【浅口西国三十三所観音霊場の画像集 11】
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ルート:
備中浅口西国三十三所観音霊場.gpx
車道を横断し、北へ97m進む
https://goo.gl/maps/PvyJNz1phYs

道しるべ
「こんくわ◯◯」
こんくわう(金光)道?
西六金光教教會所への道しるべ
「
浅口郡誌(pp.463-464 大正14年)」を参照
https://goo.gl/maps/qZzr2Qez1WU2
自然石の燈籠
道しるべがある丁字路を右折し、北東へ116m進む
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丁字路を右折して東へ46m上る
丁字路から細道を東南へ58m上る
https://goo.gl/maps/SeE2FNpWHM72
石祠
祭神未確認。三つ巴紋あり。
自然石の燈籠
「金(金刀比羅宮 or 金毘羅大権現)」
https://goo.gl/maps/ngLZbaTsCL22
東へ10m進んで車道を横断し、東へ38m上って右折。
金井池墓地への参道を南西へ48m上って左折。
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金井池墓地の入り口(南端)
六地蔵尊
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
亡牛供養塔
「大日*如耒(如来)亡牛供養塔」
「明治十九年(1886年) 四月◯日」
忠魂碑
「向月邑出身 忠魂」「戰死順(以下21人の芳名)」

向月の地蔵堂
「鴨方町史 民俗編(pp.397-398)」を参照
https://goo.gl/maps/Z4ZhzHfmRmD2
棟札
「奉再建地藏堂一宇 永久吉祥 工匠 金井◯◯ 秋田◯◯ 敬白」
地蔵菩薩立像(向かって左)
不明の坐像(同右)
車道に戻り、右折して北東へ74m上る
変則十字路を左折し、北へ104m下る
https://goo.gl/maps/yE6nwAKCgtv
十字路(消火栓あり)を右折し、北へ167m進む
https://goo.gl/maps/v3VkSrnJxjy
六道の乢
地蔵菩薩立像
六条院西の向月と鳩ヶ丘3丁目の境に鎮座
「鴨方町誌(p.236 1955年 平井徹治 著)」に「伝え曰う、本尊は三人兄弟で、
次は深田字 入江に鎮座、その次は六条院町字 向月切割路に添い露座である。
長男は此の本尊であると。」と記されている
「鴨方町史
民俗編(pp.255-258)」を参照
「六條院町誌(pp.139-140 昭和24年)」には「六道(ろくどう)の路傍の石地藏」、
「六條院町誌(p.66)」には「西六境の地藏様」とある
「六條院町誌(p.151)」に「市良右衛門 市良右衛門は向月邑の人。
延寳四丙辰年(一六七六年)九月十六日、六道の乢に於て、巡検中の役人に、
凶年なるに依り御年貢の御憐憫に預り度御願せし處、相叶わず、よりて後を
追ひ柴木村*天神原(天神原)にて追ひ付き、再度御願せし處、無禮との儀にて
直ちに御手打ちにされたとの口碑があり、其墓は今尚ほ向月に存する。
大正十四年(1925年)四月陰暦九月十六日(十一月二日)同地の同志三十三人が
墓前及び圓珠院に於て三百五十回遠忌を弔ひ、以て*報德(報徳)謝恩の誠を致した。
(大西右一郎稿「言傳記」による)」と記されている
天神原は現在の
柴木天神社(浅口市寄島町15128)がある辺り
https://goo.gl/maps/SyAwncrkUUx
北北東へ80m下って丁字路を右折し、東へ80m進んで車道に出て左折し、北北東へ372m下る
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二子池の東にある交差点
https://goo.gl/maps/gqGDF2JVKH72
右折して南東へ160m上る
天澤山永徳寺(曹洞宗)
平成26年に里庄町浜中から移転。本尊は弥勒菩薩。
『おん まい たれいや そわか』
https://goo.gl/maps/UdTbsxLfBbT2東へ52m進み、丁字路を右折して南東へ145m上る
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極楽池(六条院住宅の北)の西にある墓地
弘法大師坐像?
「*(胎蔵界大日如来の種子「アーンク」)」
石段を南へ6m上って左折
花田嘉次郎氏のお墓
六條院村助役を35年間務め、白色桐葉章を授けられた花田嘉次郎氏については
「六條院町誌(p.175 昭和24年)」を参照
墓地内を東へ10m進む
お堂
昭和10年(1935年)5月18日に改修落成
堂内に笠塔婆2基あり
「善主
◯◯◯◯信士?◯◯位 元禄十四年(1701年) 巳八月彼岸」
「願主 ◯◯◯◯信女福壽位 元禄十四年 巳八月彼岸」
善主はおそらく善根功徳主の略
俗名等は刻まれていない
https://goo.gl/maps/GjVS4CzKiepお堂の前から北東へ8m進む
弘法大師坐像(中央)
「*(種子 判読困難)」
台座「施主 七佐右◯◯ *攵化(文化)癸◯(1813年)」
地蔵菩薩坐像(向かって右)
「◯◯ ◯◯◯◯」
不明の坐像(同左)
「◯化八未◯(1811年) 施主 七左◯◯◯」
極楽池
注連柱
「奉」「氏子中」
「献」「明治三十六年(1903年)十月吉日」
石燈籠1対
「奉建立石燈籠」「寛政三辛亥年(1791年)」「八月吉日」
真止戸山神社の神域であることを示している。道程は約1.3km。
注連柱の前から極楽池北岸の道を東へ63m進む。
極楽池の東の丁字路を右折し、六条院住宅の車道を南へ50m、
右折して西へ75m、左折して南へ80m進む。
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六条院住宅集会所前から南へ60m上り、つきあたりの丁字路を左折
https://goo.gl/maps/ZDhZTe1YDJt
東へ15m、北東へ40m上る
十字路を右折し、南東へ20m上る
https://goo.gl/maps/gSWLL6Vvcy52
生石山歌碑公園
旧 極楽霊園内。極楽霊園内にあったお墓は玉島笠岡道路(国道バイパス)建設に伴い移転。
園内には数十基の歌碑・句碑・詩碑・筆塚の碑が残されている。極楽はこの辺りの字。
https://goo.gl/maps/eMrxRHPzMVn
四位村峠越えの道を南南東へ約380m上る
向かって右は迫の谷
峠の手前120m程のところから急勾配になる
四位村峠
標高約150m。十字路になっている。明治時代の地図で確認すると、南西の道は
六条院西の土居地区へ下る。北東の道は尾根道を上って泉山の頂上(標高221m)に至る。
「六條院町誌(p.139 昭和24年)」に「四位村峠 - 一名サンタワ、
眞山戸山より生石に越す。」と記されている
https://goo.gl/maps/UWABaPX8kQL2
南東へ530m下ると真止戸山神社
北東へ上って泉山の頂上に至る道
通行困難。どこまで通れるか未確認。泉山まで約800m。
泉山については「六條院町誌(pp.35-36 昭和24年)」を参照

南西(六条院西の土居地区)へ下る道
どこまで通れるか未確認

生石山歌碑公園前の十字路に戻り、右折して東へ90m、左折して北へ64m上る
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Y字路を左折し、30m程下った所に平井家の墓地がある
中六條院の名主 平井五郎右衛門さんの妻、およびその子 彌右衛門さんとその妻
(明王院の孝子之碑にその名を刻まれている孝子篤行者17人のうちの3人)については
「六條院町誌(pp.154-155)」を参照
六條院中村の名主にして歌人の平井生石さんについては「六條院町誌(p.158)」を、
六條院中村・同西村の等の名主にして歌人の平井義哲さんについては
「六條院町誌(pp.162-163)」を、六條院中村の名主 平井蘿堂さんについては
「六條院町誌(pp.163)」を、茶人の平井宗蔦さんについては「六條院町誌(p.176)」を参照
(三)同村五郎右衛門妻
同村の*里
正五郎右衛門可゛(が)妻
*𠢎(舅)姑丹(に)川(つ)可(か)へり
五郎右衛門兄弟四人ありし可゛(が)皆妻を娶連(れ)り
弟の妻盤(は)三人共尓(に)*𠢎(舅)姑乃(の)心に得ら連(れ)春゛(ず)
只五郎右衛門可゛(が)妻の三(み)愛敬ありて懇なりし可(か)八゛(ば)
子ども多き中丹(に)も婦(よめ)の志(し)多(た)し三(み)にめでぬと帝(て)
折ゝ常のゆきゝも志(し)げし
姑盤(は)極めてか多゛(だ)満(ま)しき者尓(に)帝(て)
事(つか)へがた希(け)連(れ)ど 一度さ可(か)ふ事奈(な)し
年於(お)ひ病耳(に)打ふし天(て)床も者(は)奈(な)連(れ)ず
さ連(れ)ば家*隔多(た)り道遠希(け)連(れ)どよ奈(な)ゝゝ行て
懇耳(に)労八(は)り起阿(あ)可(か)し帝(て)露も怠ら須゛(ず)
三婦八(は)姑の者(は)て奈(な)き病にう三(み)帝(て)
等閑(なおざり)耳(に)成ぬ連(れ)ど
変ら春゛(ず)まめや可(か)に事へけ連(れ)ば
姑も死尓(に)臨んで其志乃(の)厚可(か)里(り)し事を八゛(ば)よろこび
涙を奈(な)可゛(が)しかた三(み)奈(な)ど残し置介(け)ると也
又五郎右衛門兄弟久しく病天(て)死希(け)る尓(に)
其程の労八(は)り己可゛(が)兄弟乃(の)古゛(ご)とし
母八(は)鴨方村の者奈(な)里(り)し可゛(が)
一とせ三(み)奈(な)月乃(の)てる日も
時に堪が多(た)起(き)頃
病耳(に)*臥死介(け)る尓(に)
道の程者(は)る可(か)に遠希(け)連(れ)ど
日夜丹(に)往通ひ帝(て)看病し希(け)連(れ)八゛(ば)
一郷の人々皆彼可゛(が)志を感せざる盤(は)奈(な)し
又夫丹(に)徒(つ)可(か)ふるに順承の誠ありて
嫉妬乃(の)よこしまなし
五郎右衛門盤(は)妻にも似春゛(ず)よ可(か)らぬ者奈(な)連(れ)ど
妻の*德行(徳行)尓(に)よりてゆきゝ春(す)るといへる者多し
夫の一族と八(は)極めて念頃(ねんごろ)丹(に)せり
経に人と八(は)不和奈(な)る越(を)見春゛(ず)
己の三(み)や八(は)らぎ帝(て)
いとふ(厭う)けしき奈(な)けれ八゛(ば)
始ふしゝゝなるも稍解天(て)*隔奈(な)起(き)さま奈(な)り
一家より一里丹(に)於(お)よび
人の心越(を)化せり
郡吏具丹(に)達し奉り介(け)連(れ)八゛(ば)
烈公白銀を給ひ帝(て)其善を賞誉し玉へり
「
吉備孝子伝
巻2( 明治25年 湯浅新兵衛 編)」より
------------------- 変体仮名変換後
------------------
(三)同村五郎右衛門妻
同村の*里
正(しょうや)五郎右衛門が妻
*𠢎(舅)姑につかへり
五郎右衛門兄弟四人ありしが皆妻を娶れり
弟の妻は三人共に*𠢎(舅)姑の心に得られず
只 五郎右衛門が妻のみ愛敬ありて 懇(ねんごろ)なりしかば
子ども多き中にも婦(よめ)のしたしみにめでぬとて
折々常のゆきき(往き来)もしげし(繁し)
姑は極めてかだましき者にて
事(つか)へがたけれど 一度さかふ(逆う)事なし
年おひ(老い)病に打ふして床もはなれず
されば家*隔たり 道遠けれど
よなよな行て
懇に労はり起あかして露も怠らず
三婦は姑のはてなき病にうみて(倦みて)
等閑(なおざり)に成ぬれど
変らずまめやか(忠実やか)に事へければ
姑も死に臨んで其志の厚かりし事をばよろこび
涙をながし かたみなど残し置けると也
又
五郎右衛門兄弟 久しく病て死けるに
其程の労はり 己が兄弟のごとし
母は鴨方村の者なりしが
一とせ(一年)みな月(水無月)のてる(照る)日も
時に堪がたき頃 病に*卧(臥)死けるに
道の程はるかに遠けれど
日夜に往通(ゆきかよ)ひて看病しければ
一郷の人々皆彼(かれ)が志(こころざし)を感せざるはなし
又
夫につかふるに順承(じゅんしょう)の誠ありて
嫉妬のよこしまなし
五郎右衛門は妻にも似ず よからぬ者なれど
妻の*德行(徳行)によりてゆききするといへる者多し
夫の一族とは極めて念頃(ねんごろ)にせり
経(つね)に人とは不和なるを見ず
己のみやはらぎて(和らぎて) いとふ(厭う)けしき(気色)なければ
始(はじめ)ふしふし(ぶしぶし)なるも 稍解(とけ)て*隔なきさまなり
一家より一里(ひとさと)におよび 人の心を化(くわ)せり
郡吏(こおりぶぎょう)具(つぶさ)に達し奉りければ
烈公
白銀を給ひて其善を賞誉し玉へり
繁し(しげし): たび重なっている。しきりである。
かだましい: 心がねじけている。性質がすなおでない。
打ち臥す(うちふす): 「臥す」を強めていう語
一年(ひととせ): いちねん。1年間。ある年。先年。
ぶしぶし: 人と人の仲が険悪なさまを表わす語
稍(やや): 少しばかり。いくらか。少しずつ。だんだんと。
化(かす/くわす): 感化をうけてかわる。また、教え導いて変らせる。
郡奉行(こおりぶぎょう): 江戸時代、諸藩の職名。家老のもとで郡の代官を統轄し、
郡の庶政をつかさどった。
同村 = 浅口郡中六条院村(六条院中村)
烈公 = 池田光政公
(三十四)同郡中六条院村弥右衛門
同郡中六条院村
備前領 の*里
正
父母と子とあり
家貧(まづ)して田地も半盤(は)質に入連(れ)し
然ども父母丹(に)徒(つ)可(か)へ帝(て)孝奈(な)り
是を養丹(に)心越(を)盡せり
己夫婦と子共盤(は)味奈(な)起(き)物を食し帝(て)
父母に八(は)味よ起(き)物を春(す)ゝめ侍る
己や子共の味奈(な)起(き)物越(を)食春(す)るを
父母見給ひ奈(な)八゛(ば)心よ可(か)らざらんやと思ふ故耳(に)
父母の見ざるやうに食し希(け)る
田地を質に入多(た)る事を人の噂丹(に)父母聞てう連(れ)へ希(け)る
弥右衛門中ゝ左(さ)八(は)奈(な)起(き)由(よし)を言帝(て)
其心を安可(か)らしむ
弥右衛門可゛(が)妻も*𠢎(舅)姑丹(に)仕へ帝(て)其心越(を)厚ふ春(す)る事
弥右衛門可゛(が)心の古゛(ご)とし
朝夕乃(の)食物丹(に)念を入 茶も自ら春(す)ゝめて
其寝(いね)る丹(に)も起るにも下女の徒(つ)可(か)八(は)るゝやうに仕へ希(け)り
*此弥右衛門可゛(が)母八(は)前可(か)ど其*𠢎(舅)姑耳(に)孝行春(す)ぐ連(れ)
さる故耳(に)烈公の御時聞召帝(て)賞誉し給ひ天(て)
倉米奈(な)ど下し賜八(は)りぬ
斯(かか)る孝の報丹(に)や
今弥右衛門夫婦たぐひ稀奈(な)る孝奈(な)りと里人も感じ希(け)る
弥右衛門盤(は)里正奈(な)連(れ)八゛(ば)村中耕作の事に心を用ひて
其間も遠希(け)連(れ)ども 志(し)八゛(ば)ゝゝ見廻り
何方(いずかた)に八(は)何をうへ天(て)よ路(ろ)し可(か)らん奈(な)ど
能ゝ(よくよく)相計里(り)
其耕耘時を越ざるやうに相春(す)ゝめ帝(て)努させ
足ざる者に八(は)兎角其身の上能(の)事乃(の)やうに肝煎介(け)る
可(か)ゝ類(る)事ども聞者見る人皆感じ 一村大耳(に)服しぬ
曹源公委(くは)しく是を聞召 白銀若干与へら連(れ)帝(て)賞し給へり
「
吉備孝子伝
巻3(明治25年 湯浅新兵衛 編)」より
------------------- 変体仮名変換後
------------------
(三十四)同郡(おなじこおり)中六条院村弥右衛門
同郡中六条院村 備前領 の*里
正(しょうや)
父母と子とあり
家貧(まづ)して田地も半は質に入れし
然ども父母につかへて孝なり
是を養(やしなう)に心を盡せり
己(おのれ)夫婦と子共は味なき物を食して
父母には味よき物をすすめ侍る
己や子共の味なき物を食するを
父母見給ひなば心よからざらんやと思ふ故に
父母の見ざるやうに食しける
田地を質に入たる事を人の噂に父母聞てうれへける
弥右衛門中々さはなき由(よし)を言て其心を安からしむ
弥右衛門が妻も*𠢎(舅)姑に仕へて其心を厚ふする事
弥右衛門が心のごとし
朝夕の食物に念を入 茶も自らすすめて
其寝(いね)るにも起るにも下女のつかはるるやうに仕へけり
*此弥右衛門が母は前かど(前廉)其*𠢎(舅)姑に孝行すぐれ
さる故に烈公の御時聞召(きこしめし)て賞誉し給ひて 倉米など下し賜はりぬ
斯(かか)る孝の報にや
今弥右衛門夫婦たぐひ稀なる孝なりと里人も感じける
弥右衛門は*里
正なれば村中耕作の事に心を用ひて
其間も遠けれども しばしば見廻り
何方(いずかた)には何をうへ(植え)てよろしからんなど
能々(よくよく)相計り
其耕耘時を越ざるやうに相すすめて努させ
足ざる者には兎角其身の上の事のやうに肝煎ける
かかる事ども聞者 見る人 皆感じ
一村大に服しぬ
曹源公委(くわ)しく是を聞召 白銀若干与へられて賞し給へり
前廉(まえかど): まえまえ。以前。
肝煎(きもいり): 世話をすること
同郡 = 浅口郡
烈公 = 備前岡山藩初代藩主 池田光政公
曹源公 = 同 2代藩主 池田綱政公
https://goo.gl/maps/vSAo179BNQ82
南東へ130m、左折して北北東へ55m上る
----------------------------------------------------------------------------------
一石五輪塔2基
https://goo.gl/maps/mqLAALdddmk北北東へ15m上り、丁字路から東へ154m、左折して北へ35m上る
----------------------------------------------------------------------------------
地藏ヶ峠
峠から北北東へ700m下った所、明王院の北西150mの所に粟源寺池がある
「
浅口郡誌(p.463 大正14年)」に「明王院の西北約二町許の所に、粟源寺と
呼べる山あり。又生石に阿彌陀堂と稱する山あり。それより東方地藏ヶ峠と
稱する峯に墓地あり。是等三ヶ所は其名の如く、當時皆佛蹟地にして、
山頂よりは火葬の骨壷露出し、人骨の破片散亂するを見る。(以下略)」とある。
生石山粟源寺(そくげんじ)は天台宗 明王院末寺。寛文6年(1666年)に還俗。
https://goo.gl/maps/jpBWeDEbxtK2
峠から北北東へ925m下ると勧請池と明王院の参道の横に出る
峠から下って丁字路まで戻って右折
https://goo.gl/maps/trkTpoyeWFN2
北西へ240m下る
----------------------------------------------------------------------------------
生石川にかかる橋を渡って二つ目の丁字路を右折
https://goo.gl/maps/uTuQ2JjXv7P2
北へ60m進んで右折
東へ56m上る
智積院堂
文殊院の旧 鐘撞き堂附近にある。周辺から布目瓦が出土している。
https://goo.gl/maps/fLhh3bdq42J2
文照法印の墓
「*(胎蔵界大日如来の種子「アーンク」)天台沙門堅者文照法印」
「生石山文殊院 松林寺住職」
向かって右に古い一石五輪塔がある
「六條院町誌(pp.150-151 昭和24年)」に「僧文照 延寳元年(一六七三年)
此地方に未曾有の洪水があつて、田園土砂に埋没し、寺社付の田畑も亦悉皆
流出した。こゝに於て生石山松林寺文殊院の法印文照は、土木の首腦となつて
里民と共に築堤し、或は溝用水路の付け替え等十年の辛苦により復舊した。
其時埋沒した近長の池の南半を復舊したものが現在の池であると。
當時水害の後を受けて里民窮乏せし際、課税の爲め塗炭の苦しみを見て、
文照意を決して備前岡山に至り、國主の行列京橋に差掛りし際、
課税を輕減せられんことを直訴した。而して文照は忽ち姿を隠したが
其*訴狀(訴状)が左文字なりしを以て文照なること發覺したれば、
捕手が追うて文殊院に來つた。然るに文照は*既(既)に自害し寺庵に
火を放つて失せし後であつた。左文字の文照は備中の義民宗吾とも云ふべく、
其犠牲により課税を輕減される事となつたので、里民は之れを*德(徳)とし
其死を悼んだとの口碑がある。其墓は元の鐘撞き堂の附近にあり
「生石山文殊院 天台沙門堅者文照法印位 松林寺」と刻してある。
明治初年(※1868年)まで毎年元旦には、里民が天王様(※旧 牛頭天王宮
=
現 真止戸山神社)に詣で、山越しに稲荷様・荒神様・智釋院様(文照法印)と
巡拜してゐた。(渡邊富美雄氏は文殊院の糸石・寛文享保等の
*定免控(定免控)を藏する。)」と記されている
※文中の「僧」の字は旧字の*僧、「神」の字は旧字の*神、「社」の字は旧字の*社
義民宗吾 = 佐倉惣五郎については「
義民宗吾伝(洞殿司
著 大正2年)」を参照
生石山松林寺文殊院について
天台宗
明王院末寺。寛文6年(1666年)に還俗(「寛文六年亡所仕古寺書上帳」より)。
「六條院町誌(pp.30-31 昭和24年)」に「文殊坊 屋敷七畝、堂屋敷 鐘つき堂屋敷、
さこの谷奥山 長さこの山壹町壹段八畝余、鎭守山凡壹段である」と記されている
「
備中誌 浅口郡(p.128 明治35-37年)」に「中六条院 生石山松林寺文殊坊
高三石國主より寄附 文殊坊還俗に付 本寺(※明王院)へ當村*免狀(免状)之内
三つ物成にて受納致す也 屋敷七畝歩 荒地山壹町五反 鎭守山壹反余」とある
智積院堂の前にある池(鎮守池?)
「六條院町誌(pp.30-31 昭和24年)」に「霊域には鎭守山鎭守池納骨堂があり、
明治二十年(1887年)頃、鐘撞堂附近の塚を破壊して川べりに使用、其石の中には
知仁の二字を刻込んだものがあつた。(以下略)」と記されている
https://goo.gl/maps/7hg7QBoanmt
極楽池の東にある橋の東詰まで戻る
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丁字路を右折し、生石川沿いの道を北へ23m、西へ88m、北へ43m下る
十字路の東
お堂
https://goo.gl/maps/sqNpFu3aRV22
向かって右から順に
地蔵菩薩立像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
不明の坐像
阿弥陀如来坐像?
弘法大師坐像(中央)
「*(胎蔵界大日如来の種子「アーンク」)」
『南無大師遍照金剛』
薬師如来坐像
『南無薬師瑠璃光如来』『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
墓石
生石川沿いの道を北へ133m下る
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十字路を右折し、北へ63m上る
https://goo.gl/maps/YXqK4J4xDz42
丁字路から北へ52m上る
お堂
「*𫞃和(昭和)四十八年(1973年)改築 寄付 生石谷中」
https://goo.gl/maps/MurAXXS14h32
地蔵菩薩坐像(向かって右)
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
聖観世音菩薩立像?
『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』
大日如来坐像
「大日如來 六十番 横峯寺」「寛政六寅年(1794年) 七月吉日」
「施主 ◯◯◯◯◯」
四国60番横峰寺 (大日) <>
石鈇山 福智院 横峰寺
[いしづちざん ふくちいん よこみねじ]
『おん あびらうんけん ばざら だどばん』
「たて横に 峰や山辺に 寺たてて あまねく人を
救うものかな」
廻国供養塔
「*(釈迦如来の種子「バク」) 奉納大乘妙典六十六部供養塔
天下◯◯ 日月清明 天明◯◯◯ 三月吉◯」
「(行者名?は判読困難)」
北へ125m、北西へ108m下る
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龍王池の東端にある交差点から参道を北へ16m上って右折
東へ50m進んで左折
瓦質の小祠
祭神未確認
石鳥居の扁額
「龍王宮」
龍王宮
「
備中誌 浅口郡(p.122 明治35-37年)」に「龍王社
中六の内 生石に鎭坐
貴布禰社御同体也」とある
※文中の「社」の字は旧字の*社
https://goo.gl/maps/EiBqh9qcDxq
龍王宮の前から南へ20m下る
龍王池東古墳
龍王宮のそばにある鉄塔から南へ40m下った所にある
「六條院町誌(p.7
昭和24年)」に「龍王池東古墳 生石近長
平井◯◯◯氏地内。破壊石の一部残存。」とある
https://goo.gl/maps/6BK5YtGwhvm
交差点に戻り、右折して北北東へ350m下る
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