【備中西国三十三所観音霊場 画像集2】



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追記する予定



備中州巡礼畧記の順路

◯長地村長地城(高梁市成羽町長地)
◯東油野村けさ尾城(※袈裟尾城 高梁市備中町東油野)
◯西湯野村苅穂の城(※軽尾城 高梁市備中町西油野)
◯西山村西山城(※戸構城 高梁市備中町西山)
◯平川村金子山城(高梁市備中町平川)
◯平川村大原田城(高梁市備中町平川)
◯平川村山根城(高梁市備中町平川)
◯平川村柴の城(※ママ 紫城)(高梁市備中町平川)
◯平川村北丸の城(高梁市備中町平川)
◯布賀村菖蒲城(※菖蒲城 高梁市備中町布賀)


▲拾貳番 川上郡領家村自光山寳鏡寺(高梁市川上町 領家)

◯地頭村吉山城(※小社森城 高梁市川上町 地頭)
◯大竹村峯本山城(高梁市川上町下大竹?)
◯七地村國吉城(高梁市川上町七地)


◯出高山村折居山(高梁市川上町高山)

●彌高山(高梁市川上町高山)

■拾八神 穴門山神社(高梁市川上町高山市)
●長田山(穴門山神社が鎮座する山)
●高山村中山城(高梁市川上町高山市 穴門山神社の北)


▲拾參番 曹洞宗 高山市南洞山圓福寺(井原市芳井町東三原)

黒忠村小笹丸城(井原市美星町黒忠)


12-13番

川上郡領家村については「備中誌 川上郡(pp.58-60 明治37年)」を参照




光明真言十萬遍供養塔(向かって左)

「*(胎蔵界大日如来の種子「アーンク」)光明*真言十萬遍供養塔
明治*廿九*年 申三月四日」

『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたやうん』





寺標

「當國順礼 第十二番 自光山寳鏡禪寺」
台座「石工 利吉」





石燈籠1対

「法燈」



不動三尊像

『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
そわたや うんたらた かんまん』

矜迦羅童子『おん ばらさき たつたり そわか』
制叱迦童子『おん しゆと とば うんばつた』




弘法大師坐像a

「為二世安樂 (8人の芳名)」

『南無大師遍照金剛』


地蔵菩薩立像a

「享保十四(1729年)己酉◯」


地蔵菩薩立像b

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』




観音堂?

手水鉢a





十一面観世音菩薩立像?

台座「二?*畨 (番) ◯◯ ◯◯◯」


地蔵菩薩立像(コゴメ石)2躰

西国2番 紀三井山 金剛宝寺 [きみいさん こんごうほうじ] “紀三井寺” (十一面)
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「古郷を はるばるここに 紀三井寺(きみいでら) 花の都も 近くなるらん」





中国地蔵尊霊場 第4番札所

地蔵菩薩立像c

その両脇に観世音菩薩坐像2躰

向かって左に五輪石塔群




地蔵菩薩立像d(向かって右端)

「明治三十一年 七月吉日建之」

「(願主2人の芳名)」




供養塔?(向かって右から2番目)

「為佛」

地蔵菩薩立像e(同4番目)


地蔵菩薩立像f(同5番目)





如意輪観世音菩薩輪王坐像(同3番目)

「天下 *𣳾(泰)平」
台座「*㐧(第)一*畨 (番) ◯◯村 *施主 細工人 下大竹村 ◯◯◯◯」

西国1番 那智山 青岸渡寺 [なちさん せいがんとじ] “那智山寺” (如意輪)
 『おん はんどま しんだ まに じんば ら そわか』
 「補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」





地蔵菩薩立像g(同7番目)


地蔵菩薩立像h(同8番目)


弘法大師立像b?(同9番目)

「弘法大師」




弘法大師坐像b(同6番目)

「阿弥陀如*耒(来) 二番 當村 川上◯◯◯」

四国2番極楽寺 (阿弥陀) <>
 日照山 無量寿院 極楽寺 [にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ]
 『おん あみりた ていせい から うん』
 「極楽の 弥陀の浄土へ 行きたくば 南無阿弥陀仏 口癖にせよ」





弘法大師坐像c(同10番目)

「八十八番 當村 藤井◯◯◯◯」

四国88番大窪寺 (薬師) <>
 医王山 遍照光院 大窪寺 [いおうざん へんじょうこういん おおくぼじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「なむ薬師 諸病なかれと 願いつつ 詣れる人は 大窪の寺」




台座

「弘法大師 明治十六年 未七月廿一日」


地蔵菩薩立像i(同11番目)








水掛け地蔵尊

手水鉢b




山門(鐘楼門)





弘法大師坐像

「釋迦如*耒(来) 一番 當村 藤田◯◯」

四国1番霊山寺 (釈迦) <>
 竺和山 一乗院 霊山寺 [ぢくわざん いちじょういん りょうぜんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」

門前の向かって右にある




戒壇石

「禁葷酒」




自光山寳鏡寺(寳鏡禪寺 曹洞宗)

川上郡領家村(現 高梁市川上町領家1807)


備中誌 川上郡(p.59 明治37年)」には「自光山寳鏡寺 六觀音 長六尺」とある

https://goo.gl/maps/P3hhmEBaZzaaugZ67





奉唱光明真言百万遍塔

「奉唱光明真言百万遍塔 明治三十七*年(1904年) 辰三月建之」


三猿像







備中西国12番札所

御詠歌「仏力や婦(ふ)しぎをうつす宝鏡寺 只一筋尓(に)た乃(の)めみな人」





国道313号線と領家川

「是より圓福寺へ三里 地頭、下大竹、出高山」

下大竹村、地頭村については「備中誌 川上郡(pp.56-58 明治37年)」を参照

国道313号線を南へ1.22km進む




領家橋から西を望む

https://goo.gl/maps/KwCqS2LmqaocpsVt6


領家橋を渡って十字路を右折し、南西へ680m進む。
十字路を右折し、國吉橋を渡って県道299号線を西へ5.9km上る。


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牛供養碑2基

県道299号線と幹線林道磐窟線の交差点にある

https://maps.app.goo.gl/P42h8HfnHyYM58De6

南西へ1km進み、宮山八幡神社前を通過し、県道77号線をさらに西へ2.1km上る。
丁字路を右折し、弥高山へ。





弥高山

https://goo.gl/maps/KvcoXcpHapW5tPFL8







山頂より高山市の町並みを望む


県道77号線に戻り、西へ720m進む


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弥高山神社

https://goo.gl/maps/C38SB8SqMfoYYVCQ7

県道を西へ155m進む




十字路

右折すると弥高山

https://goo.gl/maps/GWChGnbtYCZzsWfe9







十字路を左折して南西へ355m進み、丁字路から西330m進む



原の堂

井原市芳井町東三原887-3。防火水槽の横にある。本尊は地蔵菩薩。

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

お堂の後方に廻国供養塔がある

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.91)」を参照

https://maps.app.goo.gl/t3oNgGube51fsbnDA


西へ380m進み、弥高屋商店前の五叉路を左折し、南へ75m進む




東城往来(千峯坂街道、自高山至笠岡道)

向かって左の車道を南へ約7km下ると、井原市芳井町上鴫の日指(ひさし)地区の県道9号線に至る。
途中の旧道(徒歩限定)を通れば5.46km。中国自然歩道に指定されている。
県道9号線に至るまでの道中に、ここにあるものを含めると道しるべが9基、お堂が3ヶ所ある。
笠岡の西濱(ようすな)から高山市、東城へ鮮魚を運んだ魚荷道でもあった。

右の道を南西へ約2.4km下ると、井原市芳井町東三原の三原地区の県道9号線に至る。




千峯坂口(井原市芳井町東三原858-8)

向かって左に倒れている石標の銘は掘り起こさないと判読できない




万人講供養碑兼道しるべ(馬)

「万人講供養 東 成羽道 西 油木 東城 昭和三年(1928年)旧七月吉日 施主 ○○○○」

高山市から地頭へ下り、左折して領家川沿いに北へ進み、川合で右折して成羽川沿いに東へ進み、成羽に至る。
高山市の上市から杖立、神石高原町の花済、上豊松、油木を経て、庄原市東城町へ至る。

https://maps.app.goo.gl/ArDZazAvmg8WzRn37




千峯坂の石標

「千峯坂」

「千峯坂(せんぼうざか)街道(野呂千峯を経て坂尻まで約六キロ)
この道は高山市から千峯を通り井原、福山方面へ通じる街道で、
高山市はこの道によって南北商取引の中継地として繁昌した。
昔は坂尻から川沿いに登っていたが、盗賊が出没するので、明和年間
西暦千七百七十年頃に高山市の商人によって、谷千峯からほぼ一直線に
道巾二メートル程の急峻な坂道が造られた。これが有名な千峯坂である。
それ迄は高山市から米穀、薪炭等を牛馬の背に積み運ばれていたが、
千峯坂が改修されてからは手車を使うようになり、井原で南部の雑貨、
鮮魚、調味料等を仕入れて坂尻迄帰った頃に、家族の女、子供が牛を連れて出迎え
車ごと引張り上げていた。大正十二年共和、三原間の県道が開通した為に
交通様式は一変した。  平成五年(1993年)九月建之  松 毬子」




神山(高山)の昔話




東城往来の説明




弥高屋商店前の五叉路を左折し、東城往来を西へ155m進む


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川上郡高山市村については「備中誌 川上郡(p.125 明治37年)」を参照




備中西国第13番札所 南洞山圓福寺(曹洞宗 廃寺)

川上郡高山市(現 高山市コミュニティハウス付近)にあった。
本尊は聖観世音菩薩(長八寸、行基作、昭和18年に焼失)。

東城往来沿いに「円福寺 ぼけ封じ 延命地蔵尊 入口」の看板あり(黄色矢印)


御詠歌「はるばると登れば飯の山おろし 空吹く風も音楽の声」

飯の山=弥高山


備中誌 川上郡(p.122 明治37年)」を参照

https://goo.gl/maps/e3cawhgXFoCPVUCo6




両山寺(井原市東江原町3154)の境内にある看板

「石仏 延命地蔵尊 一体 石仏 西国三十三観音 三十三体
 製作年月・元文五年十月(一七四〇年) 作者・尾道 細川芳助
由緒 もと備中西国第十三番霊場円福寺として、後月郡三原村東三原にあったが、
明治初年の非仏棄釈により、廃寺同然となっていたのを、
明治四十五年 神代の地に移転し、円福寺として再興したが、
昭和十八年火災により本堂および本尊聖觀音と共に焼失し、
石仏のみ残存していたのを、地元信者の要望により境内へ遷座した。」

「岡山縣 後月郡誌(p.916 大正15年)」に「(寺院號)*圓福寺(円福寺)
 (本尊)聖観世音菩薩 (宗派)曹洞宗 (本寺)善福寺
 (開基)開基不詳明治四十五年(1911年)五月本郡三原村大字東三原ヨリ移轉
 (境内坪數)民有地第一種參百參坪壹合五勺 (位置)荏原村大字*神代(神代)字 土井」とある


https://goo.gl/maps/9uvZJCRZDYvV3HKU6




円福寺跡?

明治四国18番恩山寺がある観音堂跡の辺りが井原市神代町東側字 土井

近くに土井遺跡がある

https://goo.gl/maps/j5UtvUirA322











圓福寺にあった西国三十三所本尊石仏群


「是より穴門山神社へ十八丁」

西へ190m進む




火の見櫓と恵比須神社

高梁市川上町高山市1-1

https://maps.app.goo.gl/wtYP5VHSzm9B5hY18

西へ180m上る




高山市の町並み(東三原郵便局前)

東城往来沿いの家々の玄関には屋号が表示されている




神社

祭神未確認

井原市芳井町東三原1268

https://maps.app.goo.gl/2bj9NnYHuQexEBFc6

西へ15m進んで丁字路を右折




式内社 穴門山神社の注連柱

「式 光*𠌶(華)*朙(明)彩」「明治廿九年(1896年)丙申六月建之」
「内 *𤋜(照)徹六合」「後月郡三原村 (7人の芳名)」

宣揚文「光華明彩 照徹六合」の出典は「日本書紀」の
「生日神 號大日孁貴 此子光華明彩 照徹六合之内」

大日孁貴(おおひるめのむち)は天照大神のこと。
穴門山神社の主祭神でもある。

https://maps.app.goo.gl/aZHoy7jMe12oa3s8A




石標

「穴門山神社」「文化八?○三月九日」
「願主  ○○○○○」

北へ40m上り、県道77号線の十字路を横断し、北東へ65m進む


薬師堂

https://maps.app.goo.gl/JDKxEpcb9rfw5bJB7

北西へ40m、北北東へ109m上る


石鳥居

「穴門山神社」「昭和丗年(1955年)十一月建立」

石鳥居の向かって左に穴門山神社の歌を集めた石碑がある

「千載和歌集 巻第十 賀哥(文治三丁未年九月五日) 」に
「後一条院御*时(時)長和五年大嘗會主基方御屏風尓(に)
備中国長田山の麓尓(に)琴ひきあ曽(そ)ひし多(た)る所を詠める   善滋爲政朝臣
千代との三(み)於(お)なしことを曽(そ)しらふなる 長田乃(の)山の峯乃(の)枩可(か)せ」とある

千代とのみ同し琴をそ調ふなる 長田の山の峯の松風

文治三年は1187年。千載和歌集の完成は文治四年。
備中國長田山:穴門山神社がある山
善滋爲政(よししげのためまさ):慶滋爲政。平安時代の貴族。

後一條天皇の御宇(ぎょう)、長和五年は1016年。
同年の大嘗會(だいじょうえ)の主基國郡(すきこくのこおり)は備中國下道郡(しもつみちのこおり)。

https://maps.app.goo.gl/StLpQCE2TSHd2M3y9

北北東へ55m進んで左折


須佐男神社

https://goo.gl/maps/66DWbPducxJvhDW27

北へ150m、西へ530m、北へ700m上る



備中國十八座その三


穴門山神社(赤濱宮)

川上郡高山市(高梁市川上町高山市1035)。祭神は天照太神、倉稻魂神、中帯日子尊、穴門武姫命。

備中誌 川上郡(pp.132-133 明治37年)」を参照

「古戰塲備中府志」に「赤濱宮緣起略記 當郡髙山村 備中の中津*刕(州)穴門山の神社八(は)
倉稻魂神の垂跡尓(に)して代を歴る事遠し 人皇第拾代崇神天皇五十四年丁丑(※西暦271年)
皇女豊鋤入姫命詔をう个(け)て天照太神の鎭りまさむ宮地を覚へ給ひ
志(し)八(は)良(ら)久(く)く此名方濱宮尓(に)ましまし幾(き)
 志(し)可(か)し与(よ)り此可(か)多(た)天照太神を以(い)者(は)い奉る
此社の第一座尓(に)祭り奉りぬ 又帯中日子尊(たらしなかつひこのみこと)仲哀天皇越前国気比宮同體奈(な)り
穴門武姫命 吉備武彦之女日本武尊の妃也 此二神を毛(も)此社尓(に)祭り奉る
夫(それ)天照太神八(は)、伊弉諾伊弉冊二神大八洲及ひ山川草木を生給ひ
何そ天下の主たるものを生さらんやとのたまひ生祭り給ふ神也。
太陽の精神廣太靈異の光花三(み)奈(な)恩頼(みたまのふゆ)を蒙ら春(す)といふ事奈(な)し
倉稻魂神八(は)我生る国唯朝霧乃(の)三(み)阿(あ)りて薫満る哉と宣ひ吹發ひ給ひ天(て)後
飢時(あはしかりしとき)尓(に)生給ふ神也 是又五穀の精神尓(に)して五穀者(は)是人の大にして
豊受神気(とよけのしいけ)と母(も)申 性命成就の源也 神妙不測乃(の)徳化
 言語の能く春(す)る*𠩄(所)尓(に)あ良(ら)須(す)。
日少宮社 山田権現 弁財天社 大祇神室 櫛磐窓神 豊磐窓神
滝祭神社 王井社 疫神社 鑰掛(かぎかけ)神社 石窟宮 大黒社
右*𠩄(所)攝の社十二座 猶社傳の深秘有 本社の東尓(に)當て平川魂乃(の)宮八(は)
當郷先領主平川掃部介(かもんのすけ)源高親當社大檀越尓(に)して
神威をまし崇敬有し由(ゆ)へ祭る*𠩄(所)也」とある。

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

式内社 気比神社(福井県敦賀市曙町)は越前國の一宮。
恩頼(みたまのふゆ):神や天皇からさずかるめぐみ深いたまもの。また、その恩恵。

https://goo.gl/maps/goLGXKhzJe5MS2hJ7


中山城跡

穴門山神社の北260mの所にある。

https://maps.app.goo.gl/3ggfm2yrx2xkKUze7



「是より金鋪寺へ五里(19,636.34m) 上下鴫(上鴫、下鴫)、川相、吉井、簗瀬、梶江、井原」


仙骨峡(蛇の穴)へは弥高屋商店前の五叉路に戻り、右折して南西へ下る


三原鉱山跡

弥高屋商店前の五叉路から南西へ385m下った所、道路の東側にある。
1965年以降休山。鉱口(芳井町東三原961)、作業小屋(芳井町東三原964-2)、
ズリ(芳井町東三原962)等が残っている。鉱山の東に道-104、道-106、道-107がある。

本邦鉱業一斑 明治43年(農商務省鉱山局 編、明治44年)」に
「沿革 發見ノ年暦ニ付キテハ舊記ノ存スルモノナク口碑ニ傳ルモノナキヲ以テ之ヲ詳ニスル能ハサルモ
去二十餘年前備前ノ人津崎某之ヲ稼キ銅ヲ吹キタルコトアリト云フ
其後明治ニ十七年中本村ノ人吉岡享 廣井豊太郎ノ兩人試掘セリ
二十八年(1895年)八月宇都宮壯十郎之ヲ讓受ケ爾後繼續操業セシカ
四十年(1907年)四月更ニ現鑛業人(※合名會社 宇都宮鑛業本部)之ヲ繼承シ以テ今日ニ至レリ」

「地理 本山ハ山陽線笠岡驛ヨり北方十一里(43,199.96m)ノ所ニアリ
海抜六百米突ノ高位ニシテ瀬戸内海ヲ眼下ニ眺望スルヲ得ヘク又鑛山ヨリ一里餘ノ間千峯坂ト稱ル急坂アリテ
從来運搬上尠(すくな)カラサル支障アリシモ客年新ニ道路ヲ開鑿シ鉱山工場迄馬車ヲ通スルノ便ヲ得タリ
北方成羽吹屋町ニハ各五里(19,636.34km)ヲ隔テ共ニ二里ノ間坂路ヲ降レハ車馬ノ便アリ
小田川高梁川ノ支流ハ源ヲ此地ニ發シ南北ニ分流ス」とある。

日本鑛物見聞(小川正次郎 著、大正3年、pp.555-557)」に「三原鑛山 (後月郡三原村)
 三原鑛山は、笠岡より十一里の郡道にして、海抜二千尺の高處なれば、十餘里を隔てたる瀬戸内海も、
眼下に眺望せられ、北方五里にして、川上郡の吹屋、又は、成羽に、行くを得べく、
千峰阪(※ママ)の険路も、今は開鑿せられて、車馬を通じるなど、至便の地となれり。
 發見の時代は、二十餘年前、備前の人、津崎某の、銅鑛を開坑せるに始りて、
明治ニ十七八年、本村の吉岡 廣井兩氏を經て、伊豫の鑛業家、宇都宮壯十郎氏の經營に移りて、
其緒に就き、四十年四月組織を改めて、現鑛業人合名會社 宇都宮鑛業本部の、稼行となれり。
地質は、主に石灰岩、輝綠岩、凝灰岩にして、その接觸部を、通じて石英粗面岩の併發に會し、
鉱床を構成せられ、上磐を石灰岩として、下盤を石英粗面岩とせる、一帶の鑛床あり、
別に又粗面岩を上盤とす、輝綠凝灰岩を下盤とせるものあり、
又西部に至りては、聊か之と異なるものありて、石灰及び粗面岩に離れて輝綠凝灰岩中に交代せるものありて、
一定せざるものゝ如し、故に鑛脉にも、多数の斷續ありて、探礦者の苦心を要し、
概して走向は、北四十五度内外の灣曲(※ママ)せるものにて、傾斜は五十度乃至六十度の間にある。
鑛瘤狀鑛床と、見て可からん、其鉱幅は、數十尺より、最小にて、五六尺の豊鑛にして、
黄銅鑛中、黝銅鉱又は自然銅を、出しために品位に大差あり、
上は%四十より、下鑛は二.七内外のものあれども、平均一〇.三四の良鑛を出し、且つ金銀を含む。
 採鑛は、凡て手掘法を行ひ、第一坑道より*𨫤押し、高さ六十尺毎に、横坑を造り、
階段法に、採鑛せられ其掘鑿跡に、竪斜坑を構ひ、一坑以下の排出を便ならしむ、
一日の水量は幸に多からず、凡そ二百石の小水量なり。
撰鑛は、極めて簡単にして、手撰に依りて、大小上下を區別せられ、尚ほ手力汰鑛を行ひ、
銅金(はくがね)を採集せらる、運搬は坑内外に、軌道を布き、坑内單線九千尺、
復線一千五百尺と、坑外には一千五百六十尺の、單、復、軌道あり、
坑内捲揚器は、十馬力、サクシヨン、瓦斯動力を、應用せらる。
年産額は、實人員二百名を使役して、貳百五十萬貫の粗鑛を出し、
之れを撰鑛せは、元鑛の凡そ三分の一に縮小せられ、品位三.を一〇.餘に精撰せられ、
八十萬貫を、賣鑛に附し、此年収二十萬圓なり、
山長には寺見友次郎氏の熱心なる、經營に依りて、長足(ちょうそく)の進歩を爲し
四十三年以來に比せは、實に三倍の収入を見るに至る、
斯(かか)る良位の銅鑛は、中國に稀れに見る。」と記されている。

*𨫤押(ひおし):鉱脈を追って水平に掘り進む坑道

地質調査報告 第九十號(商工省、大正13年、p.26)」に「三原鑛山は後月郡三原村ニアリテ
明治二十八年頃ノ發見ニ係リ 大正十年(1921年)休山ス、其産出額ハ大正九年精鑛八百八十噸、
大正十年七十四噸ナリ、(以下略)」とある。

https://maps.app.goo.gl/MhUSKn1zWSiSab8g7

南南西へ2km下り、西三原の丁字路(標高354m)に出たら左折して県道9号線を南へ3.7km下る





糸崎八幡神社

井原市芳井町西三原1419

西三原の県道9号線の丁字路から南へ190m下った所で右折し、鴫川を渡って参道を上った所に鎮座


「岡山縣 後月郡誌(p.836 大正15年)」に「(神社名)糸崎八幡神社
 (祭神)品陀和氣天皇 息長帯比賣命 須佐之男尊 天水分神 國水分神 大歳神
  (社格)村社 (式内外)式外(祭日)十一月十五日
(勸請)年月不詳(大正九年一月三十日合祀)(社地)官有地第一種六畝七歩
(鎭座)同村(三原村)大字 西三原 字 糸崎」とある。

「岡山縣 後月郡誌(pp.909-910)」に「由緒・沿革 口碑に云。備後國納所村櫻山城主
三原豊後守廣吉過失あり東川手村に落ち來り三原三郎四郎家房と稱す、
寛正二辛巳年(或は天正年間)糸崎八幡宮を西川手村に勸請し、村名を西三原村と改む。
後西三原村の氏神とし村民社殿を建立す。明治三十九年(1906年)十月十八日社殿改築竣工遷座式を行ふ。
大正八年(1919年)六月廿一日 本村大字西三原字中山 本社境外攝社無格社荒神社(祭神須佐之男尊。由緒不詳。)
仝所字龍王 本社境外攝社水分神社(祭神天水分神、國水分神。由緒不詳。)
仝所字太才ノ神 本社境外攝社大歳神社(祭神大歳神 由緒不詳。)を合祀許可、
大正九年一月三十日合祀濟。」とある

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

櫻山城は備後桜山城(広島県三原市桜山町)のこと。
寛正二年は1461年、天正年間は1573-1592年。

https://maps.app.goo.gl/uHnWkkHQaDTzFsRU9

県道9号線に戻り、南東へ30m進んでバス停(三原小学校前)があるY字路を左折し、東へ37m上って左折


忠魂碑

手前に戦没者芳名碑と頌徳碑が2基ある。
向かって左、現在太陽光発電施設がある所に三原小学校があった。

https://maps.app.goo.gl/kgd645nfjCZ9Fgj2A

県道9号線を南へ200m下る




三原小学校跡(井原市芳井町西三原1299)

平成元年に新校舎が完成するも、生徒数減少により平成10年(1998年)に廃校となった。
校舎は芳井公民館三原分館として使用されている。

https://maps.app.goo.gl/3fFHHeXGViHW1phx6

県道9号線を南へ3.3km下る

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井原市芳井町上鴫

県道9号線の十字路(「妙福寺」への案内板あり)を左折して、道なりに約1.2km上る

 https://maps.app.goo.gl/hRMmhLseMYTsrsSYA


上鴫高原の観音堂

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.78)」を参照

中央に木造観世音菩薩立像、向かって右に木造不動明王立像、左に毘沙門天立像を安置している

『おん あろりきゃ そわか』
『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや
 うんたらた かんまん』
『おん べい しらまんだや そわか』

 https://maps.app.goo.gl/Y2d3jXJqvnXhgqdC8dC8

東へ30m進む


下山神社

https://maps.app.goo.gl/Vx2AWSqz3xNjfYCQA

東へ43m進む


上鴫高原の古寺堂

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.76)」を参照

妙福寺参道口にある。お堂の横には高原郷土自然保護地域の説明板がある。
堂内に木造日蓮聖人坐像、木造釈迦如来坐像、木造多宝如来坐像を安置している

『南無妙法蓮華経』

 https://maps.app.goo.gl/YK4dUVQMRojgScAQA


日蓮宗 高原山妙福寺(井原市芳井町上鴫937)

字 ヒエ畑にある。本尊は釈迦牟尼仏、日蓮大菩薩。

「岡山縣 後月郡誌(大正15年、p.1004)」に「由緒、沿革
 當寺は往昔真言宗にして清瀧山圓明寺と云ふ。
文和元年(1352年)大覺大僧正來り説いて日蓮宗となる。境内に一基の石碑あり。
碑は屋形造長五尺五寸表面石扉を以て開閉す
其内に納る長方形小石碑長壹尺七寸 記するに表左右三方に南無妙法蓮華經
 裏面に文和元年二月十五日大覺と彫せり。
庚安元年(1361年)に至り高原山妙福寺と改稱す。
天正五年(1577年)十一世日貴 堂宇改築の後、寶暦十三年(1763年)十八世守要院日康代
火災に罹り 明和元年(1764年)日康之を再建す。
天保十三年(1842年)無住の際再び火を失ふ、此時堂宇寶物書類全焼す。
二十九世靜信院日法再建 今日に至る。(以下略)」とある。

境内の西部の庭園(不染庭)や卵塔場にカレンフェルドがある

 https://maps.app.goo.gl/yGtKJfgZzDVMVPBA9

 参道口から北東へ120m進み、つきあたりの丁字路を右折。
北東へ63m進み、Y字路を右折して南東へ35m進む。


自然石地神

 「*地神(地神)」

 https://maps.app.goo.gl/Ke3s3fH67vfCVijbA

 地神様がある丁字路を左折して東へ85m進み、丁字路から東へ63m進む

八幡神社

 https://maps.app.goo.gl/sPknHqJfPoFLiixq9

石鳥居前から西へ63m戻り、丁字路を右折して北へ65m進む。
丁字路から北へ85m進み、Y字路を左折。
北北西へ43m上り、西へ68m進む。


上鴫高原東の薬師堂

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.77)」を参照

堂内に木造薬師如来坐像を安置している。
向かって左に妙見神社の小社が鎮座。

 『南無薬師瑠璃光如来』

 https://maps.app.goo.gl/yw62un2ebRHokySv5

 薬師堂がある丁字路を左折して南へ115m下り、十字路からさらに南へ55m下る。
Y字路を右折して南西へ63m進み、丁字路を右折して西へ165m進む。


上鴫高原の仏堂

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.79)」を参照

堂内に木造釈迦如来坐像、木造多宝如来坐像を安置している

『南無妙法蓮華経』

 https://maps.app.goo.gl/cyZLsiNy8wtfj7Py5

 県道9号線に戻り、左折して南へ325m、東へ160m下る




JFEミネラル(株)芳井鉱業所付近

正面に見える断崖の上に高原山妙福寺がある




見返り橋





鴫川




仙骨峡(蛇の穴)

井原市芳井町上鴫2714-1にある

古い史料(井原要覧、笠岡略誌、日本案内記)には「山骨峡」と記されている。
山骨(さんこつ)とは「表面の土砂がとれて、むきだしになっている山の岩石」の意。

「岡山縣 後月郡誌(大正15年、p.246)」に「蛇の穴 共和村上鴫、鴫川の右岸山腹にあり。
穴は鍾乳竇(とう)に屬す、竇狀逶迤(いい)恰も*虬(きゅう)蛇の巢窟に似たり、由りてこの名ありと云ふ、
竇口狭小なりと雖も、漸く進むに從ひ漸く廣大となり、且つ低下す、
約百間、竇内數個の房室狀をなし、雷地小屋、宮地小屋、石草小屋、三角小屋、地藏穴等の稱あり、
就中(なかんずく)雷地小屋はその上部平圓にして盆を覆へせしか如く、高さ約九尺、面積二十五坪、
この竇の極處に至れは、轟然として頭上に鳴動の音あるを聞く、
これ蓋(けだ)し竇洞の漸く低下して、鴫川の河底に達し、竇洞の上を流るゝ鴫川の水響、
竇中に傳はるによるなり。本郡の一奇觀たり。」とある。

逶迤(いい):うねりながら行く。身をくねらせて動いていく。


日本案内記 中国四国篇(鉄道省 編、昭和9年、p.150)」に「【蛇の穴(じゃのあな)】
同井原驛の北約十六粁(キロメートル)、共和村上鴫にあり、自動車の便がある。
鴫川の左岸(※ママ)山腹に鍾乳洞で、洞口から奥に入るに随つて廣く、漸次低下して鴫川の河底に及び、
高さ約一八二米に近い。洞内は雷地小屋、宮地小屋、石草小屋、三角小屋、地藏穴の數室に分かれ、
雷地小屋の名は鴫川の水の音が洞内に反響するに依つて生じたものである。
蛇の穴附近は奇巖怪石が峙(そばだ)ち、中國耶馬溪の名があり、綠葉、紅葉がこれを彩る。
右岸高山妙福寺境内からの右岸高山妙福寺境内からの眺望は雄大である。」と記されている。

※文中の「鴫」の字は本文では誤って「鴨」と記されているので修正

妙福寺は蛇の穴の東365mの所にある


井原要覧(井原商工会 編、昭和10年、p.87)」に「山骨峡、蛇の穴 蛇の穴は井原を去る西北三里
(此間定期自動車の便がある。)共和村鴫川右岸の山腹にある鍾乳洞であって、
恰も*虬(きゅう)蛇の巢窟に似てゐるので此の名がある。
洞口は狭小なれど漸く進むに從ひ廣大になり、數個の房穹狀のものからなつてゐる。
大きなものは廣さ二十五坪、高さ九尺もある。洞口を低下して極處に至れば轟然頭上に鳴動を聞く。
蓋(けだ)しこれは鴫川の川底であつて、その水響の傳はるものである。
又附近一帶奇岩兀忽として聳え、新綠紅葉の眺めは更に一段と優つたものがある。
これが山骨峡で、又中國耶馬溪の稱がある。」と記されている

兀兀(こつこつ):着実に努力したり律儀に働き続けたりするさま。揺れてあぶないさま。
忽忽(こつこつ):ふっと消え去るさま。いうことやすることにとりとめのないさま。うっとりとしたさま。

総社市の豪渓も中國耶馬溪と称される




中国自然歩道案内図(弥高山とカルスト地形をたどるみち)には
蛇の穴について「笠岡から魚を売りに来ていた作治という男が、
かつて助けた狼に大蛇から救ってもらったという言い伝えのある鍾乳洞。」と記されている。

魚の行商人は西濱(ようすな)の夕方の糶りで魚を仕入れ、
夜間にオウコ(天秤棒)を担いで内陸へ鮮魚を運んでいた。

「史談いばら 第四号(井原史談会)」に倉田清市氏が「狼の恩報じ」というタイトルで寄稿されている。

現在は穴の前にフェンスが設けられ、関係者以外の立ち入りが禁止されている。

https://goo.gl/maps/duHtKTz5KLQrAngR7




2011年頃の蛇の穴の入口付近

落書きや置き去りにされた細引きがある







光が差し込む入口付近は黒や緑に変色している














県道9号線を南へ170m、東550m下る。
バス停(上鴫)があるY字路を左折して東へ35m、北へ40m上る。
つきあたりの丁字路を右折し、東へ道なりに約280m上る。


自然石地神

「地神」

https://maps.app.goo.gl/HvcpiszYm1Yd7Lis6

地神様の前から北へ27m上る



上鴫日南上(ひなかみ)の堂

井原市芳井町上鴫705

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.75)」を参照

https://maps.app.goo.gl/rg2qpLnBnJ6hxCDN7

地神様の前に戻り、左折して東へ道なりに600m下り、Y字路を右折して南南西へ100m下る。
Y字路を左折して県道9号線を東へ120m下る。




上鴫尋常小学校跡

昭和2年(1927年)に閉校

丁字路を左して北へ上ると高山市に至る(千峯坂街道)

https://maps.app.goo.gl/vwJtxyoSNdZHzvwy7

県道9号線を東へ125m、南南東へ125m下る


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千峯坂の東城往来(千峯坂街道)






千峯坂尻

井原市芳井町上鴫の日指地区から高山市へ上る

「岡山縣 後月郡誌(pp.316-318 大正15年)」の「岡山縣後月郡地圖」によると千峯坂街道は郡道。

https://maps.app.goo.gl/uiWy3eMB4RQubxfW6

岡山県道・広島県道9号芳井油木線を南へ20m下る







三宅玄孝先生之碑(頌徳碑)

「三宅玄孝先*𤯓(生)*㞢(之)碑」

「先生字(あざな)義政 本姓兒嶋 兒島高徳之遠裔也 文政四年(1821年)
四月廿八日生川上郡髙山村 三宅謙造嫡男也 爲人(ひととなり)
端直 受業於方谷先生之門數年 弘化三年(1846年)某月随于
金川三宅泰造及難波隆玄學醫業成 還郷施術 安政
三年(1856年)某月移居上鴫村高原 杏林益茂 應需設家塾勤
啓發 明治廿二年(1889年)五月二日以疾逝去 享齢六十有九
才 葬于先塋之次 郷黨(郷党)無悼惜也 室(しつ)若井氏生三男
六女皆殤 唯有其遺孫也耳 茲建碑以慰其英靈 請誌
于老衲不辞述其梗概      覺山日俊 謹誌」

「有志者 門弟子 建之」「明治四十三年(1910年)五月吉日」

兒島高徳(こじまたかのり):南北朝時代の前半期に南朝方として活躍した武将
遠裔(えんえい):はかる後の子孫
方谷先生:備中松山藩儒 山田方谷
端直(たんちょく):心が正しく正直なさま
上鴫村高原(たかわら):現在の井原市芳井町上鴫の高原地区
家塾(かじゅく):私塾
杏林(きょうりん):医師の美称
殤:怪我をして死ぬ
郷党(きょうとう):同郷の人々
老衲(ろうのう):老僧
梗概(こうがい):あらまし

詳細は「芳井町誌(岡山大学教育学部地域研究会 編、1972年)」、
「共和の今昔(友国博美 著、1987年)」を参照

岡山県教育史 上巻(岡山県教育會 編、昭和13年、p.251) 」の第四章 庶民の教育機関の項に
「[名称]… [学科]仝(讀書 習字) [舊管轄]旗本領  [所在地]上鴫村 [開業]安政三年 [廃業] 仝(明治5年) 
[教師/男]一 [生徒/男]四八 [生徒/女])七 [身分]醫 [習字師弟氏名]三宅玄孝」とある。
明治5年(1872年)9月4日の学制の発布により塾は廃業。

https://maps.app.goo.gl/uHKijYRLu594FsFw5

千峯坂尻からY字路を右折し、道-287を北へ140m上る




Y字路を右折して北へ25m上る







自然石地神

「地神」

https://maps.app.goo.gl/s4sGLaWsbCRk944n6




日指明神社

井原市芳井町上鴫51。 祭神未確認。

https://maps.app.goo.gl/VrNvxbR4ET3N7x3F6




自然石の燈籠

手水鉢

「昭和二年(1927年)七月吉日」




小社群

祭神未確認




地蔵菩薩坐像? イボ神様?




日指明神社の山フジ(井原市指定文化財 天然記念物)

目通り 1.88m、根本2.00m、樹高26.5m、樹齢400年




車道に戻り、北北西へ125m進む




お題目塔(法界塔)

「南無妙法蓮華経 法界」

井原市芳井町上鴫60

https://maps.app.goo.gl/d7qMB3vThM9CRUJJ8

左折して西へ30m進む









自然石の燈籠

井原市芳井町上鴫 道-282

https://maps.app.goo.gl/WTyDBeSNMbzC1Z6Q9

丁字路を右折して北へ290m上る




井原市芳井町上鴫 道-280




千峠川に架かる橋を渡って直ぐの所、赤いトタン屋根の廃屋の前

井原市芳井町山村51




牛供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「右 鴫?川 *左 井原 ◯◯◯◯○○ ◯◯◯◯○」

風化により判読困難

北から下って来た人用の道しるべなので向きが逆

https://maps.app.goo.gl/mvje2cib2dxnU3Xa8

南南東へ20m戻る




橋を渡る手前、山際

井原市芳井町上鴫278-2




牛供養碑?(地蔵菩薩坐像)

https://maps.app.goo.gl/XAMZQBXbE8gxSGFK6




千峠川

千峠川沿いに道-166、道-168を北東へ約300m上る




大内谷地区の南端にあるY字路







中国自然歩道の案内板




お堂の前の斜面にある細道を北へ上ると鍵掛神社・岩渡神社に至る




山村大内谷の地蔵堂

井原市芳井町山村63-2。堂内に2枚の棟札がある。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.70)」を参照

https://maps.app.goo.gl/jHrunNecv2iD79kA8




コゴメ石の地蔵菩薩立像(中央)

双体道祖神(向かって右端、同左端後方)

五輪塔の水輪2基(向かって左端前)

宝篋印塔の塔身(水輪の向かって右)

瓦質の小祠(向かって右端前)

それ以外は地蔵菩薩像か?


『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

道-156を 北北東へ100m上る




鍵掛神社・岩渡神社の鳥居

「岡山縣 後月郡誌(p.836 大正15年)」に「(神社名)岩渡神社 (祭神)石戸別命
 (相殿)梶日女命 (攝末社)村社 杵築神社攝社 (式内外)式外(祭日)十一月廿九日
(勸請)年月不詳(社地)官有地第一種二畝八歩 (鎭座)同村(共和村)同大字(山村)字大内谷」とある

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

https://maps.app.goo.gl/heHxoJpoCZTMFHJVA

北北東へ140m上る




大内谷公会堂

井原市芳井町山村75-1

https://maps.app.goo.gl/5tbW89zNGqCFNWLt9

道-150を 北へ450m上る







火の見櫓

https://maps.app.goo.gl/fpLvPEqvGTwCH2jR9

道-110を 北北東へ170m上る




丁字路

井原市芳井町 道-93

右折して東へ上ると井原市芳井町山村の高瀬地区を経て
高梁市備中町上大竹の大竹ダムに至る




牛供養碑兼道しるべ(牛)

「右 大竹道 左 高山道 萬延元(1860年)申○ 施主 ○○」

https://maps.app.goo.gl/qu1nDrDkzQYGhVYe9

北北東へ350m上る




向かって左にある道は立入禁止




MAPPLE法務局ビューアで見ると、この辺りから左折して上る旧道(道-358)がある。
道-346、道-326、道-310、道-302を北へ約1.2kmと上って行くと
山村千峯の地蔵堂の下のヘアピンカーブに出る。
通行可能なら車道を通るよりも約1.4kmショートカットできる。
現状未確認。

https://maps.app.goo.gl/bdoKeK8xFacan5ue8

車道を北へ道なりに約2.6km上る




















旧道(道-302)との合流点

https://maps.app.goo.gl/9eQ2gjhRpMVaCEeo6

ヘアピンカーブを右折




北西へ65m上る




防火水槽の横




山村千峯の地蔵堂

井原市芳井町山村270-2

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.68)」を参照

https://maps.app.goo.gl/ZRdh6Z3GpYAZQFM2A







平成28年(2016年)に修繕







馬頭観世音菩薩立像1躰以外は地蔵菩薩像




牛供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像=大仙(大山)智明権現 + 牛)

「南 笠岡 北 伯耆 明治三十九年(1906年) 旧七月廿四日(地蔵盆の日)
*𭤮主(施主) 山本平*𫝀(五)良」

笠岡東城往来が伯耆大山道でもあることを示している




標高455m地点




東の大岳山(標高550.4m)を望む










Y字路

井原市芳井町東三原 道-221





馬供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 馬2頭)

「右ハ信迫 三原 *㔫(左)ハ○○」

欠損部分はおそらく「井原」

https://maps.app.goo.gl/mTxcFErmy1HVi7s77

北へ約850m上る







旧道との交差点

向かって右の道は井原市芳井町山村 道-224







万人講供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 馬? + 牛)

「*(地蔵菩薩の種子「カ」) 万人講 畜○○ 右 井原 ○ 共和○
施主 竹井○○ 山村」

https://maps.app.goo.gl/pbm2x2ZVgWStLNxt5




中国自然歩道の道標

「吉備高原横断ルート 弥高山とカルスト地形をたどるみち」




旧道

道の東側が井原市芳井町山村 道-220、西側が井原市芳井町東三原 道-190




車道を北へ230m上る










中国自然歩道の案内図

https://maps.app.goo.gl/VVhqxDBUhiUirPFb9

車道を北へ245m上る




Y字路

井原市芳井町山村 道-208

向かって右の道は井原市と高梁市の境になる
(井原市芳井町山村 道-212と高梁市川上町高山 道-336)




牛供養碑兼道しるべa(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「右ハ井原 左ハタテサヤ」
「明治丗三年(1900年) 子四月」「施主 赤木○○」

北から下って来た人用の道しるべ



牛供養碑兼道しるべb(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「右ハイハラ(井原) 左ハタテサヤ 大正○年 三月吉日
共和村 字 千峯 *施主 山本○○」

明治33年に上鴫村、下鴫村、山村が合併して共和村となる

https://maps.app.goo.gl/WkiWx5kNpX43S7Rb9

車道を北へ215m上る




中国自然歩道の道標

「弥高山 蛇の穴」




中国自然歩道の道標

「弥高山 蛇の穴」

https://maps.app.goo.gl/3WpJMs5GNoZEkScn6

北へ30m進む




カーブミラーの向かって右

井原市芳井町東三原 道-364







牛供養碑兼道しるべ(牛)

「右ハ井原 左ハ上大竹(高梁市川上町上大竹)」

地中部分は未確認

https://maps.app.goo.gl/KrPgHaidTNjPotAZ6

北西へ75m下る




道路開通記念碑

井原市芳井町東三原882-4

 https://maps.app.goo.gl/fAxdZJAYgdfgJdfNA

北西へ35m下り、弥高屋商店前の五叉路に出る

東城往来は高山市の町並みを抜けたら北西へ進み、杖立を経て、
広島県神石高原町の花済、豊松、油木の県道9号線(およびそれと並行する旧道)を西へ進む。
国道182号線に出たら右折して東城へ北上する。
往来沿いに牛馬供養碑、道しるべ、お堂等が点在している。




高山市の上市地区の町並みの西端

向かって右の民家の屋号は博労座という。
博労(ばくろう)とは牛馬の買賣・仲介を職業とする人のこと。
川上郡史(原田竜右衛門 編、昭和2年、pp.570-571)」に
「古來より高山牛の名高し 高山は昔神山と稱し足利時代高山に變更したりといふ
高山には鄕社穴門山神社あり 陰暦二、六、十月巳(み)の日を以て祭日とせり
巳は稔の意にして農作多し 神社の附近牛馬の放養に適し此所に育ちたる牛馬は
性質温順四肢強健にして無病息災なれば往古は各方面より此山に預託するもの少なからず
寛延(1748-1751年)、寶暦(1751-1764年)の頃高山村大字高山市に藤田廣五郎と云ひ備中一二を競ふ富豪あり
牛馬商を營み盛んに全國に販賣す 寛政年代(1789-1801年)藤井忠太亦盛んに牛馬を買ひ
高山牛の名を廣く世に紹介するに至れり。(以下略)」とある。

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

高山牛については「岡山県畜産要覧(岡山県内務省 著、大正4年、pp.148-154)」を参照

 https://maps.app.goo.gl/wHCVZjYS5hgAoKtz9
 



乗り越え坂

道の向かって左(南)が井原市芳井町東三原 道-274、右(北)が高梁市川上町高山市 道-244

向かって左の墓地の辺りが古城跡と云う

 https://maps.app.goo.gl/hk9rNMPdPLpX198s5

峠を越えて西へ70m下る




東城往来と岡山県道77号美星高山市線との交差点




城のうね(古城跡)の説明板

https://maps.app.goo.gl/7hwKinf24SneoKtj6










高山市の観光案内図




高山市の町並みの屋号分布図


左折して県道77号線(東城往来)を西へ120m下る



三原高山市 大道の堂

井原市芳井町東三原1376。十字路にある辻堂。
南に井原市芳井町東三原 道-92、北に高梁市川上町高山市 道-241がある。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.92)」を参照

資料には本尊弘法大師と記されているが見当たらない。
堂内に棺を乗せる輿が複数置かれている。
柱の足元が朽ちてお堂が傾き、危険な状態にある。

お堂の向かって左に首無し地蔵尊、供養碑5基、お題目塔が並んでいる。

https://maps.app.goo.gl/4KMdcMN525VKXpvD9

県道77号線(東城往来)を西へ110m下る


腰血地蔵尊

https://maps.app.goo.gl/nR8BWSLxNxtBVG1k7

県道77号線(東城往来)を北西へ750m下る


才の神

井原市芳井町東三原1487。県道77号線と東三原 道-28とのY字路にある。
祀られていた双体道祖神は所在不明となっている。

https://maps.app.goo.gl/7DsWh6ULhtfuLtvn9




井原市木之子町の交差点にある双体道祖神(才の神)

「宝暦才之神 昭和五十八(1983年)癸亥写之 施主◯◯◯◯」

宝暦年間は1751-1764年

https://goo.gl/maps/r4opLEBLjPM2




山村大内谷の地蔵堂内にある双体道祖神

https://maps.app.goo.gl/jHrunNecv2iD79kA8

県道77号線(東城往来)を北西へ760m進む



太刀洗古戦場跡の解説板

https://maps.app.goo.gl/uQxAMwDWc4Nm5ECD6

北西へ約1.2km下り、県道9号線との交差点を右折



杖立と高山市の解説板

県道77号線と県道9号線の交差点の北にある

後方の覆屋の中には阿弥陀如来立像を陽刻した廻国供養塔がある。
近くには牛馬供養碑兼道しるべ(馬頭観世音菩薩像)と自然石の道しるべがある。

「岡山の道しるべ(巖津政右衛門 著、昭和51年、pp.128-130)」を参照

https://maps.app.goo.gl/QWZyDMv5Sz59YgY66



国境標

「距岡山元標十八里廿九町三尺(73,855.38km)」「備中川上郡*髙山市村」
「従是東岡山縣備中國」「明治十七年(1884年)七月」

高梁市川上町高山市の杖立地区の西端、岡山と広島の県境にある

https://maps.app.goo.gl/iAt1iD9p9GGH7DRg6

広島県神石高原町花済の県道9号線を西へ1.1km進み、丁字路を右折して北へ25m上る



辻堂

向かって左に自然石の燈籠がある

https://maps.app.goo.gl/4gDXcGsKv2eW8bkK9

県道9号線に戻り、右折して西へ150m進む


竹迫山八幡神社

https://maps.app.goo.gl/cs55CMp7k2FLeumKA

県道9号線(東城往来)を南西へ300m上る


辻堂

https://maps.app.goo.gl/mK3ziU4xRpYsEcFj9

県道9号線(東城往来)を南西へ400m上り、西へ135m進む

お堂

https://maps.app.goo.gl/Codw5pJfvJozNcue9

県道9号線(東城往来)を西へ650m進む。
丁字路を左折して広島県道411号木割谷小吹線を南へ515m進む。



牛馬供養碑兼道しるべ(牛2頭)

「爲牛馬二世安樂 右ハ大畑道 *左ハ上野道」


牛馬供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像)

「爲牛馬 右ハ高山○○ 左ハ豊松村
 大正十四年(1925年)八月十日 施主 當村 ○○○ 當村 ○○○○○」

南から上って来た人用の道しるべ


県道411号線の十字路にある。
向かって右の牛馬供養碑兼道しるべは15m程南にあったものを当地へ移転。

https://maps.app.goo.gl/ZABNUbgZo69eLQdA7

県道9号線(東城往来)に戻り、左折して桜ヶ峠から北西へ道なりに11.2km進み、国道182号線に出る



広島県神石郡神石高原町油木付近の県道9号線沿いの牛馬供養碑


牛馬供養碑(馬頭観世音菩薩坐像)

https://maps.app.goo.gl/GyfXjpaBpnrWgMbPA



畜牛供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛2頭)


https://maps.app.goo.gl/CVzTebuLpxBAJe1CA



牛馬供養碑(馬頭観世音菩薩坐像 + 牛馬)

https://maps.app.goo.gl/71t9Gw2w7Q5t5dW89

県道9号線と国道182号線の交差点を右折して北へ90m進み、Y字路を右折して北北西へ進む。
Y字路を右折して北北西へ30m下る


愛宕神社

https://maps.app.goo.gl/sjTxexNSw3iDP3NCA

北北西へ45m下る。歌の清水までの道端に石像が3躰置かれている。


歌の御堂

西行法師ゆかりの御堂。神石高原町指定史跡。神石郡神石高原町油木3893。
承安元年(1171年)、西行法師がこの御堂に立ち寄って休まれた際に
「手に結ぶ岩間の清水そこ澄みて 行き通う人の影も涼しき」の歌を残された。
歌の御堂は元々は歌の清水の横にあったが、交差点の拡張のため現在の場所へ移転している。

神石郡地誌(斜森慶次郎 著、明治27年)」に「油木驛ハ油木村ニアル小邑ニシテ數九十余
人口殆ント四百アリ 福山ヨリ東城ヲ經テ雲伯ニ通スル縣道其中央ヲ貫キ商業稍盛ナリ
現今油木警察署福山區裁判所油木出張所廣島大林區油木小林區署尋常高等小學校郵便局村役塲等アリ
殖牛會社ハ良好ナル和洋混合牛ヲ蕃殖ス 驛ノ下舊道ノ側ニ清冷タル涌泉アリ
古昔西行法師ノ(手ニムスフ岩間ノ清水底澄少テ行カフ人ノカケハ涼シキ)詠歌ヲ遺セルヲ以テ其名顯ル」とある。

雲伯(うんぱく):雲州(出雲国)と伯州(伯耆国)

御堂は油木権現山八十八ヶ所霊場の大師堂(1番霊山寺、36番青龍寺)になっている。

弘法大師坐像(中央)

「一番 霊山寺 施主 ○○」

四国1番霊山寺 (釈迦)
 竺和山 一乗院 霊山寺 [ぢくわざん いちじょういん りょうぜんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」

四国36番青龍寺 (波切不動)
 独鈷山 伊舎那院 青龍寺 [どっこざん いしゃないん しょうりゅうじ]
 『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや
 うんたらた かんまん』
 「わずかなる 泉に住める 青龍は 仏法守護の 誓いとぞ聞く」


牛馬安全供養碑兼道しるべ

「牛馬安全 右 ふくやま路 左 かうやま路」

歌の御堂の前にある

https://maps.app.goo.gl/rHCMcVvcDVFJiWHcA

お堂の前から北北西へ15m下り、橋の南詰を左折


歌の清水

https://maps.app.goo.gl/6dTT7tr2Wb49HBCg6


北へ25m下り、丁字路を左折して北西へ205m上る。
丁字路からさらに北西へ85m上る。


伊能忠敬測量隊宿泊邸跡

https://maps.app.goo.gl/WmwrZ3w1ytbMUxio7

北西へ80m進み、丁字路からさらに北西へ30m進む


厳島神社

https://maps.app.goo.gl/xPMTat9TzjyooAwi8

北へ140m進む


道路元標

「*神石郡油木町道路元標」「廣島縣」

墓地の石垣の南にある

https://maps.app.goo.gl/mZCwZjt1zpTzsecw8

北へ790m、北北西へ745m上り、中国バスの停留所(平井)から西へ130m進む。
Y字路を右折して国道182号線の東にある旧道を北へ4.2km進む。
田川瀬大橋北詰の十字路を右折し、北へ70m進む。


牛馬供養碑

神石郡神石高原町油木1203。中国バスの停留所(田川瀬)の近く。

https://maps.app.goo.gl/qpfv3LfgQ2xQT8Fn9

帝釈川、東城川沿いに182号線を北へ10.8km進めば庄原市東城町の市街に入る


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