【木之子西国三十三所観音霊場(仮) 画像集.2】
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木之子西国三十三所観音霊場(仮).gpx
西方町の向山地区
かかしと自動販売機がある丁字路を左折
https://goo.gl/maps/V6aWGLykSX22
南南東へ43m進む
稲木川に架かる県主北橋
平成十年三月竣工

鳥羽踊り
記念碑
「記念碑 井原市長 谷本 巖 書」「県主北部土地総合整備事業
事業面積42.4ha 地権者数137名 農道延長2,800m 水路延長2,300m
総事業費6億6千万円 竣工年月平成11年3月
県主北部土地総合整備推進協議会 地区18企業の協賛にて之を建つ」
https://goo.gl/maps/2ZJqxMG4cvA2
南南東へ45m進む
記念碑の前に戻り、稲木川の土手道を西へ118m進む。
右折して橋を渡り、北へ14m進む。
県道290号線の十字路
西方住宅集会所の北
https://goo.gl/maps/yQ8hXaL47rt
万人講供養碑群
万人講供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「万人講 明治廿五年(1892年) 九月廿八日」
牛供養碑兼道しるべb
「亡牛供養」「東 矢掛 昭和四年(1929年)十一月三?日」
「西 福山 施主
北田◯◯◯ 三島◯◯◯」
万人講供養碑c(牛)
「爲供養万人講 昭和十二年(1937年)十月廿三日 施主 佐藤◯◯」
県道290号線を横断して東北東へ90m、北東へ105m、北へ80m、北北東へ155m進む
蛭田池の北にある十字路を左折

牛供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「左 井原 右 岡山」「施主 佐藤◯◯」
牛供養碑(地蔵菩薩坐像 +
牛)
「昭和十◯年六月◯◯◯◯ 施主 佐藤◯◯」
https://maps.app.goo.gl/veuzVUy3U1fRwUeq7
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木之子町の惣谷から七日市町への道
明治32年発行の地図には無いが、
昭和3年発行の地図、
昭和42年発行の地図には記されている
牛供養碑兼道しるべの前から北西へ55m上り、民家の手前で右折。
井原市木之子町 道-579、道-561、道-85、道-81、道-65を北へ410m上る。
https://maps.app.goo.gl/6PbdKxDC5WVFKRvN6
西高月地区のベーハ小屋があるY字路に出たら左折
https://maps.app.goo.gl/nXSmWyECdBatSunb9
車道を北西へ80m上る

十字路を右折
https://maps.app.goo.gl/CLqmnBq5B9EnEe2t9
道-63を北へ進み、井原市七日市町 道-312、道-304、道-296を
北へ下ると、井原クリーンセンターに向かう車道に出る
(※道-296は車道開削により消失しているので通り抜けられない)。
迂回のため、十字路から北西へ130m下る
Y字路
左折すると井原クリーンセンターに至る
https://maps.app.goo.gl/EabsTcvH8Cqs7eQm7
Y字路を右折して北へ50m、北北東へ165m下る
道-296との合流点
道-296、道-303、道-257、道-301は車道開削により消失
https://maps.app.goo.gl/DVU1XUAEapqFJ277A車道を東北東へ105m下り、ヘアピンカーブを左折して西へ70m下る
旧道(道-253、道-297)は通行困難
https://maps.app.goo.gl/MbiykrxEwMLoK8Ay6
迂回のため、車道を南西へ205m下り、丁字路を右折して井原市道日芳橋塚原線を北東へ105m下る
丁字路を右折して東へ1m進む
道-297
万人講供養兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「亡牛○○(供養?) 万人講 昭和廿三年(1948年)三月三十一日 左
高月 施主 佐能○○」
電柱の後ろの分からづらい所にある
https://maps.app.goo.gl/k9dkYQrV9LcSjatJ7
井原市道日芳橋塚原線(東城往来=旧県道)を北北東へ480m、北へ260m下る
井原線の下をくぐり、北へ35m進んで花野の交差点を左折
西北西へ100m進み、Y字路を右折して旧県道をさらに西北西へ345m進む
七日市駅 川越し上がり場跡
日芳橋南詰
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笠岡小路(旧東城往来)
旧山陽道まで約1.3kmの道程。花野へ下るルートよりも約200m短い。
軽自動車なら通り抜け可能だが、離合可能な所は極めて少ないので、
対向車があった場合、長い距離を後退しなれればならない。
「ふるさと探訪 出部の史跡(改訂版)(七日市編)」を参照
https://maps.app.goo.gl/9AAKwXPyxmdUuh3CA
井原市道日芳橋塚原線(東城往来、旧県道)
万人講供養兼道しるべの前から南西へ110m上り、75m進んだ所
https://maps.app.goo.gl/vfog9kEVBePGSnYh6Y字路を左折して井原市七日市町 道-276を北へ44m進む
地蔵菩薩坐像
https://maps.app.goo.gl/EiyYVEWN1RmRYQhM8北へ130m上る
天王坂(道-224、道-205、道-132、道-407、道-140、道-120)を北へ道なりに約700m下る
稲荷神社
https://maps.app.goo.gl/fQ3pvrTZJ3W38EY38
石鎚神社贈元老顧問藤代源治碑
北へ18m下る
墓地の北にある丁字路
墓地がある辺りの字を無量寺という。今寺は無く、その墓地と字名のみ残る。
六字名号碑(法界碑)
「南無阿弥陀佛 法 界」
「法界」は「乃至法界平等利益」の略
寺院の前に六字名号碑が置かれていることがある

天台宗 興福山観照院海蔵寺(倉敷市玉島黒崎)
天台宗 大谷山善勝寺寂光院(浅口市金光町大谷)
天台宗 櫻見山長徳寺圓珠院(浅口市鴨方町六条院西)
地蔵菩薩坐像
『南無地蔵大菩薩』
万人講供養碑兼道しるべ
「万人講 右 作道 左 笠岡」
「大正九年(1920年)七月二十○」「川本○○○」
https://maps.app.goo.gl/xPUMFPCPP3yWSUxL7北へ77m下る
道-60
向かって左の墓地内に井原西国20番の観音堂がある
https://maps.app.goo.gl/ALvAdvpEnR9RBxaX6北へ65m進む
十字路を直進し、井原線の軌道の下をくぐり、道-50を北へ40m進む
井笠鉄道軌道跡の交差点
向かって左は伊達大蔵屋敷跡、右は東堀跡。
交差点を横断し、道-36を北へ173m進むと
日芳橋南詰の南西40mの所に出る。
https://maps.app.goo.gl/WrSiZmvasnM8eEBD7
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伝 中世山陽道

道しるべ前から東へ続く道は「岡山縣後月郡地圖」では赤線(村道)で描かれている
平安・鎌倉時代の頃、この道は旧山陽道(西国街道)の迂回路だったと云われている
小田の寺迫地区と甲弩の北畑地区を結ぶ流れ橋
小田川3号橋(通称 寺迫橋 or 北畑橋)。市道甲弩77号北畑線。1916年架設。
明治30年測図の地図にも橋が描かれている。
かつてこの辺りに「小田の渡り」があったとされる
平安時代の貴族で中古三十六歌仙に数えられる対馬守
大江嘉言卿が
寛弘六年(1009年)に対馬へ下るため小田の渡を渡った際に残した歌がある。
「
夫木和歌抄[本編](藤原長清 撰、市島謙吉 編輯兼発行、明治39年、p.861)」に
「備中國をかの渡と云所を夜ふかくすぐとて 萬代 備中
有明のつきの夜ふかくいてぬれは をかの渡りに雁そなくる 大江嘉言」とある。
夫木和歌抄の撰者は鎌倉時代の公卿 藤原長清。
室町後期の連歌師 宗碩(そうせき、1474-1533年)が編纂したとされる「
藻塩草巻第三
渡 廿七」には
「小田-(渡) 備中 ○有明の月爾(に)夜ふ可(か)く出多(た)れ者(は)
小田の王(わ)多(た)り爾(に)可(か)里(り)そなくなる」とある。
「
類題和歌怜野集 上(清原雄風 編、明治27年、p.323)」には
「有明の月に夜ぶかく出ぬれは 岡の渡りに雁ぞ鳴なる」とある。
「
吉備叢書
第二巻 吉備国史(小早川秀雄 撰、明治30年)」に
「小田の渡 小田堀越のとなるへし 藻塩草に小田郷ともいへり
夫木集(※夫木和歌抄)備中國をた(小田)の渡と云所を夜ふかくすくとて 大江嘉言
有明の月に夜ふかく出ぬれは 小田の渡りに雁そ鳴なる」とある。
「
大日本地名辞典
上巻 二版(吉田東伍 著、1907年、p.973)」に
「小田川 江原川の別名にして、阿部川に入る。備中の國をたの渡を、夜深くすぎてよめる、
有明の月に夜深く出たれぱ をたの渡に雁ぞなくなる、〔夫木〕 嘉言」と記されている。
「
備中誌
小田郡(明治36年、pp.57-58)」には「小田渡 小田村に有 名勝考二(に)云
今の驛路は爰(ここ)を渡らざれ共(ども)古しへは爰を南へ渡りて走出村木の子村を西へ行し也
いつの頃にか河の流れつき替りて今のことくなれりと里人語り傳へたり
夫木鈔(※夫木和歌抄)二(に)云 備中の國小田の渡りといふ所を後月驛過るとて名勝考に云
原本には小田を誤りておかとせり 本州の驛路におかといふ處なし
*藻𪉩艸(藻鹽草)に小田と有て此嘉言卿の歌を引たれば是によりて改ためつ
此卿對馬守にて下られしこと物に見ゆ
其ときに此驛をすぎてよみ給へる 大江嘉言
有明の月に夜ふかく出ぬれば 小田の渡りに雁ぞ鳴なる
(中略)楢園集 春曙 殘る夜の月も浪間に霞むなり
小田の渡りの曙のうち」と記されている。
楢園集は敬業館の初代教授を務めた国学者の小寺清先(楢園)先生(1748-1827年)の歌集
「
吉備郡史 上(永山卯三郎 著、昭和12年、pp.556-557)」に「驛路 國道を云ふ。
國道には宿驛の設あるによりて名付く。大化の改新の時、大寶元年(701年)驛路を大中小の三つに分ち、
京都・大宰府を通ずる道すなはち山陽道を大路とす。東海・東山兩道は中路にして其他は小路なり。
和銅四年(711年)諸國に郵亭驛を置き。六年(713年)郡司に命じて旅客の便を與へしめ。
養老二年(718年)兵部省にて驛遞(駅逓)の事を司らしめ。天平寶字三年(759年)五畿七道驛路の兩傍に菓樹を植えしむ。
大同元年(806年)作路司を置きて道路を修理せしむ。源賴朝幕府を開くや要所要所に新驛を設く。
弘長元年(1261年)宗尊親王上洛の時、夫役を諸国に課す後の助鄕設備の濫觴(らんしょう)なり。
建武元年(1334年)往還の行程を近國十日中國廿日遠國五十日とし諸人上洛の行程を近國七日、
中國十五日、遠國廿日と。室町時代に因て驛政大に亂る。」とある。
備中国の驛については
大同二年(807年)の官符に「備中國五驛廿五匹」、
延長五年(927年)の「
延喜式 巻第二十八」には「備中國。驛馬。*津峴(つさき
歟)。河邊。小田。後月。各廿疋。」と記されている。
「
備中誌
賀陽郡 下(明治37年、p.425)」に「板倉驛 此驛いづれの頃定められにしや不詳
往古八(は)備前辛川驛 今八(は)廢せられたれ共
延喜式驛傳馬條に辛川より備中*津峴 河邊 小田 後月と有
*津峴も今廢せられて 岡山 板倉 河邊となりたり」とある。
「岡山縣 後月郡誌(大正15年、pp.415-416)」には後月驛について
「延喜式巻第廿六(※ママ)云、備中國驛馬*津峴(つさき 歟)、河邊、小田、後月各廿疋」とあり、
斯後月に付て、備中誌云。後月驛、此名は絕てけれ共、猶高屋村の内に後月谷呼る所有、自ら古名の殘れる也、
延喜式驛傳馬の條に備前國津高より備中*津峴 津高と津峴の間に今板倉驛有 河邊小田 川邊と小田の間に今矢掛の驛有
後月 小田と後月の間に今七日市驛有
それより備後國安芸云々と見えたり、然るに何れの頃にや式に載られし地を廢せられて、
今は、板倉、河邊、矢掛、七日市、高屋等を驛場とする云々。七日市驛、何の頃定められしや不詳
延喜式に出たる驛家は河邊小田後月と有て今は小田の驛は廢せられ矢掛七日市の驛を加へられたり。
道中方秘書云。中國路は備中板倉、河邊、矢掛、七日市、高屋とあり。(第二編第四章參照)
されば高屋は古よりの驛路にし延喜式載する所の後月驛は高屋町のとなるべく、
且つ高屋とは驛家の驛字の偏馬(馬)の高(高)字に轉し驛家の家字を屋にかへ
後世高屋と用ひ慣れたものなりとも云ふ。」と記されている。
「
西江原村史(河合健三 著、明治45年、pp.20-21)」に「小田の渡(小田郡小田村堀越) 藻鹽草
有明の月に夜ふかく出ぬれば
小田の渡に雁ぞ鳴くなる 對島の守護を卒へて歸る時(※) 大江嘉言
(中略)上記歌中に小田渡あり。
上古國道は現今の位置に在りしが弘安四年(1281年)蒙古襲來の時山陽道堅守の要として鎌倉幕府の命に依り、
宇都宮氏荏原村神代に高越城を築くや守城の爲め國道を小田川向に移轉す。卽ち今の小田村堀越を南へ
小田川を渡りて(是れ小田の渡)走出に出て、其れより木之子村を通りて出部村高月山の裾を迂回し
七日市に至りしものなり。國道が現在の位置に復舊せしは何時か判明せず。
尚現時、地方に依りて其跡を見る農夫が田植の時、勞を慰めんが爲めに笛、太鼓を鳴らして舞い踊る風習は、
古来より行はれしものにて、我本村にても近世まで行はれしが今は行はれず。」とある。
※大江嘉言卿は寛弘六年に対馬守に任ぜられて対馬へ下り、翌年に当地で没して居る
https://goo.gl/maps/samPhqWkCqD2
小田の渡りと田鶴山の頂きに上る仲秋の名月
向かって左は矢掛町小田、右は笠岡市甲弩
「御登極記念 小田郡誌(大正13年)」に「小田川 源を備後國深安郡の
北部山間より發し、備後にては其の流路を山野川と云へり、後月郡芳井村
大字川相に至り、同郡共和村より來れる鴨川を合せ同村大字吉井に至り、
源を川上郡日里村大字*黑忠(黒忠)に發し山間を屈曲南流し來れる
宇戸川を入れ、水勢漸く大となり東南に流れ、井原町を經て、
西江原村字新町より、出部村字七日市に架せる有名な日芳橋下を潜り、
西江原及び荏原の兩村を過ぎ、更に源を本郡稲倉村大字上稲木より
發する稲木川を合はせ、之より本郡に入り東流して小田北川兩村の間を經、
中川川面の二村を貫き、尾坂川・小林川を合はせ、矢掛山田の村境をめぐり、
三谷村の中央を横ぎり、吉備郡呉妹村に入り、同郡南部を東方に向つて
一直線に貫流し、同郡川邊村に至りて高梁川に會す。全流程十八里(約70.691km)、
本郡内流程二里半(約9.818km)にして小田村より下流は小舟の便あり。
此の川の流路中 小田村に「小田の渡」とて古歌にも詠まれ
備中名所の一に數へられし古來名高き渡津塲ありしが、其のところ今は
板橋を架して交通の便を計れり
備中の國小田の渡しを 夜深に過ぎて
大江對馬守嘉言
有明の月に夜ふかく出ぬれば 小田の渡りに雁ぞ鳴くなる
(岡山縣名勝誌)」と記されている。
現在の雁は宮城県あたりまでしか南下しないので、岡山県の小田周辺で雁を見ることは全くない。
小氷期だった江戸時代は冬の気温が現代よりも低かったので、木之子村に鶴が飛来していたが、
平安時代は比較的暖かかったらし。
「小田郡誌 下巻(pp.612-613)」に「天保十一年十二月十七日、萬葉歌人平賀元義此所に來り詠ずらく
古への ますらたけお(益荒猛男)か 渡りけん 小田の渡を 我も渡りつ」と記されている。
「
平賀元義集(有元稔
著、明治41年、p.9)」には
「小田渡口 古のますらたけをが渡りけむ 小田の渡を吾もわたりつ」とある。
平賀元義(1800-1866年)は岡山の国学者で、万葉調で知られる歌人でもある。
小田の渡り跡についての詳細は「
北川の史跡ガイドブック(p.68)」を参照
小田川の水面に映る秋の月
「小田郡誌 上巻(p.57)」に「小田村 嘉言
有明の月に夜ふけて出たれば 小田の渡りに雁ぞなくなる」とある
有明の月は月齢16以降の月のこと
流された橋桁(2012年7月)
橋桁を更新(2016年2月頃)
岡山県の流れ橋については「高梁川 高梁川流域連盟 52(pp.262-274)」を参照
2017年7月
甲弩側から矢掛ポンプ場を望む(2020年9月)
林田川と小田川の合流点。
洪水時には水門を閉じ、林田川の水をポンプアップして土手の上から小田川へ流し込む。
2018年7月豪雨災害では小田川への排水が間に合わず、周辺の浸水を許すことになった。
その後、国は林田川の矢掛ポンプ場の排水能力を高めるため、
ポンプの増設を行った。
2018年7月豪雨災害により流れ橋の橋桁が損傷。
流れの妨げとなるため、橋は修復されることなく、すべて撤去された。
ポンプ場の辺りは
昭和41年改測の地図を見ると桑畑だったことが分かる。
桑畑は竹林や田畑よりも氾濫の影響を受けにくいので、度々水に浸かる土地に植えられることがある。
https://maps.app.goo.gl/6FaRHjHsvEWjNiyg8
寺迫橋
国道486号線と旧山陽道のY字路にある。
高欄が特徴的な鉄筋コンクリートの橋。造立年は不明。
「
岡山県の近代化遺産-岡山県近代化遺産総合調査報告書(p.145)」を参照
下を流れるのは林田川(灰田川、刎堀川ともいう)
「御登極記念 小田郡誌(p.129 大正13年)」に「本村に小田川の一支流として
別に刎堀(はねぼり)川あり、一名灰田川と云ふ
源を山の上・日置谷の二箇所に發し、
曲折南流して、本村小學校の東に於て相合し灰田・中小田の地を還流し、
寺迫に於て小田川に合す。」とある。
今昔マップで確認すると、明治30年測図の地図と大正14年修正測図の地図に描かれている林田川の流路は
昭和40年改測の地図に描かれている流路とは異なっているので、
寺迫橋も林田川の付け替え工事の際に新設されたものと思われる。
「中国行程記 二(明和元年=1764年)」の絵図を見ると、
旧山陽道と林田川が交わる所には橋が描かれておらず、「川廣二間」と記されている。
旧山陽道と高通川が交わる所(栄橋、高通橋徒渡し跡)には「川廣廿間」と記されている。
https://goo.gl/maps/e1pEMp3fF5r
林田川
向かって左が旧山陽道、右はニシナフードバスケット矢掛小田店の衣料・生活館。
寺迫橋の南西215m辺り。普段の水深は深い所でも40cm程。
被災したニシナフードバスケット矢掛小田店の衣料・生活館(2018年7月15日)
平成30年7月豪雨の際(7月7日)には小田川と林田川の増水によって堀越・寺迫地区の広範囲が冠水。
Sho Channel氏が
当時の堀越・寺迫地区の冠水状況をドローンで記録した動画をyoutubeにアップロードさている。
https://maps.app.goo.gl/Ko9b9H4nNoNuArvv7
ニシナフードバスケット矢掛小田店と筒井医院前の国道486号線(2018年7月15日)
生け垣に泥水の跡がくっきりと残っている
https://maps.app.goo.gl/V8torCyinbRrJWiz7県道290号線の十字路に戻り、南南西へ136m進む
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西方町の池平地区
宮前池
神によって造られた池とされている

宮前池の東端にある丁字路を右折し、北西へ82m進む
青龍神社前
社号標
「青龍神社」「平成十三年(2001年)十月吉日建之」「青龍神社氏子総代就任記念」
自然石の燈籠a(向かって右)
「獻」
自然石の燈籠b(同左)
「燈」
御大典紀念碑
「大典紀念神苑 大正四年(1915年)十一月十日」
社号標の向かって左にある
石鳥居
「池築大明神」「平成二十三年(2011年)十月吉日」「氏子一同」
池築大明神=池築聖龍大明神
手水鉢
石燈籠cd(石段脇横1列目)
「奉獻」「文政二(1819年)卯六月」
石燈籠e(石段脇横2列目向かって右)
「奉燭」「安政五年(1858年) 戊午六月吉日」
自然石の燈籠c(同左)
「奉燈」
自然石の燈籠d(石段脇横3列目向かって右)
「◯◯」
自然石の燈籠e(同左)
「奉燈」
石燈籠f(石段脇横4列目向かって右)
「奉獻」「文久元(1861年)辛酉九月吉日」
注連柱
「大正七年(1918年)戊午季秋」「三島◯◯謹建」

唐獅子1対
「奉献」「小寺良兵衛久孝 建之」「天保十己*㐪(亥)歳(1839年) 季秋吉日」
拝殿

青龍神社
「岡山縣 後月郡誌(p.824 大正15年)」に「(神社名)青龍神社
(祭神)底津少童命 中津少童命
表津少童命
(社格)村社 (式内外)式外 (祭日)十月十六日 (勸請)年月不詳
(社地)官有地第一種一反四畝十二歩 (鎭座)縣主村大字西方字 池平
(境内神社)素盞嗚神社 巖橋神社 若神社 御崎神社」とある
※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社
「岡山縣 後月郡誌(pp.852-855 大正15年)」に「七、青龍神社
縣主村大字西方
字池平に鎭座 口碑に傳云、本社は神龜二年(725年) 紀元千三百八十五年 の勸請なり。
古昔、連年風水旱の三害に罹り
村民大に之を患ひ 仰て天神地祇を祈る、時に一神
忽然として現れ、誨(おしえ)て曰く、吾を祭らば永く來すべしと告げ終て
神忽ち一の池を造り、其の水に入つて身を濯ぎ玉へば其形變じて小童神と化し
傍の社に隠れ給ふの靈蹟なり、仍ち池の西
平山へ社殿を營み 此神を祭りて池築聖龍大明神と
拝め奉ると、後 年代不詳 文字の易きによつて聖を青に改む、其池今尚ほ存せり、
稱して宮前池といふ。延寶五丁巳年(1677年)十二月水谷左京亮檢地帳に云、
「古檢四反三畝拾九歩池床五十間(約90.91m)二十間(約36.36m) 三反三畝拾歩 宮前池是ハ
古池ニテ年數知り不申。」是即古昔の神造池なり。又傳云、本社は式外備中三百餘社の
一に列せられ、神地神戸を定められ、金木、菅井、菅山、神ノ免、牛鍬、惠美酒田、
與田、與神子。後に一變して神地神戸を廢し式外一般の官幣祭祀は備中賀陽郡の
一所に取纏め総社宮と稱すと。此の故に本村古昔の神地の今地名に存するもの多し、
就中字 牛鍬
古檢二反六畝廿歩、延實檢地四反廿歩半。は往古の御供田にして
毎歳正月十一日農事初めの神事として古法式ありしも慶長檢地以後民有地に
編入せられ、今は其名のみを傳へて、本社の祭日を牛鍬祭と云ふも之に因るとぞ。
延寶檢地帳に由れば西方村七ヶ所にて田反別貳反七畝廿貳歩米壹石九斗神田とあり。
されば延寶檢地以後はこの地の加地子米を以て祭典の料に宛來りしが、
今は、西方區有財産に編入せられ、明治維新以降は毎歳正米八斗宛、
西方區の寄附として出穀し、之を以て祭典の料に供せり。
明治元年(1868年)青龍神社と改稱す。社殿は明治十年(1877年)丁丑十一月建設、
拜殿は享保七年(1722年)壬寅三月に建設にかゝる。(以下、祭儀の項は省略)」とある
https://goo.gl/maps/iohpz9Njwik

随神像
幣殿
本殿
石燈籠mn(幣殿脇-小)
「奉燈」「安政六(1859年)己未」
石燈籠op(幣殿脇-大)
「奉獻」「安政二(1855年)乙卯 十二月吉旦」「松山◯◯◯◯ ◯建之」
石燈籠qr(本殿の向かって右、拝殿の向かって左)
「奉寄進」「御神前」「難波九右衛門」
小社a
祭神未確認
幣殿の向かって右にある
小社b
祭神未確認
幣殿の向かって右にある
注連柱に近い方から順に
石燈籠g
「奉獻」「願主 ◯◯治右衛門」「慶應元丑歳(1865年) 九月祭日」
石燈籠h
「奉獻「奉獻」「願主 北田重次郎」
石燈籠ij
「献燈」「願主 西方町
◯◯◯◯ ◯◯」「平成十年(1998年)寅歳 十月十日」
石燈籠k
「奉寄進」「願主
北田◯◯」「文化十一(1814年)甲戌九月吉日」
石燈籠l
「奉寄進」「願主 北田亦四良」「文久元(1861年)辛酉季秋」
手水鉢
「清浄?水」「明治十二(1879年)卯四月吉◯」
小社c
祭神未確認
幣殿の向かって左にある
石段を下って車道に戻り、右折して南東へ進む
石燈籠
「奉燈」「嘉永元年(1848年)」「申九月吉日」
https://goo.gl/maps/hpk4z5FFuQ52

自然石の燈籠
「奉燈」「明治十三辰年(1880年) 惣氏子」
https://goo.gl/maps/2tQbByJHY7E2南南東へ123m進んでY字路から
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西方町の大迫地区
大迫の観音堂の所在未確認
Y字路から南へ200m上る
https://goo.gl/maps/tTYWz4Bhg9F2
十字路を右折
自然石の燈籠
「三宝荒神 夜燈」
https://goo.gl/maps/CmDMWiijzt52十字路から南南東へ32m進む
自然石の燈籠
「蒼龍神社 吉備津社 金毘羅社 *
燁(火
+ 華 ヨウ)」
「明治五(1872年)壬申四月建之」「谷中」
自然石地神
「地神」
https://goo.gl/maps/xCQtUhRWP3C2
南へ232m下って丁字路に戻り、北東へ200m進んで田圃の中の十字路を右折
かかしコンテスト会場
https://goo.gl/maps/tMtwe852XbU2
会場前から南南東へ160m進み、十字路を右折して西南西へ70m進む
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西方町の中耕地地区
十字路から南南東へ10m上る
石燈籠
「献燈」「備中 一之宮(=吉備津神社) ◯◯◯」
https://goo.gl/maps/L6FBruZc7yL2さらに南南東へ90m、南西へ90m上る
法界地蔵
「*㳒界(法界)」「◯◯◯◯童子」
「文化拾二年(1815年)亥 正月三日 ◯◯ ◯◯壽七歳」
『南無地蔵大菩薩』

石殿
https://goo.gl/maps/UBAMysRjwM22
木造如来立像(向かって右)
両手首から先が欠損しているので特定困難。薬師如来立像?
弘法大師坐像(同左)
『南無大師遍照金剛』
西方町には表と井迫に薬師堂がある(所在未確認)
南へ280m進む
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自然石の燈籠
「三宝 荒神 献燈 文政三(1820年)辰二月」
宝珠、笠、火袋なし
https://goo.gl/maps/GjcGqzePmRr
南へ37m進む

万人講供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「万人講 昭和三年(1928年)十月十一日 三島◯◯◯」
https://goo.gl/maps/U7pkqzZHvAC2
丁字路から東へ11m下り、丁字路を左折して細道を北東へ114m下る
つきあたりの丁字路を右折し、車道を南南東へ23m進む

大師堂
昭和35年(1960年)3月再建。下諏訪の観音堂?
https://goo.gl/maps/gzbv1RibHqy
弘法大師坐像(向かって右)
「世◯人 金四◯ 佐◯ ◯◯◯ 勝◯◯」
『南無大師遍照金剛』
聖観世音菩薩像?(同左)
『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』
万人講供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「万人講 大正六年(1917年) 四月廿○○ 北田◯◯◯ ◯◯◯◯」
万人講供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)
「大正五年 六月一?日 施主 三○○○ 施主 北田○○○」
車道を北へ34m、北東へ83m下る
自然石の燈籠
「献燈」「一宮(備中一宮=吉備津神社) 金毘羅 青龍社(=青龍神社)」
自然石地神
「地神」
https://goo.gl/maps/6dk2TurUP9r
大師堂前に戻り、南南東へ90m上り、南へ70m下る。
丁字路から南南西へ95m、南へ85m上る。
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丁字路を左折して、細道を東へ55m下り、参道を東へ50m上る。
https://goo.gl/maps/r78qMnVjTSXHR9UM6

む
石鳥居
「諏訪宮」
「天保八酉歳(1837年)十二月」「願主 惣氏子」
石燈籠(向かって右)
「奉獻」「安政四(1857年)丁巳 五月吉日」
石燈籠(同左)
「奉獻」「願主
松◯◯◯」
手水鉢
「奉?献」「文久元(1861年) 酉六月」「小寺*𫞕(氏) ◯◯◯」
諏訪神社(諏訪宮)
「岡山縣 後月郡誌(p.824 大正15年)」に「(神社名)諏訪神社
(祭神)建御名方命 (式内外)村社青龍神社攝社 (祭日)十月廿三日 (勸請)年月不詳
(社地)民有地第一種一畝廿八歩 (鎭座)同村同大字(縣主村大字西方)字
上諏訪
(境内神社)荒神社 荒神社 荒神社 荒神社 荒神社 荒神社」とある
https://goo.gl/maps/jyByPdQAQmqxk4cC9
上諏訪公園
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