【新山走出西国三十三所観音霊場.5(龍王山・八幡神社・金毘羅宮)】
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龍王山登山口から鉄塔巡視路を南南東へ920m程上り、
丁字路を左折して北東へ260m程上ると山頂。
丁字路(左に上ると龍王山、右に下ると尾坂池の堤)
https://goo.gl/maps/PWVmb8Xn7gT2
展望ポイント(龍王山の三角点の南西約20m)
横から見るとカエルのような岩がある。
龍王山で行われていた雨乞いと関係がある岩かもしれない。
https://goo.gl/maps/2dDRxsWbFnS2
正面は長迫地区
西の方しか展望がひらけていない
岩野池
上長迫
龍王山の三角点(267.4m)
山頂の南が関戸、西と北が山口、東が尾坂。
山口村の古地図には龍王山ではなく「佛石山」と記されている。
「皇国地誌(「笠岡市史 史料編上巻(p.270)」 )」の新賀村の項には
「観音山 高サ直立八拾丈(約242.42m)本村の東ニアリ 嶺上四分シテ東同郡尾阪村(尾坂村)ニ属シ
西本村(新賀村)ニ属ス 南関戸村ニ属ス 北山口村ニ属ス 全山樹木生セス」と記されている。
「ふるさと よしだの史跡(p.21)」の笠岡八十八ヶ所四十七番関戸観音堂の項に
「最初、馬頭観音を観音山に安置する。貞享3年(1686)山麓に移転再建。
寛政9年4月(1797)吉日伊州八坂寺より阿弥陀如来を勧請して馬頭観音と合祀する。
天保11年(1840)観音堂再建(現在地)。」と記されている。
https://goo.gl/maps/mgmBhT1q5Aq
馬鞍山(古城山)への分岐
このあたりの字を「城山白」という。
分岐から北西へ600m程下ると山頂に出る。
比較的道幅もあり、傾斜もゆるやかで歩きやすい。
山頂から奥山池の堤体の南端まで下る道は急勾配。
木の枝に取り付けられている赤いビニールテープの目印を頼りに進むことになる。
目印は倒木や草木の成長の影響でわかりにくくなっているものもある。
分岐から奥山池までの間に展望はない。
https://goo.gl/maps/MV18d1Kzrgr
山頂の手前で少し上る
山頂の東
山頂の南
山頂の西
山頂の北
馬鞍山(標高224m)の頂上
山頂の平らな部分は東西に25m程、南北に20m程。
1辺30cm未満の石が10個程転がっているのみ。
馬鞍山城は小田政清が永禄8年(1565年)に築城
馬鞍山城跡(城址)については「伝えたいわがふるさとの文化財(p.56)」、
「小田郡誌 上巻(pp.149-150)」、「笠岡市史 第一巻(p.421)」、
「御登極記念 小田郡誌(p.89 大正13年)」を参照
「在田軒道貞(吉岡信元)著作全集(p.83 備中小田物語)」に
「城山 馬くら山と云 明王寺池の上なり
小田政清築き住みはべるとなん
上に見えたり
すは敵よ 馬の鞍おけ はな軍(いくさ)
大間の城山 すわ山 ともいえり 此のやまは 当村新賀の堺なり
むかしむかし笠岡の城主村上高重
吉田まで手に入 当村へ切入 手おい死人数をしらず
紅波楯を流し 山野の草木を染めて色かわりけるゆえ 今に萌黄原となん申しはべる
夜軍(よいくさ)を するや蛍火(ほたるび) もえぎはら」とある
明王寺池は現在の奥山下池
すわ山=諏訪山
https://goo.gl/maps/oRQrds8yLPm
山頂から北へ130m程下る
目印がなくなり迷った場所
https://goo.gl/maps/fwL9ndktynE2
まっすぐ下る道があるように見えるが、10m程で途絶える。
周囲を探索してもそれらしき道を発見できず。
この松がある辺りで左折して西へ30m程進んで右折し、谷筋を北西へ120m程下る
馬鞍山の登山道入口
https://goo.gl/maps/xyQKUmTJxSy
2017年4月時点では大規模な改修工事が行われているため、
奥山池の堤体の上を通って車道(市道森ヶ市平谷線)に出ることはできない。
登山口から分岐まで戻る
向かって右に谷筋が通っている
左折して東へ30m程進む
道が崩落しているので要注意
右折して急斜面を南南東へ上る
シダが蔓延っていて道がわかりにくい所がある
この辺りから比較的わかりやすい道になる
分岐付近から見た龍王山
龍王山の三角点付近よりも西の眺めは良好
分岐から北東へ820m程進むと車道(市道森ヶ市平谷線)に出る。
右折して上ると笠岡カントリー倶楽部。左折して車道を奥山池まで下る。
ここから奥山池東端までの950mは平均斜度14%の坂。
https://goo.gl/maps/2sHbDbsHhbt
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木山捷平全集 第一巻の「子におくる手紙(pp.113-126)」の最後のページに、
用事で阿部山へ登った時の話がある。その中で父は「こんなんところに住んどれば
病気もなく長寿が出来ると思われた。」と記している。
奥山池
https://goo.gl/maps/HXK92Gr7Qg82
「奥山池」「岡山縣知事 従四位勲三等 橋本清吉 書」「昭和十八年(1943年)三月建之」
「昭和十四年十月着工 仝十七年十月竣工 総工費九萬七千五百圓 附帶工事水路ヲ含ム」
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.48)」を参照。
2017年より大規模な改修工事(耐震対策)が行われている
満水時
洪水吐の水路
奥山池の堤体
堤高12.3m、堤長107m(
平成25年度公共事業事前評価箇所一覧表より)。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.48)」に記さている堤防の高さは19m。
山口村古地図(元文2年)には中池の東(山口簡易水道浄水場跡の東辺り)に
「切池」という名前の中池よりも小さな池が描かれている。
「皇国地誌」には「上池」と記されている。東西三十一間(約56.36m)、
南北廿六間(約47.27m)、周回百四間(約189.09m)。
奥山池の堤体上から車道を西へ236m下る
奥山池改修工事前
山口簡易水道浄水場跡(笠岡市山口3591-1)
昭和36年(1961年)竣工。以降昭和62年(1987年)まで稼働。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.45)」を参照
https://goo.gl/maps/gj6UBUpXh8J2
山口簡易水道建設記念碑
「山口簡易水道は*昭和三十五年(※1960年)十一 月に着工し 昭和三十六年六月に竣
工せし郷土の誇り得る一大事業に して これが事業推進に当りては 笠
岡市長小野博氏の深い理解と熱意 はもとより 難関を克服して水道組
合を設立し 着工に全力を傾倒され た初代組合長入江密治氏並に世話
人各位の功績は特筆すべきもので ある なほこれが施工に当り 基本調
査 配水量計畫工事設計の策定に周 到なる配慮を賜ひし笠岡市水道課
の指導 併せて村民多年の悲願たり し水道事業創設の方向決定と それ
が早期実現の為あらゆる困難に耐 へ 強靭なる熱意のもと 遂に清淨な
る水を供給して 村民融和一体化 具現に努められし多数の関係各位
に敬意と感謝の誠を捧げんため の碑を建立して 後世に称へる次第
である .
*昭和四十二年九月二十四日 高木甲一(※甲之)撰並書」
「 *総工事費 五百七十一万圓
地元*負担額 九十五万六千圓
配水管延長八千八百二十一米
消火栓 十七箇所
工事請*負者笠岡市金浦桑田百太郎
山口簡易水道関係者
設立当初*世話人 (*14名) .
現*世話人 (*組合長、副組合長各1名、理事14名、監事3名)
妹尾富繁 刻」
山口簡易水道浄水場跡から車道を西へ100m下る
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奥山中池
「皇国地誌」には「明和池(みょうわいけ)」と記されている。
東西三十間(約54.55m)、南北廿八間(約50.91m)、周回百拾間(約200m)。
https://goo.gl/maps/Nm96E5G5PAU2
簡易水道の取水施設
耐震工事が完了した中池の堤体
中池から車道を西へ150m下る
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奥山下池
山口村古地図(元文2年)には「谷池」と記されている。
「皇国地誌」によると東西五十三間(約96.36m)、
南北四十八間(約87.27m)、周回百六十三間(約296.36m)。
https://goo.gl/maps/TVMv3TTM9dz
下池から車道を北西へ175m進む
https://goo.gl/maps/baHLr8PTHV52
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ゴルフ練習場の南にある墓地
神宮寺六坊のひとつ上学坊(後の明王寺)跡?
「元文二年(1737年)山口村古地図(土倉家蔵)」を参照
https://goo.gl/maps/sRscfeBAoGJ2
丁字路を右折してゴルフ練習場(現在は太陽光発電施設になっている)への道を東へ65m上る
ゴルフ練習場駐車場から鉄塔管理道を東へ200m程上る
No.20 鉄塔
https://goo.gl/maps/RqrreN5PjPD2
No.20 鉄塔の西15mの所
山上様(笠岡市山口3739)
石積みの石殿内に安置されている。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.45)」を参照。
https://goo.gl/maps/sjMqRznVkB72
秋葉様(秋葉大権現立像)
『南無秋葉大権現』
向かって左の石殿内に安置されている。
山上様(役小角椅坐像)
『南無神変大菩薩』
中央の石殿内に安置されている。役行者は修験道の開祖。
山伏寺である明王寺と関係は不明。
石鎚様
『南無石鎚大権現』
向かって右の石殿内に安置されている。
ゴルフ練習場前の丁字路に戻り、右折して車道を北西へ120m下る。
牛舎の横にある変則十字路を右折して北へ225m下ると明王寺薬師堂の前に出る。
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変則十字路を左折し、南南西へ145m進む
牛供養碑群(笠岡山口 道-460)
向かって右から
牛供養碑兼道しるべ(牛)
「左 鴨方 牛供養 右 小田 大正四年(1915年)○○」
この道が小田と鴨方を結ぶ旧道であったことがわかる。
牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「牛供養 施主 中信健夫 昭和五年(1930年)五月」
牛供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「明治何年何月日(*そのまま) 牛供養 施主 中信吉五郎」
現在はすべてなくなっている
https://goo.gl/maps/oeRQLGxcDRN2
牛供養碑群前から南へ160m進み、変則十字路からさらに南へ107m進む。
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若宮神社
注連柱
「奉 若宮大神」「献 氏子中」
山部株の同族神(同族で祀る鎮守)
https://goo.gl/maps/gj7x6XPUuzB2
若宮神社前からさらに南へ39m進み、右折して西へ74m進む
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蓮池(2012年夏)
山口村の古地図には「小向池」、「皇国地誌(「笠岡市史 史料編上巻(p.420)」)」には
「蓮田池」と記されている。「東西廿一間(約38.18m) 南北三十二間(約58.18m)
周回九十五間(約172.73m)。
https://goo.gl/maps/QbJNPLaH2Bq
冬の蓮池(2013年3月)
蓮が消滅した蓮池(2017年2月)
蓮池と八幡神社前の丁字路から西へ86m進む
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米田池
万治2年(1659年)に完成。
「皇国地誌(「笠岡市史 史料編上巻(p.420)」)」には
「東西五拾七間(約103.64m) 南北七十五間(約136.36m)
周回二百四十間(約436.36m)」と記されている。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.58)」を参照。
https://goo.gl/maps/sfteSJEEGst
対岸は木戸口山
米田池の東端にある四叉路から土手道を西南西へ150m進む
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坊山城跡
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.57)」を参照
米田池の北端にあるY字路を右折し、細道を北へ83m下って坊山の墓地へ
土倉亮道翁墓銘
篆額「土倉亮道翁墓銘」
「翁諱*
亮道 通稱鹿之介 後更治部右衛門
土倉氏備中小田郡小田村
人 考諱*
亮長 妣中西氏 翁其次男也 少為山口村里正 遂移住暇則*
従
我山田方谷先生受學 村(※山口村)屬庭瀬侯封内 助藩用有功 毎年賜糯米(もちごめ)二
苞俸米三口 慶應中(1865-1868年)為大里正
又兼山口東三成星田等里正 尋*陞(のぼる)
徒
小姓(かちこしょう)格 明治後改為山口新賀二村戸長*旣(既)而合二村稱新山 選為村
長準判任 二十七年(1894年)二月二十七日病*??(没)
享年七十三 葬防山之塋 配(つれあい)
難波氏生二男女 長男*
亮明嗣宗家 次克己襲職
女皆嫁 翁為人篤實
清廉 接人温和 執事精勵一意 除害興利 又為公益 或賑恤捐金不少
官數(しばしば)賜木盃等物褒之
郷人*悅(悦)服如慕父母 及其亡相謀欲建*𥓓(碑)以紀
恩 隣郷村長及有志者聞之 亦爭相助 遂寄*狀(状)請余(われ)銘 嗚呼一村或屬
藩或*隷縣政令*?(屡 しばしば)變 而翁則在職六十年如一日非得官民之信則惡
*
能至此是不可以不銘
且同門之士曰 凋落僅遺翁等一二人 而今翁
亦逝 余固不勝痛悼 惡得辭其*
請乃系
銘曰
六十餘年 一職不徙 愛撫部*𫞖(民)
如*
弟如子 宜矣闔郷 如*?(喪)考妣
從五位 三島毅 撰 岡田起作 書」
「明治二十九年(1896年)二月 有志者建之」
封内(ほうだい): 領分の中。国内。
賑恤(しんじゅつ): 貧困者に金銭や品物を与えて救う
木盃(もくはい): 木坏。木製のさかずき。栄典として個人・団体に授与する賞坏のひとつ。
悦服(えっぷく): よろこんで心から服従する
徙(し/うつる/うつす): ずれて動いて行く。場所をかえる。
闔郷(こうきょう): 村じゅうみんな。全村。
土倉亮道(治部右衛門)翁と三島毅(中洲)翁は山田方谷先生の門人
山口村は庭瀬藩領、新賀村は一橋領。明治22年(1889年)6月1日に合併し、新山村となった。
「
小田郡誌
下巻(p.733 昭和16年)」、「御登極記念 小田郡誌(p.90 大正13年)」を参照
https://goo.gl/maps/Pwap2P8F1BK2
◆孝子篤行者 山口村長七郎さんについて
「(七)同*國山口村長七郎
同*國小田郡山口村の民長七郎
父弥兵衛丹(に)離連(れ)
継母に仕へ帝(て)孝奈(な)る事 誠耳(に)篤し
父死して後
家事を長七郎に任春(す)遍゛(べ)起(き)といひ希(け)連(れ)ども
長七郎終耳(に)ゆるさ春゛(ず)して 只母にまかせ置ぬ
家事を司る事
己丹(に)あら八゛(ば)母何と奈(な)く
心於(お)可(か)るゝ方(かた)有べしと思へ八゛(ば)奈(な)り
長七郎
母耳(に)か多(た)り希(け)る八(は) 我 実能(の)子奈(な)ら祢(ね)ども
実の母と思ひ侍連(れ)八゛(ば) 又 実の子と思しめさるべし
少も*隔る心丹(に)侍ら須゛(ず)
実乃(の)子といづ連(れ)異奈(な)らんやといへ八゛(ば)
母もうち和らぎて終耳(に)逆へる色越(を)見春゛(ず)
食物を者(は)じめ何事によら須゛(ず)母を前にし
己を後(のち)尓(に)し
母丹(に)厚くして 己丹(に)う春(す)くせり
妻も又 孝奈(な)り介(け)連(れ)八゛(ば)
夫婦共懇耳(に)事(つか)へ帝(て)志浅可(か)らざ連(れ)八゛(ば)
い可(か)で実の子奈(な)りともかゝ類(る)べしや
涙を奈(な)可゛(が)し帝(て)悦び希(け)る奈(な)り
身貧しけ連(れ)ども*正直にして無欲奈(な)りけ連(れ)八゛(ば)
上(かみ)の施しをも貪らず
其里人よく相和らぎて 奈(な)へ帝(て)これを愛敬せり
かく夫婦しもの孝志を 烈公聞召し
長七并丹(に)妻にも倉米を賜り感称し給へり」
「
吉備孝子伝
巻2(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より
------------------- 変体仮名変換後 ------------------
(七)同*國山口村長七郎
同*國小田郡山口村の民長七郎 父弥兵衛に離れ
継母に仕へて孝なる事 誠に篤し
父死して後
家事を長七郎に任すべきといひけれども
長七郎終にゆるさずして 只母にまかせ置ぬ
家事を司る事 己にあらば母何となく
心おかるる方(かた)有べしと思へばなり
長七郎 母にかたりけるは 我 実の子ならねども
実の母と思ひ侍れば 又
実の子と思しめさるべし
少も*隔る心に侍らず
実の子といづれ異ならんやといへば
母もうち和らぎて終(つい)に逆へる色を見ず
食物(くいもの)をはじめ何事によらず母を前(さき)にし
己を後(のち)にし 母に厚くして 己にうすくせり
妻も又
孝なりければ
夫婦共懇に事(つか)へて志(こころざし)浅からざれば
いかで実の子なりともかかるべしや
涙をながして悦びけるなり
身貧しけれども*正直にして無欲なりければ
上(かみ)の施しをも貪らず
其里人よく相和らぎて なへてこれを愛敬せり
かく夫婦しもの孝志を 烈公聞(きこし)召し
長七并に妻にも倉米を賜り感称し給へり」
並べて(なべて): おしなべて。一面に。全般に。なみ。一般。普通。
同*國 = 備中国
◆孝子篤行者
山口村三蔵さんについて
「(八)同村三蔵
同村耳(に)三蔵といへる者 親丹(に)孝ありて又 兄尓(に)悌あり
一度(ひとたび)岡山に出帝(て)*宮?(宮野)氏丹(に)仕へし可゛(が)
奉公まめや可(か)に努め希(け)れ八゛(ば)
主人尓(に)も気丹(に)入多(た)り
期既耳(に)至りぬ連(れ)八゛(ば)仕へをやめんと春(す)連(れ)ど
於(お)し三(み)とゞ免(め)ら連(れ)帝(て) 又仕ふる事二年にして
家に可(か)へ連(れ)り
宮野氏も彼可゛(が)志を志(し)りて
又立帰る事阿(あ)ら八゛(ば)
志(し)奈(な)よく仕ふ遍゛(べ)起(き)よし言徒(つ)可(か)八(は)し希(け)連(れ)ど
我一人八(は)利あるべし 父母を者(は)奈(な)連(れ)天(て)
又い可(か)奈(な)ぞやとうけ可゛(が)八(は)春゛(ず)
程経て後貧しき可゛(が)為耳(に)止(やむ)事を得春゛(ず)し帝(て)
奥山氏丹(に)仕ふ
己可゛(が)給米を皆父母の*??(所)に贈り
少し八゛(ば)可(か)りを残して私用と春(す)
秋に奈(な)りてチボの*??(所)より三蔵可゛(が)もとへあ多(た)ふる事阿(あ)連(れ)八゛(ば)
ひそ可(か)に貯(たくわ)へ置帝(て)自の為に徒(つ)可(か)八(は)ず
父母能(の)急を見て必春゛(ず)た春(す)けぬ
三蔵可゛(が)兄七兵衛い川(つ)を限(かぎり)と奈(な)く病事あり介(け)るに
看病心を盡して其労をいと八(は)春゛(ず)
己可゛(が)食を減じても兄に進めぬ
其心 兄を思ふ事 身丹(に)切(せつ)尓(に)し帝(て)食も忘るゝ
彼一人乃(の)労をも川(つ)帝(て)七兵衛つゐ尓(に)健丹(に)奈(な)りぬ
七兵衛間怒る事あ連(れ)ども三蔵是をさ可(か)八(は)春゛(ず)
兄の非奈(な)る越(を)責春゛(ず) 己を是也とせ春゛(ず)
よき従ひ希(け)連(れ)ば 殊耳(に)相和睦せり
かく孝悌能(の)実(まこと)阿(あ)る事 烈公聞召三蔵可゛(が)善を賞し
父母丹(に)米を賜里(り)帝(て)其貧を賑八(は)し
三蔵を里に可(か)へして父母に徒(つ)可(か)へしめ給へり」
「
吉備孝子伝
巻2(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より
------------------- 変体仮名変換後
------------------
(八)同村三蔵
同村に三蔵といへる者 親に孝ありて又 兄に悌あり
一度(ひとたび)岡山に出て*宮?(宮野)氏に仕へしが
奉公まめやかに努めければ 主人にも気に入たり
期(でかわり)既に至りぬれば仕へをやめんとすれど
おしみとどめられて 又仕ふる事二年にして家にかへれり
宮野氏も彼が志(こころざし)をしりて 又立帰る事あらば
しなよく仕ふべきよし言つかはしけれど
我一人は利あるべし 父母をはなれて又いかなぞや とうけがはず
程経て後
貧しきが為に止(やむ)事を得ずして奥山氏に仕ふ
己が給米を皆父母の*??(所)に贈り 少しばかりを残して私用とす
秋になりて父母の*??(所)より三蔵がもとへあたふる事あれば
ひそかに貯(たくわ)へ置て自(みずから)の為につかはず
父母の急を見て必ずたすけぬ
三蔵が兄 七兵衛いつを限(かぎり)となく病(やむ)事ありけるに
看病心を盡して其労(いたわり)をいとはず
己が食を減じても兄に進めぬ
其心 兄を思ふ事 身に切(せつ)にして食も忘るる
彼一人の労をもつて七兵衛つゐに健(すこやか)になりぬ
七兵衛間(まま)怒る事あれども三蔵是をさかはず
兄の非なるを責ず 己を是也とせず よく従ひければ 殊に相和睦せり
かく孝悌の実(まこと)ある事 烈公聞召(きこしめし)三蔵が善を賞し
父母に米を賜りて其貧を賑はし 三蔵を里にかへして父母につかへしめ給へり
さかふ: 従わない。さからう。そむく。
同村 = 備中国小田郡山口村
六地蔵尊
「元文五(1740年)庚申◯ 爲仁實徹眞居士 資助覺路者也 二月吉日」
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
https://goo.gl/maps/pPi3oqhsNSt
蓮池と八幡神社前の丁字路に戻り、右折して山口八幡神社への参道を南へ19m上る
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左折して細道を東へ10m進む
つきあたりに地蔵堂、向かって右に観音堂
地蔵堂内の向かって右に地蔵菩薩像が陽刻された五輪石塔の水輪、
中央に五輪石塔の水輪、向かって左に「白狐◯◯◯」と刻まれた
自然石が祀られている。
堂内向かって右端にあるのは百万遍念佛用の大数珠。
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
如意輪観世音菩薩輪王坐像
「文化二丑天(1805年) 廿七番 十一月吉日」
「地藏房 清○ 作次良 宇八 忠六 省?○」
「森七 半七 嘉?右エ門 佐平次 綱?吉」
新山走出西国27番 書寫山 圓教寺 [しょしゃざん えんぎょうじ] (如意輪)
『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
「はるばると のぼれば書写の 山おろし 松のひびきも 御法(みのり)なるらん」
https://goo.gl/maps/nKACv
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山口八幡神社前
丸橋の親柱
向かって右前「*奉??(奉獻)」「願主 信定 竹?右衛門」
左前「*奉??(奉獻)」「願主 谷本新作知真」
右後「戊辰九月吉日」「御普請掛 廣井義一郎智◯」
左後「明治元年(1868年)」「世話人 大森 丈右衛門」
「御普請」とは江戸時代に幕府や藩が施工した土木工事のこと
石燈籠
「*??燈(獻燈)」「慶應三年(1867年)丁卯 秋九月 吉祥日」「願主 若連中」
「與高麗狗一對伴 建之故不記姓名」
山口八幡神社のいわれ

高麗狗(=狛犬)
向かって右の台座「*奉??(奉獻)」
「願主若連中 谷本半五郎 谷本定太郎 谷本常右衛門 園部松太郎 谷本胸太郎
谷本松太郎 谷本文?太郎 園部文太郎 谷本榮三郎 谷本◯◯ 大森新太郎」
「谷本松之助 谷本竹五郎 三宅柳之助 谷本久四郎 大森武一 谷本丈助
北条◯◯ 谷本藤右衛門 小籔森八 木山九平 谷本杢之助 妹尾政右衛門
山部長右衛門 高木谷助 木山伊代藏 谷本平四郎 山部勝右衛門 山部榮治郎」
「山部信治郎 廣江吉太郎 世話方 谷本半十郎 山部權兵衛 谷本龜右衛門
高木兵助 大森丈右衛門 猶村五三郎 廣江彌吉 慶應三年丁卯 秋九月吉祥日」
向かって左の台座「*奉??(奉獻)」
「願主若連中 高木治右衛門 高竹孫四郎 猶村瀧藏 信定幸太郎 高木茂右衛門
猶村久右衛門 稲葉常吉 小籔徳三郎 佐内源兵衛 稲葉徳三郎 稲葉荘兵衛」
「猶村磯助 高木理右衛門 高木武一 高木勝三郎 山部貞治郎 高木民五郎
小籔平五郎 山部兼吉 佐内政治郎 廣江*?(総)右衛門 山部坂枩(松)
矢本芳助 山部新平 森藤谷平 有本梅藏 高木安治郎 向井綱吉 有本茂三郎」
「有本平助 世話方 谷本半十郎 山部權兵衛 谷本龜右衛門 高木兵助 大森丈右衛門
廣江彌吉 猶村五三郎 慶應三年(1867年)丁卯 秋九月吉祥日」
百度石(石鳥居の向かって右前)
「百度石」「願主 本村 入江定平」「明治三十八年(1905年)四月吉日」
一の石鳥居
「八幡宮」「萬延元年(1860年)庚申夏六月吉日」「氏子中謹建焉」
一の石階
「願主 谷本興四郎○○」「世話方 大森丈右衛門」「明治二年(1869年)己巳春」
「願主」「谷本半十郎政忠」「世話方 大森丈右衛門」「明治二年己巳春」
二の石鳥居(艮宮の石鳥居)
「艮宮」「延享元甲子年(1744年)九月吉日 施主 惣氏子中」 「願主 廣井兵左衛門」
廣井兵左衛門雅武さんは寛延二年(1749年)から安永9年まで山口村の村役人を務める。安永10年(1781年)歿。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.39)」を参照
二の石階
「奉」
「高木久恵 木山靜(静)太 廣井新三郎
末竹 新 山崎九一 園部享?七 廣江綾子」
「谷本秀三郎 高木観助 高木延?助 稲葉◯太郎
木山晴◯? 山部◯◯ 佐内増一 谷本正之」
「上原林太郎 高木◯治郎 木山十平 木山◯◯
有本◯◯ 小籔◯◯ 廣岡長作 松田良三郎」
「獻」
「昭和三(1928年)戊辰九月」「願主委員 土◯克◯
園部三◯◯ ◯◯定平 ◯◯◯助 以上七十四名」
三の石階
「奉」「願主 連名抽◯」
「廣江石助 高木彦一郎 山部卯一 木山健蔵 高木菊與? 谷本佐?一」
「稲葉◯平 高田多喜一 木山勝治 大森健治 山部甚治郎 佐内奥治郎」
「高木省齋 岸野又一 森谷常太郎 谷本慶?一 谷本佐太郎 高木儀三郎」
「獻」
「入江伊三郎 山部大一 佐内愛太郎 稲葉傳作
高木仙太郎 稲葉喜七 山部拾一 高木健市」
「山崎勘太郎 谷本増一 高木折三 高木金三郎
小籔鹿太郎 谷本定太郎 佐内豐太 高木岩藏」
「廣江金藏 高木芳太郎 信定◯治郎 平本仁四郎
成本条太郎 山崎良太 森谷俊二郎 山崎喜八」
三の石鳥居
「八幡宮」「廣井 義順 義久 義勝」
紀年銘は判読不可。廣井氏は江戸時代の山口村の庄屋。
廣井茂一郎義久さん(元文元年(1736年)歿)の銘が有る事から察するに、
この鳥居はそれ以前に建立されたものであろう。
手水鉢
「天保十四年(1843年) 卯十月吉?日 上講中」
水溜部分は舟の形
四の石階
石燈籠
「奉燈明」「惣氏子」
石燈籠a(五の石階の向かって右)
「元禄十五壬午年(1702年) 九月廿二日 願主 廣井 儀左衛門尉 義久」
石燈籠b(同左)
「元禄十五壬午年(1702年) 九月廿二日 願主 廣井 儀左衛門尉 義久」
廣井儀左衛門さんは貞享2年(1685年)から元禄12年(1699年)まで山口村の村役人を務める。
五の石階
「石垣並石*??(壇) 奉寄進 村中」「嘉永四辛亥年(1851年) 六月吉日 調之」

石燈籠c(向かって右端)
「奉寄進」「宝永元甲申天(1704年) ◯◯ ◯◯」「九月吉辰日 ◯◯ ◯◯」
石燈籠d(同左端)
「元禄十五壬午年(1702年) 九月廿二日 願主 高木 利右衛門」
注連柱
「萬物◯神化」「願主 園部信太郎」
「仰観*赫*赫光」「明治二十年(1887年)八月」
山口八幡神社の拝殿
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.57)」を参照。
「
備中誌
小田郡(p.150 明治36年発行)」に「八幡宮 祭禮九月 山口尾坂*氏神(氏神)也
昔*長福寺(長福寺)別當せしか今は*神職(神職)攝之山林 越後
河内 本地阿彌陀佛
*本?(本社)一間ニ三間 前殿二間(約3.64m)二三間(約5.45m)」と記されている
https://goo.gl/maps/t4RXYxw9Ciy
洗盤
「お舟」と呼ばれている
屋根に八幡神社の神紋である巴紋(三つ巴)が刻まれている
「奉獻」
「闔村之壮者結合而謀濟世之道 名曰(いわく)涼?閑?社
*社貟(社員)胥協相議 造洗盤於社前 築碕岸於祠後 以報*神(神)徳 云爾
于時明治十年丁 丑秋九月也」
闔村(こうそん):全村。村中。
碕岸(きがん):曲がった川岸
風化により判読困難
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.58)」に「明治10年(1877)9月に
若衆組織を閉じるにあたって、利用関係(若衆)が集まって、
お舟を造り奉献したと刻んである」と記されている。
「御登極記念 小田郡(p.88 大正13年)」に「山口・新賀鄕・下長迫・上長迫の四部落には
古來若連中、*義勇社(義勇社)又は*匡救社(匡救社)と稱して、各青年団の團体ありしが
大正元年(1912年)八月之を合併し、一村青年を統一して、新山村青年團を設置し、以て今日に至れり。
現在團員二百十名あり。大正五年小田郡長より選賞の榮を得たり。」とある
「小田郡誌 下巻(pp.462-463)」に「明治維新後教育の普及と*社會(社会)の進歩とに鑑み、
明治十三年(1880年)縣知事は訓令を發して、青年の團結を促し之に*匡救社(匡救社)と命名し、
其の修養と公共の爲に活動せんことを要求せり。かくて各市町村に部落単位の
*匡救社(匡救社)創設せられしが、後種々の名稱を附すことゝなれり」とある。
若連中→涼?閑?社(明治10年)→義勇社→匡救社(明治13年)→青年團(大正元年)
関戸の八幡神社の石橋は匡救社が奉納している
北川村では明治8年に若連中を匡救社と改称
金浦町では匡救社や青年團以外の呼び方として、友進社(袖解)、親友社(當摩)、
共力社(安原上當摩)、懇親社(池ノ内外)、精進社(有田尻大西)等があった。
手水鉢(注連柱の横)
「宝永四(1707年) 為延九郎? 九月吉日」
拝殿の向かって左から時計回りに本殿の裏へと進む
艮大明神の小社
祭神は吉備津彦命
大庭地区から山口八幡神社の本殿の横に遷座
天神社(天神山より遷座)、十二神社、伊光義神社(大庭より遷座)、
池次神社、日近神社、稲荷神社と共に合祀されている
山口八幡神社鎮座三百年記念碑
「寛文十二年(一六七二年)鎮座 一九七六年建之」
「昭和五十一年一月一日(一九七六年) 記念事業八幡宮縁起書発刊
宮司 木山 ◯ 氏子総代 山部 ◯ 高木◯◯ 平本◯◯
高木 ◯
山部◯◯◯ 木山◯◯ 谷本◯◯ 有本◯◯」
本殿の向かって右にある
疫神社と五荒神社の小社
山口の疫神社(やくじんじゃ)については「伝えたいわがふるさとの文化財(p.47)」を参照
https://goo.gl/maps/MAbsGBCWcsn
金毘羅大權現 九頭竜王権現 遥拝所
標柱
「金毘羅大權現 九頭竜王権現 遥拝所」
「昭和五十一年一月吉日建之 土居 広井◯◯ *?話人(世話人)山部 ◯」
金毘羅大權現 九頭竜王権現の社殿は遥拝所の南140mの所にある
https://goo.gl/maps/3YTJvqrZgDA2
本殿
明治21年(1888年)に再建
神楽殿
奉献合祀紀念樹の石碑
「奉献合祀紀念樹」
「元(もと)艮神社地移植之松 于時大正五年(1916年)壹月吉日」
「入江定平 高木光三郎 追分 森山辰典 上原林太郎」
山口八幡神社の駐車場の横にある。
大庭地区にあった艮神社の境内の松を八幡神社の境内に移植した際に建立。
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山口八幡神社の石段を下って(あるいは車道を下って)石橋のところまで戻り、
左折して南へ80m上る
故陸軍歩兵一等卒酒井光太郎碑
「故陸軍歩兵一等卒酒井光太郎碑 陸軍歩兵中佐 山下五三郎 書」
「日清戦役為近衛師團歩兵第二聨隊附從軍明治
二十八年(1895年)十月廿五日於臺彎(台湾)歿 享年二十有二」
笠岡の古城山の招魂社にある招魂碑にもその名が刻まれている。
山下五三郎氏は帝国在郷軍人会岡山支部陸軍歩兵大佐。
https://goo.gl/maps/917dpv1R3t52
土倉果実園跡
土倉果実園は新山村長土倉克己氏(治部右衛門さんの次男)が明治30年代に開墾。
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.60)」を参照。
さらに南へ109m上る
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Y字路を左折し、細道を南東へ107m上る
https://maps.app.goo.gl/c4p3SNR6DZHYNALJ8
溜池(やまべ池)の横の十字路を左折
竹藪の中の細道を北へ32m進む
森ケ市にある金刀比羅・九頭龍宮の参道の横
奉唱弥陀宝号・光明真言・慈救之咒供養塔
「奉供養 弥陀宝号二百六十六万反 光明真言貳百六十六万反
慈救之咒二百六十六万反 享和二(1802年)壬戌正月日
廣井市郎右衛門◯○」
『南無阿弥陀仏』
『おん あぼきゃ べぃろしゃのぅ まかぼだら まに
はんどま じんばら はらはりたや うん』
『のうまく
さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや
うんたらた かんまん』

聖観世音菩薩立像
「二十八番」
新山走出西国28番 成相山 成相寺 [なりあいさん なりあいじ] (聖観世音)
『おん あろりきゃ そわか』
「波の音 松のひびきも
成相の 風ふきわたす 天(あま)の橋立」
https://goo.gl/maps/rB2mK
28番札所前から参道を東へ30m上る

手水鉢(社殿の向かって右前)
「奉献 若連中 慶應二(1866年)丙寅 六月吉日」
「伝えたいわがふるさとの文化財(p.58)」を参照
水溜部分は山口八幡神社の手水鉢(天保14年=1843年)と同じ形
金毘羅大權現 九頭竜王権現の社殿
昭和五十九年(1984年)三月吉日に再建。山口八幡神社の境内に遥拝所がある。
旧社殿では若衆宿が開かれていたという。
『南無金毘羅大権現』『おん くびらや そわか』
https://goo.gl/maps/3YTJvqrZgDA2
溜池(やまべ池)の横の十字路に戻り、さらに北西へ107m下ってY字路を左折。
細道を南へ70m進み、つきあたりの丁字路を右折して西へ183m下る。
つきあたりの丁字路を左折し、南南西へ39m上る。
県道168号線(新賀小坂東線)を横断する。
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道-615を南へ37m上って十字路を右折

十字路
山口と新賀の境にある。右折すると笠岡市山口 道-685、道-684を通って諏訪山へ。
峠から柿畑の間の細道(笠岡市山口
長狭物不明-640、笠岡市新賀 長狭物不明-703)を
南へ160m程下ると新賀の妙見池の横を通って笠岡新四国46番浄瑠璃寺の近くに出る。
諏訪山の法界地蔵
「法界」「○○衛門○○ 嘉○○」
「爲子山中生霊菩提 天明八(1788年)戊申六月建之」
『おん かかかび さんまえい そわか』
天明8年は早川正紀が笠岡代官になった年。
「岡山文庫 142 岡山の災害(p.16 蓬郷 巌 著)」によると
天明8年には悪疫が流行して、餓死、病死者が多かったらしい。
https://goo.gl/maps/Y4FoE3B4QA32
車の場合は十字路に戻り、県道168号線を南東へ275m上る。
徒歩の場合は左折して新賀と山口の境にあたる道(笠岡市新賀3-1)を南東へ40m上る。
丁字路
右折して細道(笠岡市新賀 長狭物不明-642、長狭物不明-714)を南へ下ると、
妙見池の東岸、七鍬上池の西岸を経て、七鍬池の北端に至る。
七鍬上池の手前(南へ165m下った所)の丁字路を左折し、
細道(笠岡市新賀
長狭物不明-717、長狭物不明-742、長狭物不明-744、笠岡市関戸 長狭物不明-113)を
南南東へ約200m下ると、関戸観音堂に至る。
https://maps.app.goo.gl/pJwymSb3jzza6d8R7左手の柿畑を眺めつつ南東へ120m上る
新賀2号橋(跨道橋)
1970年竣工。市道新賀198号森ヶ市シホケガタワ線。
県道168号線造成のため切り下げられた所に架けられている。
https://maps.app.goo.gl/HtmT2ZZNvd8yKVD58
跨道橋から北方を望む
手前から米田池と坊山、ききなの峠と古代の丘スポーツ公園の跨道橋、
走出の持宝院と明王院、山上に井原市野上町の智勝院や北之坊が見える。
持宝院の梵鐘(県指定重要文化財)は元は智勝院の近くにあった頂見寺の梵鐘。

跨道橋から県道168号線を俯瞰
この辺り(笠岡市新賀3番地)の字をシホケガタワという
(有)ヤマベオート前のY字路を左折し、北へ70m上って右折
水路(笠岡市山口 水-633)沿いの細道を東へ100m上る
https://maps.app.goo.gl/FJMoDE3g8qhgRTJLA

道の向かって左は笠岡市山口3525、右は笠岡市新賀2-1
新山の分水石(分石)
嘉永5年(1852年)旧暦の6月7日に新賀の水番と山口の池作配の間で起きた争いをきっかけに
当時板倉藩領だった新賀村と幕府領だった山口村の間で協議。
「爲取替内済規定證文事(とりかえさすないさいきていしょうもんこと)」を作り、分水石を設けた。
昭和49年(1974年)に同文書が発見された事で、分水石も日の目を見るようになった。った。
「笠岡市史
地名編(p.207)」、「伝えたいわがふるさとの文化財(p.61)」を参照
「小田郡誌 上巻(p.652 昭和16年)」によると嘉永6年に「本郡地方稀有の大旱魃飢饉」があった。
「岡山文庫 142 岡山の災害(pp.21-22 蓬郷 巌 著)」には
嘉永五年の大洪水(岡山 8月22日)と嘉永六年の大旱魃(美作 5月19日~8月2日)についての記録が記されている。
「
愛媛縣新居郡誌
全(p.198 大正12年)」に嘉永5年に旱魃、嘉永6年5月18日より8月2日迄雨なく
8月3日暴風雨にて田畑不作という記録がある。
嘉永6年はペリー来航の年でもあり、江戸から那覇に向かっていたペリー提督も
この暴風雨(台風)に遭遇している。
https://maps.app.goo.gl/pTsV42TwQQVKWc4q7
新賀分の溝の幅は72cm、山口分は34cm。比率は6分8厘対3分2厘。
新賀側の水路(笠岡市新賀2-1)は今でも水路として機能しているように見える

野面石を乱積みしている
山口分の水路(笠岡市山口 水-643)は機能していないように見える
分水石から水路沿いに東へ90m上った所(笠岡市山口3527-1)に分水路がある
https://maps.app.goo.gl/6XNgDKJwuVCbixNJA

石積みの水抜き穴
山口側へ下った水は水路(笠岡市山口 水-640、水-630、水-618、水-614)を通って米田池に流れ込む
分水路から東へ45m程上る
砂防堰堤(あるいは治山堰堤)
表面は石積み
https://maps.app.goo.gl/HvP1143k512VeGC68

堤体の上から下流を望む
龍王山の南斜面と七鍬山(平井山)の北斜面の水がこの谷川に集まる
(有)ヤマベオート前に戻って左折し、県道168号線を南南東へ245m進む

関戸と新賀の境にあるY字路を右折
県道168号線を南東へ940m進むと尾坂に至る
尾坂の霊場巡り
https://maps.app.goo.gl/WGHsKec9xd3azwcm6

南東へ40m下り、南西へ20m下って右折

北西へ60m下る


細道を西へ50m下る
関戸観音堂前に出る
画像集.1/画像集.2/画像集.3/画像集.4/画像集.5/画像集.6
尾坂 画像集.1/尾坂_画像集.2
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