【備中西国三十三所観音霊場 画像集2】



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追記する予定



井原市芳井町東三原→西三原→上鴫→下鴫→(東城往来:井原市芳井町山村→東三原
→高梁市川上町高山市→広島県神石高原町花済→上豊松→油木→庄原市東城町)


井原市芳井町東三原



バス停(三原)がある交差点(標高354m)を右折し、県道9号線を西へ50m進む







里程標

「距岡山元標十八里(以下不明)」

https://maps.app.goo.gl/1cgWr7YeF4FC6b6GA





交差点に戻り、南へ190m下る




Y字路を右折し、鴫川を渡って参道を上る







糸崎八幡神社

井原市芳井町西三原1419

「岡山縣 後月郡誌(p.836 大正15年)」に「(神社名)糸崎八幡神社
 (祭神)品陀和氣天皇 息長帯比賣命 須佐之男尊 天水分神 國水分神 大歳神
  (社格)村社 (式内外)式外(祭日)十一月十五日
(勸請)年月不詳(大正九年一月三十日合祀)(社地)官有地第一種六畝七歩
(鎭座)同村(三原村)大字 西三原 字 糸崎」とある。

「岡山縣 後月郡誌(pp.909-910)」に「由緒・沿革 口碑に云。備後國納所村櫻山城主
三原豊後守廣吉過失あり東川手村に落ち來り三原三郎四郎家房と稱す、
寛正二辛巳年(或は天正年間)糸崎八幡宮を西川手村に勸請し、村名を西三原村と改む。
後西三原村の氏神とし村民社殿を建立す。明治三十九年(1906年)十月十八日社殿改築竣工遷座式を行ふ。
大正八年(1919年)六月廿一日 本村大字西三原字中山 本社境外攝社無格社荒神社(祭神須佐之男尊。由緒不詳。)
仝所字龍王 本社境外攝社水分神社(祭神天水分神、國水分神。由緒不詳。)
仝所字太才ノ神 本社境外攝社大歳神社(祭神大歳神 由緒不詳。)を合祀許可、
大正九年一月三十日合祀濟。」と記されている。

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

櫻山城は備後桜山城(広島県三原市桜山町)のこと。
寛正二年は1461年、天正年間は1573-1592年。

https://maps.app.goo.gl/uHnWkkHQaDTzFsRU9




県道9号線に戻り、南東へ30m進んでバス停(三原小学校前)があるY字路を左折




東へ37m上って左折







忠魂碑、戦没者芳名碑、頌徳碑が2基ある。
向かって左、現在太陽光発電施設がある所に三原小学校があった。

https://maps.app.goo.gl/kgd645nfjCZ9Fgj2A




戦没者芳名碑

昭和五十一年(1976年)八月 三原遺族会建立。
日露戦争2柱、日華事変7柱、太平洋戦争50柱の戦没者芳名が刻まれている。




忠魂碑

「陸軍大将一戸兵衞 書 三原村在郷軍人分會建之」
「昭和六年(1931年)八月二十日竣工」




国旗掲揚台

「皇太子殿下御降誕○○(記念?)」「昭和九年(1934年)建○」





赤木守治先生頌徳碑

「頌徳碑」

「赤木守治先生ハ資性温厚誠実ニシテ然モ愛郷憂国ノ人
ナリ 明治四十四年(1911年)三原小學校ニ赴任 以来教員校長トシ
テ精励?勤続十六箇年 道徳教育ノ振興ト勤倹力行精神ノ
涵養(かんよう)ハ其教育目標ニシテ特ニ百年ノ大計ハ恒産ニ在ル
ト村内ヲ巡行力説シ大正十年(1921年)恒産積善社ヲ創設 尓来其
柱石トシテ克ク画策運営ニ当リ今日ノ隆盛ヲ見ル 退○
後大正十五年東三原郵便局長トナリ又勤続二十有三年
当時最モ困難ナル事業タリシ電信電話ノ開設ニハ全力
ヲ傾注シテ私財モ惜シマス 昭和四年(1929年)二月遂ニ実成ス 更
ニ歌人トシテモ造詣深ク或ハ書ヲ著ハシテ人ヲ導ク等
郷土文化ノ発展ニ貢献サレシ功詢(まこと)ニ多ク*正七位勲六等
ヲ贈ラレタルモ亦宜(むべ)ナル哉 我等ハ茲(ここ)ニ先生ノ碑ヲ建立
シテ其万ニ報イ又以テ其徳ヲ顕彰セントス
*𫞃和(昭和)三十三年(1958年)四月   三原地区民有志建之
            三原小学校長 江○行雄 撰文並書」

恒産(こうさん):定まった財産。一定の生業。

東三原郵便局の電信電話の開設のため
昭和3年に私財一千円を寄附し、昭和5年5月5日に褒状を賜る。

官報 第千八号(大蔵省印刷局 編、昭和5年)」を参照

歌人としては「秀歌集 第二編(中央歌文会、昭和11年、p.16)」に
「をさなこも重き衣をぬきかへて 單衣にかろくたちそめに鳧」という歌を寄せている。

「芳井町誌(岡山大学教育学部地域研究会 編、昭和47年)」を参照




故校長岡﨑熊太郎先生頌徳碑

「頌徳碑」

「故校長岡﨑熊太郎先生資性恭謙誠實ニシテ温厚
ナリ 明治二十八年(1895年)本校ニ赴任セラレシヨリ大正五
年(1916年)ニ至ル*迄二十有一箇年精勵恪勤諄々 *敎(教)ヘテ息(やす)
マス 其徳化普シ 大正五年二月岡山縣知事其功績
ヲ彰ニス 同年十月本村々宰ニ轉シテ一意專心 村
治ノ改善ヲ計リ同九年七月勲八等ニ叙セラレ年ノ
十一月二十八日病歿セラレル 行年五十有ニ歳 門弟
哀悼ノ情禁スル能ハス 則チ校友相謀リ茲ニ碑ヲ建
テ永ク先生ヲ敬慕シ其恩惠ヲ忘レサラントス
大正十年(1921年)十一月 三原尋常髙等小學校〃友會」

恪勤(かっきん):まじめによくつとめる。
諄諄(じゅんじゅん):よくわかるように教えるさま。誠実で慎み深いさま。

岡山県郡治誌 上巻(昭和13年)」によると、
岡﨑熊太郎先生は三原村の村長も務めていた(大正5年9月10日~同9年11月22日)。






県道9号線を南へ200m下る




三原小学校跡(井原市芳井町西三原1299)

平成元年に新校舎が完成するも、生徒数減少により平成10年(1998年)に廃校となった。
校舎は芳井公民館三原分館として使用されている。

https://maps.app.goo.gl/3fFHHeXGViHW1phx6



県道9号線を南へ3.3km下る

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井原市芳井町上鴫



県道9号線の十字路(「妙福寺」への案内板あり)を左折して、道なりに約1.2km上る

 https://maps.app.goo.gl/hRMmhLseMYTsrsSYA













旧道




JFEミネラル株式会社芳井鉱業所の石灰石採掘場を俯瞰




旧道との合流点




井原市芳井町上鴫の高原(たかわら)地区







カレンフェルト








小社

祭神未確認。観音堂の向かって左に鎮座。




高原の観音堂

井原市芳井町上鴫1731

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.78)」によると寛政10年建立。
鴫西国20番の 千手観世音菩薩立像に「寛政三亥年(1791年)」の紀年銘が
刻まれているので、鴫西国観音霊場札所かもしれない。

https://maps.app.goo.gl/Jy7DZjphtfaf9qGH7







中央に木造聖観世音菩薩立像、向かって右に木造不動明王立像、
左に木造毘沙門天立像を安置。いずれも彩色が施されている。
両端に素人細工の古い木造の立像が安置されているが特定困難。

『おん あろりきゃ そわか』
『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや
 うんたらた かんまん』
『おん べい しらまんだや そわか』




寄付者芳名録




どちらも風化により名前の一部しか読み取れない状態




東へ30m進む







下山神社

井原市芳井町上鴫927-3。祭神未確認。内部の祭壇には何も祀られていない。

https://maps.app.goo.gl/Vx2AWSqz3xNjfYCQA




お題目塔

「南無妙法蓮華経 大覺大僧正」
「貞治三年四月三日」「元文五(1740年)庚申十月三日」

貞治三年(1364年)四月三日は大覚大僧正の命日

東へ43m進む




ビワの木の横を通過したら直ぐに右折







お題目塔(法界塔・納経塔)

「南無妙法蓮華経 日蓮大士(=日蓮菩薩)」「法華経壱部八巻納之」
「明治三十六年(1903年)卯十月十日建之 奉供養金森芳太郎末光 祈子孫長久」

台座「法界」







高原郷土自然保護地域の説明板




高原の古寺堂

井原市芳井町上鴫931-1。妙福寺参道口にある。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.76)」を参照

 https://maps.app.goo.gl/YK4dUVQMRojgScAQA




堂内に木造日蓮聖人坐像、木造釈迦如来坐像、木造多宝如来坐像を安置している

『南無妙法蓮華経』




参道を南へ進む


日蓮宗 高原山妙福寺(井原市芳井町上鴫937)

字 ヒエ畑にある。本尊は釈迦牟尼仏、日蓮大菩薩。

「岡山縣 後月郡誌(大正15年、p.1004)」に「由緒、沿革
 當寺は往昔真言宗にして清瀧山圓明寺と云ふ。
文和元年(1352年)大覺大僧正來り説いて日蓮宗となる。境内に一基の石碑あり。
碑は屋形造長五尺五寸表面石扉を以て開閉す
其内に納る長方形小石碑長壹尺七寸 記するに表左右三方に南無妙法蓮華經
 裏面に文和元年二月十五日大覺と彫せり。
庚安元年(1361年)に至り高原山妙福寺と改稱す。
天正五年(1577年)十一世日貴 堂宇改築の後、寶暦十三年(1763年)十八世守要院日康代
火災に罹り 明和元年(1764年)日康之を再建す。
天保十三年(1842年)無住の際再び火を失ふ、此時堂宇寶物書類全焼す。
二十九世靜信院日法再建 今日に至る。(以下略)」とある。

境内の西部の庭園(不染庭)や卵塔場にカレンフェルトがある

 https://maps.app.goo.gl/yGtKJfgZzDVMVPBA9



 
参道口から北東へ120m上る




つきあたりの丁字路を右折







高原カルスト台地案内図

展望所、妙福寺、大槙、洞穴、妙見岩、八幡神社、展望所、ドリーネ、
鬼橋、自然歩道、カレンフェルト、展望所、高原城跡等

北東へ60m進む




コミュニティ広場







Y字路を右折し、南東へ35m進む




ブドウ畑がある所がドリーネ(カルスト凹地)




十字路




自然石地神

 「*地神(地神)」

 https://maps.app.goo.gl/Ke3s3fH67vfCVijbA

 地神様前から十字路を左折して東へ85m進む







軽トラックなら通行可能




丁字路を右折




東へ63m進む




自然石の燈籠


石鳥居

「八幡宮」




八幡神社

井原市芳井町上鴫1086。字 宮ノ東に鎮座。旧社格は村社。
祭神は足仲比古命、息長帯比賣命、品陀和氣天皇。

「岡山縣 後月郡誌(pp.907-908)」、同p.837を参照

注連柱

「寶祚之隆」「天壤無窮」

高梁市川上町地頭の八幡神社の注連柱と同じ宣揚文。
出典は日本書紀の「寶祚之隆當與天壤無窮者矣」。

 https://maps.app.goo.gl/sPknHqJfPoFLiixq9

石鳥居前から西へ63m戻り、丁字路を右折




北へ65m進む




丁字路から車道を北へ85m進む




Y字路

北へ約750m直進すると鬼橋ヘの道の入口に至る

「岡山縣 後月郡誌(p.246 大正15年)」に「(二四)鬼橋 共和村大字上鴫鷲巢山の西にあり。
東西長四丈五尺(約13.635m)幅三間(約5.45m)の巌石谷川を跨り橋の形を作す。
谷底に下り其裏面を視れは恰も蛇腹の如しと、由て鄕人鬼橋と稱す亦一奇觀たり。」とある。

山村の岩渡神社(井原市芳井町山村62)はかつて鬼橋に鎮座していたという。



https://maps.app.goo.gl/M7e99QKbWvrYL7Em6

左折して生活道を北北西へ43m上る




西へ68m進む







高原東の薬師堂

井原市芳井町上鴫1449。堂内に木造薬師如来坐像を安置している。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.77)」を参照

 『南無薬師瑠璃光如来』

 https://maps.app.goo.gl/yw62un2ebRHokySv5




寄付者芳名録は判読不可








妙見神社

薬師堂の向かって左に鎮座




 薬師堂がある丁字路を左折して生活道を南へ115m進む




小さな火の見櫓がある十字路から車道を南へ55m上る




高原荘前




芳井町高原農村型リゾート周辺案内

Y字路を右折して南西へ63m進む





丁字路を右折して西へ165m進む










民家の煙突の横を通過して直ぐの所。井原市芳井町上鴫1711-2。




上鴫高原の仏堂

堂内に木造釈迦如来坐像、木造多宝如来坐像を安置している。
日蓮宗系のお堂。2026年2月時点では著しく荒廃しているため参拝困難。

『南無妙法蓮華経』

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.79)」を参照

 https://maps.app.goo.gl/cyZLsiNy8wtfj7Py5







西へ108m進み、左折して南へ85m下り、つきあたりの丁字路を右折。
県道9号線から上って来た道を下る。




 県道9号線に戻り、左折して南へ325m、東へ160m下る




JFEミネラル(株)芳井鉱業所付近

正面に見える断崖の上に高原山妙福寺がある




見返り橋





鴫川




仙骨峡(蛇の穴)

井原市芳井町上鴫2714-1にある

古い史料(井原要覧、笠岡略誌、日本案内記)には「山骨峡」と記されている。
山骨(さんこつ)とは「表面の土砂がとれて、むきだしになっている山の岩石」の意。

「岡山縣 後月郡誌(大正15年、p.246)」に「蛇の穴 共和村上鴫、鴫川の右岸山腹にあり。
穴は鍾乳竇(とう)に屬す、竇狀逶迤(いい)恰も*虬(きゅう)蛇の巢窟に似たり、由りてこの名ありと云ふ、
竇口狭小なりと雖も、漸く進むに從ひ漸く廣大となり、且つ低下す、
約百間、竇内數個の房室狀をなし、雷地小屋、宮地小屋、石草小屋、三角小屋、地藏穴等の稱あり、
就中(なかんずく)雷地小屋はその上部平圓にして盆を覆へせしか如く、高さ約九尺、面積二十五坪、
この竇の極處に至れは、轟然として頭上に鳴動の音あるを聞く、
これ蓋(けだ)し竇洞の漸く低下して、鴫川の河底に達し、竇洞の上を流るゝ鴫川の水響、
竇中に傳はるによるなり。本郡の一奇觀たり。」とある。

逶迤(いい):うねりながら行く。身をくねらせて動いていく。


日本案内記 中国四国篇(鉄道省 編、昭和9年、p.150)」に「【蛇の穴(じゃのあな)】
同井原驛の北約十六粁(キロメートル)、共和村上鴫にあり、自動車の便がある。
鴫川の左岸(※ママ)山腹に鍾乳洞で、洞口から奥に入るに随つて廣く、漸次低下して鴫川の河底に及び、
高さ約一八二米に近い。洞内は雷地小屋、宮地小屋、石草小屋、三角小屋、地藏穴の數室に分かれ、
雷地小屋の名は鴫川の水の音が洞内に反響するに依つて生じたものである。
蛇の穴附近は奇巖怪石が峙(そばだ)ち、中國耶馬溪の名があり、綠葉、紅葉がこれを彩る。
右岸高山妙福寺境内からの右岸高山妙福寺境内からの眺望は雄大である。」と記されている。

※文中の「鴫」の字は本文では誤って「鴨」と記されているので修正

妙福寺は蛇の穴の東365mの所にある


井原要覧(井原商工会 編、昭和10年、p.87)」に「山骨峡、蛇の穴 蛇の穴は井原を去る西北三里
(此間定期自動車の便がある。)共和村鴫川右岸の山腹にある鍾乳洞であって、
恰も*虬(きゅう)蛇の巢窟に似てゐるので此の名がある。
洞口は狭小なれど漸く進むに從ひ廣大になり、數個の房穹狀のものからなつてゐる。
大きなものは廣さ二十五坪、高さ九尺もある。洞口を低下して極處に至れば轟然頭上に鳴動を聞く。
蓋(けだ)しこれは鴫川の川底であつて、その水響の傳はるものである。
又附近一帶奇岩兀忽として聳え、新綠紅葉の眺めは更に一段と優つたものがある。
これが山骨峡で、又中國耶馬溪の稱がある。」と記されている

兀兀(こつこつ):着実に努力したり律儀に働き続けたりするさま。揺れてあぶないさま。
忽忽(こつこつ):ふっと消え去るさま。いうことやすることにとりとめのないさま。うっとりとしたさま。

総社市の豪渓も中國耶馬溪と称される




中国自然歩道案内図(弥高山とカルスト地形をたどるみち)には
蛇の穴について「笠岡から魚を売りに来ていた作治という男が、
かつて助けた狼に大蛇から救ってもらったという言い伝えのある鍾乳洞。」と記されている。

魚の行商人は西濱(ようすな)の夕方の糶りで魚を仕入れ、
夜間にオウコ(天秤棒)を担いで内陸へ鮮魚を運んでいた。

「史談いばら 第四号(井原史談会)」に倉田清市氏が「狼の恩報じ」というタイトルで寄稿されている。

現在は穴の前にフェンスが設けられ、関係者以外の立ち入りが禁止されている。

https://goo.gl/maps/duHtKTz5KLQrAngR7




2011年頃の蛇の穴の入口付近

落書きや置き去りにされた細引きがある







光が差し込む入口付近は黒や緑に変色している














県道9号線を南へ170m、東へ550m下る




バス停(上鴫)があるY字路

https://maps.app.goo.gl/Gu8vcXy9id1b5xSx7

Y字路を左折して東へ35m、北へ40m上る




上鴫の日南(ひな)地区

つきあたりの丁字路を左折して西へ40m上る







自然石の燈籠




舟形の手水鉢




日南観音堂

本尊未確認

『南無大慈大悲観世音菩薩』

https://maps.app.goo.gl/5UDo1FPvf7EonpL39







半鐘




鰐口(井原市指定有形文化財)

紀年銘は永享三年(1441年)五月日。法光寺の什物として鋳造されたもの。
法光寺の概要は不明。
日蓮宗 福祐山法光寺(岡山県真庭市大庭25)の開山は明応3年(1494年)なので違う。

什物(じゅうもつ):寺院や僧団の所有する諸々の資具




丁字路に戻り、東へ道なりに約280m上る




突き当りのY字路を右折







小社

祭神未確認




自然石地神

「地神」

https://maps.app.goo.gl/HvcpiszYm1Yd7Lis6

地神様の前から北へ27m上る







上鴫日南上(ひなかみ)の堂

井原市芳井町上鴫705。以前は四方吹き放しだった。

https://maps.app.goo.gl/rg2qpLnBnJ6hxCDN7







「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.75)」によると本尊は祖師木像




お堂の後ろ







小社

祭神未確認




地神様の前に戻りってY字路を左折




東へ道なりに600m下る




Y字路を右折して南南西へ100m下る




Y字路を左折して県道9号線を東へ120m下る







上鴫尋常小学校跡

昭和2年(1927年)に閉校

丁字路を左して北へ上ると高山市に至る(千峯坂街道)

https://maps.app.goo.gl/vwJtxyoSNdZHzvwy7

県道9号線を東へ125m、南南東へ125m下る


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千峯坂の東城往来(千峯坂街道)






千峯坂尻

井原市芳井町上鴫の日指地区から高山市へ上る

「岡山縣 後月郡誌(pp.316-318 大正15年)」の「岡山縣後月郡地圖」によると千峯坂街道は郡道(佐原高山市線)。
同書pp.3-4に「國道は第四號國道(山陽街道)郡の南部を東小田郡より入りて西廣島縣深安郡に至る、
郡内に係るもの二里二十七町十七間(10,830.9m)、縣道には笠岡井原線、井原油木線、成羽井原線、成羽新見線の四あり、
郡道には主要延長七里三十一町五間(30,881.79m)にして高屋金浦線、井原縣主線、井原木之子線、井原荏原線、七日市美山線、
井原青野線、佐原地頭線、井原山野線、佐原高山市線、高山市油木線の十あり。」と記されている。

https://maps.app.goo.gl/uiWy3eMB4RQubxfW6fW6

岡山県道・広島県道9号芳井油木線を南へ20m下る







三宅玄孝先生之碑(頌徳碑)

「三宅玄孝先*𤯓(生)*㞢(之)碑」

「先生字(あざな)義政 本姓兒嶋 兒島高徳之遠裔也 文政四年(1821年)
四月廿八日生川上郡髙山村 三宅謙造嫡男也 爲人(ひととなり)
端直 受業於方谷先生之門數年 弘化三年(1846年)某月随于
金川三宅泰造及難波隆玄學醫業成 還郷施術 安政
三年(1856年)某月移居上鴫村高原 杏林益茂 應需設家塾勤
啓發 明治廿二年(1889年)五月二日以疾逝去 享齢六十有九
才 葬于先塋之次 郷黨(郷党)無悼惜也 室(しつ)若井氏生三男
六女皆殤 唯有其遺孫也耳 茲建碑以慰其英靈 請誌
于老衲不辞述其梗概      覺山日俊 謹誌」

「有志者 門弟子 建之」「明治四十三年(1910年)五月吉日」

兒島高徳(こじまたかのり):南北朝時代の前半期に南朝方として活躍した武将
遠裔(えんえい):はかる後の子孫
方谷先生:備中松山藩儒 山田方谷
端直(たんちょく):心が正しく正直なさま
上鴫村高原(たかわら):現在の井原市芳井町上鴫の高原地区
家塾(かじゅく):私塾
杏林(きょうりん):医師の美称
殤:怪我をして死ぬ
郷党(きょうとう):同郷の人々
老衲(ろうのう):老僧
梗概(こうがい):あらまし

詳細は「芳井町誌(岡山大学教育学部地域研究会 編、1972年)」、
「共和の今昔(友国博美 著、1987年)」を参照

岡山県教育史 上巻(岡山県教育會 編、昭和13年、p.251) 」の第四章 庶民の教育機関の項に
「[名称]… [学科]仝(讀書 習字) [舊管轄]旗本領  [所在地]上鴫村 [開業]安政三年 [廃業] 仝(明治5年) 
[教師/男]一 [生徒/男]四八 [生徒/女])七 [身分]醫 [習字師弟氏名]三宅玄孝」とある。
明治5年(1872年)9月4日の学制の発布により塾は廃業。

https://maps.app.goo.gl/uHKijYRLu594FsFw5

千峯坂尻からY字路を右折し、道-287を北へ140m上る




Y字路を右折して北へ25m上る







自然石地神

「地神」

https://maps.app.goo.gl/s4sGLaWsbCRk944n6




日指明神社

井原市芳井町上鴫51。 祭神未確認。

https://maps.app.goo.gl/VrNvxbR4ET3N7x3F6




自然石の燈籠

手水鉢

「昭和二年(1927年)七月吉日」




小社群

祭神未確認




地蔵菩薩坐像? イボ神様?




日指明神社の山フジ(井原市指定文化財 天然記念物)

目通り 1.88m、根本2.00m、樹高26.5m、樹齢400年




車道に戻り、北北西へ125m進む







お題目塔(法界塔)

「南無妙法蓮華経」 「法界」

井原市芳井町上鴫60

https://maps.app.goo.gl/d7qMB3vThM9CRUJJ8

左折して西へ30m進む









自然石の燈籠

井原市芳井町上鴫 道-282

https://maps.app.goo.gl/WTyDBeSNMbzC1Z6Q9

丁字路を右折して北へ290m上る




井原市芳井町上鴫 道-280




千峠川に架かる共楽橋を渡って直ぐの所、赤いトタン屋根の廃屋の前

井原市芳井町山村51

「共和の今昔(友国博美 著、1987年)」によると、
ここから千峯の地蔵堂の下のヘアピンカーブまでの延長4,220mの町道を
山村の住民が一日がかりで清掃していた。




牛供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「右 鴫?川 *左 井原 ◯◯◯◯○○ ◯◯◯◯○」

風化により判読困難

北から下って来た人用の道しるべなので向きが逆

https://maps.app.goo.gl/mvje2cib2dxnU3Xa8

市道千峯線を 南南東へ20m戻るる




共楽 橋を渡る手前、山際

井原市芳井町上鴫278-2




牛供養碑?(地蔵菩薩坐像)

https://maps.app.goo.gl/XAMZQBXbE8gxSGFK6




千峠川

千峠川沿いに市道千峯線(道-166、道-168)を北東へ約300m上る




大内谷地区の南端にあるY字路







中国自然歩道の案内板




お堂の前の斜面にある細道を北へ上ると鍵掛神社・岩渡神社に至る




山村大内谷の地蔵堂

井原市芳井町山村63-2。堂内に2枚の棟札がある。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.70)」を参照

https://maps.app.goo.gl/jHrunNecv2iD79kA8




コゴメ石の地蔵菩薩立像(中央)

双体道祖神(向かって右端、同左端後方)

五輪塔の水輪2基(向かって左端前)

宝篋印塔の塔身(水輪の向かって右)

瓦質の小祠(向かって右端前)

それ以外は地蔵菩薩像か?


『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

市道千峯線(道-156)を 北北東へ100m上る










自然石の燈籠




木造鳥居

神額

「鍵掛神社 岩渡神社」

https://maps.app.goo.gl/XuaGBKCcMVXAchRn8




散乱した枯れ枝や落ち葉や細かい石を取りのけながら石段を西へ35m上る。
足場が悪く、手すりなどもないので、帰りは地蔵堂前へ下る道を通ったほうがよい。




左折して細い参道を南南西へ40m上る







Y字路

左折して南へ下ると地蔵堂前に出る

南南西へ45m上る




右折して北西へ8m上る




随神門




手水鉢

北西へ10m上る




拝殿




鍵掛神社・岩渡神社

井原市芳井町山村62

「岡山縣 後月郡誌(p.836 大正15年)」に「(神社名)岩渡神社 (祭神)石戸別命
 (相殿)梶日女命 (攝末社)村社 杵築神社攝社 (式内外)式外(祭日)十一月廿九日
(勸請)年月不詳(社地)官有地第一種二畝八歩 (鎭座)同村(共和村)同大字(山村)字 大内谷」とある

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

石戸別命は天石門別神(あめのいわとわけのかみ)
梶日女命は天御梶日女命(あめのみかじひめのみこと)

岩渡神社は井原市芳井町上鴫の高原(たかわら)地区にある鬼橋付近から当地へ遷座

https://maps.app.goo.gl/heHxoJpoCZTMFHJVA




拝殿は屋根に穴があき、著しく傷んでいる




本殿

幣殿は大破




小社群

拝殿前に鎮座。向かって左端は十二神社の社、2番目は皇太神宮、
大国主命、事代主命、木野山神社、瓊々杵命(ににぎのみこと)を祀る。
3番目は寶生神社。大破している4番目の小社の祭神は未確認。




参道を戻り、Y字路を右折して道-154、道-167を南へ約100m下ると地蔵堂前へ出る。
市道千峯線を北北東へ140m上る。




大内谷公会堂

井原市芳井町山村75-1

https://maps.app.goo.gl/5tbW89zNGqCFNWLt9

市道千峯線(道-150)を 北へ230m上る





左折して参道を南へ10m程上る













薬師堂

棟札

「*(薬師如来の種子「バイ」)奉造立藥師瑠璃光如来堂一宇 組中安全祈攸
皇軍旺盛 ◯◯◯◯ 法主 敬白」

堂内に仏像なし

『南無薬師瑠璃光如来』

https://maps.app.goo.gl/p3JJixmfwnvvmBG28

市道千峯線を北へ300m上る







火の見櫓

https://maps.app.goo.gl/fpLvPEqvGTwCH2jR9

市道千峯線(道-110)を 北北東へ170m上る




丁字路

井原市芳井町 道-93

右折して東へ上ると井原市芳井町山村の高瀬地区を経て
高梁市備中町上大竹の大竹ダムに至る




牛供養碑兼道しるべ(牛)

「右 上大竹道 左 高山○上 萬延元(1860年)申○ 四月三日 *施主 政三良」

https://maps.app.goo.gl/qu1nDrDkzQYGhVYe9

市道千峯線を北北東へ350m上る




向かって左にある道は立入禁止




MAPPLE法務局ビューアで見ると、この辺りから左折して上る旧道(道-358)がある。
道-346、道-326、道-310、道-302を北へ約1.2kmと上って行くと
山村千峯の地蔵堂の下のヘアピンカーブに出る。
通行可能なら車道を通るよりも約1.4kmショートカットできる。
現状未確認。

ここから先、千峯の地蔵堂の下のヘアピンカーブまでの約2.6kmの車道が千峰線

「芳井町誌(岡山大学教育学部地域研究会 編、昭和47年、p.257)」に
「千峰線 延長(m)2,500 現在巾員(m)3.0」とある

https://maps.app.goo.gl/bdoKeK8xFacan5ue8

車道を北へ道なりに約2.6km上る




















旧道(道-302)との合流点

https://maps.app.goo.gl/9eQ2gjhRpMVaCEeo6

ヘアピンカーブを右折




北西へ65m上る




防火水槽の横




山村千峯の地蔵堂

井原市芳井町山村270-2

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.68)」を参照

https://maps.app.goo.gl/ZRdh6Z3GpYAZQFM2A







平成28年(2016年)に修繕







馬頭観世音菩薩立像1躰以外は地蔵菩薩像




牛供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像=大仙(大山)智明権現 + 牛)

「南 笠岡 北 伯耆 明治三十九年(1906年) 旧七月廿四日(地蔵盆の日)
*𭤮主(施主) 山本平*𫝀(五)良」

笠岡東城往来が伯耆大山道でもあることを示している




標高455m地点




東の大岳山(標高550.4m)を望む










Y字路

井原市芳井町東三原 道-221





馬供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 馬2頭)

「右ハ信迫 三原 *㔫(左)ハ○○」

欠損部分はおそらく「井原」

https://maps.app.goo.gl/mTxcFErmy1HVi7s77

北へ約850m上る







旧道との交差点

向かって右の道は井原市芳井町山村 道-224







万人講供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像 + 馬? + 牛)

「*(地蔵菩薩の種子「カ」) 万人講 畜○○ 右 井原 ○ 共和○
施主 竹井○○ 山村」

https://maps.app.goo.gl/pbm2x2ZVgWStLNxt5




中国自然歩道の道標

「吉備高原横断ルート 弥高山とカルスト地形をたどるみち」




旧道

道の東側が井原市芳井町山村 道-220、西側が井原市芳井町東三原 道-190




車道を北へ230m上る










中国自然歩道の案内図

https://maps.app.goo.gl/VVhqxDBUhiUirPFb9

車道を北へ245m上る




Y字路

井原市芳井町山村 道-208

向かって右の道は井原市と高梁市の境になる
(井原市芳井町山村 道-212と高梁市川上町高山 道-336)




牛供養碑兼道しるべa(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「右ハ井原 左ハタテサヤ」
「明治丗三年(1900年) 子四月」「施主 赤木○○」

北から下って来た人用の道しるべ



牛供養碑兼道しるべb(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「右ハイハラ(井原) 左ハタテサヤ 大正*𫝀(五)年(1916年) 三月吉日
共和村 字 千峯 *施主 山本○○」

明治33年に上鴫村、下鴫村、山村が合併して共和村となる

https://maps.app.goo.gl/WkiWx5kNpX43S7Rb9

車道を北へ145m上る




Y字路







牛供養碑兼道しるべ(牛)

「右 矢川 左 井原 道」「三原政造」

https://maps.app.goo.gl/kDh11Ezgzgy7x9Fi8

車道を北へ70m上る




中国自然歩道の道標

「弥高山 蛇の穴」




中国自然歩道の道標

「弥高山 蛇の穴」

https://maps.app.goo.gl/3WpJMs5GNoZEkScn6

北へ30m進む




カーブミラーの向かって右

井原市芳井町東三原 道-364







牛供養碑兼道しるべ(牛)

「右ハ井原 左ハ上大竹(高梁市川上町上大竹)」

地中部分は未確認

https://maps.app.goo.gl/KrPgHaidTNjPotAZ6

北西へ75m下る




道路開通記念碑

井原市芳井町東三原882-4。元は原の堂の境内にあった。
千峰線の開通記念碑か?

 https://maps.app.goo.gl/fAxdZJAYgdfgJdfNA




「道路開通記念碑」
「古(こ)能(の)道を由(ゆ)个(け)盤(は) ◯野の◯◯ 日月○」
「金參千六百圎 寄附者 新◯◯ ◯◯◯◯」
「維時昭和五年(1930年)九月吉日建之」


北西へ35m下り、弥高屋商店前の五叉路に出る


東城往来は高山市の町並みを抜けたら北西へ進み、杖立を経て、
広島県神石高原町の花済、豊松、油木の県道9号線(およびそれと並行する旧道)を西へ進む。
国道182号線に出たら右折して東城へ北上する。
往来沿いに牛馬供養碑、道しるべ、お堂等が点在している。




高山市の上市地区の町並みの西端

向かって右の民家の屋号は博労座という。
博労(ばくろう)とは牛馬の買賣・仲介を職業とする人のこと。
川上郡史(原田龍右衛門 編、昭和2年、pp.570-571)」に
「古來より高山牛の名高し 高山は昔神山と稱し足利時代高山に變更したりといふ
高山には鄕社穴門山神社あり 陰暦二、六、十月巳(み)の日を以て祭日とせり
巳は稔の意にして農作多し 神社の附近牛馬の放養に適し此所に育ちたる牛馬は
性質温順四肢強健にして無病息災なれば往古は各方面より此山に預託するもの少なからず
寛延(1748-1751年)、寶暦(1751-1764年)の頃高山村大字高山市に藤田廣五郎と云ひ備中一二を競ふ富豪あり
牛馬商を營み盛んに全國に販賣す 寛政年代(1789-1801年)藤井忠太亦盛んに牛馬を買ひ
高山牛の名を廣く世に紹介するに至れり。(以下略)」とある。

※文中の「神」の字は旧字の*神、同じく「社」の字は旧字の*社

高山牛については「岡山県畜産要覧(岡山県内務省 著、大正4年、pp.148-154)」を参照

 https://maps.app.goo.gl/wHCVZjYS5hgAoKtz9
 



乗り越え坂

道の向かって左(南)が井原市芳井町東三原 道-274、右(北)が高梁市川上町高山市 道-244

向かって左の墓地の辺りが古城跡と云う

 https://maps.app.goo.gl/hk9rNMPdPLpX198s5

峠を越えて西へ70m下る




東城往来と岡山県道77号美星高山市線との交差点




城のうね(古城跡)の説明板

https://maps.app.goo.gl/7hwKinf24SneoKtj6













高山市の観光案内図




高山市の町並みの屋号分布図

左折して県道77号線(東城往来)を西へ120m下る










大道の堂(大師堂)

井原市芳井町東三原1376。十字路にある辻堂。
南に井原市芳井町東三原 道-92、北に高梁市川上町高山市 道-241がある。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.92)」を参照

「岡山縣 後月郡誌(p.1014 大正15年)」に「(堂名)大師堂 (本尊)弘法大師
 (創立)不詳 (境内坪數)民有地第一種十三坪
(位置)同村同大字(三原村大字東三原)字 大道」とある。

資料には本尊弘法大師と記されているが見当たらない。
堂内に棺を乗せる輿が複数置かれている。
柱の足元が朽ちてお堂が傾き、危険な状態にある。

https://maps.app.goo.gl/4KMdcMN525VKXpvD9




お堂の向かって左に首無し地蔵尊、地蔵菩薩像2躰、
墓石4基、牛馬供養碑、お題目塔が並んでいる




お題目塔

「南無妙法蓮華経 *㳒界(法界)」
「文政五*年(1822年)壬午 三月廿八日 願主 岡﨑伴蔵○○」
「奉巡詣千ヶ寺成就*供𫝥(供養)」

このお題目塔(法界塔)は千ヶ寺参詣成就記念を兼ねて建てられている。
井原市内では美星町黒忠の本村と西江原町の今市に、
近隣市町村だと矢掛町小田の光應山円融寺(日蓮宗)の山門前、
高梁市川上町三沢の槙山八幡宮前に同様のお題目塔がある。

「井原石造物歴史散策(pp.50-52)」を参照




牛馬供養碑(地蔵菩薩坐像)

「牛馬 供養 明治○○ 三疋○○ 施主 常太郎 中小○○」

県道77号線(東城往来)を西へ110m下る












腰血地蔵尊

井原市芳井町東三原1433

コゴメ石の地蔵菩薩像3躰が祀られている

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

https://maps.app.goo.gl/nR8BWSLxNxtBVG1k7




腰痛・婦人病に悩む人・安産を願う人達が参詣して、御利益を受けたと云う

県道77号線(東城往来)を北西へ170m下る




出谷(いでたに)を経て県道9号線に至る丁字路を左折して南へ10m進む







秋葉神社建立寄進者芳名録

日付は平成元年(1989年)十月吉日

階段を北西へ65m上る




神額「三社宮」







秋葉神社

井原市芳井町東三原1444-1

https://maps.app.goo.gl/Wz3gjcxi5FWpWRwN9



出谷の地蔵堂

井原市芳井町東三原2118。
秋葉神社から南へ1.8km下った所、出谷公民館の横にある。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.95)」を参照

https://maps.app.goo.gl/6pmBmENDYXaQpt8x8




出谷の地蔵堂前から西へ道なりに約1km下った県道9号線との交差点

向かって右から下って来る道が旧道




亡馬供養碑兼道しるべ(馬)

「爲亡馬供養 施主 吉岡?○○ *𫞃和(昭和)二十二年(1947年)四月二日
上ハ豊松 下ハ井原 北ハ*髙山(高山)」

井原市芳井町東三原 道-138

https://maps.app.goo.gl/h7gUVBh6wuYAJaWYA

県道77号線の丁字路に戻り、左折して北西へ580m下る







才の神

井原市芳井町東三原1487。県道77号線と東三原 道-28とのY字路にある。
祀られていた双体道祖神は所在不明となっている。
道-28を南南西へ2.083km下ると、県道9号線の亡馬供養碑兼道しるべの所に出る。
県道77号線を通った場合、ここから杖立の県境までの道程は約1.97km。
大刀洗附近の旧道を通れば約1.8km、

川上郡史(原田龍右衛門 編、昭和2年、pp.667-668)」に「元府縣道井原油木線の一部
高山村高山市以西を高山市油木線として郡道路に認定方後月郡と協議成立し
郡會諮問及縣知事の認可を得大正十一年二月十八日郡道に認定したり
此主用延長十七町二十九間(1,907.27m)なり。(中略)路線名 高山市油木線
該當號 四 路線起終点 高山市 縣界高山村 重要なる經由地 後月郡三原村、
府縣道路線(高山村ニ於テ接續) 路線延長 十七町二十九間 内郡界六町五十間(745.45m)
外重用 七間(12.73m) 重要内譯 縣道高山村七間
川上、後月両郡の境界に係る郡道路線延長七町四十六間六分(848.36m)の道路管理者を
両郡協議の結果川上郡長を以て管理者と定め縣知事の認可を經て決定したり。」とある。

https://maps.app.goo.gl/7DsWh6ULhtfuLtvn9







井原市木之子町の交差点にある双体道祖神(才の神)

「宝暦才之神 昭和五十八(1983年)癸亥写之 施主◯◯◯◯」

宝暦年間は1751-1764年

https://goo.gl/maps/r4opLEBLjPM2




井原市芳井町山村の大内谷の地蔵堂内にある双体道祖神

https://maps.app.goo.gl/jHrunNecv2iD79kA8

県道77号線を北西へ100m進む




旧道(井原市芳井町東三原 道-30)入口

道-30、道-18、道-16、道-11、道-12を北西へ約620m進むと太刀洗の十字路に至る

https://maps.app.goo.gl/Hxi8PtRBC34ww67B7

県道77号線を北西へ660m進む







 

太刀洗古戦場跡の解説板

https://maps.app.goo.gl/uQxAMwDWc4Nm5ECD6




立石明神がどこにあったか正確な場所は不明。
備中誌 川上郡(明治37年、p.123)」には「立石大明神 矢ノ根立有」とある。





バス停(大刀洗)

南西へ100m進み、東城往来の十字路(井原市芳井町東三原 道-5)を右折して
北西へ少し上った所に、移転した宝篋印塔がまつられている。
十字路から杖立の県境まで道-62、道-52を通って約1.015km。



東三原村入りの大師堂

井原市芳井町東三原3029

バス停(大刀洗)から南西へ約550m進み、つきあたりの丁字路を右折して
西へ道なりに約650m進み、道路脇から左手の林の中へ10m程下った所にある。
堂内に弘法大師像は無く、弘法大師の種子(ユ)が刻まれた自然石が祀られている。

「芳井の文化財 第五集 辻堂(p.94)」を参照

https://maps.app.goo.gl/1Je1H4MB4G15orUw9





太刀洗から県道77号線を北西へ約1.2km進む




県道9号線と県道77号線の交差点の手前のY字路を右折して北西へ57m下る




杖立地区







改修碑

「改修碑 (以下寄附者26人の芳名と金額)」
「大正七年(1918年)三月竣工
髙山村長 三村克己
工事*委貟(委員) 中尾◯◯ 渡辺◯◯ 三原◯◯」

何を改修したのかは不明

https://maps.app.goo.gl/LJ4eo39Fni9zjDje9

北西へ32m進む




岡山(備中国)と広島(備後国)の県境




国境標

「距岡山元標十八里廿九町三尺(73,855.38km)」「備中川上郡*髙山市村」
「従是東(これよりひがし)岡山縣備中國」「明治十七年(1884年)七月」

旧郡道高山市油木線の終点

https://maps.app.goo.gl/iAt1iD9p9GGH7DRg6




牛馬供養碑兼道しるべ(三面馬頭観世音菩薩像)

「爲亡 牛馬 右 平川 豊柗(豊松) 左 油木 小畠
明治四十三*年(1910年)一月 施主 中尾○○」




「岡山の道しるべ(巖津政右衛門 著、昭和51年、pp.128-130)」によると
以前は「右 ひらかわ とよまつ 左 とうぜう 上下」「大黒屋藤兵衛」と
刻まれた自然石の道しるべ(高さ165cm、直径約50cm)が
牛馬供養碑兼道しるべと背中合わせに立っていた。

※2026/01/31追記

「川上町史 通史編(川上町教育委員会編、1994年、p.392)」によると
杖立にあった大黒屋藤兵衛の道しるべは弥高山の麓に移転したらしい。
弥高山の麓の何処へ移転したのかは未確認。




県道77号線と県道9号線の交差点の北西20m




杖立と高山市の解説板

https://maps.app.goo.gl/QWZyDMv5Sz59YgY66




「ここは石見街道の備後と備中を境する交通の要地で、
明治十七年に建てられた距 岡山元標十八里二十九町三尺と記した道標がある。
東城、油木、豊松、平川から米、蒟蒻、炭俵を背にした馬の列が
杖立を経て蜿々(えんえん)と高山市へ。そこで荷を下して南部からの雑貨、塩、干魚等を仕入れて
又杖立を通り帰って行った。馬は往きも帰りも駄賃になり、行程が長いほど高収入になるので
東城馬と呼ばれて羨ましがられたものである。この街道は永年続いた繁栄の道であったが
大正十二年(1923年)井原への県道が開通し、トラックの出現によってその様相は一変したのである。」

井原への県道とは現在の岡山県道9号井原油木線(井原から杖立まで)に相当する道。
2016年の天神峡トンネルの新設等によって開通当時とは一部のルートが変わり、短くなっている。




解説板の後方







廻国供養塔(地蔵菩薩立像)

「奉納大乘妙典六十六部日本廻國
 天下泰平 日月*清明
明和七寅天(1787年)十一月吉日
 周州熊毛郡 高森村 願主 久*左衛門 ○○○○○○」

周州熊毛郡高森村は現在の山口県岩国市周東町

広島県神石高原町花済の県道9号線を西へ1.1km進み、丁字路を右折して北へ25m上る



辻堂

向かって左に自然石の燈籠がある

https://maps.app.goo.gl/4gDXcGsKv2eW8bkK9

県道9号線に戻り、右折して西へ150m進む


竹迫山八幡神社

https://maps.app.goo.gl/cs55CMp7k2FLeumKA

県道9号線(東城往来)を南西へ300m上る


辻堂

https://maps.app.goo.gl/mK3ziU4xRpYsEcFj9

県道9号線(東城往来)を南西へ400m上り、西へ135m進む


お堂

https://maps.app.goo.gl/Codw5pJfvJozNcue9

県道9号線(東城往来)を西へ650m進む。
丁字路を左折して広島県道411号木割谷小吹線を南へ515m進む。



牛馬供養碑兼道しるべ(牛2頭)

「爲牛馬二世安樂 右ハ大畑道 *左ハ上野道」


牛馬供養碑兼道しるべ(地蔵菩薩坐像)

「爲牛馬 右ハ高山○○ 左ハ豊松村
 大正十四年(1925年)八月十日 施主 當村 ○○○ 當村 ○○○○○」

南から上って来た人用の道しるべ


県道411号線の十字路にある。
向かって右の牛馬供養碑兼道しるべは15m程南にあったものを当地へ移転。

https://maps.app.goo.gl/ZABNUbgZo69eLQdA7

県道9号線(東城往来)に戻り、左折して桜ヶ峠から北西へ道なりに11.2km進み、国道182号線に出る



広島県神石郡神石高原町油木付近の県道9号線沿いの牛馬供養碑


牛馬供養碑(馬頭観世音菩薩坐像)

https://maps.app.goo.gl/GyfXjpaBpnrWgMbPA



畜牛供養碑(地蔵菩薩坐像 + 牛2頭)


https://maps.app.goo.gl/CVzTebuLpxBAJe1CA



牛馬供養碑(馬頭観世音菩薩坐像 + 牛馬)

https://maps.app.goo.gl/71t9Gw2w7Q5t5dW89

県道9号線と国道182号線の交差点を右折して北へ90m進み、Y字路を右折して北北西へ進む。
Y字路を右折して北北西へ30m下る


愛宕神社

https://maps.app.goo.gl/sjTxexNSw3iDP3NCA

北北西へ45m下る。歌の清水までの道端に石像が3躰置かれている。


歌の御堂

西行法師ゆかりの御堂。神石高原町指定史跡。神石郡神石高原町油木3893。
承安元年(1171年)、西行法師がこの御堂に立ち寄って休まれた際に
「手に結ぶ岩間の清水そこ澄みて 行き通う人の影も涼しき」の歌を残された。
歌の御堂は元々は歌の清水の横にあったが、交差点の拡張のため現在の場所へ移転している。

神石郡地誌(斜森慶次郎 著、明治27年)」に「油木驛ハ油木村ニアル小邑ニシテ數九十余
人口殆ント四百アリ 福山ヨリ東城ヲ經テ雲伯ニ通スル縣道其中央ヲ貫キ商業稍盛ナリ
現今油木警察署福山區裁判所油木出張所廣島大林區油木小林區署尋常高等小學校郵便局村役塲等アリ
殖牛會社ハ良好ナル和洋混合牛ヲ蕃殖ス 驛ノ下舊道ノ側ニ清冷タル涌泉アリ
古昔西行法師ノ(手ニムスフ岩間ノ清水底澄少テ行カフ人ノカケハ涼シキ)詠歌ヲ遺セルヲ以テ其名顯ル」とある。

雲伯(うんぱく):雲州(出雲国)と伯州(伯耆国)

御堂は油木権現山八十八ヶ所霊場の大師堂(1番霊山寺、36番青龍寺)になっている。

弘法大師坐像(中央)

「一番 霊山寺 施主 ○○」

四国1番霊山寺 (釈迦)
 竺和山 一乗院 霊山寺 [ぢくわざん いちじょういん りょうぜんじ]
 『のうまく さんまんだ ぼだなん ばく』
 「霊山の 釈迦の御前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」

四国36番青龍寺 (波切不動)
 独鈷山 伊舎那院 青龍寺 [どっこざん いしゃないん しょうりゅうじ]
 『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや
 うんたらた かんまん』
 「わずかなる 泉に住める 青龍は 仏法守護の 誓いとぞ聞く」


牛馬安全供養碑兼道しるべ

「牛馬安全 右 ふくやま路 左 かうやま路」

歌の御堂の前にある

https://maps.app.goo.gl/rHCMcVvcDVFJiWHcA

お堂の前から北北西へ15m下り、橋の南詰を左折


歌の清水

https://maps.app.goo.gl/6dTT7tr2Wb49HBCg6


北へ25m下り、丁字路を左折して北西へ205m上る。
丁字路からさらに北西へ85m上る。


伊能忠敬測量隊宿泊邸跡

https://maps.app.goo.gl/WmwrZ3w1ytbMUxio7

北西へ80m進み、丁字路からさらに北西へ30m進む


厳島神社

https://maps.app.goo.gl/xPMTat9TzjyooAwi8

北へ140m進む


道路元標

「*神石郡油木町道路元標」「廣島縣」

墓地の石垣の南にある

https://maps.app.goo.gl/mZCwZjt1zpTzsecw8

北へ790m、北北西へ745m上り、中国バスの停留所(平井)から西へ130m進む。
Y字路を右折して国道182号線の東にある旧道を北へ4.2km進む。
田川瀬大橋北詰の十字路を右折し、北へ70m進む。


牛馬供養碑

神石郡神石高原町油木1203。中国バスの停留所(田川瀬)の近く。

https://maps.app.goo.gl/qpfv3LfgQ2xQT8Fn9

帝釈川、東城川沿いに182号線を北へ10.8km進めば庄原市東城町の市街に入る


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