大元神社(向島の岩屋山)の画像集
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岩屋山(向島)備後西国三十三所観音霊場へ
さらに追記する予定
尾道大橋南詰から県道317号線を南へ135m進んだ所に駐車場(料金所跡)あり。
駐車場から県道を南へ460m進み、十字路を右折して西へ60m進む(自転車・徒歩のみ)。
車の場合は県道の十字路を左折し、南東へ44m進む。
十字路を右折して南西へ230m進み、右折して西へ40m進む。
西瀬戸自動車道の下を通過してつきあたりを右折し、北北東へ188m上る。
3台ほどの駐車スペースあり。
大元神社参道口
https://goo.gl/maps/BohZcZKeeJU2
弘法大師坐像(向かって左)
薬師如来坐像(同右)
「八十八番 ◯◯◯」
向島新四国88番大窪寺 (大師/薬師) <>
医王山 遍照光院 大窪寺 [いおうざん へんじょうこういん おおくぼじ]
『おん ころころ
せんだり まとうぎ そわか』
「なむ薬師 諸病なかれと 願いつつ 詣れる人は 大窪の寺」
https://goo.gl/maps/mVDe7dzs8n12
道しるべ(向かって右)
「文政十一(1828年) 戊 子三月 *(向かって左への指差し)
せんろ◯道 西提寺 施主
尾道 石工 友八」
西提寺(曹洞宗)には向島新四国10番切幡寺がある。
西提寺は備後西国三十三所観音霊場の4番札所。
尾道の石工 友八さんについては「尾道市文化財調査報告書 第1集
尾道の石造物(pdf)」を参照
石碑(中央)
「嘉永七(1854年)寅三月 世話人 嘉エ◯」
道しるべb
「宮崎 *(向かって左への指差し) 石平」
台座
「◯能阿成軌信 八十八番 ◯持◯◯」
堂内にある本尊(薬師如来坐像)の台座
向島新四国八十八ヶ所巡拝略図
南へ14m進み、駐車場の前で右折
参道(急坂)を南西へ65m上る
新尾道大橋
高見山
一の石鳥居
「大元*神?(神社)」「奉納」
「昭和五十九年(1984年)五月吉祥日」「開山二十周年記念信者有志一同建之」
道祖のお墓(石鳥居の向かって左)
大本神社由来と道祖略年譜
「大元神社由来 昭和三十九年四月二十七日ヨリ七日間 尾道市向島町ノ岩屋ニテ
道祖ノ断食行ガ続ケラレ
ソノ最終日ノ五月三日 天地鳴動して火柱立チ 光体飛来シテ
山上ノ岩ニ入ル 神ノ声アリ「此所ニ宮ヲ建テヨ」ト ココニ神殿ノ建立ト山容整備ノ作業ガ
開始セラレ 昭和四十年ニ仮神殿 昭和四十四年十二月ニ神殿落成 大元神社ノ
宗教法人ノ名称ハ「大元神社」 大元五柱大御神 *普明◯◯◯命 弘法大師
轟大権現等ノ
諸神諸仏ヲ祀リ 神仏両部信仰ノ道場トナル」
「道祖略年譜 明治三十七年一月二十一日 京都西陣織物ノ岸田家ニ誕生
和一郎ト命名サル
昭和三十一年 内臓大患 死ヲ決シ四国ヘ渡リ 札所巡礼中五十八番作礼山ニテ病気治癒
弘法大師信仰ノ念強ク
以後ハ修行三昧ニ徹ス」
「*普明◯◯◯命」の読みは「ふみょうこうりょうしつのみこと」

大元五柱大御神=天照大御神、天常立尊、国常立尊、伊邪那岐命、伊邪那美命
参道をさらに65m上る
石燈籠1対
「*??燈(獻燈)」「昭和四十六年(1971年)三月吉日」
注連柱と二の石鳥居
ここで左折すると岩屋巨石と岩屋山(向島)備後西国三十三所観音霊場
参道を北西へ40m上る

龍神社?

春日大明神
御支配神は*普明◯◯◯命(ふみょうこうりょうしつのみこと)、
主祭神は大元大御神(天照大御神、天常立尊、国常立尊、伊邪那岐命、伊邪那美命)、
相殿御祭神は大山祗命、素盞嗚尊

唐獅子1対
「*奉??(奉獻)」「昭和四十六年(1971年)五月吉日 信者一同」
金燈籠
「五千五百日満行記念 報恩献燈 昭和四十七年五月吉日
国安普明*◯◯◯(こうりょうしつ)」

大元神社
https://goo.gl/maps/MTBcRfGosut
御手洗い
北へ進む
水子観世音菩薩
「南無観世音菩薩」
向かって右は忠魂塔
地蔵菩薩立像
『南無地蔵大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
如意輪観世音菩薩輪王坐像
「三十三番 宮内 *神宮(神宮)」
向島備後西国33番 時打山 醫王院 観音堂(福山市新市町宮内 如意輪)
『おん ばだら はんどめい うん』
https://goo.gl/maps/pXRDSi6Z4Cr
醫王院は備後国一宮吉備津神社の南南東250mの所にある
https://goo.gl/maps/nUtQiYa5Lq32(醫王院)
大元大明神
祭神は市杵島姫命と田心姫命と湍津姫命(厳島神社の祭神である宗像三女神)
社殿の後ろにある
豊受大神
最上稲荷大明神
尾道大橋と新尾道大橋
北へ20m進む
向かって左へ進むと尾道三山パノラマビュー
倭姫命
南西へ20m程下って右折
「神行濯心 山田 ○ 刻 昭和四十五年(1970年)正月吉日」
https://goo.gl/maps/yg7e9PXxeb62
北へ30m程進む
「光明」
「奉石霊 眞神 普」
尾道水道と尾道三山(千光寺山、西國寺山、浄土寺山)のパノラマビュー
千光寺も西國寺も浄土寺もこの場所に向かって建てられている。
おのみち歴史博物館に展示されている尾道市師弟重要文化財
「紙本著色尾道絵屏風(安永3年 浄土寺蔵)」はここからの眺望を写したもの。
「尾道の文化財(尾道市教育委員会/編 1988年)」を参照
「
西備名所案内(p.2)」に「尾道は備後國御調郡の南東に阿(あ)り山を負ひ前は向嶋に對して
一海峡をなす 尾道の瀬戸是れなり 其間遠きは五六町(約545.45~654.54m)
遠きも十二三町(約1309.08~1418.17m)に過きす瀬戸の長さ一里半(約6km)阿(あ)り
市街は南北短く東西に長し
東西四拾壹町(約4.473km)餘南北七八町(約763.63~872.72m)
乃至拾町(約1.09km)餘なり
蓋し尾道の名は海涯の狭き山麓に沿ふて往來するより
山の尾の道と云へることより起りたる名にして古より稱へ來れるなり
市街を六大部分に區割して大字久保町十四日町土堂町尾崎町東御所町西御所町の
六ヶ町にして小字は長江町中濱通藥師堂町等百拾餘あり 尾道は一に玉の浦と云う
是れ或は千光寺の烏帽子巖に寶珠阿(あ)りたりと云ふ俚諺(ことわざ)に
基きたるものならんか 又一に鶴の港と云ふ 其地形の似たる以てなり
久保町字長江は嘴にして久保町土堂は其兩翼に當れり
其戸数五千餘戸人工貳萬餘人あり(廿七年一月調) 」とある。
https://goo.gl/maps/Ttfjm2LcWjL2
上記の説明では北に向かって東西に翼を広げている鶴の姿と形容されているが、
googlemapの衛星画像で見た現在の市街地の形は西に向かって飛翔する鶴のようにも見える。
尾道駅前のしまなみ交流館辺りが嘴、
長江中学校辺りが右翼の先端、久保中学校辺りが左翼の先端、
尾道大橋辺りが脚の先端。
向島の最高峰である高見山(標高283m)の中腹(標高約185m)から見た尾道三山と岩屋山
岩屋山(緑矢印)に隠されて浄土寺は見えない
https://goo.gl/maps/dZvX1EvxXME2
千光寺山(大寶山 標高136.6m)
下から順に天寧寺、天寧寺三重塔、千光寺
「
備後尾道名所案内記(p.3)」に「千光寺は街西大寶山の山腹にありて市街よ里(り)
數百級の石磴(いしざか)を登る 山内奇石多く 烏帽子岩蟾蜍岩屏風岩
鼓々岩(ぽんぽんいわ)の奇勝あり 山頂に上れば山海の眺望尤も面白く 藝備の
多島海を一眸の内に聚め 數百大小の島嶼點々として波上に星羅碁布し 宛然
畫圖(画図)の如く其の山水の明媚風景の奇絶奈(な)ること敢て奥の松島に
讓らす 近來當山八(は)尾道偕樂公園地となり所々に梅櫻楓樹を栽培し
山中風景絶佳の所に八(は)茶店を設く」とある。
画像向かって左に鼓々岩(鼓岩 つづみいわ)、中央に玉の岩(別名 宝珠岩、烏帽子岩)。
蟾蜍岩(蛙岩)と屏風岩は千光寺の境内の北端の
撫松庵や盤石の庭の辺り(画像向かって右)にある。
鼓岩
https://goo.gl/maps/AybZXRjPxBq
共楽園
「尾道偕樂公園地」は千光寺公園の前身である「共楽園」のことか?
https://goo.gl/maps/M5Tb9TfKTor
千光寺本堂から岩屋山を望む
千光寺全景(岩屋山より)
向かって左に三十三観音堂、大仙堂、くさり山(その下に重ね岩)と本堂、
中央に護摩堂と玉の岩、右に鐘楼、大師堂、客殿と撫松庵
中国三十三観音霊場第10番札所、備後西国第7番札所
本尊は千手観世音菩薩
『おん ばざら たらま きりく』
「
西備名所案内(p.5)」に「千光寺
大寶山權現院千光寺は市背大寶山の山腹にありて
尾道三大伽藍の一なり 其開基は詳にせさるも大同元年(806年)の頃なるへしと云ふ
中興は多田滿仲(源満中)の宿願によりて建立したり
主尊なる千手觀世音は聖徳太子の作にして
滿仲の深く信仰ありし守本尊なり 境内に三重の塔婆あり 其本尊なる多聞天(=毘沙門天)は
城主杉原民部大輔(みんぶたいふ)の奉納にて其効驗著しかりしが今を距る二百餘年前
大巖の山上より落ち懸りて其塔を破砕せしより多聞天は更に一宇を建立し護摩堂を
其後へ建築したり
此處市街を眼下に見卸し尾道の迫門(※尾道水道)其前に流れて
向嶋と相對する好景殆んと畫中(画中)にあるが如し 尾道に遊はんものは
一たび登山すべき勝地なり」とある。
千光寺の毘沙門堂
西国三十三観音堂の南(下)にある
『南無毘沙門天王』『おん べい しらまんだや そわか』
https://goo.gl/maps/8uC78uDsLvM2
千手観世音菩薩立像
西国32番 繖山 観音正寺 [きぬがさやま かんのんしょうじ] (千手)
『おん ばざら たらま
きりく』
「あなとうと 導きたまへ 観音寺(かんおんじ) 遠き国より 運ぶ歩みを」
千光寺の大仙堂の向かって左にある
善勝寺(千光寺の北東215m)から千光寺に至る参道の脇には
西国三十三所観音霊場(天保13年=1842年開創)の本尊石仏群がある
https://goo.gl/maps/G3A1nktuKKH2
護摩堂
三重の塔婆(旧毘沙門堂)があった場所
https://goo.gl/maps/3DVmEqwTbvp
向かって左から
木造閻魔大王坐像
『のうまく さんまんだ ぼだなん えんやまや そわか』
木造役小角椅坐像
『南無神変大菩薩』
木造阿弥陀如来坐像
『南無阿弥陀佛』『おん あみりた ていせい から うん』
木造不動明王立像
『南無大聖大悲不動明王』
『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
そわたや うんたらた かんまん』
木造地蔵菩薩坐像
『南無地藏大菩薩』『おん かかかび さんまえい そわか』
木造聖観世音菩薩立像
『南無大慈大悲観世音菩薩』『おん あろりきゃ そわか』
木造聖徳太子立像?
玉の岩(烏帽子岩、宝珠岩)
「
西備名所案内(p.5)」に「烏帽子巖
千光寺内に一大巖石の突起するあり 俗に烏帽子巖と云ふ
其の形の似たるを以てなり 或は宝珠巖とも云ふ
其高さ八間(約14.5m)周廻廿八尋(約51m)あり
土俗傳へて云ふ往古巖上に如意の寶珠ありて暗夜海上を照す 尾道を玉の浦と稱するも
亦た之れが爲なりとかや 時代は漠として知るに由なきも外國人尾道に來り
寶珠を買い入れんとを求めしに應せさりしより窃(ひそ)かに奪い去り
遂に光明を失ひたりと 今猶岩上に一の穴あり 是れ其跡なりと
或は杉原民部大輔旗建の穴なりとも云ふ」とある
玉の岩の頂点
穴は玉の台座があるので確認できない
正面に見えているのは福善寺(浄土真宗)と鷲の松(市指定天然記念物)
西國寺山(摩尼山、愛宕山 標高116m)
向かって左端に善福寺、正面手前に浄泉寺と久保八幡神社、奥に西國寺と三重塔
西國寺全景
中国三十三観音霊場特別札所、備後西国第6番札所
本尊は薬師瑠璃光如来
『おん ころころ
せんだり まとうぎ そわか』
「
備後尾道名所案内記(p.4)」に「西國寺八(は)街の中央摩尼山の半腹にあり
天平年中(729-749年)行基菩薩の開基にして七堂の伽藍儼然として布置し三重の寶塔
松林の間に隠見す 寺に多く古器名畫(名画)を藏す
就中菅原道眞公の眞蹟奈る(なる)
金光明最勝王經十巻の若きは實に天下無二の珍寶なり」とある。
「
西備名所案内(p.7)」に「西國寺
摩尼寺山総持院西國寺は市後愛宕山の山腹にありて
尾道三大伽藍の一なり その*開?(開祖)は行基菩薩にして天平年間(729-749年)菩薩此地に
遊杖中一の香木を得て自ら佛像を刻み寺院を建立して安置せり
其後治暦二年(1066年)火災に罹りしか
仁和寺法親王の門弟慶鑁(けいばん)なるもの延久年間(1069-1074年)に來住し
永保年間(1081-1084年)白河天皇の綸旨を以て再建を勅命させらて勅願所となり
天仁元年(1108年)勅して不斷經の法を修せしめられ
正和年間(1312-1317年)寺領を賜はりしか
其後復(また)火災に罹り *?(僧)宥尊(ゆうそん)なるもの將軍足利義教に請ふて三重塔を建立し
時の*貴神(貴神)に命して建立費を喜捨せしめ問堂樓塔の用意大に借?りたり
其後不幸にして南大門二王門総門を焼失したり
今猶?ほ存するところの唐門は杉原民部大輔の古城門を移したるものにして
其額は覺深法親王(1588-1648年)の筆なり 同寺は由來久しき巨刹なれば稀有の名畫古畫に富み
一々之れを列挙すべからさるも菅丞相(菅原道真の異称)の自筆なる金光明最勝王經
十巻の軸は最も貴重なるものにして天下無二の什寶なりと云ふ」とある。
愛宕大権現は火防の神として知られる
西国寺の石段上より岩屋山を望む
西國寺の境内には摩尼山四国八十八ヶ所霊場の本尊石仏群や力石等がある
浄土寺山と浄土寺は木の枝に隠されてしまっている
浄土寺全景
中国三十三観音霊場第9番札所、備後西国第5番札所
本尊は十一面観世音菩薩
『おん まか
きゃろにきゃ そわか』
「
備後尾道名所案内記(p.4)」に「淨土寺は街の東端瑠璃峰の麓にある大伽藍にして
本尊八(は)十一面觀世音菩薩奈(な)り 建武三年足利尊氏上洛の時
當寺に參籠し三十三首の和歌を奉納せし歌巻其他有名なる許多の古器古畫を藏す」とある。
「
西備名所案内(pp(pp.7-8)」に「淨土寺
は市東に阿(あ)る一大伽藍にして尾道三大寺の一なり
轉法輪山大乘院淨土寺と號す
當寺多寶塔に藏する法華經の巻尾に推古天皇二十四年(616年)丙子
聖徳太子始めて淨土寺を建つとあり 本尊は則ち太子の自刻せらるゝ所なりと
其後弘安(1278-1288年)正應(1288-1293年)の頃は寺院漸く?破せしを
嘉元元年(1303年)*?(僧)*深敎(深教)なる人紀州より來りて
金堂*五?樓(五層楼)鐘樓食堂厨舎を修營せしも正中二年(1325年)
火災に罹り佛閣*?房(僧房)盡く灰燼となる
貞和元年(1345年)三月此地の富豪蓮道性なる者*?侶(僧侶)と共に再建して舊觀に復したり
元弘年間(1331-1334年)綸旨を下し祈?を命ぜられて寺領として因嶋を給ふ
其後建武年間(1334-1336年)足利尊氏の筑紫に入るの際當寺に宿りて近國の兵士を招集し
後又大軍を率いて東上の時も亦た當寺に宿し*?(僧)道謙及び將士と共に普門品念彼偈を分て
題と和歌三首を詠し尊氏手書して之れを佛前に宿したり
其眞蹟今猶存す
其後應安七年(1374年)義滿將軍の參詣阿(あ)り 境内に尊氏直義の墳墓あり
元弘の綸旨を初めとし古文書書畫等夥多あり
開山堂に聖徳太子の肖像を安置し
方丈に尊氏の位牌あり 當時安置の觀音は往古人民の祈願を容れて
身代りを爲したりとの故事ありて尊体に刀痕阿(あ)り 觀音堂の西側の天井は
血踏の天井とて血痕ある足跡を存す 其由來は略す」とある。

早朝の浄土寺参道口
浄土寺の山門から岩屋山を仰ぐ
浄土寺山(瑠璃山)
画像向かって左端は浄土寺の東にある海龍寺
浄土寺から奥の院がある浄土寺山の頂上下に至る参道には
坂東三十三ヶ所観音霊場(明治9年=1876年開創)の本尊石仏群がある
満福寺(浄土寺奥の院)
「峯の薬師」、「峰薬師堂」ともいう。本尊は薬師如来。
浄土寺山頂の展望所の下にある。
『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
満福寺の前にある千手観世音菩薩立像は坂東32番の石仏。
坂東32番 音羽山 清水寺 [おとわさん きよみずでら] (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「にごるとも ちひろの底は
澄みにけり 清水寺に むすぶあか桶」
「
西備名所案内(p.8)」に「峯の薬師
淨土寺の背後瑠璃峰の山巓に小祠あり
峯の薬師と云ふに 尾道出入りするものゝ最初に認め得べき好位置を占めたり
然れとも堂宇?廢
纔(わず)かに其形を存するのみ 併しなから舊暦一月八日には之に
參詣するもの夥し 此地風景は大寶山に勝るの眺望
最も奇觀を呈すと云ふ」とある。
https://goo.gl/maps/hiMHLizN74D2
千手観世音菩薩立像
「房州那古村 三十三番 補陀山 那古寺」
坂東33番 補陀洛山 那古寺 [ふだらくさん
なごでら] (千手)
『おん ばざら たらま きりく』
「補陀洛は よそにはあらじ 那古寺 岸うつ波を 見るにつけても」
満福寺の向かって左にある
峰薬師堂再建碑
題額「峰藥師堂 再建碑」
「尾道市峰藥師堂 再建碑 泉涌◯◯◯龍海大僧正題額 .
我カ瑠璃山ハ行基菩薩開創ノ霊場ナリ
菩薩抖薮ノ時山水ノ景勝ヲ愛
シテ錫ヲココニ留メ 當來結縁ノ爲ニ一宇ヲ建立シ藥師瑠璃光如來ノ
像ヲ造リテ安置ス 瑠璃山ノ號コレニ因テ起レリ
星霜多ク重リテ堂宇
朽損ス 寛永八年(1631年)安藝國主長晟公之ヲ再建シ正徳六年(1716年)同吉長公マタ之
ヲ再建シ淨土寺奥院満福寺ト稱ス 爾来香煙絶エス法化顕權?セリ 而ル
ニ明治維新ノ際(1868年)廃仏毀釋ノ難ニ遭ヒ 堂舎荒廃シテ全ク舊觀ヲ失ヒ 昭
和六年(1931年)市設公園ニ編入セラレ市民遊覧ノ地トナル 特ニ有志ノ士*??ニ
霊場ノ廢レタルヲ慨キ再興ノ事ヲ謀ルニ 市長會議長商工會議所會
頭等ノ諸賢心ヲ同ウシ 力ヲ戮(あわ)セテ薬師堂一宇庫裡一棟ヲ建テ 菩薩開
創ノ素意ヲ繼ク 今年四月土木工竣リヌ 近時人心浮華ニ流レ良俗漸ク
衰フ 佛力ヲ仰力スンハ誰カ能クソノ弊ヲ救ハム 霊場再興ノ微志一ニ
此ニ在リ 冀(こいねがわ)クハ佛日天ニ麗キ釋風地ニ扇キ 人皆十善ヲ守リテ四恩ヲ
報セムトコロヲ聊(いささ)カ事由ヲ記シテ之ヲ不朽ニ懸ク .
昭和十一丙子年(1936年)五月吉祥日
準別格本山淨土寺第六十五世 權中僧正 *髙我(高我)海印 誌」
碑は満福寺の向かって左後方にある。現在ある建物は昭和49年の火災により
焼失した堂宇を翌50年(1975年)に再建したもの。
「◯◯◯」の文字は剥離により判読不可。
題額は京都市東山区にある泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)
第149世長老である椋本龍海大僧正(1869-1950年)の揮毫。
*??は「穴」の下に「耒咼」の字。

峯の薬師前の眺望(南西)
中央に尾道市役所、尾道水道を挟んで向かって左に小歌島、右に千光寺山(大寶山)
浄土寺山頂上(標高178.5m)展望台より
https://goo.gl/maps/MTH9fVPVb2K2
岩屋山(標高101m)を望む
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