【新山走出西国三十三所観音霊場.3(竹ノ内・堺辺・中ノ才)】
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尾坂 画像集.1/尾坂_画像集.2
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長福寺裏山古墳群東端から長福寺へ下る




わらんべ堂
令和元年(2019年)5月に長福寺へ移転

弘法大師坐像(向かって右)
『南無大師遍照金剛』
地蔵菩薩坐像(同左)
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

牛供養碑・万人講供養碑・六字名号碑(兼 光明真言曼荼羅石)
『南無妙法蓮華経』
『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら
まに はんどま じんばら はらばりたやうん』


長福寺の白壁の土塀
木山捷平の短編小説「うけとり」の中で、主人公の岩助が淡い恋心を抱くセイと仲を
からかう落書きを友達にされた場所。「木山捷平全集第一巻(pp.99-112)」)を参照。
山門
長尾山長福寺
高野山真言宗備中霊場第77番
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.28)」、
「伝えたいわがふるさと(pp.157-160)」を参照
https://goo.gl/maps/zaWBYcrH6PC2
本尊は阿弥陀如来
『おん あみりた ていせい から うん』

理源大師一千年遠忌塔(本堂前)
「*(胎蔵界大日如来の種子「ア」) 當山開基理源大師一千年遠忌塔」
「廣度諸衆生其數無有量(※「妙法蓮華経 序品 第一」より)」
「*********(梵字8字で「オンマイタレイヤソワカ=弥勒菩薩の真言」)」
「*********(梵字9字)」
神宮寺六坊のひとつである長福坊(後の長福寺)は理源大師聖宝(832-909年)によって
元慶年中(877-885年)に創建される
鐘楼
梵鐘
「南無大師遍照金剛」
「梵鐘一打 更生森羅 平和象徴 *福徳(福徳)無窮」
「南無大師遍照金剛」
「長尾山*長福寺(長福寺) 願主第十四*㔺(世) 大僧正*圎明(圓明) 代
施主 檀信徒一同 昭和丗五年(1960年)六月再建 京都鋳師 岩澤徹誠」
「小田郡誌
下巻(p.700)」に供出によって失われた長福寺の旧梵鐘について
「寛永三年(1626年)十月 高草清助盛重(※治工)」と記されている
長福寺のイチョウ
秋景
雪景

宝篋印塔の横
千手観世音菩薩立像
「京革堂 十九番」「廣井治郎右衛門 施主 谷本周蔵 同苗周助」
「高木○○ 世話人 宇根○○」
新山走出西国19番 霊ゆう山 行願寺 革堂 [れいゆうざん ぎょうがんじ こうどう] (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」
法界地蔵
「自他法界」「施主 高木○○ 爲○◯○○」「寛◯◯◯ ◯月◯日」
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
https://goo.gl/maps/4i3KR
山門の横
長尾圓澄上人頌徳碑
「長尾*圎澄(圓澄)上人頌徳碑 昭和五十年(1975年)六月吉日
遺弟(ゆいてい) 公淳
書 蒙恩德(*恩徳)後人建之」
持宝院の大山公淳大僧正(1895-1992年)の書
長福寺の庫裏
明治11年(1878年)に新賀長迫地区にあった定平氏宅を移築。
一旦解体した建材を尾根道(薬師様道=魚荷道→長福寺裏山古墳群沿いの道)を
通って運搬したという。詳細は「伝えたいわがふるさと(p.160)」を参照。
解体中の庫裏(2017年11月中旬)
解体後
令和元年に再建された庫裏

参道を下る
長福寺の五花園
當山第十三世長尾圓澄住職(1859-1922年)は今井村の渡邊淳一郎氏の指導の元に
桃・梨・葡萄等の栽培・研究・交配による品種改良を行う。
その後、桃の優良品種「土用水蜜」を世に送り出し、新山村のみならず
近隣市町村の果樹栽培の指導・普及に尽力した。
「小田郡誌(pp.734-735)」を参照
「木山捷平全詩集(pp.67-68 講談社 文芸文庫)」において捷平さんは
「私が幼い時分、私たちの村は中国第一の桃の村と称された」と記し、
当時の新山村の桃作りの衰微を語っている。
広浜の鯨池の横にある渡辺淳一郎氏頌徳碑
「渡辺淳一郎氏頌徳碑 岡山県知事 三木行治 書」
「昭和廿九年(1954年) 渡辺淳一郎顕彰会建之」
「古語に言う 桃李を植うれば秋食を得と 恩に報いられるの意である
渡邊淳一郎氏は明治六年(1873年) 傾斜不毛の地を活用 初めて桃を広浜に植
え 以来公職をなげうつて果樹栽培に専念されたが 不幸三十七才で
早逝された 実に苦難大にして報いられる少きは先駆者の道である
さあれその志は薫陶を受けた子弟に継承せられ 園芸県岡山の今日
を将来し 郷党の恩恵に浴すること無限である よつて有志計つてこ
こに頌徳碑を建て 先覚渡邊氏の偉業を永遠に景仰しまつる
岡山県農業試験場長農学博士 鋳方末彦 撰 林亭 西井文雄 書」
桃李とは桃とすもものこと
https://goo.gl/maps/aHjbAvRWP792
車道に戻り、東へ24m下って丁字路を右折し、南西へ120m下る
丁字路から木山捷平の墓への参道を南西へ60m程上る。
丁字路から急勾配の細道を110m下り、左折してすぐの所に木山捷平生家がある。
https://goo.gl/maps/ZvhRF6ZsJKG2
木山捷平の墓
「木山捷平全詩集(p.242 講談社 文芸文庫)」を参照
https://goo.gl/maps/QUcNQi1hW6P2
車道に戻る
正面手前に見えているのが木山捷平生家。阿部山の麓の向かって左に楠、
中央に山椒谷、その右に境辺、その右(右端)に中ノ才(中ノサヤ)。
山椒谷は木山捷平の短編小説「うけとり」で主人公の岩助が
松葉(竈での煮炊きや風呂焚きの際の焚付け用)を集めにいっていた場所
山椒谷古墳
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.31)」を参照
https://goo.gl/maps/PziJw7AfNU22
丁字路から車道を南西へ205m下る

Y字路から石垣に沿って細道を西南西へ25m進む
右折して北へ10m、左折して西へ17m、右折して北へ14m上って右折
竹ノ内古墳
https://goo.gl/maps/GxqjHzG7KsT2
石室内
車道に戻り、南西へ19m下った所にあるY字路から西へ31m進む
供養碑群
車道の脇の法面の上にあるのでわかりにくい
https://goo.gl/maps/3vBUbU6YAgn
迥国犬供養佛(地蔵菩薩坐像 + 犬)
「*逈國犬(迥国犬) 供養佛」「猫屋 眞右衛門」
迥国とは遠い国の意
万人講供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「*(地蔵菩薩の種子「カ」) 万人講」
Y字路に戻り、北東へ162m進む
自然石の燈籠
「金 獻燈」「木山一統 若宮社 世話人 ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯」
「吉備津八幡 二社」「明治十一寅歳(1878年)季春吉日建」
季春(きしゅん)は旧暦の3月。金は「金毘羅大權現」の略。
明治以前は金毘羅大権現を祀っていた神仏習合の金毘羅宮は明治以降、
神仏分離令の影響で大物主神を主祭神とするの金刀比羅宮になる。
「吉備津八幡 二社」とは吉備津神社(岡山市北区吉備津931)と
葦守八幡宮(岡山市北区下足守466)のこと。
https://goo.gl/maps/QaGFDKaHYcx
北北東へ45m進んで左折
木山捷平生家
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.30)」を参照
https://goo.gl/maps/opiKFd3jRq42
望郷歌碑
「ひんがしの 島根の なかつ きびつくに(吉備津国)
きび(黍)生ふる里を たが(誰が)わすれめや」
もうひとつある「望郷」の短歌は「木山捷平全詩集(p.242 講談社 文芸文庫)」を参照
歌碑
「御題花 木山ミサヲ きりん草 よつばひよどり 咲きみちて
釧路湿原に 鶴なきわたる 山田幸男書」
ミサヲさん(捷平さんの奥様)が昭和45年歌会始(お題は「花」)で入選した歌
笠岡市立図書館の前にある「五十年」歌碑
「濡れ縁に置き忘れた下駄に雨 がふってゐるやうな
どうせ濡れだしたものならもっと 濡らしておいてやれといふやうな
そんな具合にして僕の五十年 も暮れようとしてゐた 木山捷平」
木山捷平生家前から北東へ140m進む
長迫川の横のY字路から東へ77m進む
Y字路から北北東へ40m程上る。長福寺への車道だったが
現在は木が道に覆い被さっているため通行できない。
左折して北西へ30m程上る
右折して未舗装の細道を東へ20m程進む

千手観世音菩薩立像
「二十番 文化二丑○(1805年) 八月吉日」
新山走出西国20番 西山 善峯寺 [にしやま よしみねでら] (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「野をもすぎ 山路に向ふ 雨のそら 善峯よりも 晴るる夕立」
https://goo.gl/maps/WOQkA
Y字路まで戻り、左折して北東へ86m進む。右折して県道48号線を横断し、東へ40m進む
橋の北東145mの所にあるわたり橋の手前で山椒川が尾坂川に合流する
論田山(水色の矢印の所)
https://goo.gl/maps/ufDbxje2kiJ2
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.29)」の「論田と論田山」を参照。
橋を渡って右折し、土手道を南南西へ50m進む
長迫川が尾坂川に合流する辺りの地名を「ドンドン」という。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.28)」を参照。
https://goo.gl/maps/JWVJMEgaoHq
土手道をさらに南南西へ210m進む
米田橋
https://goo.gl/maps/wAxskYD5q632
尾坂川の米池井堰
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.30)」を参照
「
小田郡地誌(p.5
明治26年)」に「尾坂川ハ源ヲ吉田村字尾坂ヨリ發シ
西流シテ新山村ニ至リ 北ニ折レテ北川村ニ入リ 中川村境ニ沿フテ小田川ニ會ス
長サ二里(約7,854.546m) 亦潅漑の便アリ」と記されている
「笠岡市史 史料編上巻(p.421 皇国地誌 備中国第壱大区小田郡廿八区村誌
山口村 明治9年)」に「塘堤 尾阪川(※原文ママ)堤 同河ニ沿ヒ村ノ南方新賀村堺ヨリ
北方甲弩村界マテ長サ二千九百六拾間(※約5,531.82m)
馬踏四尺(約1.21m)
堤敷弐間半(約4.55m) 土橋六箇ヲ架スル 修繕費用民ニ属ス」とある
馬踏(まふみ): 堤防の上を人馬が通行するように平らになった部分
堤敷(つつみしき): 江戸時代、高請地のうち堤防のために供せられた土地
※尾坂川(尾坂地区内は除く)の長さは関戸地区内(関戸と尾坂の境~境橋)が1.39km、
新賀地区内(境橋~雁名橋)が約0.81km、山口地区内(雁名橋~わたり橋)は約2.55km、
甲弩地区内(わたり橋~小田川合流点)約が2.72km(甲弩地区内では明治42年の
蛇行改修工事によって以前より若干短くなっている)
山口地区内の尾坂川に架かる橋は南から順に雁名橋、新山橋、妹岡上橋、妹岡下橋、
神祇橋(土橋)、山口新橋、谷尻橋、寺橋、米田橋、井上地区の南にある橋(名称未確認)。
これらの橋の中で山口村古地図(1737年)に記されていないのは妹岡下橋と米田橋。
尾坂川のげし焼き(毎年2月中旬)
左折して南東へ98m進む
第一號共同選果荷造場(跡)
共同選果荷造場(略して共選場)は新山に9ヶ所あった
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.42)」を参照
https://goo.gl/maps/4Ze4Px3QdzJ2
馬飼の共同選果荷造場
旧今井村の村域(園井村、今立村、馬飼村、広浜村、絵師村)は
広浜出身の渡辺淳一郎の影響で今日も葡萄を中心とした果樹栽培が行われている。
https://goo.gl/maps/uWz3YYjzS462
変則十字路を左折し、北東へ139m進み、十字路を右折
堺辺の竹藪の横
正面の道は松山往来(笠岡往来)。明治時代には県道だった。
松山往来(笠岡往来)は備中松山(高梁市)と笠岡を結ぶ
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.35)」を参照
「笠岡市史 史料編上巻(p.420 皇国地誌 備中国第壱大区小田郡廿八区村誌
山口村
明治9年)」に「道路 矢掛往還三等ニ属ス 南新賀村界ヨリ北甲弩堺ニ達ス
長十八町五十間(約2,054.55m)幅五尺(約1.52m)
路傍並樹等ナシ」とある
明治9年の太政官布告により全国の道路は国道、県道、里道に区分された
「
小田郡地誌(p.7
明治26年)」に「縣道ニ三アリ 一ハ淺口郡新庄村ヨリ來リ
今井村ノ南ヲ過ヲ笠岡ノ市街ヨリ北ニ折レ大井稻倉両村ヲ經テ後月郡出部村ニ至ル
所謂井原街道ニシテ近ゴロ大ニ改修シ馬車ノ往來頗ル便ナリ ※一ハ笠岡町境ヨリ
大井村ニ入リ東北ニ向ヒ今井村ノ境ヲ過キ吉田新山北川ノ三村ヲ經テ小田村ニ
會ス道程三里許ナリ 又一ハ矢掛村ヨリ山田三谷両村ヲ經富峠ヲ越ヘテ玉島港ニ至ル
里程二里餘ナリ」と記されている
「正式二万分一地形図集成 中国・四国1(p.119 明治30年測図)」には
「自矢掛至笠岡道」と記されている
南西へ82m進む
大師堂
棟木の墨書
「*(弥勒菩薩=弘法大師の種子「ユ」) 奉再建四國第廿一番弘法大師霊場壹宇
天下泰平 風雨順時 五穀豊穣 諸人快楽 前世安穏 後生浄土
昭和五十七年(1982年)壬戌年 九月吉祥日 長尾山長福寺 現住圓梁敬白
願主 當所 竹之内 木山◯◯ 大工 井原市西江原 ◯◯◯◯」

新山走出西国21番 菩提山 穴太寺 [ぼだいさん あなおうじ] (聖観世音)
『おん あろりきゃ そわか』
「かかる世に
生(むま)れあふ身の あな憂(う)やと 思はで頼め 十声一声(とこえひとこえ)」
https://goo.gl/maps/SFhKt
聖観世音菩薩像の台座の刻字は判読困難
「嘉永◯◯◯◯ ◯◯◯○○」
向かって右は弘法大師坐像
「奉勧請 四國第 二十一はん(番)」
四国21番太龍寺 (虚空蔵)
舎心山 常住院 太龍寺 [しゃしんざん じょうじゅういん たいりゅうじ]
『のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか』
「太龍の 常に住むぞや げに岩屋 捨心聞持(しゃしんもんじ)は
守護のためなり」
大師堂の横、向かって右から
万人講供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「万人講」「明治廿九年(1896年) 八月廿一日 竹ノ内 木山多吉」
万人講供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「万人講 ◯◯亀吉 同 ◯吉」
牛供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「明治廿一(1888年) 子十二月」
大師堂から松山往来(笠岡往来)を通ってさらに南西へ進み、旧県道に出るルートは
竹藪に塞がれているため通行不可。
松山往来(笠岡往来)を北東へ82m戻り、十字路を右折して東へ57m上る
丁字路を左折し、旧県道を北東へ245m進む
土屋畳店前の十字路を右折し、南東へ150m程る
竹藪の手前にある墓地の後ろで右折し、南西へ30m進む
北川昭和四国58番仙遊寺 (千手観世音/弘法大師) <楠>
作礼山 千光院 仙遊寺 [されいざん せんこういん せんゆうじ]
『おん ばざら たらま きりく』
「立ち寄りて 作礼の堂に やすみつつ 六字をとなえ 経を詠むべし」
https://goo.gl/maps/WY7DsHh1mA62
墓地の後ろにある丁字路を左折し、北へ45m進む
北川昭和四国57番栄福寺 (阿弥陀/弘法大師) <楠>
府頭山
無量寿院 栄福寺 [ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ]
『おん あみりた ていせい からうん』
「この世には 弓矢を守る
八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏」
https://goo.gl/maps/rv4pAUvMBZ72、
墓地の後ろの丁字路に戻る
作業道を南南東へ100m上る
山椒川に架かる石橋を渡り、川沿いの道を南南東へ96m上る
治山床固工(昭和62年度竣工)の横で右折
https://goo.gl/maps/hGjiuavn6d92
山道を南へ55m上る
山椒谷古墳
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.31)」を参照
https://goo.gl/maps/PziJw7AfNU22

旧県道に戻り、左折して南西へ進む
旧県道48号線
この辺りから中ノ才の峠までが萌黄ヶ原古戦場跡だとと云われている。
永禄9年(1566年)に村上水軍対小田氏の合戦が行われ、小田氏が勝利。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.31)」を参照
「在田軒道貞(吉岡信元)著作全集(p.83 備中小田物語)」に
「城山 馬くら山と云 明王寺池の上なり
小田政清築き住みはべるとなん 上に見えたり
すは敵よ 馬の鞍おけ はな軍(いくさ)
大間の城山 すわ山 ともいえり 此のやまは 当村新賀の堺なり
むかしむかし笠岡の城主村上高重 吉田まで手に入 当村へ切入
手おい死人数をしらず
紅波楯を流し 山野の草木を染めて色かわりけるゆえ 今に萌黄原となん申しはべる
夜軍(よいくさ)を
するや蛍火(ほたるび) もえぎはら」とある
雁名橋(名所橋)付近から見た諏訪山
新吉中学校の南にある丘(標高70m)。新吉中学校の辺りが字 大間(だあま)。
運動場は大間池の埋め立て地。
中学校の後ろに聳えるのは校歌に唄われる龍王山(267m)。
村上氏の軍は諏訪山城を攻め落とした後、山口村に攻め入って北進し、
萌黄ヶ原で小田氏の軍と刃を交えた
https://goo.gl/maps/buJPscNrz5p
棕櫚の木が側にはえている電柱の横で右折
https://goo.gl/maps/1gjLg1U8W7k
畑道を西へ15m程下って左折し、南へ10m程進む
冬以外は広葉樹の葉が茂っているので旧県道からは見えない。
また雑草に覆われている場合もあるので、刈り払う道具を持参していないと接近困難。
お堂の前は松山往来(笠岡往来)
廻国供養塔(堂内)
「奉納大乗妙典六十六部 天下泰平 日月清明
相州 大住郡中原村 安永四(1775年)未十二月十九日 眞定」
大住郡(おおすみぐん)中原村は現在の神奈川県平塚市にあった村
万人講供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「万人講 施主 ○○○○○」
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.32)」を参照
https://goo.gl/maps/bYeYAFjvmmE2
天神山の墓地の地蔵菩薩像の横(ここから南西330mのところ)にも
廻国供養塔がある
県道に戻り、右折して南へ20m進み、右折して西へ20m下る
雑草に覆われている場合もあるので、刈り払う道具を持参していないと接近困難
向かって右から
牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「為牛供養」「昭和十七年(1942年)二月施主舩橋◯◯」
牛供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「施主 舩橋◯◯ 亡牛◯◯ 昭和七年◯◯」
牛供養碑c(地蔵菩薩坐像 + 向かい合う2頭の牛)
「施主舩橋恭四郎 新山村酪農組合 亡牛供養 昭和七年(1932年) 六月建之」
この場所も松山往来(笠岡往来)沿い
https://goo.gl/maps/iS523rNbQKK2
旧県道に戻り、右折して南へ128m上る
旧県道から左折して東へ17m上る
杉山氏宅の大木の下
地蔵菩薩坐像(中央)
地蔵菩薩坐像(向かって右)
木造弘法大師坐像(同左後ろ)
役小角椅坐像(同左前)
元は杉山氏宅の庭にあるお堂(護摩堂?)に安置されていた。
現在はコンクリートブロック造りのお堂の中に安置されている。
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
『南無大師遍照金剛』『南無神変大菩薩』
https://goo.gl/maps/ETRtoYoDaL12
旧県道に戻り、左折して南西へ290m進む
中ノ才の峠
小田軍が待ち伏せていた
https://goo.gl/maps/BxhmTPmhBXw
峠から南西へ150m下り、Y字路を西南西(右)へ5m下る
中ノ才(なかのさや)のバス停付近
松山往来(笠岡往来)の一里塚
厳密に言えば矢掛-笠岡間の一里塚。起点を矢掛の旧山陽道の栄橋西詰と仮定した場合、
浅海の高柳公民館付近が1里目、中の才バス停の辺りが2里目、
吉田口バス停の辺りが3里目、笠高入口バス停辺りが4里目となる。
井原-笠岡間(県道34号線)の一里塚も井原の旧山陽道を起点にしている。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.35)」を参照
千手観世音菩薩立像
新山走出西国22番a 補陀洛山 総持寺 [ふだらくさん そうじじ] (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「おしなべて
おいもわかきも 総持寺の 仏の誓ひ 頼まぬはなし」
https://goo.gl/maps/VpfqJ
「二十二番 惣持寺」「嘉永二◯(1849年) 四月日建焉」
「施主 谷本○○ 同 ○○」 「世話人 ○○」
万人講供養碑
「万人講」「施主 ○○○○ 爲牛供養 ○○○◯○○日」
22番札所前から南西へ45m下り、丁字路を右折。
細道を北へ60m下り、90m上って丁字路を右折し、東へ30m進む。
天神社跡
社殿は残っていない
元文二年(1737年)の山口村古地図(土倉家蔵)に記されている
稲葉池、天神山、天神社、松山往来(笠岡往来)の位置関係から見て
おそらくこの辺りにあったと思われる
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.34)」を参照
「
備中誌
小田郡(p.150 明治36年発行)」に「*天神宮(天神宮) 松林之内ニ在
昔*長福寺(長福寺)別當 今は*神(神)人攝之
*本社(本社)方一間 前殿 一間(約1.818m)ニ三間(約5.45m) 越後 河内攝之」と記されている。
https://goo.gl/maps/hTVfWnbme2w
天神社の小社
天神山から山口八幡神社の本殿の横に遷座。
艮大明神、十二神社、伊光義神社、池次神社、
日近神社、稲荷神社と共に合祀されている。
https://goo.gl/maps/38wN2q298Dn
天神社の石鳥居の扁額と破損した一石一体の笠木島木
「天神宮」
明王寺薬師堂(24番札所)のとなりの正一位稲荷大明神の境内にある
https://goo.gl/maps/iVzuaWKUW6N2
大木の下にある祠群
大原焼の祠の中に天神像(菅原道真公の像)が祀られている
天神社跡からの展望(南)
松山往来(笠岡往来)
天神社跡から東へ30m進む
(株)丸善の南にある大木の下
谷本株の十二神様
株内で祀る神社は境内を土塀で囲ってあるものが多い。
注連柱
「*神德(神徳)宏遠」「明治廿九年(1896年) 谷本瀧藏」
「年豐物阜」「丙申九月日 谷本定太郎」
https://goo.gl/maps/MCgfFHUYSjT2
自然石の燈籠
銘文なし
棟札
「*四社祠(四社祠)宗上棟祭式太祝詞 *祈(祈) 氏子 安全」
芳名録
「明治三十二年(1899年) 己亥十二月 社殿新築 昭和三十四年(1959年) 己亥三月
社殿改築 改築委員(*谷本姓9名) 大工(*谷本姓3名) 一統氏子中」
石祠
「十二神」
丁字路に戻り、天神山の墓地への参道を北北東へ45m進み、左折して北西へ100m進む。
途中、右手に天神山古墳あり。
天神山の墓地
向かって右(上の段)が谷本家、左(下の段)が高木家の墓地になっている

奉唱光明真言五十萬遍兼阿彌陀宝号百五十萬遍供養供養塔
「*(阿弥陀如来の種子「キリーク」)奉唱光明眞言五十萬遍供養」「阿彌陀宝号百五十萬遍供養」
「文政六年(1823年)未二月 願主 谷本○○良○○」
『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたやうん』
『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』
https://goo.gl/maps/zqEFxeaEBAw
供養塔の前から西へ7m進む
地蔵菩薩立像
「施主 高木吉左衛門 同 高木一家中 同 大前忠右衛門」
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
https://goo.gl/maps/wf1pVSCZWB92
奉納大乗妙典六十六部廻国供養塔
「*(胎蔵界大日如来の種子「ア」)奉納大乗妙典六十六部廻國供養塔」
「安永二(1773年)巳十一月吉日」「行者 源右衛門」
廻国供養塔の前から参道を南へ5m下る
六地蔵
「念佛講中」
『南無地蔵大菩薩』
快圓阿闍梨のお墓(向かって左から2番目)
「阿闍梨快圓」「明和九(1772年)壬辰星 八月四日」
参道を南西へ270m下り、左折して南東へ50m進む
稲葉池(因幡池)と天神山
天神山には柿畑が多い。かつて桃の里だった新山は柿の里となっている。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.34)」を参照
稲葉池(因幡池)の南端から南へ37m進む
ごしょう橋
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.37)」を参照
https://goo.gl/maps/kgwWGuVw6Bx
無料駐車場
ごしょう橋前の十字路を左折し、車道を東へ130m上る
つきあたりの丁字路を右折し、松山往来(笠岡往来)を南へ25m進む
丁字路を左折し、細道を東へ43m上る
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尾坂 画像集.1/尾坂_画像集.2
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