【旧大島村四国八十八ヶ所霊場の画像集.10(栗山・矢部・砂・宗国・前砂・唐井・藤曲・小山・竹田)】


(南備四国・小山西国観音霊場等を含む)


ルート: http://yahoo.jp/WN9myx


画像集.1画像集.2画像集.3画像集.4画像集.5画像集.6

画像集.7画像集.8画像集.9画像集.10画像集.11画像集.12

HOME




一宮(いっきゅう)神社の北

注連柱

「見龍」「氏子中」「在田」「明治三十三年(1900年)十月」




一宮神社の本殿

祭神は吉備津彦命。旧社格は村社。

https://goo.gl/maps/2sfJ8WgKcoN2




拝殿




盥漱盤

「盥漱」「西大島氏子中」「文政八(1825年)◯◯◯◯」

石段を石鳥居の前まで下る




沖神社(沖の明神)

祭神は大綿津見命

一宮神社の南南西230mの県道406号線沿い(川手北)にある

https://goo.gl/maps/PANJDJRoN1G2




注連柱

「奉献」「総代 齋藤◯◯ 齋藤◯◯ 高田◯◯」

「平成二十五年(2013年)五月建之」




石鳥居の前で左折し、細道を東へ10m進んで左折。石段を5m上がる。




向かって左が57番、右が58番のお堂




旧大島村四国57番栄福寺 (阿弥陀) <一宮神社鳥居の東>
 府頭山 無量寿院 栄福寺 [ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ]
 『おん あみりた ていせい からうん』
 「この世には 弓矢を守る 八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏」

堂内向かって左にあるのは地蔵菩薩坐像

「正徳(1711-1716年)○」「七月」

『おん かかかび さんまえい そわか』

https://goo.gl/maps/tduFAa4FA3y




旧大島村四国58番仙遊寺 (千手観世音) <一宮神社鳥居の東>
 作礼山 千光院 仙遊寺 [されいざん せんこういん せんゆうじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「立ち寄りて 作礼の堂に やすみつつ 六字をとなえ 経を詠むべし」




万人講供養碑(向かって左と中央)

細道に戻り、左折して北東へ117m進む




車道に出たら左折して東へ112m進み、丁字路を左折して北へ20m上る




蓮池

https://goo.gl/maps/E91gAWdEwJB2

車道から右折し、蓮池の土手道を東へ135m進む




十字路を左折して細道を北へ10m上り、丁字路を右折して細道を東へ30m進む




薬師堂(向かって左)と59番のお堂




旧大島村四国59番国分寺 (薬師瑠璃光) <砂の池の東上>
 金光山 最勝院 国分寺 [こんこうざん さいしょういん こくぶんじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「守護のため 建ててあがむる 国分寺 いよいよめぐむ 薬師なりけり」

https://goo.gl/maps/mfotgshuYGA2




薬師堂から西へ30m戻り、丁字路から細道を北へ125m進む




注連柱

「履信」「思順」

出展は易経の繋辭上傳(繋辞上伝)第十二章の「履信思乎順」




金毘羅様

『南無金毘羅大権現』『おん くびらや そわか』




砂(さこ)の厳島神社

https://goo.gl/maps/cPjknzXZ56v

細道に戻り、右折して北へ33m進む




細道に戻り、丁字路を北西へ56m下って車道に出る




車道を渡って参道を北北西へ60m上る




砂公会堂の横




砂の荒神社

https://goo.gl/maps/UcetKv91SoJ2




自然石 地神(砂公会堂の前)




車道に戻り、左折して東へ55m上る




砂加圧ポンプ室

十字路を直進して東へ35m上り、さらに北へ60m上る




Y字路を右へ進み、峠越えの細道を北へ92m上る




砂~宗国(むなくに)の峠(迫峠)の丁字路の南東




旧大島村四国60番横峰寺 (大日) <砂~宗国の峠>
 石鈇山 福智院 横峰寺 [いしづちざん ふくちいん よこみねじ]
 『おん あびらうんけん ばざら だどばん』
 「たて横に 峰や山辺に 寺たてて あまねく人を 救うものかな」

https://goo.gl/maps/EDMRHw7SF662




峠道を東北東(宗国)へ150m下り、丁字路を右折して東へ30m下る




丁字路から車道を北東へ57m進み、右折して荒神社の境内へ







宗国の荒神社




注連柱

「景仰*神徳(神徳)」「氏子中」「*㕥(以)重實?業」「明治三十九年(1906年)十月吉日」


金毘羅大權現の石燈籠

『南無金毘羅大権現』『おん くびらや そわか』




向かって左は宗国公会堂




旧大島村四国61番香園寺 (大日) <宗国公会堂の横>
 栴檀山 教王院 香園寺 [せんだんざん きょうおういん こうおんじ]
 『おん あびらうんけん ばざら だどばん』
 「後の世を 思えばまいれ 香園寺 止めて止まらぬ 白滝の水」

https://goo.gl/maps/YJbfv4zSBTM2


 

三尊像

上の仏像は一面二臂で胸の前で合掌し、蓮華台の上に立っている。
下の2体は菩薩の衣装である条帛(じょうはく)、天衣(てんね)、
石帯(せきたい)、裳(も)等を纏っていないので菩薩像ではない。
向かって左は和装姿の男神坐像、右は女神坐像のように見える。




荒神社から車道に戻り右折して北北東へ57m進み、丁字路を右折して東へ71m進む




蜂ノ子池

「笠岡市史 史料編上巻(p.490)」を参照

https://goo.gl/maps/czDdCNyM8DC2

池の横を東へ52m進み、県道432号線に出る

----------------------------------------------------------------------------------




菅野峠の道しるべ(六字名号碑)

「南無阿弥陀佛」「右 かも方 を可(か)山 道」
「左 志(し)ん庄通 かさ*罡(岡) 道」

右 鴨方 岡山 道 左 新庄通 笠岡 道

岡山道=鴨方往来

菅野峠→観定峠→前砂の代官道

https://goo.gl/maps/NRTCkoQfD5s





左折して県道432号線(大島中新庄線=新庄通笠岡道)を北へ715m上る





笠岡市西大島と里庄町新庄の境から150m程新庄側へ上った所にある峠(標高85m)




地蔵菩薩立像

「◯◯童子 嘉永四(1851年)亥二月廿日」

https://goo.gl/maps/F5iAhqE4WY52




南へ下って蜂ノ子池の東の十字路に戻る


----------------------------------------------------------------------------------





県道を南へ50m下る




法明池

「笠岡市史 史料編上巻(p.491)」には「法明ヶ一池」とある

法明池の南の丁字路(横断歩道あり)で左折して東へ75m上る




宗国の上明




六字名号碑(お堂の向かって左)

「南無阿弥陀佛」




旧大島村四国62番宝寿寺 (十一面観世音/大師) <宗国~前砂へ池の東>
 天養山 観音院 宝寿寺 [てんようざん かんのんいん ほうじゅじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「五月雨の あとに出でたる 玉の井は 白坪なるや 一の宮かわ」

堂内に新旧2体の十一面観世音菩薩立像が祀られている

https://goo.gl/maps/YgsePUYh8oJ2




ベーハ小屋(煙草乾燥小屋)

東へ220m進む


----------------------------------------------------------------------------------




阿正谷上池

西大島村中最大の池

「笠岡市史 史料編上巻(p.490)」を参照

https://goo.gl/maps/d2MZa6TQQAJ2





十字路を左折し、細道を北へ85m進んで右折。
天神池天神池の土手道を通って東へ85m上る。




天神池

「笠岡市史 史料編上巻(p.490 皇国地誌 備中浅口郡西大島村村誌 明治9年) 」には
「天神間池(てんじんあいいけ)」とある

https://goo.gl/maps/DnbG9QBwCBP2







注連柱

「奉」「前砂宗国氏子中」
「献」「平成十年(1998年)十月吉日」




天神社

祭神は菅原道真公。一宮神社末社。

「大島の神社資料集(pp.32-33)」によると旧称は天神宮。
明治10年(1877年)7月に菅原神社と改称。

https://goo.gl/maps/6qcFQ8qWKHw





瓦質の小祠群

社殿の向かって左後方にある




天神社の後ろから細道を北へ55m進み、右折して南へ21m進む



----------------------------------------------------------------------------------



丁字路から南東へ67m下る




Y字路を左折し、北へ22m上る



右折して東へ23m上る




左折して北へ36m上る




前砂配水池(向かって右)

墓地の参道を北へ上る




法界地蔵

「法界 宝暦十二天(1762年) 午四月日」

『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』

https://goo.gl/maps/RDDMRvgZ57U2

参道を下って左折し、東へ27m進む




細道を東へ35m下る







左折して参道を上る



注連柱

「斉」「*𫞕子(氏子)中」
「庭」「明治二十有八年(1895年)八月建之」







自然石地神

「地神」

https://goo.gl/maps/v2V635NP9w82




石燈籠




荒神社

祭神は息津日子命と息津日女命。西大島228。

https://goo.gl/maps/bifTENb7jMU2











石祠a

祭神未確認










旧鬼瓦







小社

祭神未確認




瓦質の小祠群

祭神未確認













参道を下って細道に戻って左折し、東へ15m程下る


----------------------------------------------------------------------------------






墓地への参道を上り、東へ10m程進む







阿弥陀堂

「*(阿弥陀如来の種子「キリーク」) 奉再建阿弥陀堂一宇為現世安穏後生善所
 平成十五年(2003年)五月二十九日 施主 ◯◯◯◯」

荒神社の前(南)にある

https://goo.gl/maps/5zk89maXaDL2




阿弥陀如来立像

『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』




墓地から細道を東南東へ90m下る


----------------------------------------------------------------------------------



車道を東へ30m進む




前砂の辻堂(観音堂)

「大島歴史散歩(p.71)」を参照

https://goo.gl/maps/55WXQeyP46T2




木造聖観世音菩薩坐像(向かって左)と石造地蔵菩薩坐像(同右)が
安置されている

『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』




代官道を東へ760m上る




観定峠

https://goo.gl/maps/bf4rjm6bsov





----------------------------------------------------------------------------------




県道432号線に戻り、左折して南へ600m下る










丁字路を東へ35m進む







唐井の堂(四ツ堂、茶堂、辻堂)




弘法大師坐像

『南無大師遍照金剛』

禿(かむろ)ではなく、善通寺の稚児大師立像のような真ん中分けの髪型




旧大島村四国63番吉祥寺 (毘沙門天) <唐井の堂>
 密教山 胎蔵院 吉祥寺 [みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ]
 『おん べい しらまんだや そわか』
 「身のうちの 悪しき悲報を 打ちすてて みな吉祥を 望み祈れよ」

https://goo.gl/maps/83CpjDqmEu72

63番札所から東南東へ180m進んで県道に出て左折し、北へ30m進む。


 

法界地蔵

「法界」「弘化二◯(1845年) 十一月廿五日」「原田駿平」

西大島郵便局の駐車場の南

『おん かかかび さんまえい そわか』

https://goo.gl/maps/nnEaW6yjyKQ2




阿弥陀三尊像?

「◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯月◯◯」

上の坐像は一面二臂で右手は施無畏印(あるいは来迎印)を
結んでいるように見える。左手の印相は不明。
下の2体はどちらも一面二臂で、向かって左の坐像はお腹の前で合掌し、
右の坐像はお腹の前で何か(宝鉢?)を抱えているように見える。

刻字は風化により判読困難

----------------------------------------------------------------------------------




丁字路に戻り、左折して車道を南南西へ100m下り、県道406号線を渡る




県道から南西へ91m進み、丁字路を右(西)へ46m進む




丁字路を左折して橋を渡り、南南西へ146m上る




車道から右折して民家の脇の細道に入る(わかりにくいので要注意)




民家と竹藪の間の細道を西へ42m上る










旧大島村四国64番前神寺 (阿弥陀/大師) <川手~藤曲への峠>
 石鈇山 金色院 前神寺 [いしづちざん こんじきいん まえがみじ]
 『おん あみりた ていせい からうん』
 「前は神 うしろは仏 極楽の よろずの罪を くだくいしづち」

https://goo.gl/maps/2DXRM3q4sLK2

来た道を県道手前の丁字路まで戻る

----------------------------------------------------------------------------------




丁字路の橋を渡り、東へ96m進んで消防機庫がある丁字路を右折




橋を渡って車道を南東へ360m上る




民家の前で車道が途切れる所から細道を南東へ進む




山側の参道に入り10m上る




旧大島村四国65番三角寺 (十一面観世音) <ばんじょうの栗山のふもと>
 由霊山 慈尊院 三角寺 [ゆれいざん じそんいん さんかくじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「おそろしや 三つの角にも 入るならば 心をまろく 慈悲を念ぜよ」

https://goo.gl/maps/P9viukYm2cp

民家の前まで戻り、右折して細道を北東へ94m下る

----------------------------------------------------------------------------------




十字路を直進し、仁後池の北にある車道を東へ107m進む




渡邉家(大元屋)の墓地

向かって左端に土木家 渡邉太惣治さんのお墓がある

「峒翁渡邉彦訓夫婦墓」
「渡邉太惣治彦訓 文化十四年(1817年)九月二十日生ル 父良藏
ノアトヲツギ天保十四年(1843年)鴨方藩ニ仕ヘ 營繕方及御
林山御用ヲ勤メ 就中普請奉行常手代トシテ最モ功
績ヲ残セリ 東*髙梁川(高梁川)四十瀬新田堤防改築 青佐
山南麓及長浜ニ砲台築造 寄島早崎海面埋立 慶
應池津雲新池ノ新設等土木事業ニ從事スルコトニ」
「十八年間 明治六年(1873年)士族ニ列ス 同三十年(1897年)一月五日歿
ス 享年八十一 妻(以下略)        」

浅口郡誌(pp.588-589 大正14年)」を参照







青佐山御台場からの三郎島を望む

https://goo.gl/maps/PTuz1ntMiqC2





西大島と大島中の境

車道から左折し、民家の横を通って渡邉家の墓地への参道を北へ135m進む







旧大島村四国66番雲辺寺 (千手観世音/大師) <大元屋墓の入口>
 巨鼇山 千手院 雲辺寺 [きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「はるばると 雲のほとりの 寺に来て 月日を今は ふもとにぞみる」

https://goo.gl/maps/vvajBuiZ6Kz

車道まで戻る

----------------------------------------------------------------------------------



車道を渡って左折し、民家の間の細道を東南東へ40m上る




旧大島村四国67番大興寺 (薬師) <渡辺とおりさん宅の西>
 小松尾山 不動光院 大興寺 [こまつおざん ふどうこういん だいこうじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「植えおきし 小松尾寺を 眺むれば 法(のり)のおしえの 風ぞ吹きぬる」

https://goo.gl/maps/YkCbGgPTnGP2

細道を東へ28m上る







車道を渡り、細道をさらに東へ50m進んで十字路を左折



----------------------------------------------------------------------------------




車道を北へ135m下り、左折して参道を西へ30m上る




石鳥居

「稲荷宮」

紀年銘判読困難。旧石鳥居の残骸あり。





手水鉢

石燈籠

風化により紀年銘判読困難

「大島の神社資料集(p.25)」に「石燈籠寛政六年(1794年)八月」とある




竹田稲荷神社

祭神は宇気持神。竹田・土生の氏神様。

「大島の神社資料集(p.25)」、「おおしま風土記(pp.3-4)」、
「大島歴史散歩(p.59)」を参照

https://goo.gl/maps/FiMJK2KSeFN2









市指定天然記念物「竹田稲荷のあべまき」




金毘羅神社?








瓦質の小祠群

祭神未確認

西へ75m上り、30m下ると渡邉家墓所(66番札所)の参道に出る


----------------------------------------------------------------------------------





十字路に戻って左折し、黒住教大島中教会所への車道を東へ30m上る




お堂の向かって左にあるのは弘法大師坐像2躰と地蔵菩薩坐像

『南無大師遍照金剛』『おん かかかび さんまえい そわか』




旧大島村四国68番神恵院 (阿弥陀/大師) <渡辺とおりさん宅の東>
 七宝山 神恵院 [しっぽうざん じんねいん]
 『おん あみりた ていせい からうん』
 「笛の音も 松吹く風も 琴弾くも 歌うも舞うも 法の声々」

https://goo.gl/maps/QcYSbJYYshK2


----------------------------------------------------------------------------------




68番札所前から車道を東へ50m上り、右折して山道に入る




山道を南へ150m進む







聖観世音菩薩坐像(向かって右)

「六十九番」

旧大島村四国69番観音寺 (聖観世音) <渡辺とおりさん宅の墓の前>
 七宝山 観音寺 [しっぽうざん かんおんじ]
 『おん あろりきゃ そわか』
 「観音の 大悲の力 強ければ 重き罪をも 引き上げてたべ」

https://goo.gl/maps/Kq3znHpJcgC2




廻国供養塔(阿弥陀如来坐像)

「奉納 大乗妙典回國供養 天下大平(=泰平) 日月清明」
「備中浅口郡大島中村 行者○○○○○」「天保六未年(1835年)二月吉◯」




黒住教大島中教会所への車道まで戻って右折し、北東へ140m進む

----------------------------------------------------------------------------------



入口にトイレあり




黒住教大島中教会所

https://goo.gl/maps/2mgfsYtShk82

参道の石段を下って県道に出る




注連柱

「守分安命」「有志(5名) 」「有志(5名) 」「十月*上澣(=上旬)建之 有志(4名)」
「順時聴天」「有志(5名)」「有志(5名) 」「明治二十九年 有志(2名)
 周旋人 教職中 入江新田 石工 原田廣士」





石橋

 明治三十一年(1898年)に建立




県道を北西へ80m下る

----------------------------------------------------------------------------------




大島村役場跡の石碑

JA倉敷かさや笠岡南支店(大島中7281)跡にある

「大島村役場跡 大島繁二 書」

「          大島村役場略誌            .
 明治丗八年四月一日 大島中村と西大島村が合併して大島村と
            なり、村役場を臨時に竹田の渡邉譲平宅に
置いた    .                 
明治四十四年七月四日 大島中七,二七三番地に廳舎を新築した
昭和十五年十一月十日 大島中七,二八一番の一に廳舎を新築した
昭和十五年十一月廿日 満州國三江省湯原縣渾濶 浩良河地区に
分村を決定した
昭和十六年十一月廿六日 満州分村先遣隊が出発發した     .
昭和丗年四月一日 大島村は笠岡市と寄島町へ分村合併した
昭和五十年十月丗一日     .
                旧大島記念碑建設發起人會 建之」

明治38年=1905年

浩良大島開拓団の概要は「笠岡市史 第三巻 pp.857-862」に、詳細は
原田満左右氏の著書「拓魂」に記されている。

笠岡の古城山にある満洲開拓殉難碑(開拓碑)を参照


https://goo.gl/maps/7PT2FDYDUbk

石碑の前から県道を北西へ70m進む

----------------------------------------------------------------------------------




大島公民館

備中国浅口郡大島中村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.476-482
 皇国地誌 備中浅口郡大島中村村誌 明治9年) 」を参照

備中国浅口郡西大島村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.483-495
 皇国地誌 備中浅口郡西大島村村誌 明治9年) 」を参照

https://goo.gl/maps/zPqZUsh8FgS2




おおしま風土記案内図

案内図の向かって右が大島村役場跡(大島中7273番地)


◆孝子篤行者 中大嶋村六介妻について

「 (四)同郡中大嶋村六介妻
同郡大嶋村六介可゛(が)妻 *𠢎(舅)姑丹(に)事へ帝(て)孝あり
六介 作連(れ)る田畠も少奈(な)く 父母を養ふ耳(に)足ざるゆへ
岡山に出帝(て)人乃(の)奴と成て 其給米を貢(みつぎ)耳(に)奉り
のこる*𠩄(所)八(は)*里丹(に)託して父母能(の)養ひとせり
妻 人尓(に)越天(て)孝心誠ありて *𠢎(舅)姑耳(に)孝順奈(な)り
夫家にあらざ連(れ)八゛(ば) 傭人をして耕(たがへし)草ぎらしむ
三(み)川゛(づ)から夫の身に可(か)八(は)りて力を盡春(す)事
男夫能(の)古゛(ご)とし
六介も身をほしい末(ま)ゝにせ春゛(ず)
奉公のいと満(ま)丹(に)草履也(や)う乃(の)ものを作り
價遠(を)ため天(て)妻の元へ贈連(れ)り
姑 茶をこの三(み)帝(て)朝奈(な)夕奈(な)に飲介(け)り
妻 其好める折を察し 夜半といへども 茶を沸して春(す)ゝめ
露者゛(ば)可(か)り厭へる希(け)しきも奈(な)し
姑 病に*卧(臥)し帝(て)行歩可(か)奈(な)八(は)春゛(ず)
二便耳(に)ひ多(た)り多(た)る衣服を阿(あ)らひきよめて
仮丹(に)もけ可゛(が)連(れ)さる物を着せど
雨のふる日盤(は)洗ひし衣乾可(か)須゛(ず)
己(おの)可゛(が)衣丹(に)脱可(か)へ天(て)
身のこゝ゛ゆる越(を)可(か)へり三(み)ず
赤子遠(を)労八(は)る慈母の古゛(ご)とし
姑 今八(は)のかぎりに六介可(が)兄弟をよび帝(て)
婦(よめ)の懇にし常奈(な)らざる事
心あら八゛(ば)死(し)しても奈(な)ど可(か)忘んや
外丹(に)思ひ置事も奈(な)し
只婦(よめ)の事一向多(た)のむぞと云帝(て)死しぬ
*𠢎(舅)盤(は)腹あしき者尓(に)帝(て)
婦どもにも也(や)ゝも春(す)れ八゛(ば)むち打希(け)連(れ)ど
一度い可(か)るけしきも奈(な)し
食物も中耳(に)よろしきを*𠢎(舅)に春(す)ゝむ
齢春(す)でに八旬耳(に)阿(あ)末(ま)り
立居も奈(な)ら須゛(ず)成ぬ連(れ)八゛(ば)
一志(し)ほ心越(を)徒(つ)くし帝(て)労八(は)る事斜め奈(な)ら須゛(ず)
 烈公聞召倉米越(を)賜八(は)りて其孝を賞誉したまへり」 と記されている

吉備孝子伝 巻2(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より


------------------- 変体仮名変換後 ------------------


同郡大嶋村六介が妻 舅姑に事(つか)へて孝あり
六介 作れる田畠も少なく 父母を養うに足らざるゆえ 岡山に出て人の奴(けらい)と成りて
其の給米を貢(みつぎ)に奉り のこる所は*里正に託して父母の養いとせり
妻 人に越えて孝心誠ありて 舅姑に孝順なり
夫(おっと)家にあらざれば傭人をして耕し 草切らしむ
自ら夫の身に代わりて力を尽くす事 男夫(おとこ)のごとし

六介も身をほしいままにせず 奉公の暇(いとま)に草履やうのものを作り
価(あたい)をためて妻の元へ贈れり

姑 茶を好みて朝な夕なに飲みけり
妻 其好める折を察し 夜半といえども茶を沸してすすめ
 露許(つゆばか)り厭える気色もなし

姑 病に臥して行歩かなわず 二便に浸りたる衣服を洗い清めて
仮にも汚れざる物を着せど 雨のふる日は洗いし衣乾かず
己(おの)が衣に脱ぎかえて 身の凍ゆるを顧みず 赤子を労(いたわ)る慈母のごとし

姑 いまはのかぎり(今際の限り)に六介が兄弟を呼びて「婦(よめ)の懇にし常ならざる事
心あらば死してもなどか忘んや
外に思い置く事もなし 只婦(よめ)の事 一向(ひたすら)たのむぞ」と云ふて死しぬ

舅は腹あしき者にて 婦どもにもややもすれば鞭打けれど 一度怒(いか)る気色もなし
食物も中によろしきを舅に勧む
齢すでに八旬に余り 立居もならず成りぬれば
一入(ひとしお)心をつくして労る事斜めならず

烈公聞し召し 倉米を賜りて 其孝を賞誉したまえり


舅姑(きゅうこ): 妻の立場から、夫の父母
里正(りせい): 村長。庄屋。
草切る: 田畑の雑草を刈り除く
やうのもの: それらしく思われるものや、その様式のもの
行歩(こうほ): 足を動かしてあるく。あゆむ。
二便: 大便と小便
などか: どうして~であろうか
腹悪し(はらあし): すなおでない。意地悪い。腹黒い。おこりっぽい。短気である。
八旬: 八十歳
立居(たちい): たつこととすわること。日常の動作。
斜めならず: ひととおりでなく、はなはだしい

備中誌 浅口郡(pp.149-150 明治35-37年)」よりも詳細に記されている



◆孝子篤行者 西大嶋村孫十郎について

「廿九 同郡西大嶋村孫十郎
西大嶋村の*𫞖(民) 孫十郎といへる者
人と成 *直にして 老母耳(に)孝あり
四十八歳尓(に)して父丹(に)者(は)奈(な)連(れ)
八十に及べる母ありける可゛(が)
朝八(は)母耳(に)先立帝(て)起(おき)
志(し)川゛(づ)可(か)尓(に)母を労(いた)八(は)り起し
湯を王(わ)可(か)し 手水を取て 三(み)川(づ)可(か)ら捧げ
其後茶を煮天(て) 手徒゛(づ)可(か)ら春(す)ゝめ
鍋を王(わ)けて 別耳(に)味徒(つ)け
是盤(は)我子丹(に)も阿(あ)多(た)へ春゛(ず)して
母尓(に)の三(み)春(す)ゝめ希(け)り

夕(ゆふべ)丹(に)八(は)母の*卧(臥)床を妻と倶耳(に)記(き)てい祢(ね)て
安可(か)らん事を志(し)へり
母 常に人と語る事をこの三(み)て ひとりある事をいとふ
孫十郎 側丹(に)ありて昔今(むかしいま)の物語りして
母の寝入をうかゝ゛(かが)ひ天(て)後 也(や)三(み)ぬ

若他耳(に)出る事阿(あ)連(れ)八゛(ば)
其ゆきて乃(の)道春(す)可゛(が)ら先に帝(て)ありし事奈(な)ど語りき可(か)せて
母の心を奈(な)ぐさめ希(け)り

常耳(に)家族の者に云介(け)る八(は)
隣乃(の)人奈(な)ど母と同
事阿(あ)ら八゛(ば)必(かならず)阿(あ)いゝさ也(や)う婦(ふ)可(か)く
茶を春(す)ゝめ奈(な)どして 祢(ね)んごろに春(す)べし
かりそめにも疎尓(に)春(す)る事奈(な)可(か)連(れ)
あいゝさ也(や)う春(す)く奈(な)起(き)家に盤(は)人の出入少きもの也
人の出入奈(な)け連(れ)八゛(ば)母の心を破里(り)奈(な)ん
伽奈(な)くて八(は)老天(て)徒連ゝ尓(に)や阿(あ)らんと
いひ於(お)しへ希(け)類(る)

孫十郎毛(も)し隣奈(な)どへ行八゛(ば) 母待王(わ)び 戸の際に出て
孫十郎可゛(が)帰る越(を)待
孫十郎必時の菓奈(な)ど持可(か)へりて
是八(は)土産ぞとて母丹(に)春(す)ゝむ
笠岡盤(は)道も遠け連(れ)八゛(ば)常耳(に)行介(け)る可゛(が)
帰るさに八(は)必肴菓の類をとゝのへ帝(て)母乃(の)土産とせり

孫十郎弟数多あり介(け)る尓(に) 弟どもにもいざ奈(な)ひ介(け)るによりて
其言尓(に)奈(な)らひ 皆母耳(に)孝ある事 兄丹(に)ひとし
母弟奈(な)ど或盤(は)聟の家尓(に)行と起(き)八(は)
母を馬丹(に)可(か)起(き)乗せ 弟ども八(は)轡をとり
孫十郎八(は)後耳(に)付(つき) 供して往介(け)り
母其さ起(き)丹(に)一宿春(す)る時八(は)必行(ゆき)て是を彷
母の心地八(は)か八(は)る事奈(な)しや
い可(か)奈(な)る饗應やある奈(な)ど懇耳(に)か多(た)らひて帰りぬ
孫十郎常耳(に)馬を飼事八(は)農事能(の)為にあら須゛(ず)
母を乗せん可゛(が)為奈(な)り

家丹(に)一人かく誠あ連(れ)八゛(ば)にや妻も又孝行所(そ) 弟共又然里(り)
弟共兄を敬ひぬる事 主人の古゛(ご)とく
其命越(を)うけ帝(て)よく志(し)多(た)可゛(が)へり
兄も又礼あ川(つ)く 母子相和らぎ 兄弟む川(つ)末(ま)じ介(け)連(れ)八゛(ば)
遠里能(の)人も傳へ聞て感ぜざる奈(な)し」

吉備孝子伝 巻1(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より


------------------- 変体仮名変換後 ------------------


廿九 同郡(※浅口郡)西大嶋村孫十郎

西大嶋村の民 孫十郎といへる者
人と成(ひととなり) 正直にして老母に孝あり
四十八歳にして父にはなれ
八十に及べる母ありけるが
朝は母に先立て起
しづかに母を労(いた)はり起し
湯をわかし 手水を取て みづから捧げ
其後茶を煮て 手づからすすめ
鍋をわけて 別に味つけ
是は我子にもあたへずして
母にのみすすめけり

夕(ゆふべ)には母の臥床(ねどころ)を妻と倶(とも)にきていねて(居寝て)
安からん事をしへり(教へり)
母 常に人と語る事をこのみて ひとりある事をいとふ
孫十郎 側にありて昔今(むかしいま)の物語りして
母の寝入をうかがひて後やみぬ

若(もし)他に出る事あれば
其ゆきての道すがら先にてありし事など語りきかせて
母の心をなぐさめけり

常に家族の者に云(いひ)けるは
隣の人など母と同(どふ)
事あらば必(かならず)あいいさやうふかく
茶をすすめなどして ねんごろにすべし
かりそめにも疎にする事なかれ
あいいさやうすくなき家には人の出入(いでいり)少きもの也
人の出入なければ母の心を破りなん
伽(とぎ)なくては老てつれづれにやあらんと
いひおしへける

孫十郎 もし隣などへ行(ゆけ)ば 母 待わび 戸の際(さい)に出て
孫十郎が帰るを待
孫十郎 必(かならず)時の菓(くだもの)など持かへりて
是は土産ぞとて母にすすむ
笠岡は道も遠ければ常に行けるが
帰るさには必肴菓(さかなかし)の類(るい)をととのへて母の土産とせり

孫十郎 弟(おとと)数多ありけるに 弟どもにもいざなひけるによりて
其言(こと)にならひ 皆母に孝ある事 兄にひとし
母 弟など或は聟(むこ)の家に行ときは
母を馬(むま)にかき乗せ 弟どもは轡をとり
孫十郎は後に付 供して往けり
母其さきに一宿する時は必行(ゆき)て是を彷(とふ)
母の心地はかはる(変はる)事なしや
いかなる饗應(もてなし)やあるなど懇にかたらひて帰りぬ
孫十郎 常に馬を飼(かふ)事は農事の為にあらず
母を乗せんが為なり

家に一人かく誠あればにや妻も又孝行ぞ 弟共又然り
弟共 兄を敬ひぬる事 主人のごとく
其命をうけてよくしたがへり
兄も又礼あつく 母子相和らぎ 兄弟むつまじければ
遠里の人も傳へ聞て感ぜざるなし


同(どう): おなじであること。おなじくすること。
伽(とぎ): たいくつを慰める物語。また、話相手をつとめること。
徒然(つれづれ): なすこともなくものさびしいさま
帰るさ: 帰る時


備中誌 浅口郡(p.152 明治35-37年)」に「西大島村孝子孫十郎 この孫十郎
 人となり平素正直にして老母に孝心篤く深切なるに農業精励の功
國の守へ聞へ 御賞美とし倉米を下し賜ふ その孝貞擧てかぞへがたし」とある



◆孝子篤行者 西大嶋村傳四郎 孫兵衛 久六 仁介 又右衛門 長三郎 同村新田 久八 長七 仁右衛門 庄七 孫十郎について


「(九)同*國同郡西大嶋村傳四郎 孫兵衛 久六 仁介 又右衛門 長三郎 同村新田 久八 長七 仁右衛門 庄七 孫十郎
 同郡西大嶋村能(の)*𫞖(民) 傳四郎可゛(が)家もと本家に天(て)
今繁榮して十一家と成連(れ)り
傳四郎弟孫兵衛 久六 従弟違 仁介 *此三人の内 別家して
者(は)奈(な)連(れ)ゞゝゝ耳(に)耕し希(け)る
傳四郎従弟 又右衛門 長三郎 同里の内新田耳(に)住天(て)耕作し
傳四郎兄 久八郎 長三郎可゛(が)従弟 長七 長三郎が甥 仁右衛門
長三郎可゛(が)従兄弟 庄七郎 孫十郎 已上十一人打揃ひ
皆*直奈(な)る者に帝(て) 一族至天(て)む川(つ)まじく
年ゝ能(の)貢 *里より其割符の員数等を言觸る連(れ)八゛(ば)
一族十一人同行して*里の宅尓(に)ゆ起(き)帝(て)算用を請介(け)る
孫兵衛 久六 久八 孫太夫可゛(が)家八(は)貧しく
仁介八(は)勝連(れ)帝(て)貧窮の者奈(な)介(け)八゛(ば)
貢の不足もあ連(れ)ば必一族より補を足して捧介(け)る
*此一族の者 常に言合介(け)る八(は)もし年貢能(の)不足奈(な)ど
阿(あ)連(れ)八゛(ば) *此封内耳(に)住(すむ)事奈(な)ら須゛(ず)
殊尓(に)里の役介奈(な)ど尓(に)成ぬ連(れ)八゛(ば)
恥是より大奈(な)る八(は)奈(な)可(か)りしといへると奈(な)ん
終耳(に)*里より一部の催促にも阿(あ)者(は)春゛(ず)
近年飢饉尓(に)天(て)貢を不足春(す)るもの多介(け)連(れ)ども
此十一家八(は)終耳(に)不足せ春゛(ず)
*里もあまり感し介(け)連(れ)八゛(ば)は
古起(き)記録奈(な)ど見しに 三十年この可(か)多(た)
少しの不足もあら春゛(ず) 常耳(に)普請の役奈(な)と言觸しに
*此十一家八(は)速丹(に)出天(て)まめや可(か)に
努めて一度も辞せ春゛(ず)
一村の中丹(に)病人奈(な)どありて耕作怠る者あ連(れ)八゛(ば)
*此一族申合せ帝(て)かわるゝゝゝ耕して助け介(け)る
十一家乃(の)家族和順して本家傳四郎 長三郎可゛(が)意に背可(か)春゛(ず)
三十年来睦まじく一言の争ひもき可(か)ず
皆礼儀*しく法令を嚴にまもり
数多能(の)者もよく古(こ)ゝ路(ろ)ざしを合せ帝(て)奇特奈(な)る事郡吏より達し
安永二年の冬 信州君 十一人耳(に)白銀三枚賜八(は)り帝(て)称せら連(れ)介(け)り」

吉備孝子伝 巻5(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より


------------------- 変体仮名変換後 ------------------


(九)同*國同郡西大嶋村傳四郎 孫兵衛 久六 仁介 又右衛門 長三郎 同村新田 久八 長七 仁右衛門 庄七 孫十郎
 同郡西大嶋村の*𫞖(民) 傳四郎が家もと本家にて
今繁榮して十一家と成れり
傳四郎弟孫兵衛 久六 従弟違 仁介 *此三人の内 別家(べっけ)して
はなればなれに耕しける
傳四郎従弟 又右衛門 長三郎 同里(おなじさと)の内新田に住て耕作し
傳四郎兄 久八郎 長三郎が従弟 長七 長三郎が甥 仁右衛門
長三郎が従兄弟 庄七郎 孫十郎 已上(いじょう)十一人打揃ひ
皆*直なる者にて 一族至てむつまじく
年々の貢 *里より其割符の員数等を言觸(いいふる)るれば
一族十一人同行して*里の宅にゆきて算用を請ける
孫兵衛 久六 久八 孫太夫が家は貧しく
仁介は勝(すぐ)れて貧窮の者なけば
貢(ねんぐ)の不足もあれば必(かならず)一族より補を足して捧ける
*此一族の者 常に言合せけるは もし年貢の不足などあれば
*此封内に住(すむ)事ならず
殊に里の役介などに成ぬれば 恥是より大なるはなかりしといへるとなん
終(つい)に*里より一部の催促にもあはず
近年飢饉にて貢を不足するもの多けれども此十一家は終に不足せず
*里もあまり感しければ 古き記録など見しに
三十年このかた少しの不足もあらず
常に普請の役なと言觸(いいふれ)しに
*此十一家は速(すみやか)に出てまめやかに努めて一度も辞せず
一村の中に病人などありて耕作怠る者あれば
*此一族申合せてかわるかわる耕して助けける
十一家の家族和順して本家傳四郎 長三郎が意(こころ)に背かず
三十年来睦まじく一言(いちごん)の争ひもきかず
皆礼儀*しく法令(ごはっと)を嚴にまもり
数多の者もよくこころざしを合せて奇特なる事 郡吏より達し
安永二年(※1773年)の冬 信州君 十一人に白銀三枚賜はりて称せられけり


割符(さいふ/わりふ): 中世における為替手形

同國同郡 = 備中國浅口郡
信州君 = 信濃守 池田政方公(1714-1792年 鴨方藩第3代藩主)

備中誌 浅口郡(pp.154-155 明治35-37年)」には「長七」ではなく「長七郎」とある


大島の孝子篤行者については「大島村略誌(pp.21-23 昭和12年)」を参照

県道を南東へ360m上る



画像集.1画像集.2画像集.3画像集.4画像集.5画像集.6

画像集.7画像集.8画像集.9画像集.10画像集.11画像集.12

HOME