前は春の社日(春分に最も近い戊の日)と秋の社日(秋分に最も近い戊の日)に祭礼を行っていたが、
現在では山口下組が春の社日に近い休日に、大庭地区が秋の社日に近い休日に祀っている。

https://goo.gl/maps/itJsF8cpvcD2




十二神社の前

かつて尾坂川と谷尻川の土堤が同時に決壊し(赤印の箇所)、
十二神社近くまで水浸しになったことがあった

十二神社前から細道を南へ73m進み、丁字路を左折して車道を東へ109m進む




妹岡の大前堂(笠岡市山口1779)

元禄5年(1692年)に地蔵堂として建立

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.44)」を参照

https://goo.gl/maps/rhssr

 


堂内に昭和四十五年の改築寄附者芳名録がある

 



弘法大師坐像(堂内中央)

「講中」「文政六未(1823年) 四月吉日」「世話人(*4名)」

『南無大師遍照金剛』

大師像の向かって左にある厨子の中は未確認。

 



聖観世音菩薩坐像(大師像の向かって右)

『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』





※千手観世音菩薩立像(堂内向かって右端)

新山走出西国25番a 御嶽山 清水寺 [みたけさん きよみずでら] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「あはれみや 普(あまね)き門(かど)の 品々に なにをかなみの ここに清水」

西国25番の本尊は十一面観世音菩薩




「播磨國 廿五番 清水寺」

 


地蔵菩薩坐像(堂内向かって左端)

『南無地蔵大菩薩』


 

供養碑群(大前堂の向かって左)

六字名号碑

「*(種子「ア」) 南無阿弥陀佛 宝暦十四甲申年(1764年)二月日 念佛供養」




牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「ナルフ○○○ 名○○○○号 ○○二才牝」

「施主 ○○○○」「明治◯◯○ 旧六月◯」

牛供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「園部◯○ 牛供養 昭和十七年(1942年)二?月」

大前堂前の丁字路を右折して南へ54m進み、十字路を左折して東へ120m上る
 



土倉記念館(笠岡市山口1805-3)

昭和43年(1968年)8月31日竣工。
初代館長は元倉敷市教育長で歌人でもある高木甲一(甲之)先生。
昭和60年に新山公民館が竣工するまで公民館として使用された。
現在は新山地区自治会の事務所となっている。

https://goo.gl/maps/9ftCnwsFizR2




句碑

「日々好日 裏から 見える 空もよし 遠二」

「川柳並木会創立三十周年記念 創立昭和二十六年(1951年)三月十二日
 昭和五十六年五月吉日建之 会長 高木○○ 他二十九名 句 木山遠二」






土倉屋敷(庄屋屋敷とくら)

新山村長(明治22年~)土倉治部右衛門さんについては「小田郡誌 下巻(p.733)」を参照。
小田郡小田村の庄屋土倉為吉郎さんの次男として文政5年(1822年)に生まれる。
山田方谷先生に学んだ後、若くして山口村の里正となる。
以後60餘年間にわたり、戸長、新山村長等を務めた。
慶応年中以降は、山口のみならず矢掛の東三成、美星の星田等の大里正となる。
明治27年(1894年)、享年73才にして病没。
坊山の墓地(新山小学校のプールの南から米田池へ上って行く道の途中)にある墓碑は、
同じ山田方谷先生の門下だった三島中洲翁の撰文。
中洲翁は治部右衛門さんに「六十餘年 一職不徙 愛撫部民 如弟如子 宜矣闔郷 如喪考妣」という漢詩を贈り
多年にわたり郷土に尽くした功績を称えている。

土倉恒さんについては「伝えたいわがふるさとの文化財(p.45)」、
「さよなら、恒心体育館(2002年、にいやま「文化を楽しみ育てる会」発行)」を参照。

恒さんは治部右衛門さんの次男で明治27~32年の間新山村長を務めた土倉克己氏の長女として
明治23年(1890年)11月に生まれる。
大正2年(1913年)に東京女子醫學専門學校を卒業。
大正9年(1920年)に東京(現在の新宿区荒木町)で内科・小児科病院(小倉醫院)を開業。
昭和33年(1958年)に日本女医会理事を務める。
昭和38年(1963年)と昭和43年に紺綬褒章を受賞。
郷土の教育関連施設の整備のために度々多大な寄付をされた。
新山恒心体育館(昭和38年竣工)の和室ステージ等設備費として250万円を寄付。
昭和48年には土倉記念館建設費として500万円を寄付。
昭和51年8月に病院を廃業して、山口に帰省。
昭和52年(1977年)3月には土倉記念館事業費引当基金として1,000万円を寄付。
同年7月12月に笠岡市民病院において逝去された。行年88才。

昭和52年8月には新山地区民一同により
新山小学校の恒心体育館前に「土倉土倉恒女史顕彰碑」が建てられた。

https://goo.gl/maps/Hcx7Kv4V8FF2




 





 





宿泊可能(大人素泊まり一名一泊\3,500)。
部屋数は3。要パジャマ。昼食夕食なし。朝食は要予約。




Tokura Cafeは 金・土 10:00~15:00に営業(2025年時点。ラストオーダーは14:30)

手作りピザ窯あり(ビザ作り体験実施日については要問い合わせ)

毎月2回日曜日はとくらカレーランチの日(11~14時)




メニュー表

お土産としてはと麦みそ、はと麦茶も販売



カップは好みのものを選択可能




お勧めのコーヒーセット




土倉屋敷のクリスマスイルミネーション(2013年)




 


高札場跡(土倉屋敷の東)

小田郡誌 上巻(pp.485-488)」「伝えたいわがふるさとの文化財(p.45)」を参照。





矢掛町横谷の福武家の近くにある高札場

https://goo.gl/maps/NjX3ZjLnXf52

土倉記念館前に戻り、左折して細道を南へ48m進む。
つきあたりの丁字路を左折し、、南東へ66m上る。





石燈籠(山口の常夜燈)

「金毘羅大權現常夜燈」「吉備津大明神」「村中」
「文政十一戊子年(1828年) 六月吉日立之」
「*㔺話人(世話人) 類藏 好藏 熊藏 幸藏 正五郎 辰治郎 亀一郎 利介」

松山往来(笠岡松山道)沿いにある。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.47)」を参照。

https://goo.gl/maps/oPfZRx2LvkC2

石燈籠の前の丁字路を右折し、松山往来を南西へ177m進む





十字路からさらに南西へ201m下り、つきあたりの丁字路を左折




東へ57m進んで新山保育所前の丁字路を右折。
旧県道を南南西へ61m進んで右折し、斎藤氏宅の裏にあるわらんべ堂へ。




わらんべ堂

「伝えたいわがふるさと(pp.88-89)」、
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.55)」を参照。

画像はこちら  笠岡新四国八十八ヶ所霊場の画像集.10(関戸・新賀)

斎藤氏宅前から旧県道を北北東へ202m進み、丁字路を右折。




東へ34m上り、新山小学校前へ




二宮金次郎像

石柱

「標高 四十二メートル」「北緯 三十四度三四分」

他2面は未確認。N34°34'14.8" E133°31'50.5"

https://goo.gl/maps/Y98JxdjjC3P2




忠魂碑

「忠魂碑 陸軍大将 鈴木荘六 書」

第4代帝国在郷軍人会長 鈴木荘六陸軍大将(1865-1840年)の書。
昭和8年(1933年)5月に建立。




新山地区出身者 新山地区関係者 戦没者名鑑




土倉恒女史顕彰碑

土倉恒(つね)女史については「伝えたいわがふるさとの文化財(p.45)」を参照。




開校百年卒業記念植樹

石碑

「開校百年 卒業記念 昭和五十年(1975年)三月植樹」

勧善小学(明治六年~明治十年)、山口小学(明治十二年~明治二十三年)、
新山尋常小学校(明治二十三年~明治三十三年)、
 新山尋常高等小学校(明治三十二年~明治三十九年)、
新山小学校(明治三十九年~)という流れ。

勧善小学創立(1873年)から数えて百周年を迎えたのは昭和49年。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.51)」を参照。




新山小学校旧校舎





新山小学校の運動場の南は旧新山保育所の跡地

新山小学校前に戻り、東へ74m上る




土居畑(土居屋敷跡)

江戸時代の山口村の庄屋である広井(廣井)氏の屋敷跡ではないかといわれている。

「伝えたいわがふるさとの文化財(p.51)」を参照。

https://goo.gl/maps/E6aETQk23fv

土居畑前から東へ120m上る




十一面観世音菩薩立像(向かって左)

「廿二番」「文化十二○(1815年) 亥三月○○」「願主 ◯田吉右エ門」

西国22番の本尊は千手観世音菩薩。四国22番の本尊は薬師如来。

新山走出西国22番b 補陀洛山 総持寺 [ふだらくさん そうじじ] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「おしなべて おいもわかきも 総持寺の 仏の誓ひ 頼まぬはなし」

弘法大師坐像(同右)

「願主」「谷本◯◯○」「天保八酉年(1837年) 二月吉日」 

『南無大師遍照金剛』

https://goo.gl/maps/fV3AZ

22番b札所前から東へ145m上り、つきあたりの丁字路を左折して北へ23m進む。

十字路を右折して細道を北へ74m上り、十字路から南南東へ43m上る。




森ケ市の龍王山登山道口の横




新山走出西国25番b 御嶽山 清水寺 [みたけさん きよみずでら] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「あはれみや 普(あまね)き門(かど)の 品々に なにをかなみの ここに清水」

https://goo.gl/maps/kxceG




千手観世音菩薩立像 

「文化四◯(1807年) 二十五番 卯三月吉日」
「廣江九郎兵衛 ○○」




如意輪観世音菩薩輪王坐像

「明治三十四年(1901年)八月」「上若連中」

『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』

如意輪観世音菩薩は女念仏講の本尊。

25番b札所前から北北西へ6m下り、丁字路を右折して東へ62m進む





墓地の横

極楽堂跡?

「元文二年(1737年)山口村古地図(土倉家蔵)」を参照

https://goo.gl/maps/yK98Q
 







千手観世音菩薩立像

「施主 杢右衛門 化主」「廿六番」「文化三◯(1806年) 寅三月吉日」

新山走出西国26番 法華山 一乗寺 [ほっけさん いちじょうじ] (聖観世音)
 『おん あろりきゃ そわか』
 「春は花 夏は橘(たちばな) 秋は菊 いつも妙なる 法(のり)の華山(はなやま)」

西国26番の本尊は聖観世音菩薩




如意輪観世音菩薩輪王坐像

「元治◯◯◯」「◯◯◯◯◯」

銘文は判読困難。元治年間は1864~1865年。

『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』

龍王山登山道口に戻り、左折して龍王山に登り、馬鞍山経由で奥山池に下る
  

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尾坂 画像集.1尾坂_画像集.2

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