【新四国八十八ヶ所霊場(稲倉・陶山)の画像集.4】



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篠坂

篠坂村については「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237) 皇国地誌
 備中国第壱大区小田郡小四区村誌(明治9年編)」を参照




地蔵堂(向かって右)と牛供養碑2基(同左)

https://goo.gl/maps/3GBdvXVrjrB2




地蔵堂




不明の石仏

卒塔婆に地蔵菩薩と記されている

『おん かかかび さんまえい そわか』




牛供養碑a(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「牛供養 金政茂一」




牛供養碑b(地蔵菩薩坐像 + 牛)

「昭和三十七年(1962年)五月八日 飼主 西江熊造」

「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の篠坂村の項)」には「牛馬 牡牛弐拾壱頭、
牝牛四拾四頭、惣計六拾五頭、馬無シ」と記されている。
「皇国地誌」は明治九年(1876年)一月調、同年十月進達。








観音堂

「民俗資料選集39(pp.30-33)」を参照




観世音菩薩坐像(向かって左)

台座「廿四番 東寺」

未敷蓮華を持っている。聖観世音菩薩か十一面観世音菩薩。

虚空蔵菩薩坐像(同右)

左手に如意宝珠を持っている。台座の銘文は未確認。

左右の台座の位置が逆になっている。

新四国24番最御崎寺 (虚空蔵) <笠岡市篠坂 東林坊 樋上正人氏宅裏>
 室戸山 明星院 最御崎寺 [むろとざん みょうじょういん ほつみさきじ]
 『のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか』
 「明星の 出でぬる方の 東寺 くらき迷いは などかあらまじ」

https://goo.gl/maps/SHMeiYXXXAp




細道を下り、左折して墓地へ




地蔵堂

「民俗資料選集39(pp.30-33)」を参照




不明の坐像(向かって左)

台座「廿五番 津寺」

一面二臂

地蔵菩薩像(同右)

新四国25番津照寺 (揖取地蔵) <笠岡市篠坂 東林坊 樋上正人氏宅下 墓地のそば>
 宝珠山 真言院 津照寺 [ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ]
 『おん かかかび さんまえい そわか』
 「法(のり)の船 入るか出ずるか この津寺(つでら) 迷うわが身を 乗せて給えや」

左右の台座の位置が逆になっている。

https://goo.gl/maps/r7LmzuNW8782

墓地から細道を下り、県道に出る




四面薬師堂

篠坂山西雲寺正楽院北之坊(泉福寺十二坊のひとつ)跡

「ガイドブック陶山100選(pp49-50, p.54)」を参照

https://goo.gl/maps/qZtYAjP4zXL2







西面/北面
東面/南面

頂点に突起があるので上に笠石が載せられていた可能性が高い
薬師如来ではなく右手に錫杖、左手に如意宝珠を持った地蔵菩薩像に見える



新四国26番金剛頂寺 (薬師) <不明>
 龍頭山 光明院 金剛頂寺 [りゅうずざん こうみょういん こんごうちょうじ]
 『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
 「往生に望みをかくる極楽は 月のかたむく西寺の空」





「神の峰」の矢印がある丁字路を右折。

細道を南東へ110m程上り、小さな池の東を通過して登山道を南へ400m程上る




丁字路を左折して東へ74m上る

https://goo.gl/maps/jVUSkUqXX1m




神の峰(神之峰)山頂(202.3m)の神之峯大師堂

棟木の墨書き
「祈神之峯弘法大師堂宇安全 佛法紹隆」
「発願主 三宝院住職 ◯◯◯◯ 世話方 篠坂上郷信者中」
「昭和五十九年四月二十一日 上棟」

昭和59年(1984年)に再建




井戸(使用可能)がある





手水鉢(向かって右)

「奉納」「明治三拾六年(1903年) 旧四月吉日」
「発起人 藤原◯◯ 仝 ◯◯ ◯◯ 妹尾◯◯」

水鉢(中央)

石香炉

「施主 ◯◯ ◯◯ 周旋人 ◯◯ ◯◯」




十一面観世音菩薩坐像

「二十七番 神峯寺」
台座「施?主 ◯◯作吉」

弘法大師坐像

「下竹田村 ◯◯ 八尋村 義蔵 上御領村 ◯◯◯ 世話人 當村(篠坂村?) 和右衛門 」

新四国27番神峯寺 (十一面観世音/大師) <>
 竹林山 地蔵院 神峯寺 [ちくりんざん じぞういん こうのみねじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「みほとけの 恵みの心 神峯(こうのみね) 山も誓いも 高き水音」

下竹田村(現 広島県福山市大字下竹田)、八尋村(同大字八尋)、
上御領村(同上御領)は旧安那郡に属していた

https://goo.gl/maps/EZ8h7MkZfuP2




大師堂

『南無大師遍照金剛』

神之峯大師堂の向かって右後ろにある。三宝院の奥の院?

「ガイドブック陶山100選(p.56)」を参照




旧大師堂跡

「小田郡誌 下巻(p.599)」には「山頂に一宇ありて弘法大師を祀る。
靈驗あらたかにして賽者多し。」と記されている。




標高は202.3m。「小田郡誌 下巻(p.599)」には「鴻の峯」、記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.226-230 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の有田村の項)」には
「山 龍王山高サ百丈(※303.3m)本村ノ北位ニアリ、
嶺上三分シ西押撫村ニ属シ北篠坂村ニ属シ南東本村ニ属ス」と記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.230-233 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の押撫村の項)」には
「山 龍王山高サ三百丈(※909.9m)本村東方ニアリ、
嶺上三分シ東ハ有田村ニ属シ北篠坂村ニ属シ西南本村ニ属ス
嶺上矮松扶疎往々墾破シテ耕地ヲ為ス」と記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の篠坂村の項)」には
「山 鴻ノ峯高六拾丈(※181.818m)、
嶺上三分シ南有田村ニ属シ東入田村ニ属シ西北本村ニ属ス
全山髡禿ナリ」と記されている。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.254-257 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小七区村誌内の入田村の項)」には
「山 高ノ峯 高サ百丈(※303.3m)本村ノ北(※南)ニアリ
嶺上三分シ南有田村ニ属シ西篠坂村ニ属し(※ママ)
東北本村ニ属ス 山脈南ニ起リ北ニ伏ス
樹木扶疎往々開墾シテ耕地ト為ス」と記されている。

大師堂の東は篠坂村の字「竜王」、西は押撫村の字「竜王」、南は有田村の字「龍王後」。
「こうのみね」の呼び名は新四国27番札所が勧請されて以降のものである可能性が高い。

「笠岡市史 地名編(p.134, p.139, pp.148-149)」を参照。







神の峰山頂からの眺望(南東)

金崎、金浦橋、金崎大橋、生江浜、笠岡湾、笠岡湾干拓地(カブト東町、拓海町)、
片島、神島(瀬戸、天神)、横島、美の浜など。かすかに塩飽諸島が見えている。




大冝(南)

向かって右は大見山。用之江では唐松山と呼ぶ。

「笠岡市史 史料編上巻(p.211 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小三区村誌内の大冝村の項)」を参照




県道3号線、用之江交差点、城見台、茂平等(南南西)




JFEスチール、鞆の仙酔島





民家の横の細道を南へ15m上る




大日如来立像?

新四国28番大日寺 (大日) <笠岡市篠坂 藤井巌氏宅横>
 法界山 高照院 大日寺 [ほうかいざん こうしょういん だいにちじ]
 『おん ばざら だどばん』
 「露霜と 罪を照らせる 大日寺 などか歩みを はこばざらまし」

https://goo.gl/maps/taKFtHRHdyS2




「準四国八十八ヶ所霊場 第二十八番 本尊 *(金剛界大日如来の種子「バン」) 大日如来」





観音堂

熊野神社の石鳥居の向かって左下にある




十一面観世音菩薩立像(向かって右)

「◯◯◯ 十五◯ 白◯◯」

坂東15番 白岩山 長谷寺 [しらいわさん ちょうこくじ] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「誰もみな 祈る心は 白岩の 初瀬の誓い たのもしきかな」


十一面観世音菩薩立像(同左)

西国観音霊場のもの。銘文は判読困難。

https://goo.gl/maps/Iq832


 

石燈籠(向かって左)
「常夜燈」「文化五年(1808年) 辰十一月吉日」

石燈籠(同右)
「寛政四(1792年)壬子十一月 氏子中」

石鳥居
「熊野權現」「安永四乙未(1775年)九月吉日」「十二氏子中」




蛟の注連縄




唐獅子(向かって右)

「奉獻」「願主 ◯◯◯」「嘉永七 甲寅(1854年) 夏六?月 ◯◯」

唐獅子(向かって左)

「安政二 年(1855年)乙 卯上 冬月(陰暦十月)二 十八日」「氏子中」




篠坂の熊野神社(熊野十二社權現)

祭神は伊弉諾尊。旧社格は村社。

「ガイドブック陶山100選(p.56)」を参照

https://goo.gl/maps/8cxsd3nTGmG2




覆屋に囲われた本殿




きょうぐろ(経塚)

拝殿の東22mの所にある

「ガイドブック陶山100選(p.51)」を参照

向かって左端の小社は龍王社、左から2番目は荒神社、右端は木野山神社




自然石地神

「地神」

https://goo.gl/maps/asp4Tjj2kpy




十二坊本堂之跡

熊野神社の本殿の西にある

「備中誌 小田郡(p.92 明治36年)」に「篠坂山經藏院*泉福寺(泉福寺)大坊
 右*泉福寺一山の本堂を以て本堂とす 年貢地
 本尊阿彌陀立像 本堂方三間 二王門 今廢してなし 經堂是又今はなし
二王の像 古作と見ゆ手足離散して堂中ニ有 堂敷地一反計上ニ熊野*權現社(権現社)有之
 本尊聖觀音 昔一山の本尊也 万治三年(1660年)より笠岡遍照寺の末寺と成」とある

創建当時の本尊は薬師如来で、後に阿弥陀如来に作り変えたという
「ガイドブック陶山100選(p.57)」を参照

「御登極記念 小田郡誌(p.72 大正13年)」に「往昔篠坂山十二坊の本堂は
境内南方の低地にありしものにして中古以來湮滅して、
今は全く田圃となれり。只現存して當時を語るものは法界塔一基のみ。」とある

『南無薬師瑠璃光如来』『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』

https://goo.gl/maps/74ZPxrG6LX72

本堂が新四国30番札所だったのかもしれない

新四国30番善楽寺 (阿弥陀) <不明>
 百々山 東明院 善楽寺 [どどざん とうみょういん ぜんらくじ]
 『おん あみりた ていせい から うん』
 「人多く 立ち集まれる 一の宮 昔も今も 栄えぬるかな」




三宝院にある法界地蔵




三寶院縁起




北西へ65m上る




篠坂の三寶院

「ガイドブック陶山100選(pp.48-51)」を参照

https://goo.gl/maps/MmF5vomGCHN2





 

水子子育地蔵尊

『おん かかかび さんまえい そわか』




仁王堂

三寶院の石段の向かって右にある。昭和59年建立。
堂内向かって左の部屋に仁王像1対が、中央の部屋に木造弘法大師坐像が安置されている。

『南無大師遍照金剛』

「ガイドブック陶山100選(p.48)」を参照




仁王像

鎌倉時代の作といわれている

「ガイドブック陶山100選(p.51)」を参照

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「因に*徃時(往時)本堂の仁王は頗る大にして
今は本院に之を藏せり。諸部離散して全形を止めずと雖も彫刻現時のものと著しく趣を異にし、
製作の古きを思はしむ。」とある




十一面観世音菩薩立像

坂東14番 瑞応山 弘明寺 [ずいおうさん ぐみょうじ] (十一面)
『おん まか きゃろにきゃ そわか』
「ありがたや 誓いの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのみや」

https://goo.gl/maps/29N9m68KYtD2




仁王堂の横にある石仏群




法界地蔵(向かって左)

「法界」「享保十二未天(1727年) 十一月廿四日」
「右爲◯◯童子 ◯◯童女 ◯◯童子 ◯◯童女 ◯◯◯◯」
「◯◯ ◯◯文左衛門 ◯◯◯◯◯ 住寺直乘代」

『おん かかかび さんまえい そわか』

直乘阿闍梨(享保二十一年辰四月十三日 歿)のお墓は常行院の卵塔場にある




千手観世音菩薩立像(向かって右)
 「十九番 上竹田村 光◯寺 名田」

西国19番 霊ゆう山 行願寺 革堂 [れいゆうざん ぎょうがんじ こうどう] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」

深安郡 上竹田村は現在の福山市神辺町大字上竹田。
大坊の堂宇が文政六年(1823年)六月の火災により失われた際に、
深安郡下竹田村から民舎をもとめてこれを再建した。

千手観世音菩薩立像(同左)
 「廿番 山城国 よしみね寺」

西国20番 西山 善峯寺 [にしやま よしみねでら] (千手)
 『おん ばざら たらま きりく』
 「野をもすぎ 山路に向ふ 雨のそら 善峯よりも 晴るる夕立」




弘法大師坐像?(同4番目)

銘文判読困難




石鎚金剛蔵王大権現供養塚

「石鎚金剛蔵王大権現供養塚 」「嘉永三戌年(1850年)四月吉日 」「◯◯◯作◯」

金剛蔵王権現『おん ばさら くしゃ あらんじゃ うん そわか』

庚申塔

「青面金剛」

青面金剛『おん でいば やきしゃ ばんだ ばんだ かかかか そわか』

篠坂山の修験道については「ガイドブック陶山100選(p.52)」を参照







篠坂山大坊泉福密寺三寶院(聖観世音2躰/愛染明王)

高野山真言宗備中霊場第74番

光明山遍照寺末。昭和14年に教蔵院、常行院、観音院が合併して三宝院となる。

『おん あろりきゃ そわか』『南無大慈大悲観世音菩薩』
『おん まか らぎゃ ばぞろ しゅうにしゃ ばざら さとば じゃく うん ばん こく』




観音院の跡

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「四、觀音院 眞言宗大覺寺派に屬し、遍照寺末なり。
本尊は正觀音菩薩にして、天正年間(1573-1592年)の開基なり。寺領田壹反四畝歩、
畑五段四畝歩、檀家六十戸を有す。境内六畝二十二歩。次第に荒廢に傾き
寺佛堂客殿庫裏を兼ふるもの一宇存するのみ。これ又篠坂山十二坊の
一たりしものにして星藏坊又は普門寺と稱す。」とある

https://goo.gl/maps/rYQRN




常行院の跡

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「三、常行院 眞言宗大覺寺派に屬し、遍照寺末なり。
本尊は愛染明王にして寺領七反七畝十六歩、畑壹町五段四畝拾七歩、
檀家九十戸あり。本院はもと篠坂山十二坊の一にして圓藏坊又は*龜福寺(亀福寺)とも
稱す。一時無住にして小學校舎に代用せしことあり。建物荒廢せしを現住橘海忍の
發願により明治三十六年(1903年)大修繕を加へ藁葺を瓦とし大いに寺院の尊嚴を添ふるに至れり。
境内壹反七歩。寺佛堂客殿庫裡を兼ぬる一棟南東に面し 西部に倉庫、
東に照樓(鐘樓?)あり。*閑靜(閑静)淨土たり、」とある

https://goo.gl/maps/EVCHBUkpzWN2




三宝院の沿革

本堂・庫裡は昭和41年(1966年)に建立





宝篋印塔

「*(宝篋印陀羅尼経の種子「シッチリヤ」)」「明和三年(1766年) 戌八月日」
「天保十二(1841年) 再興 丑二月日」「願主 篠坂村中 世話人 吉清 與四郎」

宝篋印陀羅尼
『のうまく しっちりや じびきゃなん さらば たたぎゃたなん 
おん ぼびばんばだばり ばしゃり ばしゃたい そろ そろ 
だらだら さらばたたぎゃた だどだり はんどま 
ばんばち じゃやばり ぼだり さんまら たたぎゃた 
たらましゃきゃら はらばりたなう ばざら ぼうじまんだ 
りょうぎゃらりょうぎりてい さらばたたぎゃた じしゅちてい 
ぼうだやぼうだや ぼうじぼうじ ぼうじゃぼうじゃ 
さんぼうだに さんぼうだや しゃらしゃらしゃらんと 
さらばばだに さらばはんだびぎゃてい ころころ 
さらばしゅきゃびぎゃてい さるばたたぎゃた きりだや 
ばざらに さんばらさんばら さらばたたぎゃた ぐきや 
だらんじ ぼじり ぼでいそぼでい さらばたたぎゃた 
じしゅちた だどぎゃらべい そわか 
さんまやじしゅちてい そわか さらばたたぎゃた 
きりだや だどぼだり そわか そはらちしゅちたさとべい 
たたぎゃたじしゅちてい ころころ うんうん そわか 
おん さらばたたぎゃた うしゅにしゃ だどぼだらに 
さらばたたぎゃたんさだと びぼしたじしゅちてい うんうん そわか』




奉為弘法大師一千五十遠忌法樂塔

「奉為弘法大師一千五十遠忌法樂塔」「廻末資憐愍是勝計金剛*㝎(定)水湛龍*卧(臥)?之洞」
「*酬?正法流傳之本誓鐵塔教風恢烏卯之朝」
「于時明治廿八年(1895年)三月下旬建之 現主 海忍 施主 内山與一郎」

『南無大師遍照金剛』

常行院の橘海忍和尚の代に建立




*卧(臥)/*酬




鐘楼




梵鐘

「篠坂山三寳院」「寄附者 檀徒中」「昭和廿七年(1952年)七月吉祥日」
「南無大師遍照金剛」「住職 俊朝代」「尾道市 市八梵鐘鑄造所謹製」

常行院にあった梵鐘は安永7年6月に建立されたもの

「小田郡誌 下巻(p.699)」を参照




泉福寺教蔵院(大坊)の跡

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「二、*敎(教)藏院 眞言宗大覺寺派にして、
遍照寺末十三等なり。本尊は正觀音菩薩にして、寺領田壹町歩、畑二町四段歩、山林一町三段歩
 檀家三百戸あり。大字篠坂なる篠坂山中腹松の間に隠見す。大坊または*泉福寺(泉福寺)とも稱す。
往時寺領七十二石。十三ヶの伽藍を有し 當山十二坊の首位にありたれども、
文政六年(1823年)六月火災に罹り 民舎を深安郡下竹田より需め、建設せしものなり。
境内一段三畝十二歩。寺佛堂客殿庫裏を兼ぬる一棟南面し、西南に鎮守稲荷*大明神
(大明神)を祀る。鐘樓正南に高く聳へ 東南隅に部屋、其の北に倉庫等建ち並べり。」とある


教蔵院が新四国29番札所だったのかもしれない

新四国29番国分寺 (千手千眼観自在) <不明>
 摩尼山 宝蔵院 国分寺 [まにざん ほうぞういん こくぶんじ]
 『おん ばざら たらま きりく』
 「国を分け 宝をつみて たつ寺の 末の世までの 利益(りやく)のこせり」




旧堂の軒丸瓦、丸瓦、平瓦等

大坊の大の字




修行大師

『南無大師遍照金剛』




手水鉢

昭和47年2月吉日寄進







三宝院の西にある丁字路を右折し、墓地への参道を北へ28m上る







鎮守の稲荷大明神?

さらに北へ30m上る




三宝院の卵塔場

https://goo.gl/maps/ZNbZbR54p6s




阿闍梨俊惠上人(高雄石峰)のお墓

「阿闍梨俊惠上人」「師備中国富岡 森本春清長男 當院?第十八世
享年七十有五 明治四十年(1907年)一 月廿六日遷化」

「小田郡誌 下巻(p.723)」に「高雄石峰 名は俊惠、篠坂山*敎藏院(教蔵院)
第十六世(※第18世)の住職なり。天保五年(1834年)笠岡町大字富岡に生る。
父は修験道森本春清にして其の長子たり。資性*溫厚(温厚)學を好み、句讀を笠岡敬業館
小寺葵園に学び、弘化三年(1846年)齢十三歳*敎藏院に入りて得度す。先住俊榮(第17世
 中興 法印俊榮上人)に師事して經典を習得し、後*福山(福山)藩儒江木吉田の門に遊び、
經學史書を學ぶ。嘉永四年(1851年)笠岡遍照寺戒壇に上り瑞明僧正に傳法潅頂を
禪受し、後密賢僧正、重得和尚、榮嚴僧正等に從ひ、更に佛典秘法を究む。造詣殊に深く
衆の尊信を得たり。明治十年(1877年)先師俊榮の入寂によりて其跡を襲ぎ法務に從事す。
傍ら詩をよくし書道に精しく、居常詩を賦して娯(たのし)む。世人揮毫を請ふもの多し。
性酒を嗜み醉餘箕踞(すいよききょ)筆を揮ふ。其*墨蹟(墨蹟)實に雅趣あり。
常に邊幅を飾らず、僻陬(へきすう)の山間にありて些の榮達を求めず。
實に悟道を得たり。明治四十年(1907年)一月廿八日(※26日)歿す。
時に年七十四歳なりき。」とある

小寺葵園(廉之)先生については「小田郡誌 下巻(p.547)」を参照
遍照寺第三十一世の瑞明権僧正については「小田郡誌 下巻(p.549)」を参照

参道を下って丁字路に戻り、右折して車道を西へ227m下る




県道377号線の十字路の北東25mの所で右折し、細道を北へ33m上る。
左折して西へ34m、北へ38m上る。

https://goo.gl/maps/4j95TnmkSZL2




右折して墓地への参道を東へ20m上り、左折して北へ33m進む







六地蔵

「寛政八(1796年)辰十二月吉日 願主 作十郎」

『おん かかかび さんまえい そわか』





弘法大師坐像(向かって左)

十一面観世音菩薩立像(同右)

台座「四十一番 稲荷宮 ◯◯十良」

新四国41番龍光寺 (大師/十一面観世音) <笠岡市篠坂 広東 関藤大一氏宅東墓地のそば>
 稲荷山 護国院 龍光寺 [いなりざん ごこくいん りゅうこうじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「この神は 三国流布(さんごくるふ)の 密教を 守り給はん 誓いとぞ聞く」

https://goo.gl/maps/3hfDcmnLiRD2




県道377号線の十字路の北東25mの所まで戻る




県道377号線の十字路から細道を西へ70m進む

https://goo.gl/maps/jFbhQCRHivM2




山際で左折し、南へ10m上って右折して北西へ10m上る




丁字路を左折し、竹林の中の道を南南西へ90m上る




https://goo.gl/maps/weUPUcvmAxy

右折して西へ32m上る




十字路を左折し、細道を南西へ43m進む





細道の向かって右(北)にある竹林の中




常行院の跡

標柱は昭和59年6月15日に建立

三宝院の西南西422mの所にある。火災により建物等は消失。
今は竹藪に飲み込まれて、その跡を伺いし知ることができるのは
僅かな土塀跡とこの標柱のみ。

「御登極記念 小田郡誌(p.72)」に「三、常行院 眞言宗大覺寺派に屬し、遍照寺末なり。
本尊は愛染明王にして寺領七反七畝十六歩、畑壹町五段四畝拾七歩、
檀家九十戸あり。本院はもと篠坂山十二坊の一にして圓藏坊又は*龜福寺(亀福寺)とも
稱す。一時無住にして小學校舎に代用せしことあり。建物荒廢せしを現住橘海忍の
發願により明治三十六年(1903年)大修繕を加へ藁葺を瓦とし大いに寺院の尊嚴を添ふるに至れり。
境内壹反七歩。寺佛堂客殿庫裡を兼ぬる一棟南東に面し 西部に倉庫、
東に照樓(鐘樓?)あり。*閑靜(閑静)淨土たり、」とある

https://goo.gl/maps/EVCHBUkpzWN2



常行院が新四国31番札所だったのかもしれない

新四国31番竹林寺 (文殊) <不明>
 五台山 金色院 竹林寺 [ごだいざん こんじきいん ちくりんじ]
 『おん あらはしゃ のう』
 「南無文殊 三世(みよ)の仏の 母と聞く 我も子なれば 乳(ち)こそほしけれ」

細道を南西へ32m進む




十字路を右折して竹林の中を西へ17m上り、右折して北北東へ80m上る




左折して北西へ22m進む




常行院の卵塔場

https://goo.gl/maps/v9ozHNSc6522




十字路に戻り、池沿いの細道を南へ143m進む




常行院跡(南から)







車道に出て右折し、南へ20m進む




観音峠

篠坂と押撫の境にある

Y字路から細道を南へ20m程上って左折し、東へ10m上る





お堂があるY字路から舗装路を南(右)へ進むと墓地、山道を東へ上ると観音院の跡




新四国32番禅師峰寺 (大師/十一面観世音) <笠岡市押撫 小学校の上の峠 道より10m山の中に入る>
 八葉山 求聞持院 禅師峰寺 [はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ]
 『おん まか きゃろにきゃ そわか』
 「静かなる 我がみなもとの 禅師峰寺 浮かぶ心は 法(のり)の早船」

https://goo.gl/maps/6cUdFjX5XBF2

お堂の向かって左から参道を東へ35m程上る




Y字路からさらに東へ22m程上る





観音院の跡

竹藪の中にあるので判りにくい。標柱は昭和59年6月15日に建立。

室町時代(天正年間)に篠坂の泉福寺十二坊の一つである星蔵坊を普門寺觀音院として再興。
昭和14年に教蔵院、常行院、観音院が合併して三宝院となる。

「笠岡市史 史料編上巻(pp.234-237 「皇国地誌」備中国第壱大区
小田郡小四区村誌内の篠坂村の項)」に「観音院 東西十間(約18.18m)
南北廿二間(約40m)七合 面積七畝十七歩同
宗同末(古義真言宗笠岡村遍照寺末)ナリ
本村ノ南東(※正しくは南西)ニアリ開基創立詳ナラス」と記されている。




堂内向かって左にあるのは地蔵菩薩立像

『おん かかかび さんまえい そわか』




聖観世音菩薩立像

「十三番 *武刕(武州) 浅草寺」

坂東13番 金龍山 浅草寺 [きんりゅうざん せんそうじ] (聖観世音)
『おん あろりきゃ そわか』
「深きとが 今より後は よもあらじ つみ浅草へ まいる身なれば」

12番札所の北東965m。観音院の跡。

https://goo.gl/maps/rYQRN

Y字路まで戻り、左折して参道を南東80m程上る




観音院の卵塔場

https://goo.gl/maps/fzwnSKigKX72

県道377号線に戻って左折し、西へ195m下り丁字路を左折。
車道を南へ40m進んで左折。




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