【里見四国八十八ヶ所霊場 画像集1(霊山寺・古井・林・土井・津江)】




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 開創: 紀年銘がある最古の石仏は「文化六己巳(1809年) 四十一番 十月吉日」

「里庄町誌(pp.55-56 昭和26年)」に「里見四國 文化文政の頃。靈山寺龍海・
不動院惠恭及び池口の藤井氏、仁左衛門等が四國四十八か所の靈場に擬して、
三部山から里見及び新庄の一部の各所に小堂を建てた。巡拜は毎年四月二十一日に、
第一番の札所靈山寺に集合して始め、巡拜と逆に廻るのと一年交代に行い、
多い時は数百人行列をたてゝ廻つたことさえあつた。」とある

里庄村については「浅口郡誌(pp.444-452 大正14年)」を参照







三部山霊山寺(釈迦)

高野山真言宗備中霊場第78番
備中浅口西国第12番

里見四国1番霊山寺 (釈迦) <霊山寺>
 竺和山 一乗院 霊山寺 [ぢくわざん いちじょういん りょうぜんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」

南備四国49番浄土寺 (釈迦) <霊山寺 里見>
 西林山 三蔵院 浄土寺 [さいりんざん さんぞういん じょうどじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「十悪の わが身を捨てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ」

「里庄町誌(pp.50-53 昭和26年)」、「備中誌 浅口郡(p.135-137 明治35-37年)」、
浅口郡誌(pp.451-452 大正14年)」を参照

https://goo.gl/maps/4LgwU




霊山寺の駐車場




板碑




宝篋印塔

「施主十方檀越中」「三部山 靈山寺 現主 龍海代」「發願主 池口 普照」
「維文化 十二年(1815年) 次乙亥 冬十月 吉辰日 造立之」

「次(じ)」とは宿りの意




西国33番 谷汲山 華厳寺 [たにぐみさん けごんじ] (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「万世(よろずよ)の 願ひをここに 納めおく 水は苔より 出(いづ)る谷汲」
 「世を照らす 仏の験(しる)し ありければ まだ灯(ともしび)も 消えぬなりけり」
 「今までは 親と頼みし 笈摺(おいずる)を 脱(ぬぎ)て納むる 美濃(みの)の谷汲」

https://goo.gl/maps/8stLgge7q432







阿弥陀如来坐像

「二番」「文化七午年(1810年) 四月吉日」

里見四国2番極楽寺 (阿弥陀) <>
 日照山 無量寿院 極楽寺 [にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ]
 『おん あみりた ていせい から うん』
 「極楽の 弥陀の浄土へ 行きたくば 南無阿弥陀仏 口癖にせよ」

https://goo.gl/maps/xRKfD




聖観世音菩薩立像

「八十三番一之宮 聖観音」

里見四国83番一宮寺 (聖観世音) <>
 神毫山 大宝院 一宮寺 [しんごうざん たいほういん いちのみやじ]
 『おん あろりきゃ そわか』
 「讃岐一 宮の御前に 仰ぎ来て 神の心を 誰かしら言ふ」


◆里庄町里見の考子について

吉備孝子伝 巻5(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より


(四)同*国口林村長太郎并弟三太郎
同郡口林村の*𫞖(民) 兄八(は)長太郎 弟八(は)三太郎とて二人あり
兄弟とも老母耳(に)よく仕へ帝(て)孝奈(な)り
父盤(は)廿五年前に身ま可(か)りて母の三(み)なり
長太郎田畠僅丹(に)二畝あまり 外丹(に)少しの預り地ありて耕し
極めて貧しき者奈(な)る可゛(が)
兄長太郎天質貞実奈(な)る者丹(に)天(て)六年前まで八(は)人丹(に)仕へ
弟盤(は)母と一*𠩄(所)に暮し介(け)る可゛(が)
五年前より母病身に成し可(か)八゛(ば)兄八(は)奉公を引 家に可(か)へりて
弟三太郎を奉公に出し 母病耳(に)*卧(臥)春(す)時八(は)兄弟力を盡して労八(は)り
積気起連(れ)ると起(き)盤(は)醫薬を用ひ
或八(は)朝暮の食餌にも
心越(を)用ひ母に八(は)米の飯の三(み)春(す)ゝめ
己等盤(は)雑穀打交(うちまぜ)帝(て)食しぬ
夜に奈(な)連(れ)八゛(ば)早く寝*𠩄(所)を志(し)起(き)
母を寝し免(め)て後 夜更るま天゛(で)く川(つ)王(わ)らじを作り
朝八(は)未明に起帝(て)茶越(を)せんじ 母の起るを待居天(て)春(す)ゝめ
朝餉喰終連(れ)八゛(ば)又薬を汲 側丹(に)置帝(て)耕作耳(に)出
或八(は)日庸に行介(け)り
母又肴越(を)好三(み)介(け)連(れ)八゛(ば)其村へ賣来連(れ)る越(を)求め
又盤(は)鴨方笠岡に往(ゆき)て
帰るに八(は)ちいさ起(き)肴 或八(は)菓子を携へ帰り春(す)ゝめぬ
かやうに晝夜心越(を)砕き孝行せしを母もあまりにう多(た)てく思ひ帝(て)
相應の妻阿(あ)ら八゛(ば)娶ん事をいへども堅く諾八(は)春゛(ず)
母*此事を隣家能(の)人耳(に)頼三(み)て言しむ
妻を娶ら者゛(ば)母の心も安んじ
 農業の留守も汝可゛(が)心く川(つ)路(ろ)ぎ奈(な)んといへ八゛(ば)
我貧しく一人の老母をさへ養ひ兼多(た)るに
一口越(を)増八゛(ば)いよゝゝ乏しく奈(な)らん
然ら八゛(ば)母の養ひも薄くなるべし
夫(それ)の三(み)奈(な)ら須゛(ず)
馴染奈(な)起(き)他人耳(に)まじ八(は)り奈(な)八゛(ば)
母も心越(を)遣ひ奈(な)ん
不自由奈(な)可゛(が)ら今の通耳(に)我一人心ま可(か)せに
養育志(し)多(た)ららん可゛(が)増せる成べし
母にも*此由(よし)申て給八(は)連(れ)とて*天(て)承引せ春゛(ず)
弟三太郎も生質正直奈(な)る者にて母耳(に)よく仕
兄にもむ川(つ)まじく同村の源右衛門可゛(が)奴(けらい)と成し可゛(が)
農業可(か)げひ奈(な)多(た)奈(な)くよく努介(け)連(れ)八゛(ば)
主人も常耳(に)懇耳(に)せしと也
一年能(の)俸米(皆兄に贈りて一錢も己可゛(が)有とせ須゛(ず)
春八(は)例長太郎乏しくして用足ら須(す)
然る時盤(は)己可゛(が)衣服(きるもの)を質草とし帝(て)合力し
兄も又銀子出来せし時盤(は)弟の衣服を請可(か)へして嚴重にぞし介(け)る
毎夜母の看病耳(に)き多(た)りて四方山越(を)咄し帝(て)心越(を)慰ぬ
今年の春より母ひしと病介(け)連(れ)八゛(ば)
醫薬に心越(を)尽し介(け)る可゛(が)
母の言 我近年志(し)八゛(ば)ゝゝ薬も飲介(け)連(れ)ども其験も奈(な)し
元来(もとより)持病の事奈(な)連(れ)八゛(ば)薬止(やめ)よとて
夫(それ)より八(は)飲ざるによ川(つ)帝(て)
兄盤(は)日庸にも出春゛(ず)晝夜側耳(に)居天(て)心越(を)盡し仕介(け)る
少しく快しといふ日に八(は)浴(ゆあみ)させ髪結て保養させぬ
ある時盤(は)醴を醸し帝(て)於(お)りゝゝ春(す)ゝめぬ
かく看病春(す)る事 日を可(か)さ年(ね) 夘(卯)月八日
母終りて大に悲痛して心能(の)実を顕八(は)せり
三太郎可゛(が)主人源右衛門も彼可゛(が)孝行の篤きに感し少し奈(な)可゛(が)ら合力
米奈(な)と与へ毎夕心次第に母の方へ行べしとゆるし介(け)ると也
*里も彼二人可゛(が)至孝成を感じ葬の費として米二苞を阿(あ)多(た)へ
村中又賻銀を贈連(れ)り
親を持し者の鑑とも奈(な)らんとて見聞人感嘆せざる盤(は)奈(な)し
*此事委しく内匠頭君の聞に達し
宝暦六年六月倉米十俵賜りて其孝心を賞あり介(け)り


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(四)同*国(備中国)口林村長太郎并弟三太郎
同郡口林村の*𫞖(民) 兄は長太郎 弟は三太郎とて二人あり
兄弟とも老母によく仕へて孝なり

父は廿五年前に身まかりて母のみなり
長太郎 田畠僅に二畝あまり 外(ほか)に少しの預り地ありて耕し
極めて貧しき者なるが
兄長太郎天質(うまれつき)貞実なる者にて六年前までは人に仕へ
弟は母と一*𠩄(所)に暮しけるが
五年前より母病身に成しかば 兄は奉公を引 家にかへりて
弟三太郎を奉公に出し 母病に*卧(臥)す時は兄弟力を盡して労はり
積気起れるときは醫薬を用ひ
或は朝暮(ちょうぼ)の食餌(たべもの)にも
心を用ひ母には米の飯(いい)のみすすめ
己等は雑穀打交(うちまぜ)て食しぬ

夜になれば早く寝*𠩄(所)をしき
母を寝しめて後 夜更(ふく)るまでくつわらじを作り
朝は未明に起て茶をせんじ 母の起るを待居てすすめ
朝餉(あさはん)喰終れば又薬を汲 側に置て耕作に出
或は日庸(ひよう)に行けり

母又肴を好みければ其村へ賣来れるを求め
又は鴨方笠岡に往(ゆき)て帰るには ちいさき肴 或は菓子を携へ帰りすすめぬ

かやうに晝夜(昼夜)心を砕き孝行せしを母もあまりにうたてく(転てく)思ひて
相應の妻あらば娶ん事をいへども堅(かた)く諾(うけが)はず
母*此事を隣家の人に頼みて言しむ
妻を娶らば母の心も安んじ 農業の留守も汝が心くつろぎなんといへば
我貧しく一人の老母をさへ養ひ兼たるに
一口を増(まさ)ばいよいよ乏しくならん
然らば母の養ひも薄くなるべし
夫(それ)のみならず馴染なき他人にまじはりなば 母も心を遣ひなん
不自由ながら今の通に我一人心まかせに養育したらんが増(ま)せる成べし
母にも*此由(よし)申て給はれとて*(かつ)て承引せず

弟三太郎も生質(うまれつき)正直なる者にて母によく仕(つかえ)
兄にもむつまじく 同村の源右衛門が奴(けらい)と成しが
農業かげひなた(陰日向)なくよく努ければ
主人も常に懇にせしと也

一年の俸米皆兄に贈りて一錢も己が有とせず
春は例(いつも)長太郎乏しくして用足らす
然る時は己が衣服(きるもの)を質草として合力し
兄も又銀子出来(しゅったい)せし時は
弟の衣服を請(うけ)かへして嚴重にぞしける

毎夜母の看病にきたりて四方山を咄して心を慰ぬ

今年の春より母ひしと病ければ醫薬に心を尽しけるが
母の言 我近年しばしば薬も飲けれども其験(しるし)もなし
元来(もとより)持病の事なれば薬止(やめ)よとて
夫(それ)よりは飲ざるによつて
兄は日庸にも出ず 晝夜側に居て心を盡し仕ける
少しく快しといふ日には浴(ゆあみ)させ 髪結て保養させぬ
ある時は醴(あまざけ)を醸(かも)しておりおりすすめぬ

かく看病する事 日をかさね 夘(卯)月八日
母終りて大に悲痛して心の実(まこと)を顕はせり

三太郎が主人源右衛門も彼が孝行の篤きに感し 少しながら合力米なと与へ
毎夕(まいせき)心次第に母の方へ行べしとゆるしけると也
*里も彼(かの)二人が至孝成(なる)を感じ
葬(ほうむり)の費(ついえ)として米二苞(約120kg)をあたへ
村中又賻銀(こうでん)を贈れり
親を持し者の鑑ともならんとて見聞(みきく)人感嘆せざるはなし

*此事委(くわ)しく内匠頭君の聞に達し
宝暦六年(1756年)六月 倉米十俵賜りて其孝心を賞ありけり


転てし(うたてし): 心が痛む。気がかりである。気の毒である。
積気(しゃっき): 癪の病気
俸米(ほうまい): 職務に対する報酬として与えられる米
銀子(ぎんす): 金銭
合力米(こうりょくまい): 貧しい人を救うために施し与える米
内匠頭(うちのたくみのかみ): 内匠寮の長官。たくみのかみ。

「備中誌 浅口郡(pp.132-133)」を参照


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(五)同郡池口村十介
同郡池口村宇津郷重介八(は)母に仕て孝奈(な)り
父小十郎八(は)五十一年已然に身ま可(か)りぬ
其時十介八(は)五歳 妹盤(は)三歳丹(に)成りぬ
兼帝(て)より貧しき者奈(な)連(れ)八゛(ば)病中に家屋敷をも賣
母八(は)幼き二人の子を懐き可(か)ゝへ天(て)
爰彼*𠩄(所)と数年の間漂泊し介(け)る可゛(が)
二人乃(の)子もやゝ長と奈(な)り介(け)るに
母八(は)心労の積しにや二十五年已然より手足をい多(た)三(み)
歩行も叶ひ可゛(が)たし丹(に)*此頃盤(は)少し愈介(け)る可゛(が)
十介人並奈(な)らぬ母の高恩奈(な)りとて懇に仕る事人丹(に)勝連(れ)多(た)り
毎事母又尋問祢(ね)八゛(ば)奈(な)さ須゛(ず)
よ路(ろ)川゛(づ)心に随ひぬ
農業丹(に)出る時盤(は)暇乞し 帰連(れ)八゛(ば)安否を尋
い可(か)奈(な)事繁きと起(き)丹(に)も母の膳盤(は)
三(み)川゛(づ)可(か)ら供春(す)ゝめ介(け)る
妹八(は)近郷能(の)人耳(に)嫁し介(け)る可゛(が)
母をい多(た)八(は)り志(し)八゛(ば)ゝゝ助力奈(な)ど贈りて
心越(を)盡し懇耳(に)せり
十介田地も奈(な)介(け)連(れ)八(は)少し能(の)預り地して耕作し
妻子七人の家族よく和順し帝(て)暮し希(け)る
明和九年二月 信*州君聞召連(れ)白銀一枚与へら連(れ)
其*孝德(孝徳)を称せら連(れ) いよゝゝ孝心励むべしと命せらる


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(五)同郡池口村十介
同郡池口村宇津郷(うつのごう)重介は母に仕て孝なり

父小十郎は五十一年已然に身まかりぬ
其時十介は五歳 妹は三歳に成りぬ
兼てより貧しき者なれば 病中に家屋敷をも賣(うり)
母は幼き二人の子を懐きかかへて
爰(ここ)彼*𠩄(所)と数年の間漂泊しけるが
二人の子もやや長(ひと)となりけるに
母は心労の積しにや 二十五年已然より手足をいたみ
歩行も叶ひがたしに *此頃は少し愈(いえ)けるが
十介人並ならぬ母の高恩なりとて懇に仕る事 人に勝れたり

毎事(ことごと)母又尋問(たずねとい)ねばなさず
よろづ心に随(したが)ひぬ
農業に出る時は暇乞(いとまごい)し 帰れば安否を尋
いかな事繁きときにも母の膳はみづから供(そなえ)すすめける

妹は近郷の人に嫁(か)しけるが
母をいたはり しばしば助力(じょりき)など贈りて
心を盡し懇にせり

十介 田地もなけれは少しの預り地して耕作し
妻子七人の家族よく和順して暮しける

明和九年(1772年)二月 信州君聞召(きこしめさ)れ白銀一枚与へられ
其*孝德(孝徳)を称せられ いよいよ孝心励むべしと命せらる


高恩(こうおん): 高大な恩。高いめぐみ。

信州君 = 信濃守 池田政直公(1746-1818年 備中鴨方藩第5代藩主)

「備中誌 浅口郡(pp.133-134)」には「重介」とある

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(六)同村次郎三郎
同じ村の中字岩に住る*𫞖(民)次郎三郎盤(は)父母に仕て孝順奈(な)り
父市義藏八(は)貧しさ限り奈(な)し
次郎三郎姉妹可(か)八(は)るゝゝゝ奉公丹(に)出帝(て)
其給米を以父母の養ひとせり
次郎三郎 人耳(に)仕へしうちも 主人の務終(おわり)天(て)
夜々八(は)草履王(わ)らじ奈(な)と作りて賣(うり)
其價を以 父母耳(に)酒をもとめ携行天(て)春(す)ゝめ希(け)る
幼き頃より凡廿七八年能(の)間まめや可(か)に奉公し介(け)る可゛(が)
父 老衰し介(け)るによりて暇とりて家に帰りて耕作を者(は)げ三(み)
父母を養ひ朝夕乃(の)食事(くいもの)於(お)ろそ可(か)奈(な)ら須゛(ず)
*夏の暑起(き)日八(は)堪が多(た)可(か)らんといひ天(て)
涼しき木陰耳(に)敷物して伴ひ行 暑さを避させ
冬は寒可(か)らぬやうにと兄弟三人心越(を)用ひ天(て)労八(は)り希(け)る
姉妹共丹(に)ぶこ川(つ)に帝(て)見尓(に)く介(け)連(れ)八゛(ば)
人にも嫁(か)せ須(す) 兄弟三人父母終りし後も睦じく
妹盤(は)病身者に帝(て)奈(な)や三(み)可゛(が)ち奈(な)るに
兄姉とも幼き子を養ふ古゛(ご)とく懇耳(に)介抱し労八(は)り希(け)り
次郎三郎六十九歳 姉七十三歳 妹六十三歳
皆人耳(に)勝(すぐ)連(れ)帝(て)篤実奈(な)る者に天(て)ありし可゛(が)
老て頼むべき子も奈(な)介(け)連(れ)八゛(ば)
*里より心越(を)付天(て)憐三(み)
又其里能(の)与兵衛といへるもの 亡父のと起(き)丹(に)次郎三郎よく勤し事を感じて
今に少し川゛(つ)ゝの助力を贈り
又其里の大*里田中九右衛門存命せし時八(は)彼可゛(が)人と成を感じ
米少し川゛(づ)ゝ与へし
春(す)べ帝(て)一郷の者皆感じ憐三(み)ぬ
郡吏順郷の折 可(か)らさる事ありと聞天(て)銀五十目を与えぬ
安永三年八月 信*洲君 彼可゛(が)孝悌を聞召感ぜら連(れ)て
白銀若干(そこばく)賜りぬ
同十年の春も方金を賜ひ 又天明元年五月米五俵を下し多(た)須゛(ず)ぬ
同三年 世の中阿(あ)し介(け)連(れ)八゛(ば)救ひの為とて
銀五十匁を施さ連(れ) 同四年能(の)冬 惠ませら連(れ)天(て)銀百目を給八(は)り
同五年亡父母へ孝にして兄弟む川(つ)まじく
老天(て)よる方奈(な)き事を憐三(み)給ひて
一人耳(に)三俵川゛(づ)ゝ合て九苞 年毎に下し賜八(は)るよしを命ぜらる
 兄弟三人共老天(て)子奈(な)起(き)ものを憐れみ給ひ
且(かつ)三人も打揃ひ父母丹(に)孝を盡せし事を感ぜら連(れ)て
篤き恵三(み)を賜りし事
*信濃君の仁愛乃(の)深き奈(な)り同郡七嶋村の*𫞖(民)介七身まかりし後にも
賻銀奈(な)ど給八(は)りし事
孝子能(の)死後までも恵ませたまふ事 篤き*仁德(仁徳)にあら須゛(ず)や
彼君能(の)家政を司里(り)し丹沢某
古へ乃(の)道越(を)信じ 斯善行ある人を阿(あ)げしとぞ覚ゆ

------------------- 変体仮名変換後 ------------------

(六)同村(浅口郡池口村)次郎三郎
同じ村の中(うち) 字岩に住(すめ)る*𫞖(民)次郎三郎は父母に仕(つかえ)て孝順なり

父市藏は貧しさ限りなし
次郎三郎姉妹かはるかはる奉公に出て
其給米を以(もって)父母の養ひとせり

次郎三郎 人に仕へしうちも 主人の務(つとめ)終(おわり)て
夜々は草履わらじなと作りて賣(うり)
其價(値)を以 父母に酒をもとめ携行(たずさえゆき)てすすめける

幼き頃より凡(およそ)廿七八年の間まめやかに奉公しけるが
父 老衰しけるによりて暇とりて家に帰りて耕作をはげみ
父母を養ひ 朝夕の食事(くいもの)おろそかならず

*夏の暑き日は堪がたからんといひて
涼しき木陰に敷物して伴ひ行 暑さを避させ
冬は寒からぬやうにと兄弟三人心を用ひて労はりける

姉妹共にぶこつ(無骨)にてみにくければ
人にも嫁(か)せす 兄弟三人父母終りし後も睦じく
妹は病身者にてなやみがちなるに
兄姉とも幼き子を養ふごとく懇に介抱し労はりけり

次郎三郎六十九歳 姉七十三歳 妹六十三歳
皆人に勝(すぐ)れて篤実なる者にてありしが
老て頼むべき子もなければ
*里より心を付て憐み
又其里の与兵衛といへるもの 亡父のときに次郎三郎よく勤し事を感じて
今に少しづつの助力を贈り
又其里の大*里田中九右衛門存命せし時は彼が人と成を感じ
米少しづつ与へし
すべて一郷の者皆感じ憐みぬ

郡吏(こおりぶぎょう)順郷の折からさる事ありと聞て銀五十目を与えぬ
安永三年(1774年)八月 *信刕(信州)君 彼が孝悌を聞召(きこしめし)感ぜられて
白銀若干(そこばく)賜りぬ
同十年の春も方金を賜ひ 又天明元年(1781年)五月米五俵を下したずぬ
同三年 世の中あしければ救ひの為とて
銀五十匁を施され 同四年の冬 惠ませられて銀百目を給はり
同五年亡父母へ孝にして兄弟むつまじく
老てよる方なき事を憐み給ひて
一人に三俵づゝ合て九苞 年毎に下し賜はるよしを命ぜらる

 兄弟三人共老て子なきものを憐れみ給ひ
且(かつ)三人も打揃ひ父母に孝を盡せし事を感ぜられて
篤き恵みを賜りし事
*信刕(信州)君の仁愛の深きなり同郡七嶋村の*𫞖(民)介七身まかりし後にも
賻銀(こうでん)など給はりし事
孝子の死後までも恵ませたまふ事 篤き*仁德(仁徳)にあらずや
彼君の家政を司(つかさど)りし丹沢某(なにがし)
古(いにし)への道を信じ 斯(かく)善行ある人をあげしとぞ覚ゆ


「備中誌 浅口郡(p.134)」に「姉某妹いと」とある


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(七)同村神人三之介
同村丹(に)住る某神祠の神人三之介
其質篤実にして母に仕て孝也
父盤(は)享保の末丹(に)終り 三之介十六歳の頃より家を継ぬ
持傳へし田地山林も乏しく家貧しく其日をさへ渡里(り)兼多(た)る身奈(な)連(れ)共
母を養ふ事 人尓(に)勝(すぐ)連(れ)たり
父存命の頃より母八(は)手足をい多(た)三(み)
父終りし後痛も日々に増し 種々能(の)醫業を盡せども
其験も奈(な)く 古(こ)とに冷気の頃より盤(は)痛も増し
冬の痛丹(に)堪可゛(が)多(た)かりし丹(に)
火に帝(て)よく阿(あ)多(た)ゝめ介(け)連(れ)八゛(ば)
心よく覚へぬ連(れ)八゛(ば)とて
秋の末より八(は)晝夜とも炬燵尓(に)火を絶さ春゛(ず)
母痛耳(に)*卧(臥)奈(な)可゛(が)らも身を洗ふ事を好三(み)ぬ連(れ)八゛(ば)
毎夜湯に帝(て)手拭をぬらし顔を志(し)と三(み)
手をあらひ其後茶を春(す)ゝめ 毎日髪を結 夫より朝飯をくゝめ春(す)ゝむ
三度の食事共 三之介くゝめざる事奈(な)し
米味噌も吟味し肴も絶春゛(ず)求めて春(す)ゝめ
家族の者盤(は)粥ざう春(す)いやう物を喰ぬ
*夏盤(は)蚊の出ぬうちに夜食越(を)春(す)ゝめ
暮前より蚊家越(を)つりて休ませ
妹と可(か)八(は)るゝゝゝ痛*𠩄(所)越(を)撫さ春(す)りぬ
姉二人盤(は)人の家に仕へ 三之介に度々助力して
奉公もよく勤め 主人の用奈(な)起(き)時八(は)暇をこひて
母の看病耳(に)来る事志(し)八゛(ば)ゝゝ奈(な)り
弟八(は)日毎耳(に)日庸に出帝(て)其賃錢八(は)兄丹(に)悉渡し 母の養とせり
後姉二人盤(は)人に嫁(か)しぬ
妹八(は)幼き頃より母に仕へ希(け)る可゛(が)
人丹(に)嫁せん事を母も春(す)ゝめぬる丹(に)
兄一人尓(に)天(て)家業も繁介(け)連(れ)八゛(ば)
縁附乃(の)事八(は)心にあら須゛(ず)とて辞し希(け)る
終に嫁せ須゛(ず)し帝(て)心越(を)盡して仕るに
三十一歳の頃耳(に)空しく成りぬ
一族の輩三之介丹(に)妻を娶せん事を春(す)ゝめ介(け)るに
貧しき我身古(こ)とに病身の母あ連(れ)八゛(ば)
他人来りて母の養育も思うやうに成兼奈(な)八゛(ば)い可(か)ゞ奈(な)りとて
請入連(れ)春゛(ず) 然丹(に)妹も身ま可(か)り
母も力を落しさひし可(か)り希(け)連(れ)八゛(ば)
人々謀て同じ里の一族能(の)女を頼て
母能(の)伽ともせし丹(に)八(は)と懇耳(に)心越(を)用ひ労八(は)りぬ連(れ)八゛(ば)
母も悦び*娌(よめ)にせんと強帝(て)春(す)ゝめ希(け)連(れ)八゛(ば)
母の心に應じ奈(な)八゛(ば)其意に随んとて妻にし
夫婦志越(を)一にし帝(て)残るく満(ま)奈(な)く仕へぬる丹(に)
宝暦九年の頃 母終り介(け)る
兄弟五人とも内揃ひ孝順奈(な)る事 *信州君能(の)聞に達し介(け)連(れ)八゛(ば)
明和八年八月廿一日 三之介白銀一枚賜八(は)り帝(て)
其*孝德(孝徳)を賞美せら連(れ)ぬ

------------------- 変体仮名変換後 ------------------

(七)同村(浅口郡池口村)神人三之介
同村に住る某(それがし)神祠(やしろ)の神人(かんぬし)三之介
其質(しつ)篤実にして母に仕て孝也

父は享保(1716-1736年)の末に終り 三之介十六歳の頃より家を継ぬ
持傳へし田地山林も乏しく 家貧しく其日をさへ渡り兼たる身なれ共
母を養ふ事 人に勝(すぐ)れたり

父存命の頃より母は手足をいたみ
父終りし後痛(いたみ)も日々に増し 種々の醫業(りょうじ)を盡せども
其験(しるし)もなく ことに冷気の頃よりは痛も増し
冬の痛に堪がたかりしに
火にてよくあたためければ心よく覚へぬればとて
秋の末よりは晝夜(昼夜)とも炬燵(こたつ)に火を絶さず
母痛に*卧(臥)ながらも身を洗ふ事を好みぬれば
毎夜湯にて手拭をぬらし顔をしとみ
手をあらひ 其後茶をすすめ 毎日髪を結 夫(それ)より朝飯をくくめすすむ
三度(さんど)の食事共 三之介くくめざる事なし
米味噌も吟味し肴(さかな)も絶ず求めてすすめ
家族の者は粥ざうすいやう物を喰ぬ

*夏は蚊の出ぬうちに夜食をすすめ
暮前より蚊家(かや)をつりて休ませ
妹とかはるかわる痛*𠩄(所)を撫さすりぬ

姉二人は人の家に仕へ 三之介に度々助力して
奉公もよく勤め 主人の用なき時は暇をこひて
母の看病に来る事しばしばなり

弟は日毎に日庸に出て其賃錢は兄に悉渡し 母の養とせり

後姉二人は人に嫁(か)しぬ
妹は幼き頃より母に仕へけるが
人に嫁せん事を母もすすめぬるに
兄一人にて家業も繁ければ
縁附(えんづき)の事は心にあらずとて辞しける
終に嫁せずして心を盡して仕るに
三十一歳の頃に空しく成りぬ

一族の輩(ともがら)三之介に妻を娶せん事をすすめけるに
貧しき我身 ことに病身の母あれば
他人来りて母の養育も思うやうに成兼なばいかがなりとて
請入(うけい)れず 然(しかる)に妹も身まかり
母も力を落し さひし(寂し)かりければ
人々謀て同じ里の一族の女を頼て
母の伽(とぎ)ともせしにはと懇に心を用ひ労はりぬれば
母も悦(よろこ)び*娌(よめ)にせんと強てすすめければ
母の心に應じなば其意に随(したがわ)んとて妻にし
夫婦志を一にして 残るくまなく仕へぬるに
宝暦九年(1759年)の頃 母終りける

兄弟五人とも内揃ひ孝順なる事 *信州君の聞(おんきく)に達しければ
明和八年(1771年)八月廿一日 三之介白銀一枚賜はりて
其*孝德(孝徳)を賞美せられぬ

しとむ: (水などに)つかる。浸ひたる。
銜む・含む(くくむ): 口の中に含ませる
身罷る(みまかる): 死ぬ
伽(とぎ): 話相手をつとめること

信州君 = 信濃守 池田政直公(1746-1818年 備中鴨方藩第5代藩主)


霊山寺の山門から参道を東へ39m下り右折。
34m下り、十字路から車道を南へ29m進む。



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車道から左折して南へ7m進んで左折




畑の間の細道(荒神社への参道)を東へ20m下る







仏像が陽刻されている宝篋印塔の塔身(H13*W13*D13)

向かって右下は宝篋印塔の笠







釈迦如来坐像(向かって左)

「三番 金泉寺 施主吉山」

不動明王坐像(右)

「文化六年(1809年) 不動明王 巳七月○○」

里見四国3番金泉寺 (釈迦三尊) <>
 亀光山 釈迦院 金泉寺 [きこうざん しゃかいん こんせんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「極楽の 宝の池を おもえただ こがねの泉 すみたたえたる」

https://goo.gl/maps/Cqccg







仏像が陽刻されている宝篋印塔の塔身(H25*W21*D21)







牛?の背中に人?が腰掛けている姿が陽刻されている







3番札所から東南東へ10m進んで荒神社の境内へ







春日燈籠

「平成十五年(2003年)春 竹内◯◯」

石鳥居

「氏子中」「明治三十九年(1906年)八月」




荒神社

https://goo.gl/maps/AXQnggLMyEz




細道に戻り、東へ17m下る







大日如来坐像

「四番 大日寺」「施主 ◯◯ ◯◯◯◯◯郎」

里見四国4番大日寺 (大日) <>
 黒厳山 遍照院 大日寺 [こくがんざん へんじょういん だいにちじ]
 『おん あびらうんけん ばざら だどばん』
 「眺むれば 月白妙(しろたえ)の 夜半(よは)なれや ただ黒谷に 墨染めの袖」

https://goo.gl/maps/XuM6QZ1GbVm




4番札所前のY字路から細道を北へ46m進む




民家の横を通過して丁字路を右折。車道を東へ22m下る。
丁字路から細道を北へ105m直進すると88番札所がある。










地蔵菩薩坐像a

「五番 地藏寺」「施主荘藏 *㔺話人(世話人)清造」

里見四国5番地蔵寺 (地蔵) <>
 無尽山 荘厳院 地蔵寺 [むじんざん しょうごいん じぞうじ]
 『おん かかかび さんまえい そわか』
 「六道の 能化(のうげ)の地蔵 大菩薩 導きたまえ この世のちの世」

https://goo.gl/maps/WzjHF




聖觀世音菩薩立像?




地蔵菩薩坐像 or 如来坐像




地蔵菩薩立像a




地蔵菩薩立像b




五輪石塔の空輪と風輪(向かって右)

石燈籠の竿(左)

「願主◯◯◯◯」「六月十日」




5番札所前から車道を南南東へ82m下って左折し、北東へ67m下る




近道する場合は5番札所から東南東へ33m進み、林の中の細道を東南東へ50m下る




丁字路を左折して細道を西北西へ6m上る




5番札所から東南東へ83m下った所







薬師如来坐像

「六番 安樂寺」

弘法大師坐像

「大師講◯ ◯◯」

里見四国6番安楽寺 (大師/薬師) <>
 温泉山 瑠璃光院 安楽寺 [おんせんざん るりこういん あんらくじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「かりの世に 知行争う 無益(むやく)なり 安楽国の 守護をのぞめよ」

https://goo.gl/maps/UpjGT




6番札所前から車道を東へ72m下る




民家の横を通過してすぐ左折




井戸の横




阿弥陀如来坐像

「七番 十樂寺」

里見四国7番十楽寺 (阿弥陀) <>
 光明山 蓮華院 十楽寺 [こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ]
 『おん あみりた ていせい からうん』
 「人間の 八苦を早く 離れなば 至らん方は 九品十楽(くぼんじゅうらく)」

https://goo.gl/maps/rIUcs




7番札所から北東へ53m進み、丁字路を左折。北北東へ98m進む。




丁字路を左折して北西へ38m進む




古井公会堂前の丁字路







千手観世音菩薩立像

里見四国8番熊谷寺 (千手観世音) <>
 普明山 真光院 熊谷寺 [ふみょうざん しんこういん くまたにじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「薪(たきぎ)とり 水熊谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため」

手前にあるのは宝篋印塔の笠

https://goo.gl/maps/rcAJd




古井公会堂前から北に15m進んで十字路を左折。
北へ107m進んで右折し、東へ45m進む。




左折して北へ21m進む




里庄町消防団第8部機庫前の丁字路を左折してすぐ







釈迦如来坐像

里見四国9番法輪寺 (涅槃釈迦) <>
 正覚山 菩提院 法輪寺 [しょうかくざん ぼだいいん ほうりんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「大乗の 誹謗(ひぼう)も科(とが)も ひるがえし 転法輪の 縁とこそきけ」

https://goo.gl/maps/kHDRs




六字名号碑

「元文三戊午天(1738年) 南無阿弥陀佛 二月旧?」




14番札所から細道を西へ160m進む







山際の細道を左折して10m程上る










千手観世音菩薩立像(向かって左)

「十番 切幡寺」「発起◯◯」

里見四国10番切幡寺 (千手観世音/大師) <>
 得度山 灌頂院 切幡寺 [とくどざん かんぢょういん きりはたじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「欲心を ただ一筋に 切幡寺 後の世までの 障りとぞなる」

https://goo.gl/maps/A5fFW




細道に戻り、西へ約200m進む


 

橋を渡って西へ16m進み、右折して北へ25m上る。

車道に出て右折し、北東へ113m進む。




左折して石段を西へ18m上る。


 

石段はかなりの急勾配




寺標

「十二番 古◯ 大師遍路会 ◯◯」

石段を3m程上った所(向かって右)にある




石段は半ば崩壊しているので足元に要注意。
上る時よりも下る時の方が危険。





扇形の水溜の手水鉢




向かって左が11番の石殿、右が12番。後ろは岩場。




石殿の向かって左に旧堂の露盤の宝珠が残されている




薬師如来坐像(向かって右)

「十一 番」

里見四国11番藤井寺 (大師/薬師) <>
 金剛山 一乗院 藤井寺 [こんごうざん いちじょういん ふじいでら]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「色も香も 無比中道(むひちゅうどう)の 藤井寺 真如の波の たたぬ日もなし」

https://goo.gl/maps/TyyUf




堂内向かって左にあるのは五輪石塔の空輪と風輪と水輪




虚空蔵菩薩坐像(向かって右)

「十二番 虚空藏」

弘法大師坐像に付着している白い物体はヤモリの卵。
石仏に前掛けをしているとヤモリの住処・産卵場所になる。

里見四国12番焼山寺 (大師/虚空蔵) <>
 摩廬山 正寿院 焼山寺 [まろざん しょうじゅいん しょうさんじ]
 『のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか』
 「後の世を おもえば恭敬(くぎょう) 焼山寺 死出や三途の 難所ありとも」

https://goo.gl/maps/qyheE




石段を下り、車道に下りて左折。車道を北北東へ171m進む。


 

林地区




右折して東へ20m進む




丁字路から東へ175m下る




干田木池の北の丁字路を左折し、北へ95m進む


 













十一面観世音菩薩立像(向かって左)

「十三 番」

里見四国13番大日寺 (十一面観世音) <>
 大栗山 花蔵院 大日寺 [おぐりざん けぞういん だいにちじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「阿波の国 一の宮とは ゆうだすき かけて頼めや この世のちの世」

https://goo.gl/maps/LpYQi




薬師如来坐像?

「寛政九(1797年)巳 三月吉日 土井講中」

紀年銘は判読困難




道路改修碑(向かって右)

「大正拾五年(1926年)三月 一金五百圓也 篤志寄附者 佐藤寛?太郎」

石燈籠

紀年銘なし

13番札所前から北へ53m進み、十字路を左折して西へ102m進む








弥勒菩薩坐像(堂内)

「十四番 小坂西村 中谷」




二尊磨崖仏

弘法大師坐像と弥勒菩薩坐像

「十四番」「世話人 佐藤宙◯◯ 同 完蔵 ◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯ ◯◯郎
 同 ◯◯郎 同 ◯◯◯ 同 ◯◯◯ 同 ◯◯◯ 同 ◯◯◯ 北村◯◯」

弘法大師が蓮台に坐しているのは珍しい。
通常は牀座に坐し、足元に浄瓶と沓が刻まれている。

弥勒菩薩が手にしているのは宝塔

明治初年(1868年)の洪水により本来の札所が流され埋没し、
本尊石仏が行方不明となったため、明治6年(1873年)にこの磨崖仏が作られた。
堂内にある石仏はその後発見されたもの。

詳細は「里庄の昔をたずねて(pp.5-6)」を参照

里見四国14番常楽寺 (大師/弥勒) <>
 盛寿山 延命院 常楽寺 [せいじゅざん えんめいいん じょうらくじ]
 『おん まい たれいや そわか』
 「常楽の 岸にはいつか 至らまし 弘誓(ぐぜい)の船に 乗りおくれずば」

https://goo.gl/maps/GSV3q





14番札所前から妙見川沿いの車道を東へ123m進み、十字路を左折。
細道を北へ28m進んで右折し、東へ42m進む。




民家の裏の丁字路を左折し、墓地への参道を北北西へ60m上る




Y字路から北(左)へ64m上る




左折して墓地内を北西へ16m上る










薬師如来坐像

「十五番 藥師如來 国ぶん寺」

里見四国15番国分寺 (薬師) <>
 薬王山 金色院 國分寺 [やくおうざん こんじきいん こくぶんじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「うすく濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死(るてんしょうじ)の 秋のもみじ葉」

向かって左は地蔵菩薩坐像

『おん かかかび さんまえい そわか』

https://goo.gl/maps/RYEknVbT55m




六地蔵

『おん かかかび さんまえい そわか』




Y字路に戻り、左折して細道を北北東へ100m進む




右折して津江後池の土手を東へ60m進む







車道を横断し、倉庫の脇の細道を北東へ14m下って右折。北北西へ9m下る。










札所番号、寺号、本尊名、真言が記されている縦長の板がお堂の柱に取り付けられている。
 「第十六番 観音寺 本尊 千手観世音菩薩  オン バザラ タラマ キリク」




石殿内に安置されているのは千手観世音菩薩ではなく薬師如来坐像

「◯◯◯ 十七◯ ◯◯◯」

17番井戸寺の本尊?

里見四国16番観音寺 (千手観世音) <>
 光耀山 千手院 観音寺 [こうようざん せんじゅいん かんのんじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「忘れずも 導き給え 観音寺 西方(さいほう)世界 弥陀(みだ)の浄土へ」

https://goo.gl/maps/6SFxLB1FCHR2













16番札所から車道に戻り、南東へ84m下る




津江の墓地の北




薬師堂?




厨子に納められている木造立像は薬師如来ではなく菩薩立像。

天冠台より上の頭頂部と左手首から先が欠損している。右手は施無畏印。

里見四国17番井戸寺 (七仏薬師) <>
 瑠璃山 真福院 井戸寺 [るりざん しんぷくいん いどじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「面影を うつしてみれば 井戸の水 結べば胸の あかや落ちなん」

https://goo.gl/maps/P5LgGApF8Kw




薬師堂の横にある弁財天の石碑

『おん そら そばていえい そわか』




 薬師堂の向かって左にある観音堂(大師堂)

「弘法大師 千手観世音菩薩」


 

地蔵菩薩坐像(向かって左)

『おん かかかび さんまえい そわか』

弘法大師坐像(同右)

「◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯」

判読困難。里見四国霊場の大師像である可能性大。


千手観世音菩薩立像(中央)

「三十番」

西国30番 厳金山 宝厳寺 [がんこんざん ほうごんじ] “竹生島” (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 舟に宝を 積むここちして」

https://goo.gl/maps/LDvUy





観音堂の横にある牛供養碑(向かって右)

「昭和十年(1935年)五月 十八日 牛供養 原田○◯◯」




観音堂の前から南東へ62m下り、丁字路を左折し、車道を北へ127m進む




十字路を東へ42m進む




右折して参道を東へ35m進む







津江の荒神社

https://goo.gl/maps/WpseftKgo9m










里見四国18番恩山寺 (薬師) <>
 母養山 宝樹院 恩山寺 [ぼようざん ほうじゅいん おんざんじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「子を生める その父母(ちちはは)の恩山寺 訪(とぶ)らひがたき ことはあらじな」

https://goo.gl/maps/Qfx5V9Yf8Q22




自然石の燈籠

「金(金刀比羅宮)吉(吉備津宮) 天(天満宮)八(八幡宮) 常夜燈  當谷中」「若連中」

『南無金毘羅大権現』『おん くびらや そわか』

十字路に戻り、左折して東へ310m進む。県道434号線を横断して右折し、南東へ26m進む。

 

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