【高島四国八十八ヶ所霊場の画像集.3】



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書きかけです。さらに追記する予定。

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王泊地区




コトース

「吉備高島考證(p.17)」に「六、天ツ神奉齋の神官が住みし地
 王泊の内にあって「コトース」と云ふ。」とある

「小田郡誌 下巻(p.648)」には「琴栖」と記されている

https://goo.gl/maps/X6QQmYhSR8y

東へ65m進む







高島四国霊場の弘法大師坐像

番号不明

『南無大師遍照金剛』

https://goo.gl/maps/eyyFmUA18WP2

東へ55m進んで右折




高島神社の境内

注連柱

「奉 世話人 子供一同」
「建 昭和五十年(1975年)五月 山本◯◯」




手水鉢




市指定史跡 古代住居跡

王泊遺跡については「笠岡市史 第一巻(pp.103-104, pp.288-294)」を参照

地元では神武天皇が三年間留まられた高嶋宮の遺跡であると考えられている

「高島神社之碑」に「天皇をいつき末(ま)つれる地や王泊といふなる
 む年(ね)ゝしき祠奈(な)らねと
 所(そ)のか美(み)三年本(ほ)と末(ま)しゝて
 船を曽(そ)ろへ糧をそ(所)なへて
 天の志(し)多(た)を平むと世(せ)させた万(ま)ひしこと万(ま)て
 面可(か)け耳(に)こ所(そ)う可(か)ひし可(か)果して」
「かく久しくうずもれし(埋もれし)宮趾さえうつつ(現)にあらわれぬるは
 いはまくも(口にするのも)かしこけれど(畏れ多いが)
 天皇(すめらみこと)の御霊(みたま)のしるべ(導き)なり」とある




玉垣の親柱?

「*髙嶋(高嶋)宮址」「昭和十九甲申年(1944年)三月」

注連柱の向かって右にある。境内を取り囲むように設置されている他の石柱には
「*髙嶋(高嶋)宮址」とのみ刻まれている。




高島神社

「高島二十二社」のひとつ

小田郡誌 上巻(pp.5-8)」を参照

「御登極記念 小田郡誌(p.101 大正13年)」に「十二、神武天皇神社
 祭神は神武天皇にして、由緒創立不詳なり。神武天皇戊未より辛酉まで三年間
御行在ましませし地、即ち王泊にこの社を建つ。社格は神武天皇社属社なり。
祭日は毎年八月十七日。社地は二歩 官有地第一種。造營は高島人民協力。
鎭座は神島外村字高島王泊。建物本社は梁行二尺五寸桁行二尺なり。」とある

旧八月十七日は神島神社の祭日でもある

「小田郡誌 下巻(p.488 昭和16年)」に「(町村名)神島外村 (神社名)高島神社
 (祭神)神武天皇 (氏子數)一〇〇 (位置)高島 (社殿坪數)〇.五〇 (境内坪數)一.五〇
 (祭日)※舊二月十一日 四月三日 (供進金)ナシ (財産)ナシ」とある

※新暦(グレゴリオ暦)の2月11日は神武天皇即位の日(紀元節、建国記念日)、
4月3日は神武天皇崩御の日(神武天皇祭)

「吉備高島考證(p.26 昭和14年)」に「九、高島神社(祭神 神武天皇)
此神域に元 神島神社(延喜式内社)が奉祀してあつたのだが、靈驗ありし爲め
神龜三年(千三百年前)神島に引宮したのである。然るに島民達はあまりにも淋しさを痛感して、
其趾に本社を建てゝ再び神武天皇を奉祀し、神籬の處に有つた靈石(高島の妹尾◯◯◯曰く
石は上が圓く高さ三尺許りであつて昔から「イハレ」のある石だからと云ふので持つて来た云々)を
御神體として居るのである」と記されている

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

神亀3年=726年

「笠岡市史 史料編上巻(pp.463-464 備中国小田郡神島外浦の村誌 明治九年編)」に
「高島行宮址 日本書記(※原文ママ 日本書紀)ニ云乙卯年春三月甲寅朔己未従入吉備国起行宮
以居之是高島宮◯古事記云於吉備之高島八年座
 高島神島ヲ距(へだて)ル海ヲ隔南十八町(約1963.62m)ニアリ
伝ヘ道太古本神島ト一タリ 会〃地震海涌キ崩劈(ほうさく)シテ数島ニ分ル
小高島明地島(みょうじしま)斑鳩島諸島便(すなわ)チ是ナリ 北面磯アリ
勝間浦(かつまのうら)ト云フ 村叢ヲ為ス 是レ古行宮遺址ナリ 往々榊木アリ生ス、
神武天皇東征ニ方(あた)リ蹕(ひつ、さきばらい)ヲ此ニ駐(とど)ム 其東砂岸アリ
海ニ斗出(=突出)ス 俗呼テ王泊ト云フ 天皇始メテ船ヲ維(つな)クノ地ナリ、
其傍稲積島(いなづみしま)ナル処アリ 当時糧ヲ此ニ蓄フ
曽(かつ)テ土人ノ地ヲ掘リテ土器ヲ得ルアリ
其状(かたち)頗(すこぶる)古奇ナリ
道(い)フ此天皇祭祀ニ用ユルノ器ナリト 土人秘而(しこうして)之ヲ蔵ス、
偶(たまたま)幕吏(ばくり)某(なにがし)ノ齎去ル所トナル
厥后(そのご)宝永年中(1704-1711年)地ヲ穿チテ二個ノ土器ヲ得ル
又和人何某ノ奪去ル所トナル 僅ニ其欠片を余(あま)ス
土人今尚之ヲ函(はこ)ニス
又王泊ノ地ヲ掘ツテ石棺一ヲ出ス 鏽(さび)ヲ撤シテ之ヲ視ル 剣一口矢鏃若干有リ
皆鏽蝕ス 採者偶(たまたま)疾ニ罹ル 皆云神ノ祟リニ遭ト 祈テ之ヲ禳(はら)フ
土人懼(おそ)レテ皆之ヲ他人ニ付ス 僅ニ鏃(やじり)三本ヲ存ス
 本村戸長森氏之ヲ秘ス 今現ニ存スト云」

※()内は引用外
明地島を明神島、差出島を月出島、差出島の西端にある泊島を鳩島ともいう。

高島と神島が分裂した原因について、高島神社之碑にはあらき潮、村誌には地震と記されている。
神島神社前から高島の北端までの距離は14町(約1527.26m)。

「剣一口」と耳形柄頭長剣(河田浩次氏所蔵。オリエント美術館が3000年前のイラン製と鑑定。)
との関係は未確認

https://goo.gl/maps/gUWoLHdKdf12




高島神社之碑

神島神社の境内の西にある。「御登極記念 小田郡誌(p.104 大正13年)」には
「直徑一丈二尺(約3.64m) 高さ八尺五寸(約2.58m)餘の天然石を建つ。」とある。


「*𥛃武(神武)天皇行宮趾 高島*𥛃社(神社)*𡳿(之)碑 宮内大輔杉孫七郎謹書」

「よろつ慕はしき盤(は)い爾(に)しへ爾(に)しくものあらし
 い爾(に)しへありてこ所(そ)志(し)多(た)可(か)いて
い末(ま)もある良(ら)免(め)

 然らさりせ盤(は)本奈(な)きに末あ良(ら)めや
 所(そ)ゝろ奈(な)るもの春(す)良(ら)かゝ利(り)介(け)利(り)
 まして天津ひつ幾(き)爾(に)縁あ良(ら)む爾(に)盤(は)
 等閑爾(に)やむへきひとや盤(は)ある

 吉備の美(み)ち奈(な)可(か)なる高島も春(す)奈(な)はち其ひとつ爾(に)て
 神日本磐余彦天皇の西よりおこりたまふと幾(き)爾(に)
 宇佐岡埃のみやなとへて移りいて末(ま)ませる地なり

 神島といへる盤(は)所(そ)のきたの可(か)多(た)十町は可(か)り爾(に)あり
 もと盤(は)ひとつ志(し)ま奈(な)りしを
 あら幾(き)潮のほりてかく須(す)可(か)多(た)に奈(な)り介(け)るとなむ

 わ幾(き)て昔のなこりとみゆる盤(は)一もとの神木なりけ里(り)
 天皇の御手つ可(か)ら植た万(ま)ひしといひつ堂(た)へて
 枝さし於(お)可(か)しく志(し)介(け)りたてり

 奈(な)可(か)るゝいつ三(み)の水も堂(た)ゝうや八(は)
 おほゆるそ?万(ま)奈(な)ひのさや可(か)なるの三(み)

 加(か)つてところの状けし幾(き)さへ
 世(せ)つ可(か)支(き)かうゝしき爾(に)
 不(ふ)るめかしき瓶やうのも能(の)奈(な)と登(と)支(き)ゝほりいたさるゝは
 か介(け)てもいま免(め)く器爾(に)毛(も)あ良(ら)し那(な)

 天皇をいつき末(ま)つれる地や王泊といふなる
 む年(ね)ゝしき祠奈(な)らねと
 所(そ)のか美(み)三年本(ほ)と末(ま)しゝて
 船を曽(そ)ろへ糧をそ(所)なへて
 天の志(し)多(た)を平むと世(せ)させた万(ま)ひしこと万(ま)て
 面可(か)け耳(に)こ所(そ)う可(か)ひし可(か)果して

 大和の國ところゝを経川(つ)ゝあ末(ま)たゝひ軍して
 末(ま)つろはぬひと乎(を)まつろへた万(ま)ひ
 よろつ代爾(に)堂(た)め志(し)奈(な)き功奈(な)りぬれ八(は)
 うへも所(そ)のはつ國志(し)らしゝ
 年をこ所(そ)紀元爾(に)そたてられ爾(に)け里(り)

 さ春(す)可(か)耳(に)中今盤(は)本を王(わ)春(す)れ美(み)

 昔にのりとらせたまふ所(そ)ことわりに
 か奈(な)ひてい多(た)よし奈(な)きと?
 かくひさしくうつ毛(も)れし宮趾さへう徒(つ)ゝ爾(に)あ良(ら)はれぬる盤(は)
 少縁のこと爾(に)てあり奈(な)むや
 いは万(ま)くもかしこ介(け)れと
 天皇の御霊の志(し)るへ奈(な)り

 かくし奈(な)はし免(め)これを見い多(た)せる盤(は)
 高本禎吾といふ人なりし可(か)
 松田謙三等毛(も)あつ可(か)利(り)てあ利(り)つるやうを
 杉宮内大輔爾(に)告徒(つ)公へのまをしふ三(み)盤(は)
 高崎岡山縣令耳(に)つ幾(き)てたてまつれり

 をとゝしの春爾(に)い堂(た)りて
 宮内省より金所(そ)こはくあてた万(ま)ひ
 かの神木の王(わ)多(た)りを盤(は)
 於(お)ほやけ地とさ多(た)められ介(け)るを
 於(お)奈(な)しく盤(は)祠をもあ良(ら)た爾(に)志(し)つらは多(た)はしと
 氏子とものね可(か)ひ介(け)礼(れ)八(は)
 祢(ね)可(か)ひの万(ま)ゝにゆるされぬ

 河田三七と可(か)やいふ可(か)ところ堂(た)て末(ま)つりて
 宮徒(つ)くり耳(に)いたり介(け)る盤(は)
 道ある御代爾(に)つきゝしき王(わ)さ可(か)奈(な)

 かゝる人々の名も志(し)る春(す)こと盤(は)かりせは
 奈(な)可(か)くつ堂(た)ふるに
 よし奈(な)可(か)良(ら)よし後のい爾(に)しへをしのばん毛(も)の盤(は)
 幸にこの石ふ三(み)によりて於(お)もひさとり奈(な)末(ま)し

 明治十七年六月 大教正 田中頼庸謹撰 植松有経謹書          」



「*𥛃武(神武)天皇行宮(あんぐう)趾 高島*𥛃社(神社)*𡳿(之)碑 宮内大輔(たいふ)杉孫七郎謹書」

「よろず慕わしきはいにしえ(古)にしく(及く=およぶ)ものあらじ
 いにしえ(古)ありてこそしたがいて今もあるらめ
 然らざりせば本なきに末あらめや

 そぞろなる(無関係な)ものすらかかりけり(係りけり)
 まして天津ひつぎ(天津日嗣=天皇の位)に縁(えにし)あらむには
 等閑に(=なおざりに)やむべきいとやはある

 吉備のみちなかなる高島も(※きびのみちのなかつくに=備中国)すなわち其ひとつにて
 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の西よりおこりたまうときに
 宇佐、岡、埃(え)の宮などへて(経て)移りいでませる地なり

 神島といえるは、そのきたのかた(北の方)十町(※正しくは十四町)ばかりにあり
 もとはひとつしまなりしを
 あらき潮(うしお)のほりて(掘りて)、かくすがたになりけるとなむ

 わきて(特にとりわけて)昔のなごりとみゆるは一もとの神木(かむき)なりけり
 天皇(すめらみこと)の御手(おんて)ずから植たまいしといいつたえて
 枝さし(枝ぶり)おかしく(見事に)しげり(繁り)たてり

 流るるいずみ(泉)の水もたたう(湛う)やは
 おぼゆるぞ?まない(真名井)のさやか(あきらか)なるのみ

 かつてところの状(すがた)けしき(景色)さえ
 ぜっかき(絶佳き=優れて美しい)かうがう(こうごう=神々)しきに
 ふるめかしき瓶(かめ)やうのものなどときどき(時々)ほりいださるるは
 かけてもいまめく(今めく=今風である)器にもあらじな

 天皇をいつき(齋)まつれる地や王泊というなる
 むねむねしき(宗宗しき=しっかりしている)祠ならねど
 そのかみ(神)三年ほどましまして(※古事記では八年間)
 船をそろえ糧をそなえて(※高島の西にある稲積島に糧を備えたと云われている)
 天のした(下)を平(たいらげ)むとせさせたまいしことまで
 面かげにこそうかびしが果して

 大和の國ところどころを経つつ、あまたたび(数多度)軍(いくさ)して
 まつろわぬひとをまつろへたまい(服え給い)
 よろず代にためし(例)なき功(いさお)なりぬれば
 うえもそのはつ國しらしし(※神武天皇の別名は「はつくにしらすすめらみこと」)
 年をこそ紀元にぞたてられにけり

 さすがに中今(なかいま=現在)は本(もと)をわすれみ

 昔にのりとらせたまうぞことわり(宣り取らせ給うぞ理)に
 かないていたよしなき(適っていた由無き)と?
 かく久しくうずもれし(埋もれし)宮趾さえうつつ(現)にあらわれぬるは
 いはまくも(口にするのも)かしこけれど(畏れ多いが)
 天皇(すめらみこと)の御霊(みたま)のしるべ(導き)なり

 かくしなはしめこれ(高島宮趾)を見いだせるは
 高本禎吾という人なりしが、
 松田謙三等もあずかりて(与りて)ありつるようを
 杉宮内大輔に告つ、公へのもおしぶみ(申文)は
 高崎岡山縣令につきてたてまつれり(奉れり)

 おととし(明治十五年)の春にいたりて
 宮内省より金そこばく(若干)あて(充て)たまい
 かの神木のわたり(辺)をば
 おおやけ地(公地 ※第三種官有地)とさだめられけるを
 おなじくは(いっそのこと)祠をもあらたにしつらわたわしと
 氏子どものねがいければ 
 ねがいのままにゆるされぬ

 河田三七とかやいうがところたてまつりて
 宮つくりにいたりけるは
 道ある御代(みよ)につきづきしき(付き付きしき=ふさわしい)わざかな

 かかる人々の名もしるすことはかりせば
 ながく(永く)つたうるに
 よしな(皇紀元年以前?)からよし後のいにしえ(古)をしのばんものは
 幸にこの石ふみ(碑)によりておもいさとりなまし

 明治十七年(1884年)六月 大教正 田中頼庸(よりつね)謹撰 植松有経(ありつね)謹書」


高島神社之碑によると高島神社の祠は明治15年頃に再建されている

神島神社については別項を参照




井戸

高島は地下水が豊富。この井戸の水も寄港した船に補給されていたのかもしれない。

https://goo.gl/maps/XockG5N9nL12







王泊湾(王泊港)

かつては潮待ちの船がひしめいていたと云われている

「吉備高島考證(pp.3-4)」を参照

正面に聳えるのは神島の栂の丸山。神島神社(黄色の印の辺り)は視認困難。







高島神社前から海岸沿いの道を東へ80m進む




注連柱

「奉」「納」




石祠

祭神未確認。「高島二十二社」のひとつである戎神社?

「御登極記念 小田郡誌(p.101 大正13年)」に「十三、戎神社 社地は境内三坪。
鎭座は高島字 王泊。建物社殿は梁行桁行各々二尺なり。」とある

https://goo.gl/maps/4HWw7d5hnEM2





高島四国霊場の弘法大師坐像

番号不明

『南無大師遍照金剛』




東へ32m進み、石鳥居の前を通過して北東へ124m進む







親子亀岩

https://goo.gl/maps/o91tjAaHCLo

石鳥居の前に戻る


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神卜山




一の石鳥居

「奉 淺口郡各小學校 職員及生徒中 *㔺話人(世話人) 親?學 藤原慎一」
「大正四年(1915年)十月十四日 小田郡北木島村 取次人 奥田三吉」

「獻 小田郡北木島村 奥田常吉 仝 神島外村 長鋪丈太郎」
「高島行宮遺跡保存發起者 畑中平之丞」

https://goo.gl/maps/yxcZQ67YiST2






日露戰役記念碑

「日露戰役記念碑 陸軍大将正三位勲一等功一級子爵川村景明 書」




「夫(そ)レ露國東洋ニ垂涎セシコト一
朝一夕ノ故ニアラス 之カ為清韓ニ國?ノ
 形勢動モスレハ 危機ニ瀕シ 人ヲシテ慄然タラ
シメシコト◯ナリキ サレハ明治三十七年(1904年)二月 我ハ
決然起?チテ仁義ノ旗ヲ翻ヘシ 此等◯◯ヲ保護シテ膺懲
ノ實ヲ擧ケント欲シ 百萬ノ大兵海ヲ渡リ 惣?軍萬里 朔北ノ陰
ヲ踏ミ破リ 激戰ニ星霜 終ニ曠古ノ大勝ヲ?獲? 列國?ヲシテ聖明ノ
仁徳ヲ仰キ 皇国ノ稜威(いつ)ニ畏怖セシメタリ 然リト雖モ夫ノ兵士ノ
戰ニ赴クヤ親戚別ニ◯ミ 懇ニ報効ヲ◯メ? 不幸ニシテ戰死ノ報ヲ
聞ケトモ 涙ヲ抑ヘテ國難?ニ殉セシヲ栄トシ 或ハ剣電弾雨ノ中ニ
血戰奮闘シテ屍ヲ海底ニ沈メ骨ヲ異域ニ曝セトモ 絶テ家ヲ思ハ
ス 或ハ寒威凜冽ノ地◯ヲ墾?シ 咳?ヲ病ミテ雪中ニ凍死スレトモ毫
モ妻子ヲ顧ミサリシ道?ヲ想ヘハ 吾等同胞タルモノ爭(いかで)カ熱涙ノ汪
然タラサルヲ得ンヤ 如今平和克復シ親交マタ舊?ノ如シト*虽(=雖)モ 永
ク當時ノ記念ヲ此地ニ留メテ後世ノ士氣ヲ鼓舞センハ 實ニ吾人
ノ為スヘキ務ニシテ 亦武士道ノ粋?ヲ発揮スル所以ナリト信?ス 因
 リテ◯ニ同志ヲ募リテ具事ヲ議リシニ 爰?ニ本郡長六?村長及有志
諸彦ノ賛同ヲ得テ 茲ニ建碑ノ功ヲ讃?ヘ マタ其ノ所由ヲ記スコト
此ノ如シ                      .

明治四十一年(1908年)二月十一日 畑中平之丞

ま春(す)らをの 清き曽(そ)乃(の)名を萬代耳(に)
 か多(た)里(り)頭(つ)可(か)んと立し石文
                  岡 直盧
                       片山保常 書」

ますらお(益荒男)の 清きその名を よろづよに かたりつがんと たてしいしぶみ

膺懲(こうちょう): 敵をうけとめてこらしめる。外敵をうちはらうこと。
朔北(さくほく): 北。北方の地。特に、中国の北方にある辺土。
報効(ほうこう): 恩に報いて力をつくすこと
聖明(せいめい): 天子。また、天子のすぐれた政治。
凜冽(りんれつ): 凜烈。寒さの極度にきびしいさま。
毫も(ごうも): 少しも。いささかも。
熱涙(ねつるい): 感動して流す涙
曠古(こうこ): 昔から例がない。未曾有。
汪然(おうぜん): 涙が盛んに流れるさま
如今(じょこん): ただいま。現在。
諸彦(しょげん): 皆さま
所由(しょゆう): 理由となるもの


吉備史談会講演録(p.16 明治37年)」に岡 直盧氏の高島宮に関する記述あり

「吉備高島考證(p.24 昭和14年)」に「日清、日露の戰役より支那事變の今日に至る迄、
高島より出征せる軍人及軍属は、相當數に上つて居るが、未だ曾て一人の負傷者も、
一人の戰死者も出ないので、島民は是れ全く、*神武様(神武様)の御加護によるものだと
信じて、非常に感激感謝、益々尊崇の念を深め、高島*神社(神社)を
改築して上げませねばならぬと話し合つて居りながら、何分にも弱小なる島であるので、
如何とも爲し得ないのである。」と記されている

神卜山の遊歩道の入り口から南へ10m上る







高島四国霊場の弘法大師坐像

番号不明

『南無大師遍照金剛』

高島を四国に見立てると、ここが1番札所か?

https://goo.gl/maps/AcwBpXqEGFA2




地蔵菩薩立像

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

南へ75m進む




目印等がないので見落としやすい




右折して西へ10m進む

https://goo.gl/maps/Ci1sKN219k62




「榊木 神武天皇お手植えの榊木と伝えられ
往時根廻り2.25mもの老巨木(おきよ館に写真展示)
土地榊 内務省直営 玉垣建設(明治15年)
惜しくも枯れ 玉垣だけ残っています」

「高島神社之碑」には「わ幾(き)て昔のなこりとみゆる盤(は)一もとの神木なりけ里(り)
 天皇の御手つ可(か)ら植た万(ま)ひしといひつ堂(た)へて
 枝さし於(お)可(か)しく志(し)介(け)りたてり」とある

「吉備高島考證(pp.16-17 昭和14年)」に「五、神籬 神武天皇、
天津神を奉齋し給ひし場所であつて、天皇御手植の榊がある。
(根本の周圍七尺五寸餘)、此神木は第一世の根本より
生えたるものらしく、六七年前 其榊が枯れて、其の根より
又第三世が芽生え二尺餘も伸びて居た。然るに、保護不行届の爲、
兒童が其芽を折つて遂に枯死せしめたのである。
誠に恐懼の至りに堪えない。此神木の樹齢を東京帝國大學植物學教室へ
聞き合せたるに、かゝる大木は我國には稀である、樹齢は年輪を數へて
見ねば不明だが、しかし千年以上のものであらうとの回答に接したのである。
周囲の玉垣は聖蹟保存の爲め内務省が建設したのである。(明治十六年)
玉垣の縦及横の長さ各五米五十センチ、高さは一米五センチ。
而して土地は内務省に買上げて第三種官有地となつて居るのである。」と記されている

「御登極記念 小田郡誌(p.104 大正13年)」に「明治拾五年壹月參拾日附にて御聞濟に相成
 宮趾の*神木(神木)靈泉の土地を官有地に編入、玉垣石造費として四拾圓拾八錢八厘御下附。」とある

「御登極記念 小田郡誌(p.106)」に「(中略)さらに眼を前方に轉ぜば、
一葦帶水を隔てゝ高島は指呼の間にあり。その中央に高く一大神樹の直立せるあり
 こは往古神武天皇東征の時 御杖をさかしまに(=さかさまに)さし給ひけるに、
其の枝葉を生じたるもの、甞て一度は其の幹枯れたるも
再び根本より芽を生じたるものなりと稱す。(以下略)」と記されている





枯死する前の榊木の写真は港の待合室の中に展示されている。
西から撮影されたその写真を見ると、榊木のすぐ横に小社がある。

「御登極記念 小田郡誌(p.104 大正13年)」にも枯死する前の榊木の写真がある。
こちらは東から撮影されたもので、小社は無い。




神籬の玉垣

https://goo.gl/maps/e6bcnDWsR6y




神籬(天皇御手植の榊)の痕跡なし

小田郡誌 上巻(p.7 昭和16年)」に枯死状態の神籬の写真あり
小田郡地誌(p.17 明治26年)」に神籬の挿絵あり

遊歩道に戻り、南へ100m程上る













石祠

高島神社と橿原神宮(祭神は神武天皇)の神札が祀られている

高島神社旧所在地?

「御登極記念 小田郡誌(p.104 大正13年)」に「明治拾六年(1883年)河田三七・
河田八三郎兩名の所有地三反四畝拾七歩寄附 高嶋神社移轉新築を高嶋(※高崎)縣令殿に上願す。
明治拾六年六月壹日附にて聞届相成。明治拾七年前代未聞の大洪水・海嘯のため實行中止。
明治拾八年貳月 本縣令へ寄附金募集御伺。明治拾八年貳月廿七日聞届相成。
明治廿六年(1893年)七月六日 本縣知事千阪(※千坂)高雅殿へ移轉新築寄附募集紙札配布の義
伺出指支なき旨指令に接す。」と記されている

「前代未聞の大洪水・海嘯」とは明治17年8月25日に襲来した台風のこと。
高潮によって堤防が決壊。西日本各地に甚大な被害をもたらした。
「岡山文庫 142 岡山の災害(pp.42-43)」を参照

小田郡地誌(p.17 明治26年)」に小社の挿絵あり


高島神社之碑に「をとゝしの春爾(に)い堂(た)りて
 宮内省より金所(そ)こはくあてた万(ま)ひ
 かの神木の王(わ)多(た)りを盤(は)
 於(お)ほやけ地とさ多(た)められ介(け)るを
 於(お)奈(な)しく盤(は)祠をもあ良(ら)た爾(に)志(し)つらは多(た)はしと
 氏子とものね可(か)ひ介(け)礼(れ)八(は)
 祢(ね)可(か)ひの万(ま)ゝにゆるされぬ

 河田三七と可(か)やいふ可(か)ところ堂(た)て末(ま)つりて
 宮徒(つ)くり耳(に)いたり介(け)る盤(は)
 道ある御代爾(に)つきゝしき王(わ)さ可(か)奈(な)」とある

https://goo.gl/maps/tEH1aptVoaQ2




東へ15m進み、右折して南へ15m上る




小田郡地誌(p.17 明治26年)」に眞奈井の挿絵あり




眞奈井(まない)

神武天皇が天ツ神に供え、または御供物を清めるられるに用い給ひしと云われる霊泉。
標高は約30m。玉垣は明治16年(1883年)に内務省が建設。

「吉備高島考證(pp.17-18)」を参照

https://goo.gl/maps/oRVjrA1Z6312




霊水







英照皇太后御歌の碑

「英照皇太后御歌                                    .
千(ち)者(は)やふ流(る)神のむ可(か)し盤(は)登(と)保(ほ)介(け)礼(れ)と
幾(き)よき泉遠(を)久(く)三(み)て志(し)流(る)可(か)南(な)      」
「子爵菅末?◯長言 謹書」
「昭和參年(1928年)四月三日建之
 靜岡縣小笠郡掛川町◯◯ 大濱◯◯」
 
ちはやふる 神のむかしは とほけれど きよき泉を くみてしるかな

眞奈井の横にある。揮毫は菅原道真公の子孫である清岡長言子爵(1875-1963年)。

南東へ80m程上る














石段(43+47+43段)を北東へ48m上る










二の石鳥居

高島行宮遺阯碑の前にある




柚木玉邨の漢詩碑(高島拜神武天皇行宮趾)

「長記行宮聖蹟傳
  旌旗壓海我皇舩
  于今佳氣繞高島
  蔚々二千六百年
         草莽臣 柚木方啓 拜草」
「有志建之」

旌旗(せいき): 色あざやかなはた
皇舩(みふね): 神武天皇を乗せた船
于今(いまに): 現在まで。今もって。
佳氣(かき): めでたい気。吉祥の気。
蔚蔚(うつうつ): 心のむすぼれて、中にこもるさま
草莽臣(そうもうのおみ): 官職に就かないで、民間にとどまっている人。
         また、自分をへりくだっていう語。

皇紀二千六百年(昭和15年)は文部省によって
昭和13年から行われていた神武天皇聖蹟調査の結果が発表された年。
聖蹟として認定されたのは岡山県児島郡甲浦村大字宮浦字高島。

柚木玉邨(1865-1943年)氏は倉敷市玉島の南画家

玉邨絶句抄(p.38 昭和14年)」を参照




観光案内図










高島行宮遺阯碑

「高島行宮遺阯碑 宮中顧問從三位勲一等文學博士三島 毅 敬書」
「大正八年(1919年)一月建焉」

神卜山の展望所(山頂)の南西20mの所にある。高さ二丈四尺(約7.27m)、
材數三千石、重量六萬貫(225t)と云われている。

「吉備高島考證(p.14 昭和14年)」を参照

高島行宮遺跡保存發起者である畑中平之丞氏(1843-1930年)が建立

畑中氏については「小田郡誌 下巻(p.763)」を参照

https://goo.gl/maps/DLwcXHJCntk

碑の前から東へ25m進み、丁字路を左折して北へ10m程上る










高島四国霊場の弘法大師坐像

番号不明

『南無大師遍照金剛』

https://goo.gl/maps/oZuWPXzL4QR2

さらに13m程上る




東磐座




展望台(展望休憩所)




展望台からのパノラマ(西)

向かって右に明地島と差出島、その後ろに神島、正面に霞んで見えているのは沼隈半島。
左端に見えているのは白石島。












神卜山の三等三角点(標高76.7m)




お日の出遥拝石

三角点の東にある




遥拝石からの眺望(東)





占石

神武天皇が吉凶を占った場所と云われている

https://goo.gl/maps/i2ZibAEz4As




占石からの眺望(南東)

正面に霞んで見えているのは香川県の広島、向かって右に白石島




占石からの眺望(東)

この辺りの字を神浦(上浦)、あるいは王頭という

王頭には四隅の樓石の一つ(王頭の樓石)がある

「吉備高島考證(p.25 昭和14年)」に「一一、四隅の樓石 高島行宮阯の四方に樓石がある。
島民は行宮護衛の見張番所であつたと云ひ、國學者は高島を*神地(神地)と定められたる
忌杖の跡だと云ふのである。四隅の樓石は、高栖の海岸とまどいしと王頭と米庫の
四ヶ所にあつたのだが、米庫の樓石は、三十年程前に石材に取つて、今はなくなつており、
まといしには一部を残し、高栖のは半ば崩れかゝつて居る。」とある

「吉備高島考證(p.28)」に「二一、王頭 高島の東北海岸にある。
此處では小魚がよくとれるので、島民は神武天皇の御蔭だと云つて
*神德(神徳)雑魚と稱して居る。」と記されている

※文中の「神」の字は旧字の*神







占石からの眺望(北東)

向かって左に青佐山、中央に寄島、右奥に水島コンビナート


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